第二章  同胞

 京都本庁に到着したのは空も白み始めるころだった。報告の後、俺と徹は宿舎へ戻った。夕月は実家が壬生にあるため、車で帰っていった。沙由さんは、まだ仕事があるらしく本庁に残った。

 作戦の緊張から解放された俺は、ベッドに倒れこむが早いか、深い眠りに落ちた。



 目覚めると、窓の外には沈みゆく太陽がオレンジ色に輝いていた。ずいぶんと長い時間寝ていたようだ。スマホの画面には十月二日とある。カレンダーはまだ九月のままだ。むくりと体を起こし、ベリッと九月のカレンダーをはがした。整然と並ぶ数字のひとつに大きな赤丸がついている。寝起きでぼやけていた視界が、だんだんはっきりしてきた。五日の欄にこれまた太い赤字で、


 京都会議


 とある。

 そうだった。半年に一度の大きな会議が三日後に控えていた。公安庁の首脳部、各支局長、全国に散らばる白翼たち、警察庁長官までが一堂に会し、日本の治安について協議する。それが日本治安共同会議、通称京都会議だ。

 俺も沙由さんの付き添いで出ることになっている。半年前は夕月だったが、今回は徹が遠慮したため、俺が出ることになった。

 出席する以上は、事前に下調べをしておく必要がある。俺はともかく、沙由さんに恥をかかすわけにはいかない。思わず深いため息をついた。小田原へ発つ前にやっておけばよかった。小さいころから計画性がないだの、無鉄砲だの言われてきた。何から手を付けてよいやら分からない。沙由さんに相談してみるか。いや、それは不可能だ。沙由さんは、今、白翼のみで行われる会議に出席している。今頃、三人の白翼による激論が交わされているだろう。

 考えるより行動だ。俺はパーカーを一枚羽織って、部屋を出た。



「そんなことを急に聞かれても困る。第一、私の時とは状況が違う。そんなことのために呼び出したのか」

 案の定、夕月は嫌な顔をした。この天才は他人のことに巻き込まれるのを極端に嫌う。

 この個人主義者め。腕組みなんかしやがって。

 憎らしげな視線を投げかけても、夕月は涼しい顔をしている。仕方がないから、俺は具体的な質問を投げた。

「お前の時はどうだったんだ。雰囲気とか」

「私の時は意見を求められることはなかった。こっちも準備してたのに肩透かしを食らったよ」

「そういうやつじゃなくって」

「現状を自分がどう思うか言えばいいだけだ」

「それを上手くまとめられねえから困ってんだよ」

「志穂さんに相談してみるのは?」

 助け舟を出してくれたのは、心配そうに見守っていた徹だった。

「それだ!」

 

 

 翌日、俺は八時五十分に「S・Sorai」と金文字で彫られたプレートの前に立っていた。二日休みを取っていたが、悠長に休んでいる場合ではない。休日返上で京都会議の準備だ。

 三回ノックすると、副長官室から、

「どなた?」

 と、上品な声が返ってきた。

「調査部、赤翼、柳我久です。志穂さん、昨日お電話させていただいた件で参りました」

「あら、早かったのね。どうぞ」

 がちゃりとドアを開けるとふわりと紅茶の香りがした。「副長官 空井志穂」と明朝体で書かれた机上名札の奥に、その女性はいた。

 空井そらい志穂しほ。齢、五十ほど。現公安庁副長官。情報部、通称シギント出が多い首脳部に調査部、通称ヒューミントから腕一つで這い上がった女性初の副長官だ。エージェント時代は「鬼白翼」と呼ばれ、輝かしい功績を挙げてきた。現場を退いてからは、男社会だった公安庁に女性職員を増やす活動を積極的に行っている。今では全職員の三割、シギントに限ってみると四割を超す女性職員が公安庁で働いている。

