第三章 追跡
志穂さんに礼をするという口実で、俺は副長官室を訪ねた。本音はまた榛原に会えるかもしれないという淡い願いだ。しかし三杯目の紅茶に手を伸ばしたときには、さすがの俺ももうあきらめかけていた。
「凛ちゃんのこと、待ってるんでしょう」
志穂さんの指摘に危うくカップを落とすところだった。
否定とも肯定ともつかないあいまいな返事が志穂さんの疑問をほぼ確定させてしまった。しかしもう遅い。
「凛ちゃんなら、今日水槽の大掃除するっていって昼から奥の部屋にこもりっぱなしだけど」
「そうですよね。そんな都合よく榛原が来てるわけ……早く言ってくださいよ!」
「聞かれなかったものだから」
志穂さんは、柔らかい微笑を俺に向けた。からかっているときのそれだ。
奥の部屋のドアを、ノックをするとよく通るきれいな声が返ってきた。
「志穂さん?すみません、あと少しで終わりますから」
「いや、あの、俺なんだけど。その、覚えてる……?」
ガチャっと大きな音を立ててドアが開いた。開き戸の向きが彼女の方で助かった。もし俺の方だったら、顔面直撃で痛い思いをしただろう。
「我久!会議お疲れ様。林さんから聞いたよ。大演説だったって」
「林さん?」
「司会進行してたあの怖い人。私の先輩なんだ」
たしかに会議の最初で、「進行役を務めさせていただきます。情報課の林です」と名乗っていた気がする。
「いつか林さんみたいなかっこいい人になりたいな」
「榛原は今のままがいいよ」
「え?」
「あ、いやなんでもない。水槽の掃除、手伝おうか?」
「ほんと?ありがと!じゃあ、あそこにあるバケツの水、調整剤いれてアロワナの水槽にお願い」
「了解」
今まで以上に話は弾んだ。お互いの仕事のこと。プライベート。嫌味な上司の愚痴まで。掃除が終わった後も、志穂さんが淹れてくれた紅茶片手に、おしゃべりを続けた。
「仁平さんってどんな人?」
「え?会ったことないの?作戦の打ち合わせの時とか」
「沙由さんから話はよく聞くんだけど、俺はまだちゃんと会ったことはないな」
ひょんなことから話が情報部へと落ちていった。
「あ~、たしかに水橋白翼の言ってることは正しいかも。基本的に面倒くさがり屋だし。でもやっぱり信頼はできるかな。話も面白いよ」
「じゃあ、今度、俺が会いたがってたって言っといてくれないか?都合が合えば、でいいんだけど」
「うん。分かった。言っとく」
「ありがとう」
時計の鐘が五つ鳴った。時間を忘れて、話し込んでしまっていた。
「いけない。こんな時間。ごめんね、我久。そろそろ帰らないと」
俺としてはもう少し一緒にいたかったが、これ以上進むと危険な気がした。
「分かった。じゃあまた」
榛原とはそれで別れた。
俺も帰るか。明後日はまた出動だ。どこに派遣されるかは分からないが、また東へ向かうことになる。それまでにもう一回榛原に会っておきたいと思った時、しまったと思った。俺は榛原の連絡先を聞いていない。今からでも聞きに戻ろうか。いや待て。榛原の迷惑になりはしないだろうか。
俺はあまり女性関係でいい思いをしたことがない。学生時代もモテたわけでもないし、告白してうまくいったためしもない。今回だって俺の思い上がりに決まっている。榛原だって連絡先聞いてこなかったし。やめよう。今は仕事に集中だ。そう決心し俺は宿舎へと踵を返した。
途中に寄ったトイレで、手を洗っている夕月にばったり会った。
「もう帰るのか?」
「ああ。作戦会議、明日だろ?」
「遅刻するなよ」
しねえよと言い返したかったが、夕月が先に出ていったのでタイミングを逃した。
ふと顔を上げると、そこに可愛らしい小便小僧のイラストの入った張り紙がった。そこにはこう記されている。
もう一歩前に
トイレ美化を促すものだろうが、この時はなんだか臆病な俺自身に言われている気がした。まだ間に合うかもしれない。そう思った時にはすでに志穂さんの部屋へと走り始めていた。
角を曲がればすぐに志穂さんの部屋というところまで来て、反対から歩いてきた誰かにぶつかりそうになった。
