第六章 醜聞
和を基調としたカフェで、俺はコーヒーをすすっていた。向かいに座る凛は、抹茶パフェをつついていた。ふと横を見ると、木製の掛け時計が三時を伝えている。その反対を見ると、可愛らしい雑貨がこちらを見ていた。凛はいつもどうやってこんなしゃれた店を見つけてくるのだろう。
「もう大丈夫なの?」
京都に帰ってから、養生のため一週間ほど休暇をとった。初めの三日くらいは、悲しみに暮れ、誰とも会いたくはなかった。だが悲しみの次に寂しさが来た。そんな時、凛から「会えない?」というメッセージが来たのだ。
「ああ、もうだいぶ良くなった。一週間も休み要らなかったかもな」
「そう」
「凛はどうなんだ。最近、仕事とか」
「あんまり変化はないかな。事務職だし」
暗い靄が二人を包んでいた。俺は凛の表情を見て、心に鉛のようなものがつかえている思いがした。
「我久のせいじゃないよ」
しばしの沈黙の後、凛は徹と同じことを言った。俺の心が少し軽くなった。そう言ってほしかった。俺のせいだと頭が責めても、心は許しを欲していた。
「ありがとう。でも、責任はとるから」
呵責と赦免が混在した返事だった。
「辞めちゃうの?」
「分からない。俺としては、働きたいとは思ってる。沙由さんのお母さんからもそう言われたんだ。解放軍と戦い続ける。それが、贖罪だと思うんだ」
「我久は死んじゃダメ、だからね」
「ああ。分かってる」
カフェを出て、駅へと向かう道すがら、凛が急に立ち止まった。橋の上だった。俺は振り返って凛を見た。凛は下を向いていて、表情を読み取ることはできない。
西の空にはオレンジ色の太陽が沈みつつあった。
「どうした?」
俺の心配にも、凛はうつむいたままだ。
「あの、あのね。私、我久のことが好き。本気で好きなの」
俺ももちろん凛を好いていた。しかし俺はこのまま凛と交際を始めることに強い罪悪を感じた。
「俺も好きだ」
凛が恐る恐る顔を上げた。俺は凛の大きな目をしかと見据えて続けた。
「でも、今はだめだ。ごめん。俺から言い出したんことなんだけど、やっぱりダメだ」
凛は少し悲しそうな顔をしたが、すぐにいつもの表情に戻った。
「ううん。私こそごめん。水橋白翼のこともあったし。でも、でもね、もしかしたら、もう我久に会えないんじゃないかと思ったら、どうしようもなくなっちゃって。ごめん」
俺はたまらず凛に駆け寄り、手を取った。
「大丈夫だ。俺たちは、まだ繋がってる」
「うん」
凛は泣いていた。夕日を反射した涙がキラキラと輝いていた。俺は生涯、これほど美しく泣く女性を見たことがなかった。
凛とおばさんとの一件で、俺は少し沙由さんの死から立ち直ることができた。俺は、一つの決心をした。この身を日本の安全のために捧げると。沙由さんもそれを望んでいるような気がした。
いよいよ明日は出勤だ。まず、長官室へ来るよう言われている。そこで今後の身の振り方を指示されるはずだ。どんな処分も受ける所存だった。
翌朝、ネクタイを締めていると、インターホンが鳴った。その鳴らし方は尋常ではなく、ほぼ連打に近いものだった。
「朝っぱらからいったいなんだ?」
不審に思いながらドアを開けると、徹が立っていた。その顔は焦りに焦っている。
「どうした?」
「テレビ見てないの⁉」
外界との接触を断っていた俺は、徹に急かされるがままリモコンをとった。映し出されたのは記者会見。少しして、見覚えのある顔が映った。南別院長官だ。
「では、殺害したのは、水橋白翼だったということですか?」
どういうことだ。
「はい。間違いありません」
何が起こっている。
「現在、水橋白翼は?」
「水橋元白翼は、自責の念に駆られ、現場で自殺いたしました」
記者の質問に南別院長官は淡々と答えてゆく。ざわつく記者団に長官はさらに続けた。
「詳細は御院より説明させていただきます」
カメラが切り替わり、夕月の顔を映し出した。
「私は当時、水橋の部下でした。日本解放軍の兵士に発見され、私の身に危機が及んだため、水橋は実弾を発砲しました。規定では禁止されてはいませんが、しかし……」
言葉に詰まった夕月の後を女性記者が継いだ。