 それだけの力がありながら、誰にでも分け隔てなく接することでも有名だ。皆から「志穂さん」と慕われている。

「いらっしゃい。今、お紅茶淹れるわね」

 いそいそと紅茶の茶葉を戸棚から取り出す姿は、気のいいおばさまそのものだ。

 俺たちはティーカップを挟んで座った。志穂さんは「まずは無事に帰還できて結構でした」と、ねぎらってから用向きを聞いた。俺はすぐに本題に入った。

「京都会議のことです。なにかアドバイスをいただきたくて」

「たしか、沙由の付き添いだったわね」

 昨日電話で概要は伝えてある。

「ええ。それで……」

 俺が話を前へ進めようとしたとき、ふいにノックがした。志穂さんは「ごめんなさいね」と断ってから、

「どなた?」

 と俺の時と同じ風に聞いた。

「僕ですよ。宗雪です」

 その名をきいたとき、面倒だなと思った。東別院ひがしべついん宗雪そうせつは俺にとってあまり関わり合いになりたくない男だ。

「失礼します」という声とともに黒縁の眼鏡をかけた男が入ってきた。そして俺の顔を見るなり、露骨に嫌な顔をした。昨日の夕月の顔にどこか似ていた。

「おやおやおや。誰かと思えば、水橋白翼のコネで赤翼に成り上がった柳君じゃあないか」

「そんなものは使ってないと何度言ったらわかるんだ」

 この男は沙由さんに心酔している。病的なほどに。公安庁には俺と同じ年に入った。そのころから俺や夕月に「僕は水橋さんの部下になる」と何度も言っていた。しかしそれは叶わず、以後宗雪は沙由さんの下についた俺たちを敵視するようになった。

「君にそのつもりがなくとも力は働くものさ」

 相手にするのも馬鹿らしくなり、体を志穂さんのほうへ向けた。宗雪はその態度が気に食わなかったのだろう、なおもこう続けた。

「それに君は浜松の百姓の子だろう。本来なら僕が水橋白翼の下につくはずだった。長らくこの国を守ってきた東別院家とは格が違うんだよ。それがぽっと出の田舎者が」

 戦国時代じゃあるまいし。家柄のことを持ち出すとは。確かに東別院家をはじめとした「院」がつく一族は平安時代から政権に関与し、主に警護に当たっていたそうだが。

「何とか言ったらどうだい?浅葱裏」

「なんだと!」

 さすがに頭にきた。勢いよく立ち上がった時、

「もう結構!」

 と、志穂さんが、ぴしゃりとたしなめた。先ほどとは打って変わって、志穂さんの顔には「鬼白翼」の怒りの表情が浮かび上がっていた。

 反射的に背筋が伸びた。ちらりと横を見やると宗雪も直立不動だ。

「宗雪、話はまた今度にしましょう。我久の方が切迫してそうですし」

「しかし……」

「話は今度。いいですね」

 有無を言わさぬ口調だ。俺は久しぶりに見た志穂さんの怒りように驚くともに、少なくない愉快を覚えた。

「分かりました」

 志穂さんはすごすごと出ていこうとした宗雪の背中にこう言葉をかけた。

「そんなに家柄に拘泥するのならその名に恥じない行いをなさい」

 宗雪はただ力なく「はい」と答えただけだった。



 その後、話はトントンと進んだ。志穂さんは俺の問いに的確かつ明瞭な答えを示してくれた。

 当時のメモには、

一、全員の話をよく聞きメモを取ること

一、論理的構造を意識すること(矛盾しない!)

一、味方につける人を見誤らないこと

 と、まずい文字で書いてある。



 こういう言い方をするのは、このメモがなければ志穂さんの言葉をすっかり忘れてしまっていたからだ。ある女性との出会いが宗雪との一件はおろか、志穂さんの助言さえも吹き飛ばしてしまった。柳我久という男をエージェントして、男として、強くしてくれた女性との出会いを、俺は生涯忘れることはないだろう。



 二杯目の紅茶を飲み干した時、ノックが三回した。志穂さんは例の通り対応すると、

「凛です。魚持ってきました」

 と、ドアの向こうから返ってきた。

 魚とは何のことか分からなかったが、志穂さんはすぐ得心がいったのか一人の女性職員を部屋に招き入れた。セミロングに前髪ぱっつんの小柄な女性だった。どことなく猫を思わせる容貌だ。

