1,コエ
正面から覗くように眩しく照り映えていた太陽が、頭上に見えている。
せ……い。…んせ…。
遠くの方で、懐かしい声が聞こえる。これは、誰の声だっけ。透き通って大人びていて、それでも笑顔は子供の様で……。
「ちょっと、あんた!大丈夫かよ!」
先程の僕の状況を空に浮かぶ雲に例えたならば、今の僕は近所に邪険にされた野良猫だろう。不安定でも心地の良い場所から、突如冷ややかな現実の世界へ戻ってきた、という感じ。うん、こんな陳腐な言葉遣いしかできないから、僕は今こんな仕事をやっているのか。
「はいはい、何でしょう」
「は?何でしょう、じゃねえよ。何度注意すればわかるんだよ。信号はもう緑になってんのに、何で動かねえんだよ」
青年の言葉に、僕は冷や水を浴びせられたような思いを味わった。運転席の窓から立て続けに怒りの言葉を述べる青年を無視して、僕はフロントガラスの向こう側にある信号機に目を向けた。
確かに、既に緑色を示している。というか、もう黄色に変わってしまいそうなくらい時間が経っている。
「おっさんのために、俺何回クラクション鳴らしたと思ってんの?声が枯れるくらい怒鳴ったし、そのせいで彼女と喧嘩になったんですけど。おい、聞いてんのか!」
僕は、口うるさい青年を置いて車を発進させた。一度、落ち着いて現状を把握せねばならない。
僕が、寝ていた?そんなの、有り得ない。僕は、しかとこの目に焼き付けたのだ。バスの窓から覗く、彼女の冷たい2つの目を。目を閉じると、今でも瞼の裏に彼女が蘇るというのに。
しかし、あの日もう一度目を開けた時、目の前にあったはずの眩しい西日は、確かに無かった。日が沈んだとかではなく、まだ僕の頭上にあったのだ。僕は、あの時狐につままれたような気分がしたのを覚えている。
結局、あの日は無事に家に帰ったのだ。特に変わったこともなく、いつも通りに玄関に入り、いつも通り蒸れて異臭を放つ靴を脱いで、いつも通り1人寂しい夕食を食べた。
いつもと違うことを言えば、醜く疲れているはずなのに眠ることができなかったことくらいだ。あの夜は、1種の興奮というか、遥か昔に味わった修学旅行の夜のような気分だった。疲れているはずが、滅多にない経験に興奮した脳は活発にはたらき、目はぎょろぎょろ動いていた。僕は、一応ベッドに入って、無理やり目を閉じた。そうしていれば、いつかは眠るだろうと思ったのだ。
あの時の僕は、まだ気付いていなかった。ミシミシと音を立てる、歯車の存在に。彼女と目が合った時にはもう、小さな歯車は既に動き始めていたのだ。小さな歯車から大きな歯車へ。歯車は、後戻りができないほどに、僕の手から離れていた。
今の僕は、全て夢だったらいいのに、と思う。出張の帰り道、疲労で寝てしまった。その時に見た夢が、ずっと長く続いていた。
そうであったなら、あんなことにはならなかったはずだ。
しかし、彼女は確かに、僕に魔法をかけた。
僕は知らず知らずのうちに、悪魔と契約を交わしていたのだ。
あの夜、僕は短い夢を見た。真っ赤なカラスが、何かを訴えている夢。
なぜ、どうして、と叫ぶカラス。
その後ろには、乱れた制服と、椿の花と、五月蝿い太陽。
そして、カラスは自分の羽を毟り取り、ニッと笑って見せたのだ。
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