6,シネ
事件が起きたのは、それから半年が過ぎた冬のことだった。椿へのいじめに似た行為が始まると、椿は僕に相談してくることもなくなり、僕達が話をすることも、目を合わせることさえも無くなってしまった。
椿への思いを抱えながら、僕はまたいつもの通り、ホームルームへと足を踏み入れていた。しかし、クラス内の情景はいつも通りでは無かった。
「先生」
教室に入って一番に目についたのは、美しい椿の姿。朝の眩しいくらいの日差しが差し込む教室内で、一人、教卓の前に立っている。何を考えているのかわからない、空虚な瞳で。
次に目についたのは、赤い色。床に、壁に、天井に、赤が張り付いている。椿の制服にも、その赤い色がついている。
「せ、先生、助けて!椿ちゃんが、なんか、変なの!」
教室の静寂を壊したのは、椿をストレス解消道具にしようと言い出した、いつかの女子生徒だった。
「どうしたんだ、椿」
僕は、確かに異様な雰囲気を醸し出す椿に駆け寄った。目は虚ろで、覇気が感じられなくて、どこか、悲しそうな椿。いったいどうして、こんなことになったんだ。
「……先生は、死ねと言われたことがありますか」
以前は親し気に話してくれていた椿の声が、冷ややかなものになっていた。話すのは久しぶりだから、もしかしたら遠慮しているだけなのかもしれない。
「答えてください。答えないと、生徒を一人、殺します」
以前の椿からは、到底考えられない発言だった。
「……まさか、この赤いのは、血なのか」
椿は、首を縦に振る。
「そうです」
「……」
「先生、生徒の問いに、答えないつもりですか?わからないことはすぐに先生に聞きなさいって教えてくれたのは、先生ですよね。答えてください。死ねと言われたことはありますか」
教室に、緊張の糸が張られている。誰かが触ればふっと切れてしまいそうな、細くて確かな糸。
「まあ、友達に軽く、なら」
「友達は、本当に死んでほしくて言ったのでしょうか」
間髪入れずに次の質問が降り込んできた。
「いや、それは、わからないけれど」
「人はなぜ、簡単に死ねと言えるのでしょうか」
「知るか!そんな質問が何なのよ、早くここから出しなさいよ!」
あの女子生徒が叫ぶと同時に、椿の手からナイフが飛んだ。ナイフは空中を水平方向に飛び、女子生徒の顔の横を掠めて壁に刺さる。ひっという短い悲鳴の後に、女子生徒は泣き出した。
「落ち着け、椿!」
「先生は、質問に答えてください。答えないのなら、今度はナイフを外しません」
「……わかった。人が死ねと言えるのは、……まだ死という概念をわかっていないからだ!きっとそうだ」
我ながら、良い答えを言ったと思う。
「では、その『死という概念』とは、何ですか」
自分の口から出た言葉であるのに、僕は責任を取れない気がした。「死という概念」とは何なのか、僕さえもわかっていない。いや、この世に、「死という概念」を正確に理解している人間など存在するのだろうか。
それでも僕は、答えなければならない。教師という人間として、生徒の問いには誠意を込めて答えなくてはならない。
「『死という概念』とは、……死の淵に立ったことのある者にしかわからないことだと、僕は思う。僕はまだわからないけれど、椿なら、きっとわかるはずだ。お母さんやお父さんの死を看取ったのは、椿しかいないんだから」
教室中に、ざわめきが起こった。しまった、今のは個人情報の漏洩だ。椿は、怒るだろうか。
「わかりません。私には、死というものがわかりません。死とは、何なのですか。死ぬと、人はどうなってしまうのですか」
「いいんだ、まだわからなくても。これから生きていく中で、死という物はわかるようになるはずだ。だから、皆を開放して……、何をやっている!!」
椿は、いじめた女子生徒の前に立つと、自分の体を切りつけ始めた。先程あの女子生徒に投げたナイフを壁から取って、次々と、制服に赤いシミを付けていく。
ナイフは、椿の体を滑るように走って行く。
頭を、肩を、腕を、腹を、脚を。
僕がその手を止めようとしても、椿の腕力には敵わない。こんなに華奢な腕なのに、どうしてこうも力が強いのだろう。
教室に入り込む昼の太陽が、萱草色に光っていた。教室中に広がる椿の血と混ざって、萱草は生き生きと密生する。
萱草は、身に着けると憂いを忘れる。
椿の言葉を思い出した。
女子生徒の五月蠅い金切り声の間に、椿の静かな声が響いた。
「死ぬって、どういう気持ちなんでしょう」
彼女は、制服を真っ赤に染めながら、そう呟いた。
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