「なんで配達指定日、今日の朝にしちゃったんですか。私、久々のオフだったのに。それに受取人、私のままになってましたよ。今朝、こんなに届いてびっくりしちゃいました」

 ビニール袋を両手いっぱいに持った彼女は不平を漏らした。

「ごめんなさいね。ネットの使い方よくわからなくって」

「また教えますから」

 そこで初めて目が合った。俺がいることに気づいていなかったらしく、慌てたようにぺこりと頭を下げた。

「あっ、すみません」

「いえ、こちらこそ」

 つられて俺まで頭を下げた。簡単に自己紹介をすると、彼女はただでさえ大きな目をさらに大きくした。

「柳さんって、あの水橋白翼の?すごく優秀だって聞いてます。小田原への作戦も完璧でしたし。あっ、私、情報部の榛原はいばらりんです」

 どうやら何かに夢中になると、ほかのことが見えなくなってしまう性格のようだ。榛原は、志穂さんから「魚、入れてきてもらえるかしら」と促されるまで、話をし続けていた。

 榛原は「じゃあまたどこかで」とあいさつして、奥の部屋に入っていった。

「可愛いでしょう。あの子。今年の春に入ってきたの」

 志穂さんへの返事に窮していると、奥から

「またこんなネオンばっかり。カージナルとかブラックとかラミノーズとかにぎやかな方がいいと思うんだけどなあ」

 と、かなり大きな独り言が聞こえてきた。俺には、何のことかよく分からなかった。



 副長官室の奥の部屋。熱気と湿気とあの独特なにおい。榛原が去り際に言った「どこか」は、志穂さんの熱帯魚部屋だった。大きな水槽の前で俺と榛原は並んで巨大なアロワナを眺めていた。会議が二日後に迫っているのに、こんなことをしていたのは熱に浮かされていたからかもしれない。この時すでに俺は榛原に恋心を抱いていたのだろう。

「やっぱり底がさみしいんだよね」

「底?」

 小一時間も話しているうちに硬さが取れて、それよりも俺と榛原が似たような性格だったこともあったが、ため口で話すようになっていた。

「水槽を上から分けてくとね、上層、中層、底層ってなるんだけど。アロワナは上層から中層。そうなると底の方にスペースが余るでしょ?そこに魚入れればもっとにぎやかになると思うんだけど」

「でも、そんな魚いるのか?ずっと底にいる魚って想像できないんだけど」

「いるよ~。ポリプとかレッドテールとか。コリとかだとアロワナに食べられちゃうから、この水槽には無理なんだけどね」

 榛原は図鑑まで持ち出してつぶさに説明してくれた。

 そんな緩やかな時間を、アロワナが大きな鱗をライトに反射させながら優雅に泳いでいた。



 志穂さんも榛原に負けず劣らずの熱帯魚マニアだった。榛原が黄色い下地に黒のバンドが入った少し変わった形の魚を紹介しようとしたとき、志穂さんが割って入った。さっきまで榛原と二人だけだったのに、気配もなく背後にいたので驚いた。

「それは私に解説させてもらえるかしら。お気に入りなの」

「え~。いいですけど」

 榛原はしぶしぶ了承したようだった。彼女もこの魚が好きらしい。

「アーチャーフィッシュ。テッポウウオって言った方が分かりが早いかしら」

「ああ、知ってます。虫落とすやつですよね」

 知ってはいたが本物を見るのは初めてだった。縦長な二等辺三角形を倒したようなフォルムでゆったりと泳いでいる。

「そうそう。背後からそうっと近づいて行って獲物をとらえる。まるでスパイみたいでしょう?」

「でも、これって訓練しないと水鉄砲撃つようにならないんですよね」

 榛原の問いに志穂さんは、

「そうなのよ~。最初は赤虫とかイトメとかの生餌を水槽の壁に貼り付けたりして、苦労したのよ。さすが凛ちゃん、分かってるわ」

 と、よく分からない感動をした。

「まあ、飼育下では必要ないですからね」

「今の私たちも社会が求めるからこそ存在できるのかもしれないわね」

 志穂さんのテッポウウオを見つめる憂いのまなざしはガラスを反射して現代日本を眺めているかのように見えた。戦争がなくなれば兵士が生きられないように、日本解放軍がなくなれば公安庁も必要なくなる。敵対する組織によって俺たちは生かされている。

 志穂さんの言葉に二人とも言葉を失っていた。その時、耳慣れた声が遠くから聞こえた。

「志穂さん!緊急連絡です!」



 息せき切って入ってきた徹が、話したのは驚愕の事実だった。問題は先日俺が鹵獲したマシンガンだった。それが米軍で正式採用されている武器だったというのだ。

「もしそうなら、俺たちが戦っている組織のバックにアメリカがついてるってことか」

「うん。僕も信じられないよ。日本はアメリカと安全保障条約を結んでる。これはそれに反する行為だ」

 熱くなっている俺たちに対し、志穂さんはやはり冷静だった。

「二人とも、少し落ち着きなさい。偶然かもしれないし、解放軍の罠かもしれないわ。徹、このことはまだ私たち以外には知らせてはいませんね」

「もちろんです。機密情報ですから」

「いい?みんな。この件はここだけの話にしましょう。混乱を招くわけにはいきませんからね。おそらく、京都会議で公式に発表することになるでしょう。それまでは内密に。凛ちゃんも、いいわね」

