第五章  明暗

 光明が差した。基地から脱出するまで油断は禁物だが、体が自由になれば、いつもの任務と変わらない。静さんの看護もあって、松田から受けた傷も癒えていた。

「こちら水橋、ターゲットを保護。生存確認」

「了解。沙由さん、ありがとうございます」

 無線の向こうで、夕月の声が聞こえた。

「これより、脱出する。首尾よく頼む。それともしもの時は頼んだぞ」

「了解」

 無線が切れた後、俺たちは動かずに機会をうかがっていた。

「待つんだ。夕月と徹が仕掛けるまで」

 何を待つかはすぐに分かった。場内放送がその答えを教えてくれた。

「各員。建物東で火災発生。煙が見えるとの情報が入った。近くにいる者は早急に対応せよ」

 日本であって日本でない。それが小田原基地だ。基地内で火災が起ころうとも消防車は来ない。自ら不法に建設した基地は自らで守る。それが彼らのルールだ。

「まさか夕月たちが火事を?兵士が巻き込まれたら問題になりますよ」

 公安庁が作戦遂行において、最も重要視している非殺傷を破ることになる。

「案ずるな。スモークグレネードで、火事だと錯覚させた。本当は火事など起こっていない。確認されれば、ばれるけどな。迅速に行動するんだ。かつ慎重にな。夕月たちももう建物から出ているはずだ」

 夕月たちということは、徹も来ている。俺たちは現場へ確認に向かう兵士たちの隙をつき、西側から脱出した。あとは森まで五百メートルある道を進むだけだ。

「待て。見張りがいるな」

 双眼鏡を片手に沙由さんが腹ばいのハンドサインを出す。匍匐でゆっくりと進む。兵士はこちら側には気づいていない。沙由さんはホルスターから催涙グレネードを外すと兵士の足元に転がした。プシューと音を立て、催涙ガスが噴き出す。むせる兵士を横目に中腰で森へと歩を進める。

 装甲車の影で敵をやり過ごしていると後ろに気配を感じた。はっとして振り返ると、真っ黒なスニーキングスーツに身を包んだ夕月と、ダークブルーのスニーキングスーツを着た徹がしゃがんでいた。

「予定通り、合流できたな」

 すべてが沙由さんの思惑通りに進んでいた。

「あの兵士、なかなか動きませんね。麻酔銃で眠らせますか?」

 東の空が白み始めている。

「よし、撃て」

 夕月が放った麻酔弾は首筋に命中した。ほどなくして兵士は膝からくずれ落ち、いびきをかき始める。

「行くぞ。あと少しだ」

 沙由さんを先頭に一歩踏み出したとき、嫌な音が響いた。ぐしゃりともぐちゃりともつかぬ嫌な音。肉がつぶれた音だった。

「伏せろ!」

 夕月の声に体が反応し、腹ばいになる。俺は懸命に上を見た。沙由さんが伏せない。早くと思っても、その声は届かなかった。沙由さんは伏せるというより前へ、倒れた。

 後ろでパシュンというサプレッサーを搭載した拳銃の銃声が聞こえた。直後、遠くで悲鳴が響いた。振り返ると夕月がハンドガンをリロードしている。一目で麻酔銃ではないと分かった。

「夕月、お前まさか!」

「自己及び仲間に危機が及んだだろう」

「二人とも急いで!」

 徹の声で俺たちは前を見た。ここにとどまるのは危険だ。

 俺は、倒れた沙由さんを担ぎ上げ森を目指した。息はある。どこを撃たれたかは分からないが、大事には至っていないはずだ。気にかかるのは、銃声がしなかったことだ。潜入する側ならサプレッサーをつけるのは道理にかなっているが、排除する側なら銃声を鳴らし、どこに敵がいるかを知らせたほうがいい。それともうひとつ、先ほどから沙由さんが話さない。ヒューヒューという息遣いが、耳元で聞こえるだけだ。いつもの沙由さんなら、俺たちを心配させぬよう声をかけてくれるはずなのに。

