7,シ
全てを思い出した僕に、彼女は笑いかけていた。
あの頃のような、空虚な瞳のままで。
「先生、私、ずっと知りたかったんです。死ぬって何なのでしょう。体は動かなくなって、冷たくなっていく。では、心は?死んだら、この感情はどうなるのですか。体と共に、冷たくなっていくのですか。それとも、心だけどこかに行けるんですか」
僕は、全てを思い出していた。椿の「死」への抑えようのない疑問、僕が犯した過ち、その全てを。僕は、なぜ忘れてしまっていたのだろう。
「落ち着け、落ち着くんだ!」
「私はいつだって落ち着いています。落ち着いているからこそ、不安になっていくのです」
彼女は、刃物を持ちながら、僕に近づいてくる。
さっきまで鳴っていたあの変な「ブー」という音が、いつの間にか聞こえなくなっていた。
「先生、教えてください。死んだら、私の心はどうなるのでしょう」
今は教師を辞めていたとしても、僕は、彼女にとって永遠の教師であらねばならない。教師は、生徒を導く者。誤った道に行きそうな生徒を、命を懸けて正す者。
でも、僕は、恐怖で何も答えられない。
僕は思う。なぜ、彼女に会ってしまったのか。なぜ、話してしまったのか。そもそも、なぜ、彼女と目が合う夢を見たのか。
僕は言う。あの時の自分に。
その女から、逃げろ。
「先生、今の気持ちは何ですか?怖いですか?嬉しいですか?」
彼女の腕は、力強い。抵抗する僕の腕を、いとも簡単に制してしまった。
彼女の手には、包丁が握られていた。彼女はそれを振り上げて、僕の胸に刺した。腹に刺した。何度も、何度も。
「先生、答えてください。死とは何ですか。どういうものなのですか」
彼女が包丁を振り上げる度に、西日がそれを光らせた。
萱草は、身に着けると憂いを忘れる。
僕は、全てを忘れかけていた。
「答えて、早く答えて!」
そうだ、あの「ブー」という音は、車のクラクションではなかったか。
僕の意識は、そこで消えた。
死とはどういう感覚なのか。
僕は感じる。
夢を見るのと同じなのでしょう。
瞼が重くなって、耐えられない眠気に襲われていく。体もどんどん重くなっていって、力が入らなくなる。それは、苦しいかもしれない。でも、睡眠は自然なこと。それで夢を見るのも、自然なこと。
死も、同じです。拒むことのできない、自然現象なのです。だから、怖くない。いつもより長い、夢を見るだけなのだから。
死とは何か。
僕は思う。
きっと、全てを忘れることなのでしょう。
生まれたことも、恋をしたことも、悲しいことも、全て忘れてしまうのでしょう。誰に何をしたとか、何をされたとか、そういう出来事も忘れてしまうのです。
砂の城が波に攫われて消えるように、静かに、確実に。
人間は、「死」がわかった瞬間に、「死」を忘れていくのです。
今なら、ちゃんと答えてあげられそうだ。
僕は、早く教えてあげなくてはならない。
……でも、何を?誰に?
ああ、もう忘れてしまったのか。
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