「撃たれたのが、兵士でなく、非戦闘員であったと」
「はい」
夕月の肯定に俺は思わず声を上げた。
「馬鹿な!」
あのときボウガンを撃ったのは、間違いなく解放軍の兵士だった。それに危機が及んだのは沙由さんの方で、拳銃を撃ったのは夕月だ。
「被害者の父親が提訴したんだ。公安庁を相手取ってね」
徹がことの顛末を説明してくれた。
「自分の息子は日本解放軍の兵士じゃない。たまたま迷い込んだのが小田原基地で、そこで敵兵と間違われて射殺されたって主張してる」
「そんなの通るのか?」
小田原基地およびその周辺では、民間人の立ち入りは禁止されている。
「証拠が無いからだ。なにより公安庁が罪を認めてる」
「俺が証言する。あれは間違いなく兵士だった」
「僕もそうしたい。でもだめだ。あのさ、我久って今日の九時に長官室に呼び出されてるよね」
「ああ。そこで処分が決まる」
「僕は七時に呼ばれた。行って驚いたよ。いたのは長官じゃない。首相だったんだ」
「首相?」
「何も言うな。誰にも話すな。あの事件は忘れろ。それでしまいだった」
「まさか……隠蔽?」
「おそらく夕月、いや院を守るためだと思う」
一陣の風が吹き込んだ。脳裏に静さんの言葉が去来した。「すべては院の安寧のために」それが公安庁の存在意義だと。
「つまり沙由さんに全責任を押し付けて終わらせるつもりだ。死人に口なし、だからね」
「待ってくれ。俺たちがその被害者の親父が嘘ついてるって主張すれば……」
「証拠が無い。僕らがいくら証言しても意味をなさないよ。公安庁側の人間が、公安庁をかばってる、世間はそう受け止める。第三者の意見も望めない」
公安庁に尽くしてきた沙由さんが、殺人犯に仕立て上げられるのか。死してなお辱められるというのか。沙由さんが自殺だと?ふざけるな。
「僕らにできることはない。絶望的だ」
冬の足音が、ヒタリヒタリと着実に近づいていた。
徹の言ったとおりだった。首相と直接面会し、例のセリフを二三度言われただけだった。沈痛な気持ちで、京都本局の広い階段を下りると、徹が待っていた。
「残念だけど、看過するしかない」
「こんなこと、許せるはずがないだろ!」
伏見稲荷大社のそばの通りを二人で歩いてゆく。左手の川には、水がさらさらと流れていた。春には桜並木がきれいだが、今は閑散としている。
「もし騒げば公安庁にはいられない。黙ってるしかないよ」
「それでいいのか?」
「僕はここしか生きるところがないから」
俺だってそうだ。上に歯向かって、今の職を捨てて、食べていける保証はどこにもない。
秋も深まってきた道を二人で歩いていると、俺はある考えを思いついた。
「待てよ。夕月も上に言われてやってるはずだ。公安庁は夕月を守りたいがためにこんなふざけた対応をとったんだ。もし夕月をこちらに引き込むことができれば」
「沙由さんのあらぬ疑いを晴らすことができる」
問題は夕月がそれを認めるかどうか。しかし奴だって沙由さんを尊敬していたはずだ。説得すれば、きっと告発を決意しくれる。
「行ってくる」
「どこへ?」
「夕月のとこに決まってんだろ」
考えるよりも行動だ。俺は徹を置いて、もと来た道を走り出した。
受付で確認すると、夕月は記者会見の後、一度公安庁に戻ってくるらしい。二時間後、疲れた顔で夕月が戻ってきた。すぐさま俺は夕月に詰め寄った。
「お前な、どういうつもりなんだ。自分が助かりたいがために沙由さんを裏切るのか?」
夕月はふうと、長いため息をついたあと、言った。
「蕎麦でも食べに行かないか?」
返事に窮していると、夕月は俺に背を向け歩きだした。夕月の足はまっすぐ蕎麦屋に向かっていた。俺はそれについてゆく他なかった。昼も近いしちょうどいい。昼食を食べながら説得を試みよう。
伏見稲荷大社からほど近いところに、夕月お気に入りの蕎麦屋はあった。夕月は古風な扉に手をかけたが、動きをピタリと止めた。
「どうした?」
「ここの店主は気まぐれだからな」
どうやら休みらしい。
「時間稼ぎしてんじゃねえだろうな」
記者会見以降、俺は夕月に対して疑り深くなっていた。
「私はそんな小細工をする男ではない。乗れ。別の場所を用意する」
