第一章  潜入

 基地は完成間近だった。研究施設を再利用した小田原基地は現在建設中であり、公安庁は何とか完成までにこの基地を破壊してしまいたいと考えていた。それも極秘で、だ。もし完成を許せば箱根山と相模湾を利用した天然の要害を生み出してしまう。

 俺の前には、ショートカットの女性がしゃがんであたりの様子を窺っている。水橋沙由白翼、三十三歳。公安庁エージェントの最高位、「白翼」を冠する女性スパイだ。そうであるとともに、俺の師匠でもあり、今作戦の俺のバディでもある。

「我久、今回の任務は潜入任務だ。決して、敵に見つかるな」

「夕月たちは今、どのあたりまで進んでるんでしょう」

 沙由さんが、くるりとこちらを向いた。

 任務に支障が出ないよう短く切りそろえられた黒髪、緊迫感を痛いほど伝えてくる少し吊り上がった目元と三白眼、すっと通った鼻筋と、小さな口。これが沙由さんであった。真っ黒なスニーキングスーツに身を包んだその肉体は鍛え抜かれ、俺は沙由さんに格闘術ではもちろん、腕相撲ですら一度も勝てたことはない。

「夕月と徹が先に潜入しているが、まだ連絡はない。あいつらも思うようには進んでいないんだろう。長期作戦の序盤だからな。まずは情報を集めることが先決だ。敵の兵士を尋問したいが、こんなところを守っている下っ端に訊いても大した情報を持っているかどうか……」

 俺と沙由さんは、今小田原基地の通称A3という区画にいる。俺たちは倉庫に身を潜め、動きだす機会をうかがっていた。周りを見ると、木材や鉄骨が無造作に置かれている。

「分かっているのは、二階のB5まで。そこから先の基地の構造を調べる。それが第一要件でしたよね?」

「ああ。一階はA1からA12まであることが分かっているから、二階も三階も同じような構造だろう。ただ気になるのは……」

「地下」

 後を引き取った俺の発言に、沙由さんの顔が曇った。

「ああ。聞くところによると、兵器の製造を行ってるとか。どこまで本当なのかはわからんけどな」

「新たな区域、D区域があるとすれば、この作戦もさらに長期化するかもしれませんね」

「そうならないことを願おう。しかし、夕月たちは何をもたもたしてる。裏口から入っていれば、すでにA11に到達しているはずなんだが……」

 建設途中の基地は建前で、地下に巨大な空間があるという噂を俺も聞いたことがある。そこで解放軍は新兵器を自前で製造しているという話もある。どこまで本当かは分からないが、もし本当ならば日本を危機にさらすことになる。

 

 

 水橋隊は、隊長、水橋沙由を中心に動くフォーマンセルの部隊だ。副隊長は白翼御院夕月赤翼。隊員は宍戸徹赤翼、そして同じく赤翼の俺、柳我久で構成されている。

 今作戦で、沙由さんはチームを二つに分けた。俺と沙由さんの実動組と、夕月と徹の援護組だ。敵の基地のたった四人のエージェントで乗り込む。もし見つかれば……。考えるだけでぞっとする。殺されるだけならまだ良いほうで、捕虜にされれば、公安庁はそれ相応の代償を支払わなくてはならない。それは金かもしれないし、人かもしれないし、土地かもしれない。つまり絶対に見つかってはならないのだ。



「何やってんだ。夕月たちは」

 焦る俺に対して沙由さんは、涼しい顔でレーション、固形の携行糧食を口に運んでいた。

「よく食べれますね。今食べたら、俺たぶん吐きますよ」

「そのでかい体で情けないな。食べれるときに食べておく。忍者の時代から伝わる言葉だ。先は長い。地道に行こう。ほら、お前も一つ食え」

 沙由さんはそう言うなり、俺にレーションを投げてよこした。沙由さんの口元が少し緩んでいる。

 全く、この人にはかなわないな。

 師から渡されたものを、食べないという法はない。小麦粉を固めたレーションはそのままでは食べづらい。余裕のある時なら缶詰のスープなどとともにいただくのだが、ここではそうもいかない。仕方なくポーチから水を取り出した。

