ヴィオラ弾きとお人形
灰崎千尋
前編
あるところ、とある楽団に、ヴィオラ弾きの少女がおりました。
ヴィオラというのは、ヴァイオリンよりも少し大きくて、少し低くて、わりと地味な楽器です。きれいなメロディーを弾くヴァイオリンと、土台を支えるチェロやコントラバスの間にあって、細かいリズムを刻んだり、ハーモニーの中間の音を奏でたりしています。
目立ちにくくも大事な音、そんな楽器をえらぶ人は少し不思議だったりもして。
ヴィオラ弾きの少女はいつも、その長い黒髪と同じ色の、黒いレースのワンピースを着ていました。いつ会っても黒づくめの少女は、他の楽団員たちに「いつでも演奏会の本番に出られるね」などと、軽口をたたかれる始末。それを少女は、ただ無表情で聞いていました。
少女はヴィオラのケースの中に、楽器と弓ともうひとつ、お人形を入れていました。
お人形はなんでも少女とお揃いで、まっすぐな黒髪と黒いワンピースもおんなじでした。
お人形はいつでも少女と一緒で、練習のときはもちろん、本番のときだって、舞台袖から大きなガラスの目玉で少女を見守っていました。
少女はほとんどお人形のようで、表情をうかがえることが少ないのでした。
少女の両の手のひらに収まるくらいの小さなお人形でしたが、楽器ばかりの中では目をひくものです。
誰に迷惑をかけるわけでもないけれどちょっと不思議なそのお人形については、他の楽団員たちはあまり触れないようにしていました。
ある日のこと、楽団のヴァイオリンに新しく、若い男が入ってきました。
楽団員たちは一通りもみくちゃに歓迎し、あとはいつもどおりにしていました。
すると練習の合間に、男は少女のお人形に目を止めて、誰かが止める前にさっと手にとってしまいました。
「どうしたんです、この人形」
男は両手でお人形を抱え、もてあそぶように手足をひょこひょこと動かしています。
楽団の空気が一瞬止まったような気がしました。
近くにいた老チェロ弾きが慌てて歩み寄り、
「そ、それは彼女のだから、勝手に触らないように」
と、少女の方を指しました。
少女は珍しく目を見開いていて、それはお人形の大きなガラス玉によく似ていました。
「ああ、これは失礼」
男は無造作に、ずい、とお人形を少女へ差し出しました。
少女はそれを素早く、しかし丁寧に受け取ると、いつもの位置─自分の楽器ケースの上にそっと戻しました。
男はその様子をしげしげと眺めると、少女とお人形を見比べて
「なるほどね、そっくりだ」
とにっこり微笑みました。
その日の楽団の練習が終わって、それぞれに団員たちが帰っていく中、新入りの男がそっと少女に近寄って言いました。
「さっきはごめんなさい。お詫びにお茶でもどうですか」
その陳腐な申し出に、少女はもう表情を動かすことはありませんでした。ただ左右に首を振り、小さく一礼してから、男を振り返ること無く立ち去りました。
それから練習の度に、少女は男と顔を合わさなければなりませんでした。
最初はお詫びとして、次は楽団のことを知りたいから、最後には「一度おはなししてみたいだけなんです」と理由を変えながら、男はあきらめ悪く誘いを続けました。
少女はからかわれることはあっても、こんなにつきまとわれるのは初めてのことでしたので、戸惑うというよりも蠅を追い払うような気持ちで、いつも首を横に降り続けました。
何度目かの誘いで、少女はついに根負けしました。
「……私、おはなしなんてしませんけれど、それでも良いのなら」
ほとんど聞き取れないような小さな声でようやく少女が言ったのを、男は聞き逃しませんでした。
「やっと声が聞けた。いや、素敵なピアニッシモですよ」
男は練習場の扉を開けて、少女を外へ促します。
「あなたの気の変わらないうちに、さっそく行きましょう」
男が少女を連れてきたのは、古ぼけた小さな喫茶店でした。
「たぶんですが、あなたはこういうところがお好きなんじゃないかと思って」