「はい」

 榛原も信じられないという顔をしていた。

「じゃあ、今日はこれで解散。我久、会議頑張りなさい」

 志穂さんの言葉に押し出されるように、俺たちは部屋を出た。



「では、ただいまより第二十三回日本治安共同会議を開きます。まず公安庁長官、南別院みなみべついん真造しんぞうよりご挨拶をいただきます」

 上座に三人が座っているうちの真ん中の一人がぬっと立ち上がった。

「公安庁長官の南別院です。我々公安庁は、日本解放軍への対応を指揮しております。しかしながら、我々のみでは対処しきれない問題も多々あることもまた事実です。警察庁、警視庁、ならびに各都道府県警察と密な連携を取り、日本国全体の治安に寄与したいと考えております。本会議では、日本国の治安に対し具体的な指針を決定するものであります。お互いの立場は違うかもしれませんが、日本国を安全、安心な国にするという目的は変わりありません。皆さま、忌憚のない意見をお願いいたします。以上、挨拶とかえさせていただきます」

 公安庁長官の挨拶が済むと、次に警察庁長官、その次に警視総監へと続いた。挨拶が済むと現状報告へと議題が移った。

 警察庁と公安庁の決定的な違いは、捜査対象の違いにある。警察庁および警察の捜査対象は日本全国の犯罪者や犯罪組織だが、公安庁の捜査対象は日本解放軍に限定されている。つまり警察庁の内部にも公安課や警備企画課といった諜報活動を行う部署はあるが、日本解放軍には関与しないのが原則である。原則があるということは例外もあるわけで、警察庁は秘密裏に日本解放軍の情報を集めているのが現実だ。

 プログラムに目を落とす。今、簡単な現況報告が終わり、進行役の女性職員が淡々と次の議題を読み上げた。


 日本解放軍の対応について


 日本国内でも様々な治安問題がある中、一番最初に上ってきているということはそれだけ喫緊の事案ということだ。

 指名を受け、立ち上がったのは、紺のスーツに青いネクタイ、前髪を七三にきっちり分けた三十前後の男性エージェントだった。

「名古屋支局、調査部、白翼、北条ほうじょうはじめです。名古屋は現在、日本解放軍に最も近い場所で作戦を展開しています。十年前の秋田での軍事蜂起以降、五年前の警視庁立てこもり事件などを経て、解放軍は着実にわが国を脅かしてきました」



 日本解放軍という名が初めて世間に知れ渡ったのは、十年前の秋田県庁占拠事件だった。すぐに警察により鎮圧され、事態は収束すると思われた。しかしそのわずか半年後に仙台の主要な警察署を同時に襲撃した。事態を重く見た日本政府は、警察庁内に特別捜査班を設置した。しかし成果は芳しくなく、ついに警視庁を襲撃するという事件まで起きてしまった。

 そこで設立されたのが、公安庁だ。北条白翼や沙由さんをはじめとした有能な人材が集まり、なんとか現在の膠着状態にまで持ち込んだ。言い換えればこれは、政府の警察庁への不信の表れでもある。そういった経緯から、公安庁と警察庁は不仲になってしまった。

「やはり、油断があったと言わざるを得ません。いまや日本解放軍は小田原に不法に基地を作り、次の標的である公安庁名古屋支局を襲撃するという計画さえ持ち上がっています」

「一気呵成に基地に立ち入り、逮捕すればいいでしょう」

 声を上げたのは研究課の白石さんだ。

「もちろん、我々もそうしたい。しかしそれは現実的ではありません。こちらをご覧ください」

 スクリーンに映し出されたのは、ヘルメットに野戦服、手にはマシンガンを持った兵士の画像だった。

「このように武装した兵士たちが基地の周りを二十四時間監視しています。近づくものは警察だろうが、一般人だろうが、容赦なく射殺されます。近づくことは難しいでしょう」

「なぜ、これほどまでに奴らは力を持っているのですか?武器や人を集めるのは相当金がかかるはずでしょう。奴らの資金源はどこなんです?」

 どこからか上がった問いに北条白翼は押し黙った。そして小さく答えた。

「わかりません」

 警察側から情報を守るためではない。本当に分からないのだ。小田原の基地建設にも億単位の金が動いているはずだ。その金の流れが全くつかめていない。金融庁にも協力を要請し、捜査しているが成果は芳しくない。