「おい、我久。まさか水でそれを流し込もうって了見じゃないだろうな」

 低い声が静かに俺の耳を打った。怒っている。何が彼女の気に障ったのだろうか。とっさに先ほどの行動を思い出し、胸の中で精査してみたが分からなかった。

「水分は生命線だぞ。それをパカパカ飲むやつがあるか」

 水、それはエージェントにとって命の水。食料と水、どちらが大事か、言うまでもない。

「唾液、出します」

 なんだかよくわからない謝罪をして一気にレーションをほおばった。

「ふっ、ふふふ。お前はほんとに、はは、慌てると変なことを言うなぁ」

 俺の「反省」の言葉が面白かったらしい。沙由さんにつられて、俺も笑ってしまった。笑いの息でレーションの粉が口から少々こぼれた。



 食べ終わっても、夕月たちからの無線はない。俺たちは二三、言葉を交わした後は、まんじりともせず時を過ごした。冷静さを取り戻した俺は、ゆっくりいこうと腹を決め、連絡を待っていた。「スナイパーは待つのが、九十九パーセント、撃つのは一パーセント、しかしその一パーセントに自らのすべてを注ぐ」という沙由さんのかつての言葉を思い出したりした。沙由さんはあのとき、「これ、受け売りなんだけどな」と、恥ずかしそうに笑ったが、誰の受け売りだかは忘れてしまった。



 ふいに近づいてくる足音が耳に入った。足音が近づいてくるにつれ、心臓の動きが速くなる。沙由さんを見ると、小さく頷き手を二回下げた。「姿勢を低く」の意だ。俺は身をかがめ資材のかげに体を移した。スニーキングブーツの厚く柔らかい作りが、足音を最小限に抑えてくれる。沙由さんは俺と反対側の資材に隠れた。倉庫の入り口からは離れているため、動かなければまず見つかることはないだろう。

 足音と話し声から敵は二人。時々笑い声が聞こえてくることから、警戒態勢でないことが読み取れる。だんだんと声が大きくなってきた。近づいてきている。無力化することに自信はあるが、できれば接触は避けたい。「ここに入ってこないでくれ」という願いもむなしく、彼らは俺たちのいる倉庫に入るなり煙草に火をつけた。幸いだったのは、彼らが入り口に近いところで話し始めたことだった。

「まったく、今月の報酬はいつになったら支払われるんだ。先月も十日ばかり遅れての入金だった」

「俺も同じだ。こんな待遇なら公安庁にでも入ってやろうか。なあ?」

「馬鹿言うな。戦闘集団とはいえ国家公務員。俺たちみたいな学の無い人間が入れるわけないだろ」

「冗談だって。真に受けるなよ」

 声色からみるにまだ若い二人組のようだ。暗いので顔は視認できないが、通路の照明が映し出したシルエットの背にはアサルトライフルと思しき影がある。彼らはこちらに全く気付いていないらしく、時々笑いを交えながら話している。

「ガキの頃から武器の扱い方と煙草の吸い方ぐらいしか習ってこなかったからな。これしか生きる術が無ぇ。もしこの紛争が終わったら、どうすりゃいいんだ」

「そん時は日本を出るまでよ。世界にはまだたくさん戦争があんだ。死ぬまでやってやるぜ」

「銃弾で死ななきゃいいが……」

 傭兵だ。金のために自前の戦闘能力を差し出す。そこには大義も正義もない。ただ生きるためだけに戦場の血に染まった泥をすする。どんな命令でも粛々とこなしてゆく人的兵器。

 日本解放軍にも正義は確かにある。いびつに成長し腐敗した日本を武力によって解放し、新たな国家をつくる。その正義は末端へ行けば行くほど希薄になってゆく。敵ではあるが彼らもまたこの紛争の被害者なのだ。