 森に入り、敵の監視が行き届かないところまで来て、俺は沙由さんをできるだけ丁寧に地面に下ろした。森は暗く、寒かった。徹がライトで沙由さんを照らした。スニーキングスーツは破れていない。足から胴、胴から首に光を這わせてゆくと、あった。長い矢が、のどに深々と突き刺さっていた。銃声がしなかったわけだ。ボウガンだったのだ。沙由さんは苦しそうな声をあげるだけで。

「今、抜きます」

 俺が矢に手を伸ばした時、夕月が俺の手をつかんだ。

「待て。抜けば大量出血で死ぬぞ。ここまま運んだほうがいい」

 俺ははっとして矢から手を放した。

「分かった」

「僕が先に行って車をまわす。二人は直線に進んで」

「了解」

 朝が近づいている。一秒でも早く離脱したい。徹の提案に俺たちは即座に同意した。唯一反対したのが、沙由さんだった。駆け出した徹の足首をつかんで止めたのだ。三人とも理解ができなかった。沙由さんは指を動かし、俺たちに耳を貸せと伝えた。喋るのが苦しいのだ。

「お前ら、抜け」

 耳元でしか聞き取れないほどの小さな声だった。俺たちは耳を疑った。抜けとはどういう意味だろう。

「苦しい。抜いてくれ。頼む」

 かすれた声が、俺たちの胸を刺す。

「大丈夫です。病院へ行けば助かります」

 俺はそう言ったが、沙由さんは聞かない。まるで聞き分けの無い子供のように、抜け、抜けと懇願する。

「上官命令だ。抜け!」

 その言葉に夕月が動いた。矢に手をかけた。

「待て。抜くな」

 今度は、俺が夕月の手をつかんだ。

「上官命令だ。私はそれに従う。それに……病院に行ってもこれほどまでに刺さっていれば……」

 後は言わなかった。沙由さんが死ぬとでもいうのか。

「抜いてくれ。案ずるな。お前たちは喜助には……ならない……」

 そう言っている間ものどから乾いた音がする。空気が漏れている音だ。

 右にまぶしさを感じ見上げると、真っ赤な太陽が顔を出しつつあった。

 どうすればいい。抜けば必ず死ぬ。しかし救急車で病院に運んだとして、手の施しようはあるのかは疑問だ。それならばいっそ……。そこまで考えてぞっとした。

 矢にもう二本手が加わった。徹の手だった。

「抜こう」

「待ってくれ。俺たちが沙由さんを殺すことになる」

「我久……抜いてくれ」

 師を苦しみから解放しろ。それが今のお前にできる最善の策だ。俺は苦しみから逃れるため死を欲してるんだ。抜け。

 沙由さんの濡れた瞳は、そう訴えていた。

 静かに手を添えた。抜くなら俺が一番力を入れて、抜く。それが責任だ。

「エージェントの意味……忘れるな」

 最期の言葉だった。夕月の掛け声で、一気に矢を引き抜いた。瞬間、血が噴き出す。沙由さんの真っ赤な血潮は、朝日を受け、キラキラと輝いていた。



 師を背負い、俺たちは車を目指す。森を抜け、車まであと百メートルもなかったぐらいだろうか。ズンと背中に重みが加わった。沙由さんは俺の背で最期を迎えた。



 いつのまに呼んだのか、救急車が俺たちの乗る車のそばにいた。敵に悟られぬよう、サイレンも赤色灯も切られている。だが、俺には別の意味合いに感じられた。沙由さんは救急車へ乗せられ、夕月が事態を説明するために同伴した。俺が同伴しなかったのは、治療の必要な捕虜だったからだけではない。心が拒んだのだ。恐ろしかった。沙由さんの遺体を見ることをただひたすら恐れていた。