「ただ、鍵はこの男が握っていると思われます」

 次にスクリーンに映し出された顔写真に皆、息をのんだ。

「松田信秀。世界中でテロや紛争に関わっています。日本解放軍の最高幹部の一人でもあります。松田の情報がもっと入手できれば資金源および武器の流通元等、判明してくるだろうと考えております」

 そこまで言って北条白翼は静かに席に腰を下ろした。

「何かご意見のある方、いらっしゃいますか?」

 その言葉におもむろに立ち上がったのは宗雪の父、東別院ひがしべついん晴政はるまさだった。

「京都本局、情報部、部長、東別院です。現在の公安庁の第一要件は小田原基地の制圧であります。しかし、制圧とは言っておきながら公安庁エージェントの殺傷武器の使用は認められておりません。この点に関して、実際に現場に出ている方にどう思うかをお聞きしたい。ええと、水橋白翼、いかがかな?」

 子も子なら親も親だ。東別院部長は、嫌味な言い方で沙由さんを指名した。

「京都本局、調査部、白翼、水橋です。私たちは、敵地に直接潜入し、情報を集めています。現場では原則、非殺傷武器のみの使用のみ認められています。私は、現在の状況に異論を唱えるつもりはありません。敵とはいえ人が人を殺すというのは認められません。とくに国家が国民を殺害するというのは道理に合いません。以上です」

「原則、と言いましたかな?」

「ええ。自己及び同僚、民間人の命が危機にさらされたときのみ、拳銃などの殺傷武器の使用が認められています」

「しかし、その判断は現場のエージェントの裁量に任せられている。わりあい、その原則が破られることが多いと聞き及んでいますが」

 東別院部長の言うことは間違っていない。日本解放軍に仲間や家族を殺されたエージェントは数知れない。底に憎しみが流れている限り、常に冷静にいることは難しい。時に感情的になり、敵兵を殺害してしまうこともある。エージェントたちはそれに戦々恐々としながら、任務に就いている。俺も例外ではない。

 沙由さんは黙っていた。非殺傷の名の下で、実際には殺害を行っている。これは公安庁設立以来の難題だ。

「すみません。このことに関し、今は答えを出せません」

 沙由さんは席についた。座る間際、俺だけに聞こえるようなか細い声で「あんたは現場を知らないからそんなことを言えるんだ」と悪態をついた。情報部と調査部の懸隔、これも解決せねばならない問題だ。

「今の制度ではやはり手ぬるい。法を改正して、敵兵と確定したならば殺害を認めるべきでは?」

 議場がざわついた。

 隣の椅子が倒れるほど勢いよく動いた。俺が支えなければ壁まで吹き飛んでいきそうな勢いだった。

「それは許されるはずがないでしょう!人が人を殺すのはそんな簡単なことじゃありません。私がアメリカにいたとき、何人もの退役軍人を見てきました。あのアメリカでさえ、心的外傷後ストレス障害に苦しむ軍人たちに対するケアには手を焼いています。日本人が日本人を殺害するとなればそのストレスは計り知れません」