「ところで聞いたか?熱海に建設予定だった基地へのパイプラインの破壊工作。どうやらまた水橋とかいう女スパイの仕業だったらしい」

 二年前の沙由さんの単独潜入任務のことだろう。帰還報告によれば完璧な任務遂行だった。

「噂じゃ男みたいに剛腕なやつだって聞いたぞ。あと傷だらけらしい。女好きの俺でもさすがに抱けないな」

「はは、たしかに」

 沙由さんのことを悪く言われたから腹を立てたが、すぐに落ち着かせた。怒りや焦りは潜入任務の最も大きな敵だ。感情で行動することは即刻死につながる。

 早く出て行ってほしいと願っているその時だった。前かがみになった俺の腰ポケットから、麻酔銃が滑り落ちたのは。

「ん?なんだ?」

「誰かいるのか!」

 まずい。緊張が一気に倉庫内に充満してゆく。どこかでホルスターの固定が緩んだらしい。後悔が這い出して来るが、それを抑え敵の出方をうかがう。

「奥から聞こえた。一緒に行こう」

「ああ」

 ひたりひたりと近づいてくる敵は二手に分かれ、一方は俺の方へもう一方は沙由さんのほう歩を進める。動けない俺に対し沙由さんの行動は早かった。木材の隙間からゴム弾が装填されたアサルトライフルを連射したのだ。サプレッサーで発砲音を抑えられているから、敵は撃たれても、何が起こったのかとっさに判断できない。

 頭に十発ほどゴム弾を食らった敵は気を失い、床にどたりと倒れた。正確無比な射撃だった。異変に気づいたもう一人は不安げにあたりを見回している。俺は一瞬の隙を見逃さなかった。背後から相手に近づき、胸ぐらをつかんで壁にたたきつける。相手は体をかたいコンクリートにしたたかにぶつけ昏倒した。

「すみません」

 無力化できたからいいものの、作戦中止にさえつながる危険な失敗だった。沙由さんは近くにあったロープで、慣れた手つきで二人を縛りながら、

「気をつけろ。でも引きずるなよ。それから夕月に無線を入れろ」

 と、いつもの調子で俺に指示を出した。一歩間違えば自分の命だけでなく大切な人の命まで危険にさらす。そのことを改めて実感した。ホルスターをもう一度確認し、無線機を取り出した。

 三回ほどコールすると聞きなれた声が聞こえてきた。いつ何時も冷静さを失わず、たえず確率の高い道を選ぶ男、御院夕月だ。

「こちらベータチーム。今、A11に到着。敵兵二名の対処のため一時間ほど遅れた。私も徹も怪我はない。オーバー」

「こちらアルファチーム。ただいまA3。敵との交戦があったが、作戦に支障はない。オーバー」

 沙由さんが持っていた無線機を横から取った。

「夕月、徹、無事だな。これより本作戦のかなめの部分に移行する。陽動しっかり頼むぞ。オーバー」

「ええ、もちろんです。沙由さん。私たちは合図があるまで待機します。オーバー」

「よし。夜も深まってきたし、一階は見張りも少ないはずだ。だが油断するな。視覚、聴覚、嗅覚、あらゆる神経を研ぎ澄ませ。アウト」

 徹が後ろから「僕も……」と聞こえた気がするが、そこで無線が切られてしまったので、徹の声は聞けなかった。

「さて……まずはこいつらから聞き出すか」

 沙由さんは縛り上げられた哀れな二人組を見下ろした。



 時刻は午前二時。屋外の虫の大合唱が聞こえてくる。十数年に一度といわれた猛暑も和らいできた。夏の訓練、そして任務は過酷だったが、俺にさらなる強さを与えてくれた。

「仲間はどこだ」

 拳銃を突きつけ沙由さんが尋問している。

「な、仲間は売らんぞ」

「そうか。なら仕方ないな。こいつには死んでもらおう」

 銃口をいまだ気を失っているほうを向けた。

「待ってくれ!そいつは」

 間髪入れず沙由さんの痛烈な蹴りが入った。敵の髪をつかみ頭を上げさせた。

「わめくな。さっきも言っただろう。大声出されると困るんだよ」

 普段の沙由さんからは想像もできないほどのどすの利いた声だった。正直に言ってバディの俺ですら身震いを起こしてしまう。

 沙由さんの声と目がよほど恐ろしかったのだろう。武器もすべてはぎ取られ兵士としての能力を失った彼はついに観念して話し始めた。

「分かった。もうやめてくれ。それから命だけは助けてくれ」

「ああ。情報を吐けばお前の命は助けてやる」

「違う。俺はいい。そいつの命だけでいい。そいつは、俺と違って嫁さんがいる。家族支えるために傭兵やってんだ。ほんとは虫も殺せねえ心優しいやつさ。だから、頼む」

 沙由さんはその男の話を聞いて、ほんの少し眉が動いたがすぐに硬い表情に戻した。

「分かった。それで、仲間はどこだ。一階に何人いる?」

「たしか今夜の配置は六人だ。嘘じゃねえよ。みんなツーマンセルで動いてる」

 夕月はたしか敵との交戦があったって言っていた。つまりあと二人ほどA区画にいるのか。俺はあたりを警戒しながら、頭の中で地図を描いてゆく。一人が尋問している間、もう一方は敵が来ないかを探る。潜入任務の基本的なフォーメーションだ。