「す、すいません!」
「え?我久。どうしたの、そんな急いで。なにか忘れ物?」
榛原だった。間に合った。目的の当人を目の前にして、言葉がうまく出てこない。
「えっと、メルアド聞いてなかったなって……」
そこまで言いかけて「馬鹿か俺は」と思った。いきなり本題に入るやつがあるか。
「あ、いや違う……」
「ああ!連絡先、教えるの忘れてた。イメルでいい?」
榛原の助け舟で、本人はそう思っていなかったかもしれないが、なんとか連絡先を交換することに成功した。
尾行には二種類ある。
一つは尾行対象に対して公然と行われるものである。こちらの存在に気付かせる、つまり対象につけられていると、知らしめる方法だ。これは主に対象の秘密活動を妨げる効果を持つ。
二つ目は対象に対し秘密裏に行われるものである。一般的な尾行というとこちらが想像しやすいかもしれない。今回、俺たちが遂行するのは後者の尾行だ。
会議室に集まったのは、沙由さん、夕月、徹、そして俺。いつものメンバーだ。時刻は九時を十分ほど回ったところだ。
「始めないんですか?」
「担当がまだ来ない。一応、規則だからな。待つ方が辛いか、待たせる方が辛いか。とにかく来るか分からんやつを待つほど苦しいものは無い」
沙由さんは腕組みしたまま毒づいた。前の小田原の時も作戦会議は行われたが、紙一枚が机に置かれていただけだった。文責の欄はたしか……。
「遅くなった」
乱暴にドアを開けて入ってきたのは、ぼさぼさの髪とヨレヨレのスーツ、そして目の下に大きなクマのある大男だった。腕には大量の資料を抱えている。
大男は会議室に入るなり、机にどんとファイルの山を置いた。その中から地図を引っ張り出すと唐突に話し始めた。
「まず、これを見てくれ。富山市の地図だ」
「おい、待て。自己紹介くらいしたらどうだ?こいつらとは初対面だろ」
沙由さんの声色は尋問するときのそれだ。
「めんどくせえな。なんだったか、あの堅苦しいの。京都本局、情報課の武田だ」
「相変わらずだな。仁平」
この人が仁平さんか。たしかに性格に難ありだ。
「時間ねえから手短に行くぞ。お前らに行ってもらうのは富山だ」
広げられた地図にはところどころに赤ペンが入れられ、殴り書きのメモもちらほら見える。
「富山なら金沢支局の管轄ですよね。どうして僕らが富山へ?」
徹の問いに仁平さんは苦い顔をした。
「これは白翼級の案件だ。けど、おじいは今別件で忙しい。上は名古屋の一に頼もうとも思ったらしいんだが」
「なんだ」
「一にはちと荷が重い」
「どういう意味だ?」
「尾行対象に問題がある」
仁平さんが一枚の写真をホワイトボードに貼り付けたとき沙由さんが、あっと言った。写っていたのは、妙齢の女性。横顔を写した写真だった。
「静……」
その名前に小田原のことがフラッシュバックした。沙由さんはあの時多くは語らなかった。俺は沙由さんの顔を見た。対して夕月と徹はピンときていなかった。
「そうか。若手はあんま知らねえか。静ってのは……」
「やめろ、仁平。言わなくてもいいだろ」
机に目を落とした沙由さんを仁平さんがぴしゃりとたしなめた。
「馬鹿野郎。言わなければ始まらん。作戦上、大切なことだ」
「あの、誰なんですか?その静って」
俺はたまらず聞いた。長い沈黙の後、沙由さんは答えた。
「公安庁で、たった一人の裏切り者だ」
公安庁で背信行為があったなど聞いたことがない。
「四年前の公安庁職員の殉職の件ですね。名前は初めて聞きましたが」
声を上げたのは、夕月だった。四年前というと公安庁設立から一年後か。
「ん?よく知ってるな。当時のことは皆話したがらねえのに。誰に聞いた?」
「父です。そのころはまだ公安庁にいましたから」
仁平さんは作戦概要の用紙を見て、はっとした。
「お前……そうかすまない」
「いえ。もう過去のことですから」
仁平さんと夕月のやり取りは、俺には解せないものだった。夕月の過去に何があったのかは知らない。しかし四年前というキーワードから、父親の離職の件かと疑った。
