第八章  真実

 勝負飯。それは大事な決戦の前に、決まって食べる食事のことだ。俺の場合、それは蕎麦だ。初めての任務の際、偶然余っていた蕎麦を食べた。結果は散々なものだった。俺のミスで一時退避し、形勢まで整えた。人命がかかるような任務でなかったのが幸いだった。

 勝負前に蕎麦を食べるのは、験担ぎの逆と言えるだろう。あの時の失敗を忘れないため、俺は勝負時には決まって蕎麦を食う。



 行きつけの食堂「のじまや」で蕎麦を食べていると、松田からメールが届いた。

「いよいよだ。ついに終わる」

 簡素な文だった。俺に嫌疑がかからないよう、松田なりの配慮だろう。「終わる」とは復讐が「終わる」という意味か。

 独立後、ニルビアがどうなるか、まさに未知の領域だ。周辺各国の中には、反対する国もあったが、水面下でどうも大国が動いたらしかった。

 「のじまや」はかつ丼を売りにしているが、俺のおすすめは蕎麦だ。使っているだしが美味しく、ざるもかけもいける。

 俺にとっても勝負時だ。携帯をしまい、残りの蕎麦を一気にすすった。



 食堂を出た俺は、その足で病院へ向かった。静さんは、あれ以来目を覚まさない。昏睡状態だ。医者によれば、安定はしているが意識が戻らないうちはどう転ぶか分からないという。覚悟はしておいてくれとも言われた。

 俺は静さんを通して沙由さんを見ていた。地下室でのあの戦闘さえ懐かしく思った。



 ニルビアの独立は、平穏無事に粛々と行われた。日本メディアの立ち入りも許可され、喜ぶ兵士たちがテレビに映っている。俺は無意識にあの老兵士を探していた。彼が無邪気に喜ぶ姿がちょっと想像できなかったからだ。しかしそれが叶うことはなく、中継は終わった。スタジオに戻り、専門家の話が続いた。国際問題の泰斗や軍事アナリスト、果ては経済評論家までが好き好きに意見した。

 気になったのは公安庁だ。お上が敵対組織の独立を認めてしまった以上、これ以上の対立は許されない。独立記念日をもって公安庁はすべて消えることになった。しかしそれは建前で、隠れたところに新たな公安庁が設立されることは明白だ。これまで以上の苛烈な諜報合戦が繰り広げられることは必至だった。



 ついに辞令が出た。行き先は愛知県警察だった。翌日、新たな職場へ行くと、温かく新参者を迎えてくれた。愛知県のために事務を中心とした生活が始まった。

 徹は京都府警察、凛は京都市役所、夕月は大阪の一般企業へ就職したらしい。公安庁は解体されたが、内々では第二の公安庁が発足しているだろう。国民にも明らかにされない秘密警察が日本に誕生していることになる。

 案の定、独立から三日後京都に呼ばれた。差出人は警察庁。京都駅0番線で、週間芸能を読んでいるサラリーマンに声をかけるように、と記されていた。

「週間芸能ね」

 確かめるようにつぶやくとスーツケースに荷物を詰め、床に就いた。公安庁がなくなったとはいえ、沙由さんの名誉が回復したわけではない。必ず公安庁を再び世に引きずりだしてやる。決意を新たに俺は目を閉じた。



 会議室の顔触れは二年前の京都会議とそう変わっていなかった。

「本日はお集まりいただきありがとうございます。公安庁改め、公安監視庁。我々の責務は軍事国家、ニルビアの監視です。申し遅れました。私、この度、長官に着任いたしました、御院夕月です。よろしくお願いいたします」



