第四章 昔日
ポチャン……ポチャン。
水滴が下から上へ落ちてゆく。窓から見える空が下にある。上と下が逆になっていた。
「目が覚めたかね?」
ねっとりとした男の声が聞こえる。薄暗い部屋で姿は確認できない。無意味な音のような声を出していると、体に衝撃が走った。
「君は誰だ?公安か?」
痛みがじんわりと広がってゆく。状況がだんだん飲み込めてきた。俺は富山で北条静にとらえられた。そして今逆さに吊るされ、男に腹を蹴られた。ここはどこだ。そして声の主は誰だ。
「まず君は何者か。名前を教えてくれ。あまり手荒な真似はしたくないのでね」
「山内……雄介」
なんとか話せるようになってきた。
「ありがとう。褒美におろしてあげよう。おい!支えてやれ」
もたつく二人の兵士に支えられながら、ふらつきながらも地に足をつけた。立ちくらみにもうろうとしながら、あたりを見る。小部屋だ。先ほどまで俺が結ばれていたロープのほかには椅子二つしかない。
「もういい。二人にしてくれ。山内君、こっちへ」
二人の兵士はきれいな敬礼を残して部屋を出ていった。兵士のあの態度を見るにこの男、かなりの実力者だ。
まず俺がさせられたのは、手錠だった。そして窓際に立たされた。
「後ろを見たまえ」
振り返ると、そこには見覚えのある光景が広がっていた。月明りに照らされたコンクリート。遠くに見える装甲車。そして巡回する兵士。小田原基地だった。
「懐かしいか?それとも君は初めてだったかな?」
男がどこまでこちらの情報をつかんでいるかは分からないが、俺が公安庁のエージェントだということだけは知られてはならない。大きな嘘に小さな真実を混ぜよ。沙由さんの言葉を胸に口を開いた。
「ここはどこです?こんなところは来たことがない」
「ほう、そうか。じゃあ自己紹介から、始めようか」
長い長い尋問、そして厳しい拷問。俺にとって最も危険な七日間が始まろうとしていた。
尋問はいつも男と二人きりだった。椅子に座ってよい時もあったし、ずっと立ったままの時もあった。
「なぜセレッサをつけていた?知り合いにでも似てたか?」
「セレッサ?誰のことです?私はただ取引先に行こうとしていただけです」
過剰な演技な禁物だ。いつも通りの俺に、食品会社の営業マンを重ねる。自分でいることを忘れてはならない。
「嘘をつくな。なら、なぜあんな路地へ入った。あの先には飲み屋街しかないとセレッサは言っていたぞ」
先ほどから出てくるセレッサとは、北条静のことだろう。ここでのコードネームか。
「あの道が近道なんです。本当です」
「なるほど。まあいい。君のことをもっと知りたい。出身はどこだね?」
嘘をつくところと真実を述べるところを見誤るな。これに関しては本当のことを通して問題ないだろう。
「浜松です。静岡の浜松」
「今もそこに?」
「いえ、今は京都です。大学が京都だったので」
大学には触れなくてもよかったか。余計なことを言ったかもしれない。
「そのわりには関西弁が出ないね」
「出張が多いので。地元も関西ではないですし」
公安庁では方言は徹底的に矯正される。同郷を装うときに利用するときもあるが、庁内では標準語だ。
「上司の名前は?」
「北田さんです。営業部長の」
口ではそう言いながら、頭では北条さんを思い浮かべていた。架空の人物を一から作り上げるよりは、実在の人物をもとに騙ったほうがいい。
「どんな人だね?」
「仕事ができて、真面目な人です。真面目過ぎる時もありますが」
「それはぜひ会ってみたいものだな」
男はそれ以上何も聞かず、食事を用意するよう、外にいた兵士に指示し出ていった。今日の尋問は終わりのようだ。
もしかしたら、うまくいったかもしれない。解放される日も近いかもしれない。しかしそんな願望はすぐに打ち砕かれた。
三日も経つと、柔和だった男は徹底的に俺を痛めつけてきた。水責めに電気ショック、そして鉄拳。初日とは人が変わったように恫喝してきた。