夕月の父親である
隣にいる沙由さんの様子がおかしい。ずっと下を向いて黙っている。
「すまん。気分が悪い」
突然、沙由さんはそう言うと口をおさえて部屋から出ていった。仁平さんはふうと一息いれた。
「無理もない。静はあいつの兄弟弟子だからな。もうとっくに整理ついてると思ってたんだが」
「兄弟弟子というと?」
「水橋沙由、北条一、北条静。この三人はおじいの部下だった」
つまり俺でいう夕月と徹、そして沙由さんとの関係だったということか。
「お前ら、なんでおじいがあの年になるまで退かねえか知ってるか?」
三人とも黙っていた。改めて考えてみると分からない。四十五というエージェントとしては高齢で、今もなお現場に立ち続けている。
「おじいはな、責任を取りてえんだ。自らの手で北条静を取り戻したいんだと思う。真相を知りたいってのもあるけどな」
「北条ってことは……」
「静の旧姓は神谷。一と結婚してから、今の姓を名乗ってる。一にこの任務はきついだろう。沙由なら問題はないと踏んでたんだがな。けど、顔が知れてる沙由が直接尾行するわけじゃねえから大丈夫だろ。静は解放軍の幹部の一人だ。松田とも近い。なんとしてもこの女の今の情報が欲しい」
仁平さんは俺たちの顔を順々に見まわした。
「さてと、誰で行く?」
京都駅の中央口に、一人の男が緊張した面持ちで立っていた。男の名は柳我久。
待ち合わせ時刻の十五分前に到着した俺は、腕時計とスマホの画面とを交互に見ながら、落ち着きなく一人の女性を待っていた。
「我久」
不意に呼ばれて振り返ると、トレンチコートの身を包んだ榛原が立っていた。会うときはいつもスーツ姿なので、榛原の私服姿は新鮮だった。さらに榛原は職場では下ろしている前髪を上げ、おでこを出していた。親密になったはずなのに、俺は初めて会う女性のような気がしてどぎまぎした。
「あれ?早くない?一時であってるよね?」
「あ……いや大丈夫。俺が早く来ただけだから。えっと、じゃあ行こうか」
学生時代からまともなデートをしたことのない俺にとって、榛原との初めてのデートに不安はあったが、歩き始めればもういつもの二人だった。俺たちは京都駅前からバスに乗り、水族館へと向かった。
デートに誘ったのは俺からだった。しかしメールのやりとりを繰り返すうちに、話題がそこに落ちてきたので、大部分は凛のおかげといえる。俺はただ最後の誘い文句を打ち込んだに過ぎない。
榛原は生き物が好きな女性だった。特に海や川など水辺にすむ生き物が好きなようだった。水族館も榛原の提案で決まったことだ。
「ごめんね。なんか私の行きたいとこに決まっちゃって」
「いや、いいよ。俺もだんだん魚、詳しくなってきたし」
それは本当だった。榛原の熱帯魚の話は一種の熱をもって、俺に訴えてくる。それが心地よく感じていたのは、俺が榛原に恋心を抱いていたことが大きいだろう。
バスで十分ほど揺られ、俺たちは水族館に入った。アシカやアザラシを眺め、たくさんの魚が泳ぐ大水槽を抜け、マンボウにゆったりした泳ぎに目を奪われた。
「学名はサンフィッシュ。なんでか分かる?」
「太陽の魚か。形が丸いから?」
「それなら月でも火星でもいいでしょ」
悩んでいると榛原はマンボウに目をやり、ふふと笑った。
「なんだよ」
「この子たちに同じ質問しても多分考えることすらしないんだろうなって」
「自分のことだからよく分かってんじゃないのか?」
俺も榛原にならって水槽に目を移した。マンボウは小さな口を開けたまま泳いでいた。漂っていたといった方が適切かもしれない。
「たしかに何も考えてなさそうだ」
「でしょ?マンボウってあんなに大きいのに、脳みそはピーナッツくらいしかないんだよ。多分今もクラゲとカイメンのことしか考えてないんじゃないかなあ」
横の案内板を見ると、クラゲを主食にしていると書いてある。本能のまま生きているというわけか。
「さっきの答えは?サンフィッシュ」
