9,バカ
高校時代、初めて私の話をよく聞いてくれる人と出会った。同世代ではなかったけれど、年の近い教師だったから、とても話しやすかった。
始めは、何ともない話をしていた。少し困っているような振りをして、真面目に進路相談をしていた。お金のこととか、大学のこととか、先生の受験秘話だとか。萱草の話をしたのも、この頃だったと思う。
その頃から、先生の私に対する眼差しが、ただの生徒に対するものとは違う物になりつつあった。一匹のメスを見る、オスの瞳。話を聞いてくれるのは嬉しかったけれど、私はそれ以上を期待してはいなかった。
そんな時、体育の授業で見学していた私の顔に、クラスのバレー部男子のサーブが激突した。頭を強く打ったせいで視界がチカチカして、気持ち悪くて、動けなかった。そんな私を、先生は「お姫様抱っこ」をして、保健室まで運んでくれた。
そんな目立つようなことはしてほしくなかったが、先生の満足そうな顔を見たら、「降ろしてほしい」などとは到底言えるはずもなかった。私は先生の腕に抱かれたまま、保健室のベッドに寝かされた。
……恩田。先生が、私の名を呼ぶ。
恩田は嫌。椿って呼んで。
そう言うと、先生は素直に従ってくれた。
恩田は、父の苗字である。私に滅多に会いに来てくれない祖父母の苗字と同じ。私は、この苗字が嫌いだった。母しか愛せず、私に愛のひとかけらも残さずに、勝手に一人で逝ってしまった父の名前だから。
どうせ死ぬなら、一言でも感想を残してくれれば良かったのに。そうすれば、父を少しは好きになれたのに。
悔しい。答えがすぐそこまで迫っていたのに、掴めなかった。悔しくて、涙が出てきてしまう。
父の死を語る私の肩を、先生が抱く。
「もう、いい。もう何も言わなくていいんだ、椿」
だめだよ、先生。私は、「死」を理解しないといけないの。「死」を理解しないと、私は進めないの。
気付いたら、目から暖かな雫が零れていた。何年かぶりの涙は、枯れることを忘れてしまったかのように、私の頬を流れている。顎の先から、一粒の雫が落ちていった。
自分がなぜ泣いているのか、わからなかった。父の死が悲しかったわけでもない。母との約束が達成されたわけでもない。それなのに、涙は流れ続ける。
私の背後から、暑い太陽の光が差し込む。体操着の白に当たった光は、暖かな刺激を伴って、体の奥へ流れ込んでいく。私を抱く先生の腕からも、それに似た熱が伝わってくる。
「椿は充分頑張ったじゃないか」
ううん、まだ何も頑張れていないよ、と心の中で返事をする。
「お父さんが亡くなったのも、椿のせいじゃないよ」
ううん、父を追い詰めたのは、私なの。母のようになれなかった、私のせいなの。
「だから、泣いていい」
だめ。まだ、私は泣いてはいけないの。「死」がわかっていないうちは、泣いたらだめなの。
「僕が支えてあげるから」
本当に?
カシャッ。
保健室の入り口に、ゆみちゃんが立っていた。写真部で、成績優秀で、クラスのボスの忠実な下僕。
「君、今盗撮したな。いいか……」
保健室の扉の前で、先生はゆみちゃんに説教を始めた。もう無駄だよ、証拠は撮られてしまった。先生が没収したスマホの中に、私たちの写真は載っていない。写真は、ゆみちゃんの制服のポケットの中にあるんだよ。
そう言ってしまえばよかったのかしれない。でも、何だか面倒に感じた。私と両思いだと勘違いしている先生も、いつまでも人の下でヘコへコしているゆみちゃんも、「死」がわからない私も、全てが、面倒。
ゆみちゃんを論破したと満足気にこちらへ帰ってきた先生は、こともあろうことか、私の唇にキスをした。触れるだけの、軽いキス。ふわっとした感覚の後、すぐに気持ちの悪さが復活した。
どうして、先生はここまで馬鹿なの。
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