「もう一度聞くぞ!貴様は何者だ?どこの諜報機関だ?」
「諜報など知らない。俺は真田食品の営業の……、山内雄介だ」
「まだ言うか!」
男は俺の頭をわしづかみにし、麻布の頭陀袋をかぶせた。
「苦しみが足りんか。ああ?」
目の前が真っ暗になった。顔を上に向けられ、水滴を垂らされる。口にピンポイントに水滴を落とされるため、呼吸をするたびに濡れた布が口に張り付く。溺れることと同義だ。この水責めを幾度となくやられたが、俺は身元を明かさなかった。必ず、必ず沙由さんが助けに来ると信じていた。
遠くでヒールの音がする。コツコツとこちらに近づいてくる。
「信秀、真田食品の件、裏とれたわよ。通販会社ね。そいつは嘘をついてない」
この高飛車な口調、北条静だ。小田原に来ていたのか。それより今何と言った。信秀?恐怖がジワリと押し寄せる。目の前にいる男は、
「ご苦労、セレッサ。通販会社か……。おい、前にも同じ質問をしたが、何をしてる会社なんだ?その真田食品てのは」
公安庁が作り上げたペーパーカンパニー、真田食品。実体はなく営業もしていない。ここは嘘をつきとおすしかない。
「海外の食品を仕入れて、ネットで販売しています。売り上げはそこそこですが……」
「ネットか。奴らが使いそうな手だ」
松田は俺を最初から公安庁のエージェントと決め込んでいる。だが証拠がない。証拠が無ければ、裁判はできない。
「セレッサ。悪いが、もう少し調べてくれないか?」
「いいけど、まだ殺さないでね。私にも楽しみとっておいてくれないと困るわ」
「ああ、もちろん。心配はいらんよ。この子はだいぶ丈夫そうだからね」
ふふふっと妖しい笑いを残してセレッサ、もとい静は消えた。調べが進めるつもりだろう。真田食品がペーパーカンパニーだと判明するのは時間の問題だ。
「セレッサの拷問はきついぞ。特に男にはな」
それから松田に三時間みっちりしごかれた。それでも俺は沙由さんを、徹を、夕月を信じていた。しかし、心には波がある。過ちを犯した自分を責め、いっそ舌を噛んでやろうかとも思った。
睡眠も食事も制限され、もう夢か現実か分からなくなっていた。自分を見失ってはならない。そうならないために俺は、よく過去へ逃げ込んだ。少年時代も思い出したりもしたが、一番記憶で遊ぶのにふさわしかったのは、訓練時代から新人時代の頃だった。
机の上に大きな箱が並んでいる。この記憶は一年の研修後の試験合格のときのものか。
「まさか我久が受かるとは思わなかったな」
「うるせえ、夕月。筆記はやばかったけど、実技で取り返したんだよ」
「僕も緊張したけど、なんとかなったよ」
俺も含めて三人ともそわそわしていた。そんな俺たちを沙由さんは、少し誇らしそうに眺めていた。
「沙由さん!開けてもいいですか?」
沙由さんの答えを待たずに、俺たちは我先にと箱を開けた。中身は新品のスニーキングスーツだった。俺のものは、黒地にオレンジのラインが走っている。夕月は黒一色、徹はダークブルーに水色のラインが入っていた。
「我久はでかいから分かりやすいが、夕月と徹は背格好が似てるからな。たまに間違えそうになる。夕月は黒、徹は青としておけば分かりやすい」
「そんな犬の首輪みたいに……」
そう言う夕月もこの時ばかりは笑顔を見せていた。
「それから、これは俺からの個人的なプレゼントだ。夕月から取りに来てくれ」
最後に呼ばれた俺は、指輪を受け取った。
「我久。ここまでよく頑張った。だが本当の闘いはこれからだ。日本のために、頼むぞ」
「もちろんです。しかし、これは……?指輪ですか?」
渡されたのは、なんの装飾もなされていないただのリングだった。しかし厚さがそれなりにある変わった指輪だった。
「俺、こういうのはあんまり付けない
アクセサリーを普段しない俺は、沙由さんの贈り物に疑問を感じた。
「知ってるよ。よく見てみろ。突起があるだろ」
