後編
ヴァイオリン弾きの男が言った「なんとかします」を信じたわけではありませんでしたが、ヴィオラ弾きの少女はある日、楽譜屋に来ていました。
新しい紙と古い紙の入り混じったにおいを吸い込みながら、ゆったりとした足取りで「J」の棚を探します。「Janáček(ヤナーチェク)」。その棚に収まった楽譜を一つひとつ引っ張り出しては、表紙を確認します。そうして何度目かに見つけたのが、「弦楽四重奏曲 第1番ホ短調『クロイツェル・ソナタ』」でした。
少女は取り出した譜面をぱらぱらとめくりました。たくさんの音符が並んでいるのを眺めながら、頭の中で音を鳴らします。四つの楽器が複雑に絡み合う四重奏曲、その中のヴィオラの役割を考えながら。
その日、少女はその楽譜を買って帰ることに決めました。
それから少女は、練習の度に男と挨拶をして、ひとことふたこと交わすようになりました。それですらこれまでの少女にはとても珍しいことでした。
まだ何も話は進んでいませんでしたが、お
その間に、楽団の練習日の三回に一回くらい、少女と男は喫茶店で他愛もない話をするようになりました。─いえ、ほとんど男が話していて、少女はときどき一言はさむ程度。それでも少女は、それが少し楽しみになっていることに気づいてしまいました。
楽団では以前よりも、からかわれる頻度が上がったようでした。
「どうしよう」
少女はお家でお人形に話しかけます。
「これはきっと良くないわ」
お人形はガラスの目玉で見つめ返すばかり。
「あふれてしまったら、もう戻らないのに」
そうしてしばらくすると、ヴァイオリン弾きの男は本当に四重奏のメンバーを連れてきました。
「ヴァイオリンの彼女は知ってるよね、チェロのこいつは昔の知り合いなんです」
眼鏡のチェロ弾きの肩にぽんと手を置く男の言う通り、連れてこられた2番ヴァイオリンの女は同じ楽団のヴァイオリン弾きでしたので、少女も顔だけは知っています。
「よろしくお願いしますね」
彼女はふんわりと笑う人でした。
顔合わせを済ませた四人は、さっそく『クロイツェル・ソナタ』を弾いてみることにしました。四人で練習するのに楽団ほどの広さはいらないので、小さな練習室を探しました。そうして見つけたのは、広い川のそばにある部屋でした。
四人はひとまず、曲の最初から最後まで通して弾いてみました。
ある男の妻とヴァイオリン弾きの男との密通、その官能と、男のいびつに歪んだ愛と、胸をかきむしるような苦痛、高まる動悸、そしてその結末。トルストイの物語を追うように描かれる音楽の中で、ヴィオラも歌い、ときに叫びます。
ときどき止まりそうになってしまうこともありましたが、初めてにしてはまずまずの具合でした。
「いやぁ、やっぱり器用ですよね」
男が少女に言いました。
「そういう音も出せるんですね」
「そういう曲ですので」
「やっぱり誘って良かったな」
ねぇ、と男が隣の女を見ました。
「本当。オケとは別人みたいでびっくりしたわ」
女はやはり、ふんわりと少女に笑いかけました。どうも、と少女は小さく返しました。
川のそばの練習室はなかなか使い心地もよく、暑い日には川に足をひたして息抜きをしたり、練習が終わってから橋を渡って川向うの店で食事することもしばしばでした。
せっかくなので、四人は小さな演奏会を開くことに決めました。小さな音楽ホールを会場に決めて、本番までまた練習を重ねます。
そんなある日のこと、本番まで練習があと二回くらいという頃、2番ヴァイオリンの女が指輪をしているのに眼鏡のチェロ弾きが気づきました。
「恋人でもできたんですか」
ははは、とチェロ弾きが笑うと、女はまた柔らかく微笑んで、困ったように男の方を見ました。
あ、と少女は声を漏らしました。
「おい、気まずいから隠すんじゃなかったのか」
「だって……」
そのやりとりに、チェロ弾きもおや、と言いながら眼鏡の真ん中をくいっと上げます。
「おやぁ、おやおやぁ、そういうことですかな」