俺は夕月の声に押され、真っ赤なスポーツカーに乗り込んだ。入庁当時から、夕月はこの車で通勤している。白い目で見る者もいるが、許されるのは、やはり御院だからか。エンジンをうならせて、京都の街中を走ってゆく。会話はない。あるのは、ハンズフリーの電話で話す夕月の声だけだ。
「はい。ええ、夕月です。あと二十分くらいで着きます。突然で悪いんですが、簡単な昼食を用意しておいてくれませんか。……ええ、いえ、二人分お願いします。簡単なもので結構なので」
行きつけの料亭にでもかけているようだった。しかし名字で名乗らず、名前で名乗ったところに俺は少し引っかかった。
京都本局から車で二十分。壬生寺に近いところに夕月は車を入れた。「さかい屋」という看板が目に入った。旅館のようだ。車から降りた夕月は、迷いなく裏へと回った。
「おい。いいのか?こんなとこから入って」
「家の主人が、店側から入るというのもおかしいだろう」
人一人通れる小道の角を曲がると、「御院」という厳めしい表札が目に入った。夕月の自宅を訪問するのは初めてだった。
目の前の座卓に、盆に乗った料理が並んだ。通された座敷は立派なもので、床の間には生け花が飾ってある。
「ありがとう。和歌子さん」
「いいえ。坊ちゃんの頼みですので」
夕月に和歌子さんと呼ばれた侍従は、俺にも丁寧なお辞儀をして座敷から出ていった。
「食べてくれ。腹、空いているだろう」
ご飯、肝吸い、鯛の味噌漬け焼き、なます、どれを食べてもうまかった。俺は一通り箸をつけた後、本題に入った。
「それで……」
「お前が言いたいことは、だいたい分かる。記者会見の内容、それが許せないと言うんだろう」
「お前だって好きであんなことを言ったわけじゃないだろ。上から言われて、仕方なくやっただけに決まってる」
「違う」
予期せぬ答えに俺の箸は止まった。
「違う?」
「私は私自身の意思で、あの証言をした。もし本当のことを洗いざらい話せば、私のキャリアはここで止まってしまうからだ」
箸を持つ手が、わなわなと震えだした。この男は保身のために、沙由さんを売ったというのか。
「ふざけるな!お前、それ沙由さんの墓の前でも言えんかよ」
「我久、こうなったのは誰のせいだと思っているんだ。お前があの時、くだらないミスをしなければこんなことにはならなかった。自分のことを棚に上げて、よく私を責められるな」
俺の荒げた声も意に介さない淡々とした返事だった。しかし中に静かな怒りを孕んだものだ。口の中のなますが急激に酸味を増してゆくのを感じた。それを飲み下し、苦しげな声で言葉を絞り出した。
「……分かってる。もちろん、俺の責任も十分にある。だから俺はどんな処分も受けるつもりだ。公安庁を辞める覚悟だってある」
「ならなぜ辞めない。罪悪感で押しつぶされそうなんだろう?」
「それは、その……おばさんに言われたんだ。沙由さんの分まで、公安庁に尽くせって。沙由さんだってそれを望んでいるはずだ」
短い沈黙が流れた。ふと庭を見ると、クチナシの実が橙色に染まっていた。
「残酷だな、沙由さんのお母様は。お前に死ぬことも許さないのか」
体が恐怖に包まれてゆくのが分かる。違う、おばさんはそんな意味で言ったのではない。そう言い聞かせるが、自信が徐々に失われてゆく。
「申し訳なかったと思ってる。お前にも、迷惑かけた」
突然、夕月が箸をたたきつけた。唖然とする俺に、夕月は烈火のごとく怒りの言葉を並べ立てた。
「謝るな!お前がやったことは、到底許されることではないんだ。誰も言わないなら、私が言ってやろう。お前がために、沙由さんは死んだんだ。お前がために、徹は最愛の師を失った。お前がために、沙由さんのお母様は一人娘を失った。そして、お前がために……御院家は存亡の危機に瀕することになった」
俺はうなだれた。夕月の顔を見ることもできなかった。夕月は、一息ついて、また続けた。
「それでも生きてゆくしかない。誰もお前に死を望まないし、死を許さない」
夕月はそこまで言うと、手をパンパンと鳴らした。そして和歌子さんにデザートを頼むと、俺に顔を上げろと言った。
「私は迷った。私のなすべきことは何か、そればかり考えた。それで、沙由さんと御院家を天秤にかけたんだ。」