一周させてみると、あった。小さい突起がリングから飛び出している。指でそれを少し回すと、パチンと音がしてかぎ爪が現れた。
「毒針だ。俺特製の混合毒物が入っている。体内へ入れば十分と持たん」
「こんなもの……どうして」
「他人を殺すものじゃない。自決用だ。はたから見ればただのリング。怪しまれることもないだろう。どうしようもなくなったときは、これを使え」
情報は命より重い。時には自らの命で情報を守らなくてはならない。
「そう不安そうな顔をするな。俺の目の黒いうちは、お前は死なんよ」
「ありがとうございます。大切にします」
俺は突起を反対側へ回し、毒針をしまった。そして右の人差し指にリングを通した。
今、親指でそっと人差し指をなでてみる。ひんやりとした感触があった。この指輪は没収されなかったようだ。俺はここで一つの覚悟を決めた。どうしようもなくなったとき、つまりセレッサに真田食品の嘘がばれたときには、この指輪を使おう。
つま先でこっそり付けた印が、拘束されて五日目だということを示していた。もう何年もここにいる気がする。終わりの見えない尋問と拷問で、俺は精神的にも肉体的にも疲弊していた。正確な時刻は分からないが、窓から差し込んでくる光の傾きから見るに、午前九時ごろだろう。この時間になれば松田がやってきてもよさそうなものだが、今日は遅い。もう少し寝るか。そう思ったが、寝ていると見張りの兵士に乱暴に起こされてるので、目を開けたまま体を休める。
「だいぶ痛めつけられたようね。子猫ちゃん?」
はっとして頭を上げると胸元を大きく露出させた女が立っていた。サングラスはしていない。流れるような頬の傷が印象的だった。
「セレッサ……」
「静って呼んでよ。向こうじゃそう呼んでるでしょ?」
背中に冷たいものが走った。ばれている。向こうとは公安庁のことだ。
「真田食品なんて調べなくてもよかったのよ。証人がいたから」
証人とは誰のことだろう。
「久しぶりじゃな、我久。あの時の蹴りはなかなか良かった」
静の影から現れたのは、小田原での任務の際に対峙した老兵士だった。俺は必死に策をめぐらした。老兵士は、松田に対し嫌悪感を持っていた。うまく利用できるかもしれない。それよりも静だ。以前俺を救うような真似をしたのも事実。味方につけることも不可能ではないかもしれない。
「あのとき、なぜ俺を助けた」
「試し撃ちをしただけよ。人殺しは好きじゃないの。おじいちゃんのマシンガンはダメにしちゃったけどね」
「おじいちゃんと呼ぶない!」
老兵士の怒りも静は意に介さない。
「ありがと、おじいちゃん。もういいわ。言質は取れたから。下がってもいいわよ」
老兵士はそれでも何かぶつぶつ言っていた。しかし静には逆らえないのだろう、すごすごと引き下がった。俺は窮地に立たされた。親指はすでに指輪の突起にかかっている。
「脱いで」
何を言ってるか理解できなかった。殺すのではないのか。というか松田はどうした。俺はあれだけあの男をいらだたせた。今回のことが許されるはずもない。なぜ殺しに来ないんだ。
「脱いでって言ってるの。下も全部よ」
今は命令に従うしかない。まだ松田に情報が行き届いていないのかもしれなかった。
俺は全裸になり四つん這いさせられた。秋も深まりコンクリートの床は冷たい。
「あら。体のわりに小さいのね」
「セレッサの拷問はつらいぞ。特に男にはな」という松田の言葉がよみがえった。静はまだ尋問を続ける気だ。
静は俺を四つん這いの状況で放置した後、決まった時間にやってきた。たまに女性兵士を数人引き連れて、俺の情けない姿をあざ笑った。しかし尋問はされない。ただ笑われるだけだった。屈辱的な拷問だ。これなら松田の方がましだ。何度も指輪の毒牙を己に刺そうと思ったができなかった。そこには死への恐怖と、このままでは死ねないという意地があった。
一度だけ沙由さんのオフィスを訪ねたことがある。公安庁では黒翼以上に昇進すると、個室のオフィスが与えられる。