「我久のせいじゃない」

 小田原から車を出して一時間。沈黙を破ったのは、徹だった。眼前に富士が見える。山頂から流れるように雪が積もっている。ちょっと返事ができなかった。俺は、少し間を置いて、

「すまなかった」

 と、謝った。謝罪しかできない。許されることではないだろう。しかし、それしか腹から出てこなかった。

 そこから京都まで、誰も何も話さなかった。



 沙由さんの死によって、俺の人生という長い道に、暗黒の死体が横たわった。それはいつでも黒い光を放ち、俺の全生涯をものすごく照らした。



 俺は京都に着いてから即入院し、治療を受けた。幸いにも腕の骨にひびが入っている程度で済んだ。翌日、医者の反対を押し切り、追悼式に出席した。

「水橋元白翼は入庁以来、第一線で活躍されていた。私自身、彼女から学ぶことは多かった。このような痛ましい事故が起こり、大変遺憾に思う。黙祷を捧げたい」

 南別院長官の言葉ののち、一分間の黙祷が捧げられた。どこかですすり上げる音が聞こえたことだけはよく覚えている。



 退院してまず行った場所は、浜松だった。目的は、沙由さんの葬式に出席するためだった。浜松インターを下りて十分。小高い丘の上に沙由さんの実家はあった。水橋家に近づくにつれ、俺の心は揺れ始めた。それを抑えつけ、立派な門をくぐった。

 出棺ののち、おばさんに挨拶をした。

「我久君。久しぶり」

「おばさん。この度は……」

 そこまでで言葉に詰まってしまった。俺はこの人から一人娘を奪った。

「申し訳ありませんでした」

「公安庁に行くことを許してから、覚悟はしていたから」

 おばさんの声色はいつもと変わらなかった。それが逆に恐ろしかった。恨まれるのではないか。一生十字架を背負って生きてゆかねばならないのか。

「けがは治った?」

「はい。もう大丈夫です」

「我久君を責めたりはしないから。ね、沙由に助けてもらった命、大切にしてちょうだい。殉死なんて考えちゃだめよ。そんなことになったら、私も沙由も悲しむわ。いいわね」

「はい」

 俺はそれで玄関を出た。



 門の前でうずくまっている一人の男がいる。遠目で体調が悪いのかもしれないと駆け寄った。近くまで来て、はっと息をのんだ。男は土下座をしていたのだ。喪服が土に汚れることも構わず、頭を下げていた。参列者は怪訝な顔をしながらも、声をかけることはなく、立ち去ってゆく。

「……夕月?」

 男が顔を上げた。はっきりとした目鼻立ちで、切れ長の目が印象的だ。夕月は葬儀に参列しないと聞いていた。仕事が入ったため通夜だけで済ませると。

「そうか。お前はお通夜の時、病院だったものな」

 夕月はしまったという顔をしながら、そんなことを言った。

「なんで……こんなところで」

 夕月は俺をしかと見据えた。夕月の目は憐れんでいるような、悲しんでいるような、ちょっと分かりかねるものだった。夕月は俺の問いには答えなかった。代わりにこんなことを言った。

「これから何が起ころうとも、私たちは私たちの信じる道を進むべきだ」

 俺は、「ああ」とは答えたが、その意味はまたもちょっと分かりかねた。

 俺はこの言葉を、「水橋沙由という師を失くし、苦しいこともあるだろうが、自分の信念に基づいてお互い頑張ろう」という旨を、夕月らしく分かりにくく表したものだろうぐらいにしか考えていなかった。しかし、夕月のこの時言った言葉はそんなものではなかった。そんな軽いものではなかった。夕月はこれから起こる悲劇を知悉していた。それでいて、誰にも言えなかった。その背景が、彼に抽象的な言葉を吐かせたのだ。

 俺は京都へ戻るつもりだった。そして京都で再び任務に邁進するつもりだった。しかしそれは叶わなかった。長く辛い冬が、すぐそこまで迫っていた。

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