「偉くなったもんだな。夢が叶ったじゃないか」

「まさかこんな形で実現するとは思わなかった」

 会場となったホテルのロビーで夕月と話した。ロビーには人が多く、色々なところから不安の声が聞こえてくる。しかし誰一人として核兵器の存在を知る者はいない。

「どうなるんだろうな。これから」

 夕月は憂いていた。

「分からん」

 そこに嘘はなかった。松田がアメリカに核を発射すれば、世界が終わるかもしれない。

「私を恨んでるんじゃないのか?」

「恨む?」

 意外な言葉に同じ言葉を反復することしかできなかった。

「沙由さんのことだ」

 御院家での食事で一応の解決を見たつもりだったが、夕月としてはあの時感情的になったことを気に病んでいたらしい。俺は夕月の肩をポンと叩いた。

「気にするな。お前も言ってただろ。自分のなすべきことは何か。俺もお前も自分の信じる道を進めばいいだけだ」

「ありがとう。我久」

 孤高の天才、御院夕月の脆さをここに見たような気がした。



 今日、ここに来たのは会議のためだけではない。ある男と会うためだ。頭一つ抜き出た背の高い男をようやく見つけ、声をかけた。

「お久しぶりです。北条さん」

 驚いたようにこちらを振り向いた北条さんの顔は二年前と変わっていない。黒縁の眼鏡をかけなおし、俺を見た。

「我久。久しぶりだな」

「この後お時間ありますか?会っていただきたい方がいるんですが」

「ああ。もちろん。明日は東京へ行かなければならないから、遅くまでは無理だが」

「それは好都合です。ホテルをお取りしておきます」

 不思議そうな顔をする北条さんを横目に、京都駅へと歩を進めた。その道中、なじみのホテルへ電話をかけ、部屋をとった。



「どこへ行こうというんだ。別に東京へは急がない。明日の始発で京都を発てばよかったのに」

 無理やり東京行きの新幹線に乗せられた北条さんをなだめながら、俺は売店で買った駅弁を手渡した。

「こんなもので丸め込まれるようじゃエージェントは務まらない。む……なかなかうまいな」

 新幹線は東へひた走る。石田三成の居城があった佐和山が見えてきた。彦根城の方が天守もあり目を引くが、戦国末期が好きな俺には佐和山の方が魅力的だ。トンネルを二つ抜けると関ヶ原だ。

「これ、名古屋までじゃないか」

 北条さんは車窓にも目もくれず、切符を取り出ししきりに眺めている。改札を通るとき、俺が北条さんを急かしたので確認できなかったのだ。

「ええ。名古屋で会っていただきたい人がいまして」

「だから一体誰に」

「次で降りますから、早めに食べちゃってください」

「まったく無茶ばかり言う。沙由に似てきたな」

 そう言いつつも北条さんは駅弁の残りをかきこんだ。師に似てきたと言われ、俺はうれしく思った。



 名古屋に着く頃には日暮れ近くになっていた。夜間は面会が制限されるので、急いで地下鉄を乗り継ぎ病院へと向かった。

「ここから先はお一人で」

「分かった」

 何かを察したのか、北条さんは神妙な面持ちで病室へと入っていった。

 それから十分。再会した妻をどんな表情で見たかは俺にはあずかり知らぬところだが、北条さんは俺を病室へと招いた。

「まずは、ありがとう。ここまで黙っていてくれたのは、俺の立場を考えてのことだろう」

 静さんは今でも公安庁の裏切り者だ。その裏切り者と夫の北条さんが接触したことが分かれば、あらぬ疑いをかけられるかもしれない。

「静さんは北条さんに会いたがっていました。俺がもう少し早く動いていれば、こんな形でなく、再会することもできたのですが」

「いや。会えただけでも御の字だ。もう二度と会えないと思っていたからね」

 静さんはいまだ昏々と眠り続けている。俺は四年前の事件について北条さんに尋ねた。もちろん松田との一件は伏せておいた。公安庁、いや公監庁に松田の計略が知れれば、俺の計画も水泡に帰す。

「夫として、エージェントとして、本当に情けないことだが、なぜ静が裏切ったか分からないんだ。御院瑞月元赤翼の殉職で心を痛めていたのは確かだが」

「瑞月さんとは夕月のお姉さまですか?」

「そうだ。しかし、エージェントにとって仲間の死は越えねばならない試練でもある。静はそんなに弱い女性には見えなかった。瑞月を気にかけていたのは事実だが、裏切る理由にはなりえないと俺は思う」

 北条さんも白翼だった男だ。俺が静さんをかくまっていることを不審に思うかもしれない。これ以上の追及は危険だと感じ、話題を変えた。

「沙由さんと静さんとは兄弟弟子だったと聞きましたが」

「ああ、そうだ。懐かしいな。今では俺一人になってしまった。でもこうしてまた静と会えるとは。おじいにも見せてやりたいくらいだ」

 波場白翼は現在病に伏せっている。沙由さんが亡くなってから、体調がすぐれないようだ。

「我久。静を頼む。俺が引き取りたいが、立場がある分、もしばれでもしたら大ごとになる。静が目覚めるまででいい。目覚めさえすれば、静は一人で生きてゆけるはずだ。それまで、頼む」

「分かりました。俺に任せてください」

 最後にホテルまでの道を案内して北条さんと別れた。「任せてください」と北条さんの背中を見ながら小さくつぶやいた。



 花を差し替えていると、ズボンのポケットが震えた。凛からのメールだった。彼女のメールはいつも長いので、椅子に腰を据えて読み始めた。随所に絵文字が差し込まれたにぎやかなメールだった。