「そんなに少ないのか」

「一階はそんな重要じゃねえからだろ。俺たち傭兵はあんま信用されてねえから、二階から上は行ったことねえんだ。なあもう十分だろ」

「まだだ。二階は?」

「知らねえ」

 沙由さんがまた蹴りの構えを見せた。兵士は慌てて口を開いた。

「ほんとだって。俺はもともと頭弱えし、そんなにやる気もねえから、自分と関係ねえとこまで覚えてられっか。まさか敵来るとは思わねえしよ」

 人員についてはこれ以上は聞き出せないと悟ったのだろう。沙由さんは次に進んだ。

「吐け」

 何をかは言わない。情報を引き出すテクニックの一つだ。

「えっと……シャッターのことか?」

「そうだ」

 沙由さんも俺も初耳だが黙っておく。

「階段のあの、なんだ、あるだろ。折り返し地点みたいなやつ」

「踊り場」

 さすがの沙由さんもいら立ちを募らせていた。時間は大幅に予定よりも進んでいる。警備の薄い夜間のあいだに離脱しなければ危険は増す。

「そう。それだよ。そこにあるシャッターが非常事態になると閉じるんだ。三層ぐらいになってて、並の爆薬じゃ破れねえ」

「そんなことは知ってる。どこで管理してる?問題はそこだ」

「言わねえ」

 なかなか骨のあるやつだ。

「いいのか。こいつが死ぬぞ」

 同志の命か情報か。兵士は一瞬、逡巡したが、答えはすぐに返ってきた。

「詳しくは知らねえが、三階の中央制御室かもしれん。そこに入るにはIDカードが必要だ。言っとくが、俺は持ってねえぞ。欲しいんだったら、もっと上のやつに頼むんだな」

「分かった」

「ん……?アンタよく見るとべっぴんさんだな。ここまで話したんだから名前くらい教えてくれよ」

 長く話していて気が緩んだのか、あろうことか兵士は沙由さんを口説き始めた。

「調子に、乗るな」

 沙由さんは男の首を締め上げ気絶させた。

「馬鹿な男ですね。沙由さんを落とそうなんて百年早いですよ」

「ああ。逆に落としてやったよ」



「こちらベータ。ブレーカーを発見。これより基地内の電力を落とす。オーバー」

「了解。いつでも行ける。アウト」

 無線を切ってまもなくあたりは暗くなった。

「こちら本部。各員に告ぐ。一階の照明が落ちた。何らかの異常があったと思われる。近くの隊員は確認を急げ」

 スピーカーからの指示で階段を下ってくる足音が聞こえてくる。降りてきた影がブレーカーのある方、つまり夕月たちの方へ離れてゆくのを見届けて俺たちは部屋を出た。

 気をつけろよ、夕月、徹。

 熱を感知する特殊なゴーグル、サーマルゴーグルを装着し暗闇を進む。すでに頭の中で地図を描ききっていた。上階へと続く階段は中央に一つ。進路も一つなら退路も一つ。さっきあの男が言っていたシャッターが作動すれば逃げ道はなくなると考えていいだろう。

「待て」

 沙由さんが首を上へ向けた。俺もそれに続く。

 監視カメラだ。緑色の作動ランプが周期的に左右へ動いている。先ほどのアナウンスとこの状況を見るにカメラは上階のブレーカーに接続しているようだ。階ごとにブレーカーを配置することで突然のアクシデントに備えている。一種のリスクヘッジだ。俺たちは壁に張り付き、監視カメラの死角に入り何とかやり過ごした。



 階段をあがってゆくと案の定、照明が煌々と灯っていた。停電で敵は警戒状態にある。こちらもより慎重に行かねばならない。と同時に迅速に事を運ばねばならない。停電が回復するのも時間の問題だからだ。