盆が下げられ、柚餅子が並べられた。
「答えはもう出た。私にとってこの家は特別だ。私の代で、千余年続いてきた御院家を終わらせるわけにはいかない。沙由さんの亡霊を敵に回してでも、家を取る。古臭い考えだと笑ってくれても構わない。だが、私の今があるのは、御院のおかげだ」
楊枝で柚餅子をつつきながら、俺は考えていた。
「気づいたか?」
夕月の質問は、いつも突然で分かりにくい。
「何に?」
「この家には古くからの侍従の和歌子さんと、私しかいない」
確かにと思った。家に入ってから、すれ違った者はいない。
「父は最近病気で死んだ。富山での尾行作戦の時に、知らせが入ってな。葬式には行かなかった。もし、京都へ戻れば死んだ父に叱られると思ったからだ」
御院彰元情報部長が亡くなったとは、初耳だった。しかし親の死に目に会わないどころか、葬式にも参列しないとはどういう了見だろう。
「あの作戦で、私は黒翼になるはずだった。来年の昇進式でな」
黒翼とは赤翼の一つ上の階級だ。その上が最高位の白翼となる。もしあの時、夕月が父親の葬式のために任務を放棄すれば、昇進に関わっただろう。しかし俺のミスで、夕月の昇進は見送られてしまった。
「父が死んで、御院家の血をひくものは私以外いなくなった。私には御院家を守ってゆく責務がある。昔は御院も、院の中では力があったそうだ。だが今は、東と南に冷遇されている。父はいつも言っていた。長官になれと。俺の代わりに御院を再興しろと。それが私の核を作った。私は御院のために生きる」
御院家が急速に力を失ったのは、俺も知っている。静さんの話から組み合わせるに、四年前の御院瑞月による何らかの事件が原因だろう。夕月の父は職を追われ、姉は暗殺された。
「お前はどうだ?何のために生きる?」
最後の柚餅子を口に放り入れた。夕月の独白を聞きながら、自分はどうすべきかずっと考えていた。そして、答えた。
「俺は……沙由さんの尊厳のために生きる」
俺の覚悟に、夕月は少し驚いた顔をした。
「院を敵に回すぞ。私も含めてな」
「構わない。戦い続けることが、俺の贖罪だと信じる」
俺は取り返しのつかない失敗を犯した。失われた命は二度と戻らない。
「いいだろう。それでこそ、柳我久だ」
夕月の顔は晴れ晴れとしていた。俺の顔もそうだっただろう。
食事の後、俺たちは緑茶を飲みながら話をつづけた。夕月と二人きりで、これほど長く話すのは初めてだ。
「四年前の真実?そんなもの知ってどうなる。北条静が嘘をついている可能性だってある」
「お前は気にならないのか?四年前、どうして静さんが裏切ったのか」
俺は小田原での七日間を、すべて打ち明けた。暗い雰囲気になるかとも危惧したが、存外いい話の種になった。
「
「嫌なら話さなくていい。思い出したくないこともあるだろ」
姉の死を思い出しているにもかかわらず、夕月は眉一つ動かさなかった。
「いや、構わない。大きい声では言えないが、暗殺に間違いないだろう。公安庁、いや、院にとって都合の悪いことを知ったんだ。皮肉にも守られるべき院の人間が」
夕月の話に耳を傾けながら、湯呑の緑茶をすすった。掛川から取り寄せたものらしく、旅館の客にもふるまわれるそうだ。ほんのりとした渋みがあっておいしい。
「何か知らないか?」
「知っていたとしてどうしてお前に教える。これから院の敵になるお前に」
そう言いながらも、夕月はふふと笑っていた。
「いいだろ別に。俺に貸しを作っといて損はない」
夕月は少し考えこんでいたが、湯呑みに入ったお茶をぐいと飲み干し、口を開いた。
「私が知っていることは、お前とかなり重複している。CIAつまりアメリカ、公安庁つまり院、そして解放軍」
「それがどう結ばれるか。その全体像が知りたいんだ。そこに静さんの裏切りと、その原因になった瑞月さんの暗殺の根本があるように思う」
「いや、待て。もう一つあった。核だ」
人類が生み出した最強の兵器、核。
「父から小耳にはさんだだけだ。核を持ち込むとかなんとか」
俺は必死で記憶を手繰った。静さんとの会話、松田の拷問、いやもっと前だ。もっと前に引っかかるものがあった。