「彼女さん?」

 低い女性の声がした。ぎくりとして顔を上げた。静さんがすでに体を起こし、微笑を浮かべてこちらを見ている。

「なんで、分かったんです?」

 姉に内緒にしていた恋人を初めて見られたような、そんなどぎまぎした心地だった。

「あら。図星?外ではあまり彼女のメールを見ない方がいいわね。にやけてたわよ」

 思わず口元を手で覆った。返事をする代わりに

「先生呼んできます」

 と、席を立った。



 目覚めた静さんは確実に快方へと向かっていた。しかしそれは肉体的なもので、精神的には完全に回復したとはいえなかった。ニルビアの独立の話をすると、静さんは決まって下を向くのだった。

「前言ってた、違うってどういう意味ですか?四年前の事件も何か関係があるんですか?」

 俺の問いにも固く口を閉ざしていた。話し出すきっかけは、ニュースから流れた衝撃的な映像だった。



 小田原基地が燃えている。特に本棟を中心にすさまじい空爆が行われていた。静さんからイヤホンの片方をもらい音声に集中する。いったい何があったというのだろう。

「こちら、小田原基地です。日本政府はつい先日独立を果たしたばかりのニルビアが、旧公安庁、京都本庁を襲撃したとして米軍に空爆を要請しました。情報によると、ニルビアは核兵器を保有しているとの疑いもかかっており、周辺住民への避難指示も発令されています。現場からは以上です」

 核の情報さえ漏れていた。

「これですべてが終わるわ」

 悲しげな声が白い病室に響いた。その声は諦観と哀愁をもって、俺の耳を打った。



 それから静さんはぽつりぽつりと語りだした。それはとても時間のかかるもので、一度聞いただけでは要領の得ないものだった。下に記すことは俺が静さんの過去を聞いたうえで、俺なりに解釈したものだ。



 時は公安庁設立時にまでさかのぼる。以下の「私」とは静さんのことだ。



「退屈だわ」

 いつしかこんな言葉が口癖になってしまった。いけないと思いなおし、タブレットに表示された作戦の概要に目を通す。「仙台市周辺における日本解放軍についての調査」。それが次の作戦だった。調査といっても、仙台本部周辺の住民への聞き込みが中心となる。ぞくぞくするようなスパイ活動はまたも望めない。

「退屈だわ」

「またそんなこと言ってるんですか?」

 驚いて振り向くと髪をポニーテールにした、目がくりくりした女の子が立っていた。

「ちょっと、いつからいたのよ?」

「内緒です。どうです?気配消すの上手くなりました?」

 いたずらっぽく笑う御院瑞月に手を伸ばし、そのまま一本背負いを狙う。体重が軽い彼女の体は簡単に宙に浮く。しかし向こうも三年、アメリカで修業を受けてきた身だ。とっさに受け身をとり、ファイティングポーズをとる。

「久しぶりにやりますか?もし私が勝ったら、静さんの部下にしてください」

「格上と対峙したら、真っ先に逃げろって習わなかった?」

 先手をとろうと一歩踏み出そうとしたとき、腕をつかまれた。

「ここではやめとけ。おじいにばれたら、俺まで怒られる」

「一さん」

 この人の言葉には有無を言わさぬ力がある。私は黙って一さんの腕を振りほどき、ため息をついて立ち去った。

 日本に帰ってきたときは新たに始まると期待に胸を膨らませた。しかし与えられる任務は退屈なものばかり。

「私も沙由と人を育てた方がよかったかしら」

「じゃあ、私を育ててください」

 またも背後から声がした。今度も全く気配を感じさせなかった。ずいぶんと腕を上げたようだ。

「残念だけど、無理ね。あなたみたいなお嬢様、願い下げよ」

 御院家という家柄にもかかわらず、危険な調査部に所属するこの小娘に私は日ごろから反感を持っていた。父親は御院彰、情報部の部長だ。次期長官の呼び声も高い。

「じゃあこれ見て下さい!私が命懸けでとった情報です」

 癇に障ったのだろう。御院瑞月は乱暴に私の手を取り、無理やり小さなものをねじりこまれた。

「まったく、何なのよ」

 走り去る瑞月ちゃんを見送り、手のひらを開くと、そこにはUSBフラッシュメモリーがあった。かわいい猫のストラップがついている。私の趣味じゃない。あとで返すつもりで、ポケットに突っ込んだ。



 帰った時にはもう日付が変わっていた。一さんはすでに寝ているようだった。

 公安庁の初給料で買ったデスクチェアに深々と腰かけた。そのまま目を閉じる。このまま私のスパイ人生は終わってしまうのかといつものように思い悩んでいた。いつもと同じありふれた夜。しかし、いつもと違う感覚があった。なんだろう。お尻のあたりにその違和感はあった。