「日向ぼっこするからだよ。理由はよくわかってないけど、寄生虫をとるためとか、体温を上げるためとかいわれてる。でも私は、なんか知らないけど楽しいからやってるように見えるんだ」
「へえ。でもこいつ、スゲー馬鹿なんだろ?そんな難しいこと考えるか?」
「う……でも、可愛いからいいもん」
榛原は頬を膨らましてこちらを見た。熱帯の魚の水槽から水温が十七度のマンボウの水槽に移ってきた俺たちにとって、この場所は寒々しかった。しかし頬を膨らました榛原の表情は、俺の心を温かにしてくれた。
ここは榛原の行きつけの水族館だという。その中でも彼女のお気に入りは大型淡水魚の水槽だった。
「かっこいい……。飼いたい」
うっとりとした視線の先には、何匹もの巨大魚が優雅に泳いでいた。その中に変わった魚がいた。口がくちばしのようにとがっている。
「あれは?」
「アリゲーターガー。最大で二メートルくらいになるんだよ。あの子はまだまだ成長するかも」
「アリゲーター……ってワニじゃなかったっけ」
「うん、それは……」
榛原がそこまで言いかけたとき、アリゲーターガーがグパッと口を開けた。鋭利ながずらりと並んでいる。
「なるほど。凶暴なワニそっくりだ」
そこで会話が途切れた。何か話を始めようと、俺は榛原を見た。榛原は少しうつむいて指を遊ばせていた。まるで幼児のように手遊びをしている。
「どうした?」
「我久、あのね。あの……」
その先はよく聞こえなかった。まわりは人気はない。榛原の小さな声も聞こえるはずだから、どうやら榛原は先を言うことを躊躇したらしかった。
榛原は意を決したようにこちらを見た。大きな目でしかと俺を見据えている。
「あの、我久って今付き合ってる人とかいる?」
最初のデートで恋愛話は出ないだろうと高をくくっていた俺にとって、榛原の言葉は全くの不意打ちだった。と同時にこの話を榛原から切り出させたことを恥じた。驚きと恥ずかしさがないまぜになってうまく言葉が出てこない。
その時後ろから男の子の声がした。
「ねえ、お姉ちゃん。あれって何の魚~?」
はっとした榛原は男の子に対し、親切に魚の解説を始めた。男の子の周りに保護者らしき人はいない。榛原は俺に目配せした。それにうなずき、持ち前の観察眼で周りを見渡す。遠くに心配そうな顔で誰かを探している女性を発見した。俺は駆け寄り女性に声をかけた。
「すみません。もしかしてあそこにいる男の子って」
「え、ああ!」
やはり男の子の母親だった。母親は男の子に駆け寄り叱りつけた。そして俺たちに礼をして去っていった。
なんとなくタイミングを逃してしまった俺たちは、そろそろと土産物屋へと歩を進めるしかなかった。
遠くでペンギンがよちよちと歩いている。ティーカップを二つ挟んで、俺たちは窓際の席に腰を下ろした。今度は俺が切り出す番だ。周りに人はいない。思い切って、言った。
「あのさ」
「うん」
「さっきの話なんだけど、俺、彼女はいないけど榛原のこと、気になってる。というか、好きだと思う」
話していて顔がほてるのが自分でも分かる。告白など今日はするつもりはなかった。しかし榛原からもらったこの機会を無駄にしたくはなかった。
「だから、もしよかったら俺と付き合ってほしい」
榛原はカップを置き、俺を見た。そしてにこりと笑って
「喜んで」
と、承諾してくれた。
富山駅の十一番線に、一人の男がこわばった顔で立っていた。男の名前は山内雄介。真田食品の営業マン。会社の無理な要求で,急遽富山の取引先へ行くことになった。
これが柳我久の第二の皮膚だ。今回の任務はスニーキングスーツの代わりに、ビジネススーツを着込んだ。特急と新幹線を乗り継いで京都から三時間弱、俺は富山駅に降り立った。
「こちら山内。作戦展開地域に到着」
「予定通りだな。改札を出て『ニューロイヤルホテルとやま』へ向かってくれ」
沙由さんはいつも通りに指示を飛ばした。作戦会議後から心配していたが、杞憂だったようだ。
「了解」
山内雄介という皮膚をまとった俺、柳我久は北条静尾行作戦を開始した。まずシギントからの情報である、静の潜伏先のホテルへと歩を進める。