 確認要員で二階が手薄になっている。階段近くの一室に身を隠した。ここも使われていない部屋らしかった。建設途中の基地だ。この部屋もいずれは軍事的目的に利用されるのかもしれない。それを阻止するのが公安庁の使命だ。

「実験室か」

 沙由さんがあたりを見てつぶやいた。

「元は、バイオ関連の研究施設だったそうです」

 ほこりをかぶった試験管やビーカー、撹拌機などが実験台の上に放置されている。

 あまり情報は得られなそうだな、と思いながらもライトを取り出しあたりを照らした。

 照らし出された光景に、思わず声を上げそうになった。そこには壁一面に張られた写真。すべて沙由さんのものだ。中には刃物が刺さっているものまである。

「俺はこいつらから売るほど恨みを買ってきたからな。殺したいほど憎んでいるんだろう」

 普通の女性がこんな光景を目の当たりにすれば、恐怖ですくんでしまうのだろう。しかし俺の隣にいるのは、この道十年の敏腕スパイだ。沙由さんは不敵にふっと笑っただけだった。

「もし何かあったら俺が沙由さんを守りますよ」

 沙由さんの部下になって、はや三年。命がかかっている仕事だけに、いつしかこの人のためなら死ねると考えるようになった。こんなことを言ったら二、三発張り倒されるかもしれないが。

「それはいい。いざとなれば、俺を殺してくれ。お前の眼に俺がどう映じているかは知らんが、拷問されるのは苦手でな。そうなる前に殺してくれ」

「そんなこと言わないでください。……沙由さんを殺すだなんて」

「いずれその時が来るかもしれん。だから今のうちから覚悟をしておくんだ。いつでも最悪の状況を考えそのうえで最善を尽くせ」

「それ、前にも聞きましたよ」

 俺は大学卒業後、すぐに公安庁調査部、通称ヒューミントに入庁した。そして沙由さんの部下になった。その時に同じことを言われた記憶がある。

「覚えているか、試しただけだ」

 沙由さんはそう言って俺から顔をそむけた。

 嘘だと思ったが、口には出さなかった。



 敵の目をうまくかいくぐり、俺たちは三階へ上がった。近くの部屋に入った時、またも場内アナウンスが流れた。

「こちら本部。各員に告ぐ。先ほどの停電だが一階部分のブレーカーが落ちたものだという報告を受けた。しかしこれまでになかったことだ。電気設備を増やしたということもない。何者かの工作である可能性が高い。各員、警戒態勢を維持し侵入者を見つけ次第、捕縛せよ。抵抗する場合は排除も許可する。以上」

 排除、つまり殺害してもよいということだ。

 階段を上がってくる敵兵の足音が聞こえてくる。前とは違い、駆け上がるような足音だ。

「まずいな。出るに出られんぞ。仕方ない。我久、おびき寄せろ。男のお前の方が信じやすい」

「了解」

 俺はのどの調子をととのえ、

「おおい!誰か来てくれ」

 と少し上ずった声で敵を誘った。

「どうした。大丈夫か」

 成功したようだ。声に気付いた一人が駆け寄ってくる。

 閉めたドアの両端に俺と沙由さんは陣取り敵を待つ。心臓の鼓動が自然と早くなる。無力化に失敗すればアサルトライフルの餌食になるだろう。

 ガチャリとドアを開け、勢いよく入ってきた敵を沙由さんは羽交い絞めにし、武器を捨てさせた。そして太もものホルスターからナイフを取り出し、相手ののどもとに据えた。

「我久、周りを見ておけ」

「了解」

 俺は銃を構え、ドアの向こうを見た。通路に三人の兵士が背を向け歩いている。俺は十分に狙いをつけ、麻酔拳銃を発砲した。これにもサプレッサーが取り付けられている。首筋に命中したのだろう、しきりに首をさすっている。虫に刺されたくらいの痛みだから、そうなるのも無理はない。不審がる三人組に再び銃を向け首筋と足に計六発の麻酔弾を打ち込んだ。そして静かにドアを閉めた。三分もすれば眠りにつくだろう。沙由さんにはかなわないが、射撃では徹にも夕月にも負けない自信がある。