「しまった。返すの忘れてたわ。明日またあの子と話さなくちゃならないじゃない」

 愚痴を言いながらも、気づいた時にはすでにノートパソコンを開き、USBを差し込んでいた。

「どうせつまらないうわさ話よ」

 ファイルを開くと、あるメールが収められていた。差出人はベイカーCIA長官。受取人は南別院公安庁長官だ。公安庁とCIAは協力関係にある。長官同士が連絡を取っていたとしても、別段不思議なことではない。とりあえず読んでみようと思った矢先、上から順に文字が消え始めた。

「手の込んだことやるじゃない。でも私の敵じゃないわ」

 持ち前の速読技術で、斜め読みをしながらメールの要旨を確実につかんでゆく。下に行くほど、足元がぐらつくような感覚が込み上げてきた。

「ウソ……」

 それ以上言葉が継げなかった。その間にも文字がどんどん消えてゆく。しかし裏付けがない。それがあるのはおそらく日本の真裏、ラングレーだろう。

 考え始めた私ははっとして、慌ててUSBを引き抜いた。監視されているかもしれない。そんな恐怖がじわりと忍び寄ってきたからだった。



 翌日、私は出勤するやいなや御院瑞月を探し出し、詰問した。

「どういうことなの?いえ、いったい誰からあんなこと」

 彼女は私の問いには答えなかった。

「確かめに行きませんか?私のバディになってくれれば、ですけど」

 私の中のスパイの血が騒ぎだしていた。

「負けたわ」



 ラングレーは私にとってなじみの場所だった。しかしCIA本部をすべて知っているわけではない。公安庁のつてを使えば、中には入れてもらえるかもしれないが深くまでは入り込めない。

「どうします?」

「アメリカ時代の知り合いが何人か中にいる。上手く使えば行けるかもしれないわ」

 白い建物に潜む黒い真実を裏付ける証拠が、きっとあるはずだ。

「元職員の私の方が警戒されないと思う。陽動は私に任せて。瑞月ちゃんはそのすきに中を調べてちょうだい」

「でも、どこにそれがあるか分からないんじゃ」

「心当たりはあるわ。二階のCIAのデータバンク。場所は分かっているけど、膨大なデータの中から、お目当てのものを探し出すのに時間がかかると思う」

「コンピューターなら任せてください。大学で研究までしていたので」

「そう。時間は私が稼ぐけど、二時間が限界ね。それ以上いると怪しまれる。無理は絶対しないこと。チャンスはまだあるわ。いいわね」

「心配してくれるんですね」

「そんなんじゃないわよ。ただ私も共謀したってなれば困るだけ」

「分かってますよ。静さん」

 瑞月ちゃんはまたいたずらっぽく笑った。私もつられて笑ってしまった。

「静さんは笑った方がかわいいですよ。北条赤翼もそっちの方が喜ぶんじゃないですか?」

「馬鹿なこと言ってないで、行くわよ。集中しなさい」

 潜入がばれれば、私たちの存在は極秘裏に消されるだろう。まさに命懸けの潜入捜査が始まった。



 久しぶりに私服を着た気がする。公安庁へ行くときはレディススーツだし、任務の時はスニーキングスーツだ。

「シズ!久しぶり!」

シにアクセントがある独特な呼ばれ方に懐かしさを覚えた。

「エミリー。変わってないわね」

「今日は何?エージェンシーの仕事?」

 ここでは公安庁のことを「エージェンシー」、CIAのことを「カンパニー」と呼ぶ。ちなみにFBIは「ビュロウ」だ。

「いいえ。このかっこ見れば分かるでしょ。今日は一般市民として情報提供をしにきたのよ」

「そうなの?じゃあ担当を呼んでくるわね」

「ありがとう。あっ、エミリー、この後時間ある?」

「サボればあるけど」

「じゃあ三十分後にここで会いましょう」

「ええ。日本のこと、いろいろ教えて」

 旧友だったエミリーは笑顔でそう言うと、受付に話を通してくれた。ここまでは順調だ。



 出された紅茶を飲みながら、ざっとあたりを見回した。三年前とそう変わってはいない。データバンクの場所も変わっていないだろう。緊張をほぐすため、カップに口をつけた。

「志穂さんのには劣るわね」

「誰だい?シホって?」

 突然の日本語に驚き、顔を上げるとダークグレーのスーツに身を包んだ金髪碧眼の男性が立っていた。年のころは二十代後半。すらりとしたいでたちの職員だ。

「分かるの?日本語」

「少しだけね。君は英語が話せると聞いたけど、英語でもいいかな」

「ええ。もちろん」

 私はポケットに手を入れ無線機を二回たたいた。順調の意だ。

「担当するビルだ。よろしく」

「北条静。シズでいいわ」

「了解。じゃあ、始めようか。」

 ビルの美しいブリティッシュイングリッシュとともに極秘任務が始まった。



「東京でちょっと気になることを小耳にはさんだの。シャーロンペトロン社って知ってる?」

「ああ、たしかテキサスの石油会社だね。それが何か?」

「うわさ話にすぎないかもしれないんだけど、日本の川本石油と不正取引してるらしいの。他の石油会社とはかなり低い価格でね。その代わりに、川本石油はシャーロンペトロン側に米国企業の情報を流してるとか」