ちらりと後ろを振り返ると、観光客のなりをした男性二人組が距離を取って歩いてくる。補佐の夕月と徹だ。俺に万一のことがあれば対処をする。
ラウンジに入りソファに腰を下ろす。ホテル側には話を通してある。エレベーターがよく見える位置に陣取り、静が出てくるのを待つ。スマホを開き写真を再度確認することも忘れなかった。
一時間ほどたったころ、一人の女性がキャリーバック片手に現れた。黒のブラウスに黒のパンツ。そして冗談みたいなでかいサングラスをかけていた。黒ずくめの女性は足早にフロントへと向かう。俺は気取られぬよう新聞の影から様子をうかがう。
「お客様。チェックアウトでよろしいですか」
「今日もう一泊できない?急に用が入ったの」
高圧的な物言いに、無線の向こうの沙由さんが反応した。
「間違いない。静だ」
俺は了解の意味で、無線機を二回たたいた。
「急に言われましてもちょっと対応できかねます」
ホテルマンの困ったような声に、静はいら立ちを隠さなかった。
「はあ?私がアンタんとこにいくらチップ払ってきたと思ってるの?これぐらいしてくれなきゃ困るわ」
無茶苦茶な論理だがホテル側も強くは出られないらしい。
「……承知いたしました。しかし、お客様がいらしたスイートルームは今夜予約されていまして。その、お部屋のランクを下げてのご案内となりますが……」
「ふざけないで。私はあの部屋しか泊まらないわよ。その客、キャンセルさせて私に回しなさい。なんなら、私が交渉してもいいわ」
「いえ、そういうわけには……」
「六時には戻るから。いいわね」
それ以上ホテルマンに何も言わせず、ヒールの音を派手に鳴らしながら、ホテルを出ていった。俺も新聞を閉じホテルを出た。いよいよ尾行開始だ。
あのホテルマンには気の毒だったが、俺にとっては好都合だった。怒りは、人から冷静さを奪う。尾行もしやすくなるというものだ。
対象から一定の距離を保ち、観察しながら尾行を続ける。静はときたま時計を確認しながら、迷いなく歩いてゆく。どこへ向かうのだろうか。富山駅から南へ五分ほど来た時、静が足を止めた。俺はそのまま歩き続け静を追い越した。同時に止まれば怪しまれる。俺は少し行ったところにあった紳士服店に入り、無線を入れた。
「ただいま対象は洋品店の前です」
「了解。徹、どうだ?」
「対象、店内に入りました。僕たちは手前の喫茶店に入ります」
現在、静は俺たちに挟まれている。喫茶店、洋品店、紳士服店の間に路地や交差点はない。つまり静が店を出てどちらへ行こうとも見失う恐れはない。
「了解。各員その場で待機。静の行き先を特定しろ。そこになにかしら松田の手掛かりがあるはずだ」
無線はそれで切れた。
「お客様、何かご入り用ですか?」
老舗らしい紳士服店の主人に公安庁の手帳を見せる。
「調査にご協力ください」
「失礼しました。どうぞ、ごゆっくり」
店主に会釈をしてから三十分後、動きがあった。俺の目の前を静が通り過ぎた。こちらには目もくれず足早に去っていく。
「対象、動きました。富山駅からさらに南下。尾行、再開します」
「了解。徹たちは一度離れてくれ。我久とは一本東の道を使え」
俺たちの位置はGPSで共有されている。静とは三十メートルほどの距離を保ちつつ、追うよう言われている。そうすればある程度、静の現在位置が全員に知れることになる。
なおもまっすぐ南へ進む静が、突然左へ折れた。路地だ。
俺はこの時、少しの油断と高揚があったと自白する。京都会議で沙由さんに褒められたこと、榛原とのデートの一件、それらが俺から慎重さを奪い取ったのだ。
見失ってはことだと小走りで路地へ入ったその時だった。バリッと嫌な音がして、意識が遠のいた。体がしびれていうことを聞かない。スタンガンだった。薄れゆく意識の中、冷たい声が俺の耳を妖しく打った。
「いけない子猫ちゃんね。私をつけるなんて。レディの扱い方、ママに教えてもらいなさい」
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