俺はまた記憶の海で遊んでいた。
あれは忘れもしない、初任務の前日のことだった。沙由さんと話すときはいつも夕月と徹との三人だったから、扉の前の俺は緊張していた。三回ノックして部屋に入ると、沙由さんは奥の机で本に目を落としていた。
「来たか」
一度こちらを見てそう言った沙由さんは、再び視線を本へ戻した。
「すまない。今いいところなんだ。少し待ってくれ」
「はい」
横を見ると、壁は本に満たされていた。分厚い辞書から、小説の文庫本まで多種多様な書籍が並べられている。部屋の中ほどにあるソファの上には、本棚に入りきらなかった本が積まれていた。
沙由さんは読書家だった。
「すまなかった。座ってくれ」
俺は何とかスペースを見つけ、腰を下ろした。黒いローテーブルの上にも文庫本が乗っていた。「山椒大夫・高瀬舟」と「こころ」だ。
「明治の文豪が好きでね。彼らのように生きてみたいものだ」
「漱石と鴎外ですか」
「よく読む分、よく失くす。実家に同じ本が何冊あるか分からん」
俺はなんとなく今まで沙由さんが座っていた椅子を見た。椅子の向こうに蜜柑の段ボールが山積みになっている。女の子が蜜柑を抱いているイラストは見覚えがあった。浜松の実家に送られてくるものと同じものだ。
「ああ、それ」
さすがは白翼だった。沙由さんは俺の視線をさっと読み取り、後ろを振り返った。
「あ……すみません」
俺は上官の部屋をじろじろと観察したことを詫びた。
「ああ、いや、いいんだ。いい加減片付けないと、とは思ってはいるんだけど。何分忙しくて。蜜柑は毎年実家から送られてくるんだ。親戚が蜜柑農家でね」
「蜜柑がお好きなんですか?」
沙由さんの話を聞いて、俺は蜜柑を段ボールでオフィスまで運んできたと推測したのだ。沙由さんは一瞬驚いた顔をした後、ふふふと笑い始めた。
「ふふ、違うよ。本を運ぶのに使ったんだ」
「ああ、なるほど」
俺は口元がほころぶのを感じた。
「親戚って、沙由さん、浜松の出身なんですか」
その問いに沙由さんは少し表情を硬くして窓の外を見た。
「つまらん土地だよ。風ばかり強くて」
軟化しかけた空気が固くなるのを感じた。俺は故郷に対し、ある種の特別な感情を持っている男だった。故郷は空気の色が違う。幼少期の思い出も濃やかに流れている。だから沙由さんの言葉に少し傷ついたのも事実だった。
ちょっと返事ができずにいると、沙由さんはすぐに取り直したように言葉を継いだ。
「我久はどこの出だ?京都だろう」
「いえ、浜松です」
沙由さんは意外そうな顔をした。
「へえ。てっきり京都人かと思った」
沙由さんは小さな驚きの後、気まずそうな表情をした。先ほどの自分の毒舌を思い出したのだろう。
「……ああ、しかし浜名湖はいいね。帰郷するとき、京都から新幹線を使うんだが車窓から見えるあの景色は好きだ。湖と街と山、あんな景色はちょっと他では見られないから」
沙由さんのおかしな言い訳が再び空気を柔らかくしてくれた。
「今度、うちに来ないか?正月にでも」
「ええ、もちろん。伺わせていただきます」
ここから俺と沙由さんの交流が始まった。毎年、正月には沙由さんの実家を訪ねることとなった。沙由さんの母は、目元が垂れた優しそうな方だった。父はすでに亡くなっていた。俺はいつしか沙由さんの母を親しみを込めて「おばさん」と呼ぶようになった。最初おばさんに会った時、この人が本当に一人娘を危険な職に送り出した母親だろうかと疑ったことをよく覚えている。
俺は何か用があるたびに、沙由さんの部屋を訪ねるようになった。沙由さんはいつもコーヒーが出してくれた。コーヒーの湯気を挟んで、俺と沙由さんはいろいろと話をした。細かなところは記憶からこぼれ落ちてしまったが、下のような会話が脳に引っかかっている。
「エージェントの意味は?英単語の意味だ」
唐突な問いに俺の言葉は詰まった。
「おい、大学出だろ?」
師の言葉に俺は慌ててこう返した。
「代理人、です」