メモを取るビルの手が止まった。

「それは看過できないな」

 エネルギーは国の経済の根幹だ。敏感になるのも無理はない。

「調べてみてくれるかしら?」

「ああ分かった。こっちでも少しアプローチをかけてみるよ。ありがとう」

「いいえ。私もアメリカが好きだから。何か役に立ちたいの」

「そうか。どうりで英語がうまかったわけだ」

「あなたの日本語もなかなか良かったわよ」

 二人で笑いあっていると、エミリーが仕事を「終えて」戻ってきた。

「お待たせ」

「じゃあ僕は仕事に戻るよ。情報提供ありがとう」

「ええ。よろしくね」

 私はまた無線機を二回たたいた。



 エミリーとともに懐かしい廊下を歩く。なんだか母校を再訪した気分だ。ここで私はスパイのすべてを学んだ。そして今、CIAに潜入している。いい気分はしないが、すべては真実を知るためだ。アレがデマなら何ら問題はないのだが。

 私はエミリーを上手く誘導し、二階のデータバンクの反対にある人気のない一階の倉庫へと歩いた。

「前話してた彼氏とはどうなの?」

「言わなかった?結婚したの」

「ええ?本当に?」

 お手本のようなジェスチャーで驚きを表現するエミリーを見て、笑いがこぼれた。

「でも彼も同業でしょ?裏切りでもあったらどうするの。スパイに裏切りはつきものよ」

 ドキリとした。もし私の潜入がばれたら、裏切り者の扱いを受けるだろう。そうなったら一さんは……。嫌な想像を振り払うように笑顔を作った。

「大丈夫よ。一さんはそんな人じゃないわ」

 迷いはミスを生む。ここまで来たら突き進むだけだ。



 トイレに入り、もう一度作戦内容を確認する。ここからが本番だ。復唱したかったが、できるはずもない。私は無線機を二回たたいてトイレから出た。

 都合よくエミリーは電話をかけていた。そっと忍びより、スタンガンで気絶させる。倒れこむエミリーを抱え、倉庫へと運び込んだ。

「ちょっと!エミリー!どうしたの。誰か来て!」

 甲高い声が館内に響き渡った。こんな高い声が私にも出せることに驚いた。バタバタと足音が近づく中、無線機を取り出した。

「瑞月ちゃん。行くわよ」

「了解」



「どうした?」

 いち早く駆け付けたのはビルだった。

「トイレから戻ってきたら、エミリーがいなくて。探したら倉庫で倒れてて……」

 長年培ってきたスパイとしての演技を駆使し、動転する一般女性を演じる。

「大丈夫だ。ここは僕に任せて。君はあっちで休むといい。さあ」

 私はそこできっとビルを見つめた。先ほどまでと打って変わってエージェントの表情を作る。

「いいえ。ビル、私もエージェントの端くれよ。捜査に参加させて」

「しかし……いや、そうだな。今は情報提供者じゃない。君も僕らの仲間だ」

 気づくと多くの人が集まっていた。逆を言えば、他のところは手薄になっているに違いない。

「ここの倉庫からエントランスまでは一本道だ。しかし、そんな目撃情報は入っていない。すると、犯人は」

 私たちは裏口を同時に見つめた。

「逃げ道は一つしかないわね」

「裏口から出たとみて間違いないな。アンディ!市警を呼んでくれ」

 アンディと呼ばれた大柄の男が携帯を取り出し、電話をかける。警察が来れば人の目も増える。それまでに……頼むわよ、瑞月ちゃん。



「武器を持ってるはずだ。油断するなよ」

「こっちもそれなりに経験積んでるから大丈夫」