にんまりとしたチェロ弾きに対して、ヴァイオリン弾きの男と女はまんざらでもない顔をしています。
「まったく、こういうのは面倒なことになるから勘弁してほしいですよねぇ」
チェロ弾きは少女へ話しかけましたが、返事はありませんでした。しかしそれはよくあることでしたので、彼は大して気にも止めていませんでした。
少女はそれきり黙っていました。
いつの間にか少女の膝の上に、お人形が座っていました。
「やっぱり良くないことになった」
少女はお家でお人形の髪を櫛でとかしながら呆然と言いました。
「こうならないようにしていたはずなのに」
少女はお人形の黒髪から、クローゼットにかかった黒いワンピースに目を移しました。
「失敗したわ」
そう言って手元に視線を戻すと、お人形がいません。
床に転げてしまったかしら、と下を見ても、お人形はいません。
それからお家の中を探し回りましたが、お人形はいません。
「私、わたし、わたしの、おにんぎょう……」
「あふれてしまった」
とうとうその夜以来、お人形は見つかりませんでした。少女は毎日ほうぼうを探しましたが、お人形は姿を消したままでした。
そして次の楽団の練習日、少女はふらふらの状態で練習場へ現れました。ケースから楽器と弓を取り出したにも関わらずお人形がいないことに、何人かの楽団員が気づきましたが、妙な様子の少女をただちらちらと見ています。
そこへヴァイオリン弾きの男が、女と連れ立ってやってきました。
男は一瞬立ち止まって目を見張りましたが、紙袋を持って少女に近寄ってきます。
「お忘れ物ですよ」
少女は差し出された紙袋をぼんやりと受け取りましたが、はっと気づいて素早くそれを開きました。
中にはお人形がいました。
「びっくりしました、どういうわけか僕のヴァイオリンケースの中にあったんです」
男が言うと、傍らの女もうんうん、とうなずいています。
あ、と少女はまた声を漏らしました。
そのままの顔で、袋の上からお人形を抱きしめながら、少女は男の顔を見ずに頭を下げました。
しかしその夜、またお人形はいなくなりました。
次の練習は四重奏の方でした。少女は練習の前に、男から呼び出されました。
少女と男は、練習場の近くの橋にいました。
「どういうことなんですかこれは。嫌がらせですか。あてつけですか」
男は持っていた袋から荒っぽくお人形を取り出しました。お人形は首を掴まれています。
「なんでこれが僕のところにあるんだ」
いつかのように男から差し出されたお人形を、少女は震える手で受け取りました。
「ごめん、なさい、でも、私にも、わからなくて」
「そんなわけないだろう!こんな気味の悪いもの、あんた以外に誰が触るんだ!」
少女は男が声を荒らげるのを初めて見ました。そうしてなんだか頭がぼんやりとしてしまって、お人形が手からこぼれ落ちてしまいました。
「僕が変な気をもたせたなら謝ります。ごめんなさい。だから勘弁してください。彼女も怖がってるんです」
男がそう言うのを聞きながら、少女はお人形を拾おうとしたはずなのに、お人形はまたいなくなりました。
するとそのとき、「ひっ」と男が息を飲むのが聞こえました。
お人形は、男の肩の上にいました。
「こんな、こんなもの!」
男はとっさにお人形をつかむと、橋の下へ投げ捨てました。
少女はそれを見るなり、
「あれは、あれはわたし、私なの!」
と叫ぶやいなや、お人形を追って川へ飛び込みました。
ばしゃん、と大きな水音がしました。
男もはっとして橋の欄干をつかみ川を見下ろしました。
水面には確かに大きな波紋が広がっています。
しかしそれきり、川には何も浮かんできませんでした。
それからというもの、少女だけでなくヴァイオリン弾きの男も行方知れずになって、楽団の練習場にはときどきあのお人形が現れるようになった、ということです。
ヴィオラ弾きとお人形 灰崎千尋 @chat_gris
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