「……D区画」
小田原基地でうわさされている新型兵器。それが核だとしたら、日本だけの問題ではなくなる。アジアの危機だ。
「私はやめといた方がいいと思うがな。世の中、知らない方がいいこともある」
俺の耳に夕月の言葉は入っていなかった。沙由さんとともに葬られてしまった四年前の真実を明らかにする。そして沙由さんの汚名をそそぐ。それこそ俺に与えられた使命であると感じた。
夕月が、なぜあそこまで込み入った話をしてくれたのか。あれは奴なりの贖罪のように思う。償うべき沙由さんがいないから、そのミームを受け継いだ俺に贖ったのではないか。
帰り際、夕月は俺に一枚のカードを見せた。静さんから奪い取ったIDカードだった。
「これ、見覚えないか?沙由さんのポケットに入っていた。救急車の中で、私が預かったんだが、沙由さんのものだろうか。それとも……」
「俺のだ。それ。沙由さんに預けといたんだ」
嘘をついた。しかしこれは強力な武器になるはずだ。是が非でも手に入れておきたかった。幸いにも夕月は、一見何の変哲もないカードが何の意味を成すのかまでは分かっていなかった。
「そうか。じゃあ返しておく」
「ありがとう」
帰り際、玄関で俺たちはこんな話をした。
「俺はとうとうお前の泣き顔を見なかった。沙由さんの時もお前は冷静だった」
このとき俺の言葉に怨嗟はなかった。純粋に夕月を尊敬していた。
「御院家の嫡男として、いついかなる時も冷静でいろと教え込まれてきたからな」
「お前は……強いな」
俺の言葉に、夕月は謙遜するだろうと思っていた。しかし返ってきた言葉は違った。夕月は自嘲気味に笑って、こう答えたのだ。
「私がお前の思っているような男なら、私はこんなに苦しんでやいやしない」
強い言葉だった。いつもの落ち着いたトーンだったが、その意味を深く追及させない力があった。
俺は食事の礼を言って、御院家を出た。後ろからはもう、何も声はしなかった。
アパートに戻った俺は、本棚から日本地図を取り出した。。慎重に動かなければならない。相手は強大だ。肝要なのは、まず敵の監視から遠ざかることだった。しかしそれは同時に情報収集の機会をも失うことになる。俺は地図を広げ、どこに拠点を置くか考えた。
「名古屋か金沢か」
俺は異動願の最後の欄を考え抜いた末に記入した。ふと窓の外を見ると、星のない空が黒々と広がっていた。
京都を発つ前に凛との関係をはっきりとさせておきたくて、俺は凛をとあるカフェに誘い出した。カフェなど行き慣れないので、検索をかけ一番上に出てきたところにした。
「俺、京都を離れることにしたんだ」
凛は一瞬驚いた顔をしたが、すぐに悟ったように「そう」とだけ返した。
「それで……」
言いかけたところを凛が遮った。
「お別れを言いに来たんでしょ?」
まっすぐに俺を見つめていた。いつもの明るい笑顔はない。名の通りの凛としたまなざしだった。
「そうじゃない。その、待っていてほしいんだ。俺が京都に戻るまで、頼む」
「戻ってくるまでって……そんないつかも分からないのに、待ってられると思ってるの?本気で……」
「……分かった。ごめん、じゃあもう終わりにしよう」
「はあ、そんなんだから……」
凛はそこまで言って立ち上がった。俺は不思議と満足していた。これでもう凛に心を悩ませることもない。
うつむく俺の目に白いものが映った。それは喫茶店の紙ナプキンだった。
「戻ってくるときは、連絡して。電話で」
紙ナプキンをよく見ると、可愛い文字で携帯電話の番号が記されていた。
「待ってるから」
凛は最後にそう言い残し、去っていった。俺は少し涙をにじませ、残りのコーヒーを飲み干した。
それから一週間もしないうちに通達が来た。俺の異動願は正式に受理され、公安庁はこれを承認するという旨が記されていた。一番最後に「南別院真造」と書かれている。上としても、あの痛ましい事件に関わった人間を、遠くへやりたいという思惑が働いたのかもしれなかった。
沙由さんの死から二か月後、俺は東京行きの新幹線に乗り込んだ。
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