 ビルは拳銃片手に、いもしない犯人探しを始めた。

「乗り越えられない高さじゃないな」

 裏口を出るとちょっとした庭があった。その先には白い塀がある。

「足跡がないわ。まだ倉庫かも」

「よし。調べてみよう」

 倉庫をくまなく探す。エミリーはまだ目を覚まさない。パトカーのサイレンが近づいてきた。急がなくては。

「おい!待て!何してる!」

 突如として怒鳴り声が聞こえた。上階からのようだ。一階にいる私にもはっきりと聞こえる野太い声だった。私もビルもそちらへと向かう。

 階段を駆け上がり、データバンクに近づくにつれ動機が早くなってくる。何かの間違いであってほしかった。

 二人の男女が拳銃を構え向かい合っている。ビルもそれに加わった。私は何もできない。瑞月ちゃんはちらりとこちらを見たが、すぐに目線をCIA職員へと戻す。

「銃を下ろせ!最終警告だぞ!」

 私は何もできなかった。かばえば私も射殺されるかもしれない。

「握りこんだてのひら!」

 最期の言葉だった。瑞月ちゃんは早口の日本語でそう言うと、自ら銃口をこめかみにあてがい、引き金を引いた。乾いた音とともに瑞月ちゃんは倒れた。呆然とする私にスパイの血がそっとささやいた。

「握りこんだてのひら」

 瑞月ちゃんに駆け寄り、左手を見た。白いものがはみ出している。破れぬよう慎重に引き抜くと、小さく折りたたまれたメモが出てきた。

「もう助からない。気の毒だけど」

 ビルの声にも冷静さを失わなかった。人は目を合わせられると数秒の間相手の目を見入ってしまう。私はビルの目をじっと覗き込んだ。

「ええ。分かってるわ。私と同じ日本人だったから、ちょっと辛くて」

 ビルの目を盗み、メモをポケットに滑り込ませた。

「彼女、なんて言ってたんだい?」

「謝ってたのよ。ごめんなさいって」

 涙を必死でこらえた。それを察したのか、ビルは優しく肩を抱きエントランスへと案内してくれた。



 その後の処理はCIAが請け負った。私も事情聴取されたが、親友のエミリーの「シズが私を襲うはずがない。前は命も託しあった」という証言ですぐに疑いは晴れた。犯人は御院瑞樹ということになり、私は失意と罪悪感を抱え、ホテルへ戻った。



 昨日はここのソファで横になり笑っていたのに。私は清掃されたソファに身を預けた。クリーニングされたはずなのに、瑞月ちゃんの甘い香りがしたような気がした。

 思い出したようにメモを取り出した。丁寧に開いてゆくとそこにはこうあった。


 オダワラ  The strategy from Odawara


  裏をめくると神奈川県の住所と日付が書いてあった。そして、端の方に小さい丸文字が目についた。


 大好き


「ごめんなさい」

 一人になってしまったホテルで、涙とともに謝ることしかできなかった。最後の言葉が誰に宛てたものかは、今となってはもう分からない。しかし、瑞月ちゃんの大切な人に違いない。泣いても、もう瑞月ちゃんは帰ってこない。そう分かっていても涙を流すこと以外、何もできなかった。人の死で泣いたのはこれが初めてだった。



 次の日、すぐに成田へ飛んだ。向かうのはもちろん小田原だ。そう思い車を西へ走らせようとしたときふと思った。一人では危険だ。協力者が必要だと思ったが、瑞月ちゃんの死を思い出し、慎重に考えた。経験豊富で私のことを分かってくれる人。沙由しかいなかった。