「そうだ。エージェントには大きく二つの意味がある。スパイと代理人だ。しかし俺は原点は同じだと思うんだ。俺たちは確かにスパイだ。そして代理人でもある。しかし上の命令を粛々とこなしてゆく代理ロボットじゃない。俺は代理人の人の一文字に意味を見出したいんだ。自分の正義に反するときは、一度踏みとどまって考えるんだ。時間があれば、考えて、考えて、考え抜いて答えを出せ。それを忘れるな」
柔らかな空気の中で放たれた沙由さんの強い言葉は、今でも俺の胸に息づいている。
懐かしい思い出に浸っていると、乱暴に体をゆすられた。目を開けると松田と静が立っていた。
「なかなか頑張るわね。でも今日で終わり。あなたは死ぬ。信秀、処刑は私にやらせてくれないかしら?ことの始まりは私だったし」
「構わんが、これ以上聞かなくていいのか?」
「ええ。あんまり情報持ってなさそうだし」
静と松田の会話が遠くで聞こえる。意識がもうろうとし、耳もはっきり聞こえない。生きているかどうかも分からない状況だった。
「処刑は明日よ。覚悟しておきなさい」
静はそう言い残し去っていった。見張りの兵士につかまれ、階段を下る。目隠しをされているため周りの状況は分からない。兵士も黙ったまま義務を遂行している。
「良かったわね。処刑人が私で。信秀だったら目も当てられないわよ」
「助けてくれ」
懇願が意味をなさないことは分かっていた。しかし何か言わなければ、死んでしまうと思った。
ついに処刑の日がやってきた。小田原で命を落とすことになろうとは。どうせなら静の目の前で自決しよう。そう腹に決め、俺は冷たい処刑人を待っていた。
コツコツとヒールの音が聞こえてきた。これが俺の鎮魂歌か。俺の前でその音が止まると、金属が床に当たる音がした。俺の首を刈るナイフだろうか。
「食べなさい」
そっと目隠しを外された。前までの部屋と似たような感じだが、窓がない。そのかわり、照明が煌々と灯っている。光でくらむ目で見ると、コッペパンと野菜スープが目の前にあった。さきほどの金属音は、銀の盆が床に置かれた音だったのだ。毒殺か、それとも最後の晩餐か。睨む俺に静は言った。
「毒なんて入ってないわよ。もう何日も食べてないでしょう。ほら」
手にスプーンを持たされ無理やり食べさせられた。右手を壁に固定されていたので、左手で食べる羽目になったが、三日ぶりの食事に俺は我を忘れてがっついた。うまい。うますぎる。五分もしないうちに完食してしまった。
「言ったでしょ。人殺しは嫌いって」
静は俺の右手を持ってしげしげと眺めた。そして指輪を奪い取った。
「この指輪、懐かしいわ。沙由が昔からしてたから。あなた、沙由の部下なのね」
「返してください」
短い返事しかできない。調教ともいえる拷問で、静に対しては敬語調になっていた。
「だめよ。これ細工されてるでしょ。心配しないで。沙由のことは大嫌いだけど、あなたのことは嫌いじゃないわ」
「助けるんですか?松田が許さない」
「そうじゃないわ。もし私があなたのために脱走を手伝ったら、私が信秀に殺されちゃうじゃない。これからするのは、賭けよ」
「賭け?」
「沙由のことだから、部下のあなたを全力で助けに来るわ。あいつはそういう女だから。あなたが拘束されて一週間。私の情報網によると、やっと小田原基地にあなたがいることが分かったらしいの。準備を整えて救出隊が動くのは早くて今日の夜。でも明日の夜には信秀がここに帰ってくる。私はそれまでにあなたの処理を頼まれたの。証拠も見せなくちゃならない」
そこまで一息に言うと、静は語気を強めてこう続けた。
「それまでに沙由がここまで到達すればあなたの勝ち。間に合わなければ信秀の勝ちよ。私はディーラー。見守るだけ」
「待ってください。証拠はどうするんです?セレッサさんも困るんじゃないんですか?」
「ええ。だからちょっとチクッとするわよ。あと、静でいいわ」