 沙由さんは以前アメリカにいた。あまり話したがらないが、CIAにも勤務したそうだ。

「では、人的戦力を用いなければいい。白石君」

 東別院部長は白石さんに後を任せ、自分は席についた。

「京都本局、情報部、研究課、白石です。私たち、情報部、特に研究課では日夜、非人的戦力について研究をしております。こちらをご覧ください」

 スクリーンに映し出されたのは装甲が施されたロボットだった。キャタピラを履いている。大きさは六十センチほど。銃口のようなものも確認できる。

「これはロボット潜入機です。ものと人を判別し的確に攻撃をすることができます。これを百単位で現地へ投入すれば、我々の勝利は間違いありません」

 ロボットを使うとはいえ、敵を殺害することには変わりはない。

「しかしそれでは……!」

 反論しかけた沙由さんを東別院部長が制した。

「水橋白翼、ここは若い子の意見も聞こうじゃないか。こういうリベラルな問題には若者の意見が重要だと思う。どうかね?柳君」

 上手いと思った。沙由さんはもう十分話している。ここで俺に意見を求めるのは不自然ではない。俺は、昨日志穂さんに言われたことを胸に、意を決して立ち上がった。

「京都本局、調査部、赤翼、柳です。私はロボットの使用には賛成ですが、それを用いて敵を殲滅するのには反対です」

 議場は次の言葉を待っていた。俺は一息ついてから、言った。

「なぜなら……なぜなら、日本解放軍の人々も我々の守るべき国民だからです。公安庁が設立されたとき、東別院部長もご存じでしょうが、掲げられた標語は『すべては国民の安全のために』でした」

 公安庁設立の中心人物であった東別院部長にとって、この言葉が痛くないはずがなかった。相手の武器で相手を殴る、これほど有効な手はない。

「日本解放軍もその例外ではありません。殺害を認める法律に改正するとなれば、反対派も増え我々に仇なす敵も増えるはず。ここは慎重に議論をすべきかと存じます。我々の守るべきものを改めて考え直す必要があるのではないでしょうか。……失礼ながら、どうお思いかお聞かせください」

 東別院部長が立つ間際、俺は一人の男性を指名した。話している間中ずっと誰を指名するか迷っていたが、この人で間違いないはずだ。

波場はば時真ときざね白翼」

 自分が発言できると思い込んでいたのだろう。東別院部長はむっとした表情を俺に向けたが、進行役が波場さんの発言を促したので、おとなしく上げかけた腰を戻した。

 ずっと瞑目していた波場さんが、静かに立ち上がった。エージェントの平均引退年齢が三十五といわれているなか、四十五という高齢でいまだに現場に立っている。

「金沢支局、調査部、白翼、波場です。私は長期な目を持つべきかと。公安庁の歴史を振り返ってみると失敗も多くあった。私にはそれがいずれも時を急いたものにみえます。悲劇は繰り返されてはならない。現行のスパイたちの活動を全否定して、ロボットにすべてを託すのは拙速ではないかと思われますが……どうですかな」

 東別院部長はこめかみをおさえ、目をつむっていた。

「この議題に関し意見のある方……いないようですね。では、ロボットの使用は慎重に協議したうえで人的戦力との融合を目指す方針とします」

 俺はほっと胸をなでおろした。なんとかうまくいったようだ。

 会議はその後、淡々と進んだ。気になっていたアメリカの件も、現在外務省に問い合わせているとのことで、徹から聞いたこと以上のことは話されなかった。



「よくやった。おじいを指名した時はハラハラしたが、うまくいったな」

 沙由さんの誉め言葉にいつものコーヒーも一段とおいしく感じた。ちなみに「おじい」とは波場さんのことで、付き合いの古い間柄では、敬意をこめてそう呼ばれている。

 会場のホテルのロビーは、半年に一回しか会うことできない多忙な白翼や首脳部の談話の場となっていた。

「君が柳君か。いやあ、良い部下を持ったな、沙由」

 声をかけてくれたのは、北条白翼だ。沙由さんとは同年代で仲も良いらしい。気さくな性格で部下からの信頼も厚い。

「思ったことを夢中で言っただけです」

 謙遜すると北条白翼は手を振って、

「いやいや、ほんとに良かった」

 と、嬉しい否定をしてくれた。

「東別院部長のあんな顔も見れたからな。む、噂をすれば、か。これで失礼する。また会おう」

 北条白翼は東別院部長が近づいてくるのを悟り、そそくさと立ち去った。

 その東別院部長は通りすがりに、

「良い部下を持ってうらやましいですな」

 と言った。北条白翼と違って、これは皮肉だ。

「ええ。腕だけでなく弁も立つようです」

 沙由さんも負けてはいない。東別院部長は、ふんと鼻を鳴らしどこかへ消えていった。

「どうだった?初めての京都会議は」

「前の小田原の時くらい疲れました」

 ふふっと笑った沙由さんを見たとき、なぜか榛原のことを思い出した。そして無性に会いたくなった。

「じゃあ焼肉でも食べに行くか。夕月と徹にも電話して四人で食べ放題だ」

「はい!」

 夕食の焼肉は絶品だった。

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