 待ち合わせの場所に沙由は、定刻通りやってきた。行きつけのカフェに入り、いつもの窓際の席に腰を下ろした。

「沙由とこうして話すのも久しぶりね」

「お互い忙しくしてるからな。私は京都、お前はアメリカと日本を行ったり来たり。おじいの研修終えてからか?こんな感じになったのは」

 グラスを傾けながら、私も沙由もかつて迷った岐路を思い出していた。

 竹馬の友にふっと微笑みかけた時、瑞月ちゃんの笑顔を思い出し、口角の運動が止まった。沙由も観察眼は人一倍良い。すぐに私の異変に気付きグラスを置いた。

「どうかしたのか?」

 もう喫茶店で、話に花を咲かせる女性の顔ではない。命を賭し、国を守る女スパイの顔だ。

「これ」

 私はそれだけ言い、メモをテーブルに置いた。沙由は一瞥した瞬間、顔を曇らせた。長年の付き合いでわかる。知っている。直感的にそう感じた。

「どこでこれを?いやどうして静が……」

「そんなことはどうでもいいわ。沙由、一緒に小田原に行きましょう。こんなことが許されていいはずないわ。沙由と一緒ならまだ間に合うかもしれない」

 二つ返事で了承してくれると思っていたが、沙由はうつむいたままだ。私の目も見ようとはしない。

「やめよう」

 沙由の口からこぼれたのは、ただそれだけだった。

「どうして?アンタまさかすべて知っていて、私を公安庁に誘ったの?あの時の言葉も嘘だったの?」

 一年前、「祖国を守るため」と説得されて私は沙由と日本に戻った。いつも本気の沙由の瞳に嘘はなかったはずだ。

「嘘じゃない。この作戦がゆくゆくは日本を守ることになるんだ」

「人が死ぬわ。大勢死ぬのよ?それでもそう言えるの?」

「何かを成し遂げるためには犠牲は必要だ。静、分かってくれ」

「瑞月ちゃんもその一人だっていうの?」

 知らず知らずのうちに声が大きくなっていた。周りの視線が刺さるのも構わず続けた。

「私は……行くわ。確かめに行く」

「やめてくれ。お前を失いたくない。頼む。やめてくれ」

 懇願する沙由にグラスを投げつけた。そのまま床に落ちグラスが粉々に砕けた。中身のアイスティーが床に広がってゆく。

「甘えたこと言ってんじゃないわよ!私はアンタなんかとは違う。臆病者!告発するならしてみなさい。手筈はととのえてあるわ。私が死んだら、それが証拠になる。公安庁は根本から壊れるでしょうね」

 はったりだった。だが、沙由には確証がない。うかつには動けないだろう。

 沙由は黙ったままだ。このとき私は少し期待していたのだ。いつもの沙由なら負けじと言い返すはずだと。沙由はもう私の知る沙由ではなかった。沙由は変わってしまったのだろうか。それとも……。

 乱暴に扉を開け店を出た。見上げると、空は鈍色だった。何のために戦ってきたのか。私は車に乗り込み、一路東へ走った。



 私は小田原のあるホテルで電話をかけた。

「どう?そっちは?」

「動きはありません。御院瑞月さんの死さえ、もう話題にも上らなくなりました。隠蔽工作があったとして間違いないでしょう。御院彰情報部長も自ら辞表を提出するという情報も入りました。かなり信憑性は高いと思われます」

「そう、ありがとう。報酬はいつもの口座に振り込んでおくわ。また何かあったら教えてちょうだい」

「分かりました。そちらも何かありましたら、いつでもどうぞ」

 電話の相手は私の完全なるプライベートアイ。報酬は高いが、仕事は確かだ。情報に間違いはないだろう。私の脅しが効いている。メモに書かれた日付は明日だ。そこで何があるのか。あのメールの内容は本当なのか。時刻は午後十時。私は余裕をもってホテルを出た。



 じっとりとした夜だった。周囲から虫たちの鳴き声がたえず聞こえてくる。小田原市街から車で一時間。森に囲まれた広い荒野に研究施設はあった。使われなくなってかなり経っているのか、壁にはところどころにひび割れが見られる。



 私は古ぼけた研究施設の裏にいる。窓が開いているおかげで中の声は丸聞こえだ。

「ここを新たな基地に?日本は初めてだが、なかなかいい土地ですな」

「ええ。すべてはここから始まります。ここが我らのグラウンドゼロです」

 中にいるのは二人の男。松田信秀とベイカー長官。反政府組織、CIA。二つの長が集結していた。

「CIAで公安庁のエージェントが射殺されたと聞きましたが、まさか奴らに気づかれたのでは?」

「いや、問題はないよ。遺体を調べたが何の痕跡も出ては来なかった。おおよそ何か勘違いして我々の本部に乗り込んだのだろう」

 私は唇を強く噛んだ。鉄の味がじわりと広がる。

「松田君。君には感謝しているよ。君の提案が無ければこの壮大な計画もなかったわけだしね」

「いえいえ。ベイカー長官こそ、私の意見に賛同していただき、恐悦至極です。これからも協力してゆきましょう」

「すべては日米の平和のために」

 その宣言とともにチンとグラスが触れ合う音がした。



 その十分後、松田信秀は用があると言って研究施設から出ていった。それと入れ替わるように黒いシルクハットをかぶった男が施設へ入っていった。見覚えのある背格好と歩き方にぞっとした。

「ミナミ!また会えて嬉しいよ」

「ベイカー。大丈夫か?ここは解放軍の次の基地なんだろう」

「大丈夫さ。ここはまだ基地としての建設さえ始まっていない。マツダには私の部下をつけてある」

「手短に頼む。本当にうまくいくのか?」

「もちろんだ。院とやらにとっても悪い話じゃない」

 南別院真造だ。公安庁長官がCIA長官と、敵対している解放軍の基地予定地で密会していた。

「ミナミの気分を害するかもしれないが、我々アメリカにとって院はおまけにすぎない。我々の目的はもっと先にある」

「私たち、院の一族が再び政界に幅を利かせるためだけではないと?」

「むろん、我々の協力者である院が日本の中枢を担ってくれれば、これほど楽なことはない。外交もしやすくなるしな。しかしそれはあくまで外務省の仕事。CIAの仕事じゃない。我々の使命はアジアの保護だ」