「沙由さん、何か分かりました?」

 縛られ、睡眠注射が施された敵が、尋問が終わったことを示していた。

「松田が来る」

 沙由さんの声は暗かった。その名を聞いた途端、身体に恐怖が走った。

 松田信秀。日本解放軍、最高幹部の一人だ。残虐な性格で、自らを拷問のプロと称する極悪人。公安庁や日本警察、アメリカのFBIやCIA、そしてイスラエルのモサドまでが追っている国際殺人犯である。



 一年前、「公安庁の諸君にプレゼントだ。松田信秀」という言葉ともに公安庁に届いたDVD‐ROMは公安庁を震撼させた。それは見るに忍びない拷問の動画だった。黒い麻袋をかぶらされた男の指はすべて切り落とされ、それを無理やり食べさせられるという内容だった。そして動画の最後には気味の悪い仮面をかぶった長身痩躯の男が現れ、高笑いをしたのだった。

 これは彼の残忍性のほんの一部でしかない。世界中で、犯罪を繰り返しそのたびに現地警察から逃げ延びてきた。様々な紛争に関与し、大金をせしめているといううわさや、単に殺人に享楽を感ずるサイコパスという話もある。しかし、いまだその実態はつかめていない。

「撤退だ。奴が来れば、作戦の成功率はぐっと下がる。それに情報も手に入れた。さっきの奴は相当な情報通だったようだ。やはり地下はある。そこで研究者たちが中心となって兵器の開発をしていると。資金の多くもそこに投じられているらしい」

 解放軍の資金源がどこにあるのか。これも調査しなければならい事項の一つだ。

「撤退しましょう。しかしどこから行きます?戻るのは危険すぎます」

「案ずるな。これを使う」

 沙由さんが取り出したのは、ロープだ。先端には金具が取り付けられている。カギ縄をさらに進化させたものだ。

「分かりました」

 俺は沙由さんからロープを受け取り、柱に括り付けた。二三度引っ張り、強度を確かめてから、窓の外へ垂らす。退路は一つではなかった。

「お前から先に降りろ。俺は夕月に車を回すよう手配する。野外では二人で一緒に動くとリスクが大きい。打ち合わせ通りの合流地点ランデブーポイントで会おう」

「はい」

 事前の作戦会議では、先に基地から離脱した夕月と徹が車で俺たち二人を拾い、京都へ戻るという算段になっている。

 窓の下とその周りを双眼鏡を使って偵察し、敵がいないことを確かめロープをつかんだ。

 

 

 周りを窺いながら、中腰で合流地点へ向け進む。沙由さんは俺とは違うルートで合流地点へ向かっている。小田原基地は森に囲まれている。行きの時は、基地の照明やフラッシュライトを頼りに進むことが出来たが、帰りは真っ暗な森をGPSのみを頼りに動かねばならない。暗闇では敵に見つかる危険は少ないが、それは俺にとっても同じだ。気づいたら敵の目の前という事態にもなりかねない。そうならないためには、聴覚や嗅覚も鋭くし警戒する必要がある。

 十分ほど歩くと見回りの兵士を見つけた。俺に背を向け、煙草をふかしている。忍び寄り、麻酔銃を背に突きつけた。

「動くな」

 敵はぶるりと震え、くわえていた煙草を落とした。

「武器を捨てろ」

「殺さないでくれ」

 おびえた兵士は従順にマシンガンを地面に置いた。

「腹ばいになれ」

 目立たぬよう敵を伏せさせた。

「この先に見張りはいるか?」

「森にはいない。さっきの停電でそいつらは基地内へ入った。もうしばらくすれば、戻ってくるかもしれん」

 俺はマシンガンを鹵獲し、麻酔弾を打ち込んだ。兵士は実弾で撃たれたと思ったのか、麻酔が効き始める前に死の恐怖で気絶してしまった。俺はさらに歩を進めた。

 

 

 森へ入ってさえしまえば、危険は少ないことが分かった。夜明けまであと三時間。これならば暗いうちに作戦展開地域ホットゾーンからの離脱は難しくない。振り返ってみると、潜入していた建物が遠くに見えた。スニーキングブーツが踏む地面もコンクリートから土へと変わっていた。真っ暗で先はよく分からないが、潜入専用端末、S・シーカーによれば、五百メートルも行けば基地から抜け出せる。ちなみに「S」はシギント、つまり傍受の頭文字である。