店内は薄暗く、年季の入ったランプやスタンドがぼんやりと人やカップを照らしています。席に座っているのはわかっても、それぞれの顔は見えないくらい。そして邪魔にならない程度の音量で、スピーカーからピアノ曲が流れていました。
「こういう店ってだいたいショパンばかり流すけど、ここはラヴェルなんかも流すんですよ」
男は「これは何だっけな」と目を閉じて、腕組みをしました。
「──ル」
男の向かいに座った少女がぽつりと言ったのを、うん?と男が聞き返しました。
「……この曲、『夜のガスパール』」
「ああそうだ、よくご存知で!」
男は思わず手を打って、それは思いのほか大きく響きました。顔は見えないけれど一斉にこちらに視線が集中するのを感じて、男は周囲になんとなく頭を下げました。
「そうそう、そうだった。『夜のガスパール』だ。ラヴェル、お好きなんですか」
少女に向き直った男がたずねます。
「それなりです」
そっけなく少女が答えます。
「僕は好きだな。曲名が出てこなくて何ですけど、この店にはお洒落すぎるくらい洗練されてる」
男はカウンターの奥にいるマスターをちらりと盗み見て、こちらを見ていないのを確認しました。
「曲はともかく、この店はずいぶんレトロでしょう。あの人形が好きな感じだったら合うんじゃないかと思って」
少女は何も言わず、目の前の綺麗なカップに注がれた紅茶に口をつけました。温かくほんのりとした渋みが口へ広がります。
「あの人形、どういうものなんです」
「……お人形に興味がおありですか」
「興味はありますよ、だってなんか部屋の中で浮いてるから」
男はさっぱりと言い切りました。
しばし黙った後、少女はテーブルの上のカップに顔を向けたまま言いました。
「あれは、私なんです」
少女はため息を一つ。
「母のくれたお人形ですけど、私が色々手を加えて、髪も私のを切って植えているし、服も私が縫っているんです」
「へぇ、器用なんですね」
男があまりに事も無げに言うのを聞いて、少女は初めて男と目を合わせました。
「気持ち悪くないんですか」
少女はつい尋ねてしまいました。男はうーん、と唸ってから
「まぁちょっとやばいなぁとは思うけど、別に何か起きてるわけじゃないし」
胸の前で組んでいた腕をほどいて言いました。
「ひとつ謎が解けてすっきりした気分です」
少女はなんだか気が抜けてしまって、椅子の背にゆるゆると体をあずけました。
それから少女と男は、色んな話をしました。楽団のことや音楽のこと、そしてほんの少し自分のこと。
「そうだ、今度一緒に何かやりましょうよ」
男は少し興奮気味に言いました。
「『クロイツェル・ソナタ』なんてどうです。一度やってみたかったんですよね。あ、もちろんベートーヴェンじゃないですよ、ヤナーチェクの方」
それは弦楽四重奏の曲でした。ベートーヴェンのヴァイオリン曲に因んだ小説をトルストイが書いて、それをヤナーチェクがまた四重奏曲にしたという、少し変わった曲です。
「ラヴェルではないのですか」
「あれはもうやったことあるので」
「難しいでしょう」
「嫌いですか」
「そういうわけでは」
「じゃあ決まり!」
男はまた手を打ちそうになって、はたと止めました。それを眺めながら、少女は首をかしげました。
「もう一人のヴァイオリンと、チェロはどうするんです」
少女はまた表情を変えないまま付け足しました。
「誰も私と組みたがらないと思いますが」
男はきょとんとしていましたが、やがて一つ、大きくうなずきました。
「僕がなんとかします」
それよりも、と言いながら男は少女の隣に目をやりました。
「そのお人形、よほど気に入ってるんですね。それとも僕と話すのが不安だったからかな」
少女が横を向くと、少女のお人形が傍らにちょこんと座っていました。
少女は不思議に思いました。お人形は練習の後にきちんとケースにしまったまま、取り出していないはずだったのです。
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