「保護?」

「日本は戦後百年を迎え、以前より戦争への抵抗が薄くなっている。百年記念の式典を境に若者を中心に戦争を是とする人間さえ日本で出始めた。中には核武装をするべきだと訴える団体さえ散見される。これはまずい。核を持てば日本の力は増すだろう。しかしそれは同時にアジアの危機でもある。アメリカ政府はこれをかなり危惧している。これ以上、核が蔓延すれば何かの拍子に世界が壊れてしまうかもしれん。核戦争だ。それだけは絶対に防がねばならん。日本こそアジアの足止めだ」

「そのために解放軍に核を持たせると?」

「ああ。アメリカの研究者を大量に派遣する。そして核を作る。核兵器といっても本物を作るわけじゃない。偽装の核だ。そして頃合いになったら基地ごと燃やす。平和ボケした日本人は再び核の脅威を思い知る。ヒロシマとナガサキの悲劇を思い出すだろう。そして痛感するはずだ。核を持つことは危険であると。それこそ、Strategy from Odawaraの目的だ。すべてはここから始まるのだ」

 全身の力が抜けてゆく。メールの内容に寸分たがわず合致していた。私も沙由も、松田でさえ、この計画の駒にすぎなかった。院とCIAが結託して、全日本国民をだましたのだ。核の脅威を知らしめるために。

 それなら、私は最後まで抵抗する。知りながら何もしない沙由とは違う。公安庁を裏切って、解放軍につく。諜報だけが私の生きがいだから。

 「瑞月ちゃん、あなたの死は無駄にはしないわ」

 私はそうつぶやいて静かに去った。行き先は仙台。日本解放軍の本部だ。名も捨てよう。セレッサ、これがいい。沙由、あなたと私は違う。私は私。ほかの誰でもない。



 病室に冷たい風が吹き込んだ。窓を閉めた方が静さんのためだと思ったが、俺の体は動かない。

「これですべてよ。信秀には話さなかった。彼のほうがもっと危険なことを画策していたから」

 俺は何も言えなかった。自分の生きる意味さえ分からなくなっていた。

「我久君。あなたはまだ若いわ。仕事だってまだある。公安庁、今は公安監視庁だったかしら。そこを離れて、新しい職を探すのも選択肢の一つだと思う。私みたいにならないで。お願い」

「どうしてそんなふうに言ってくれるんですか?」

 静さんは少し考えてから答えた。

「……私に似てるからかしら。大胆で恐れ知らずに行動しちゃうところとか」

「そう……ですか」

「これ、返しておくわね」

 引き出しから何か取り出し、机の上にことりと置いた。指輪だった。結局使わなかった指輪を見て、俺はあの時自分の手に毒牙をかけていたらよかったかもしれないと考えた。

「今日はもう帰って。体調もだいぶ良くなったし、もう一人で立てるから」

「でも……」

「我久君の前で泣きたくないの。分かって」

 最後にそう言うと、静さんは目を閉じ、寝返りを打った。そしてもう何も語らなかった。



 病院を後にした俺は、とぼとぼと自宅のアパートへ歩いていった。無意識に指輪を撫でながら沙由さんのことを思い出していた。

「俺は、これからどうしたらよいのですか」

 答えなどあるはずもない。真っ赤な夕日が山の向こうへ落ちてゆく。



 ポストには三日分の郵便物が溜まっていた。中には反戦を訴える政党のチラシもあった。この三日間、メディアは百十年前の大戦のことばかりだ。ヒロシマやナガサキの映像も数多く放送され、世間の風潮は一気に反戦、反核へ傾いた。それ自体は悪いことだとは思わない。しかしそのすべては、策略のうちに行われたのだ。大国の意のままに、わが国が動かされたことに、俺は憤りを感じた。

 DMや新聞の束を床に広げたとき、はがきが混じっていることに気づいた。このご時世にはがきなんて珍しいなと思って拾い上げた。差出人の欄には筆で「御院夕月」とあった。何事かと思って表を見ると、簡単な挨拶と、最近の調子はどうだなどと、月並みな文章が広がっていた。

「こんなこと、メールで足りるだろうに」

 そうつぶやき、再び裏面を見ると、切手がはがれかかっている。几帳面な夕月には似合ないなと感じた時、開けた窓から風が吹いた。と同時に切手が剥がれ落ちた。切手はひらひらと舞った後、裏面をこちら側にして落ちた。拾い上げようとかがんだ時、俺は思わずあっと声を上げた。

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