 よし、最後まで慎重に。沙由さんがいつも言ってることを忘れるな。

 そう心に言い聞かせ、一歩踏み出した時だった。

「動くな」

 低い声が響いた。しわがれた声が恐怖を携えて俺の耳を打った。

「撃たないでくれ」

 すぐに状況を悟り、俺は武器を落とし両手を挙げた。先ほどの真逆のことが起こっていた。「排除も許可する」というアナウンスが脳内で再生され続ける。心臓を冷えた手でそっとつかまれるような感覚に襲われた。

「こっちを見ろ」

 振り返ると、そこには左目に大きな傷の入った老練の兵士が立っていた。手にはサブマシンガン、背中にはスナイパーライフル。野戦服の胸ポケットからは葉巻がはみ出していた。小柄ではあるが、頑丈な体つきにスキンヘッド。鋭い視線は、長らく兵士として戦ってきたことを表していた。

「ずいぶんと若いな。そのスニーキングスーツ。公安庁のスパイか」

 俺の体は恐怖に固まったままだ。

「若造、殺すにはまだ惜しいな。こっちに引き込んでもいいが、松田の馬鹿が来てる。あいつのおもちゃにされるのも嫌だろう」

 俺も公安庁エージェントとしてのプライドがある。沙由さんには「手足をもがれても逃げろ」と常日頃から言われているが、こうなったからには死ぬ覚悟だ。

 反抗的なまなざしを向けていると、

「命の使い道を見誤るな。それは年寄りのやることだ」

 と、諭すように言った。俺はなおも黙っていた。

「そうだな。じゃあ、名前でも聞こうか。名前と命、わしは同等くらいに思っておる。名前は時に都合のいい武器になる。わしに嘘をつこうとしても無駄だぞ。長いこと人を見てきた。スパイも捕虜も指導者も。偽名を使おうなどと思うなよ」

 生き残るために。生き残るためなら、俺の名前くらいくれてやる。

「…柳…我久」

「柳我久、覚えておこう」

 左目が赤いものをとらえた。。悟られぬよう目線を下へ向けると、老兵士のマシンガンの上を赤い点が這っている。レーザーサイトだ。小刻みに動いているところを見ると遠距離用のスパイパーライフルか。しかしどこからだろう。沙由さんは、今日の任務にライフルは持ってきていない。

 細かく動いていた点が一瞬ぴたりと止まった。撃つと思った時にはすでにマシンガンが吹き飛んでいた。その後遠くで銃声が聞こえた。

 ひるんだ相手にすかさず蹴りを入れる。俺の足はみぞおちをとらえ、老兵士をうずくまらせた。俺は森へ向かって走り出した。森の中へ入ってしまえば敵はうかつに銃を使えない。木が弾を跳ね返し、あらぬ方向へ飛ぶからだ。自分の方へ飛んでくれば、自身の弾で怪我をすることにもなりかねない。

 うっそうと茂る木々の間を走りながら考えた。誰が狙撃したのか。銃声は基地の方向から聞こえたような気がする。推定発砲地点から着弾地点まで軽く見積もっても、二百メートル以上はある。それだけの距離でありながら、あの小さなマシンガンを正確に狙撃したのだ。腕利きのスナイパーであることは間違いない。しかしそう考えると、敵が敵を撃ったことになる。

 無我夢中で走っていたら、突如足への抵抗が大きくなった。アスファルトの路面がそこにはあった。エンジン音が近づき、ヘッドライトが俺を照らした。目を細める俺の前で、ワンボックスカーが停車した。

「我久!早く乗って!」

 徹の声にはじかれたように車に乗り込んだ。

 そこにはすでに沙由さんが乗っていた。

「どうした。我久。何があった」

 沙由さんの問いかけに、俺は細大漏らさず語った。黙って俺の話を聞いていた沙由さんは、ただ一言、

「なるほど。腕は衰えていないようだな、しず

 とだけ言った。

 それ以上は何を聞いても要領を得なかった。しまいには「近頃はよく眠れるのか」と変な方向へ話が落ちていったので、それ以上は聞かなかった。徹も夕月もさして興味を示していなかった。

 作戦目的達成、敵味方ともに死傷者ゼロ。理想的な作戦遂行だった。

 こうして、小田原基地破壊工作の前哨戦ともいえる任務は終わった。車は一路西へ走る。京都、深草に拠点を置く公安庁本庁へ。

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