一時間後、俺の左手の小指はあっけなく俺の体から離れた。
「これで証拠は大丈夫ね」
満足げに試験管に入った小指を眺める静は、まるで魔女だ。
「こんなんでほんとに大丈夫なんですか」
「私を誰だと思ってるの?信秀に一番近い女よ」
今朝の朝食以来、静は俺に協力的だ。なぜここまでしてくれるかは定かではないが、彼女と救出隊を信じ、待つしかない。
「痛みはどう?」
局所麻酔による左手小指の切断。医師免許もない静に任せるのは不安だったが、痛みもなく経過は良好だ。
「あとは傷口の感染症に気を付けるだけね。そんな顔しなくても大丈夫。これでも医大中退だから」
「中退?」
「ええ。留学したの。そしたらそっちの方が楽しくて」
「そっち?」
「諜報」
静も、もとは公安庁のエージェントだ。海外で諜報に携わっていたのか。医大に合格するぐらいなら、語学も堪能だったはずだ。
「どこの国で?」
「私を尋問するつもり?」
「尋問じゃありません。単なる興味です」
「私の話、聞きたいの?」
「退屈しのぎに」
静を信頼し、そんな軽口まで叩けるようになっていた。
「分かったわ」
静の長い述懐が始まった。俺が思うに彼女も、この諜報合戦の犠牲者の一人のような気がした。現在時刻十二時。タイムリミットまで三十五時間を切っていた。
「アメリカにいたの。留学先の大学の講義で諜報の歴史に関するレポートを出したのよ。医学とは何の関係もないのに、授業が面白くてつい熱が入っちゃってね。そしたら、CIAのスカウトが来た。まさか日本人を雇うなんて聞いてなかったから驚いたわ。でも私はアメリカも日本も好きだったし、同盟国の日本を守るために、なんて説き伏せられてボランティアエージェントとして協力し始めたの。それで初めてラングレーに行ったとき、沙由に会ったわ。遠い異国の地で日本人二人がCIAの本部で会ったのよ?信じられる?すぐに仲良くなった。赴任先は主に中国だったわ。そのあと大学も中退してCIAに正式に採用されたの。あの時はどうかしてた。自分の力で本気で世界を変えられると思ってたんだから。それから八年、アメリカに尽くしてきたわ」
「今は沙由さんを嫌っていると言ってましたけど」
「それは……そうね」
静は話したくないようだった。俺は無理に詰問せず、やんわりと先を促した。
「公安庁には沙由に誘われたの。日本へ戻って、そこで働かないかって。私は二つ返事で了承したわ。久しぶりの日本の風は暖かかった。CIAでの経験が評価されて、私と沙由は鳴り物入りで入庁した。今、公安庁の諜報はアメリカ式でしょ?あれは私と沙由が導入したの。当時、沙由は人材養成に力を入れ始めてて、主に日本での勤務だった。でも私はまだまだスパイとして働きたかった。それが日本のためになると信じていた。CIAと公安庁を行き来して、解放軍を鎮圧するために何でもしたわ。でも……」
「公安庁を裏切った」
後を引き取った俺に、静さんは悲しげな目をした。いったい何があったのか、その瞳から読み取ることはできない。沙由さんへの嫌悪と裏切りには関係性はあるのだろうか。
「どうして……」
「裏切られたから、裏切っただけよ」
「誰にですか」
答えはない。顎に手を添え、考えている。
「こう見えても癇症なの。あの時のことを思い出すたびに、心が壊れてしまいそうになる。でも遅すぎたわ。時機を逃した。あのとき、すべてを終わらせることもできたのに。そうしなかったのは、やっぱり一さんがいたから。あの
静さんの話は要領を得なかった。それは裏切りの理由という重要なパーツが、外れていることによる欠陥だった。
「初めにも言いましたけど、俺はあなたを尋問する気はありません。ただの暇つぶしです。しかし、俺も公安庁の人間です。四年前、あなたが裏切った真実を知りたい。教えてくれませんか」
「あなたは大胆ね。そして無遠慮だわ。若さかしら」
そう言いつつも、静さんは俺との会話を楽しんでいるようだった。
「真面目なんです。ただ純粋にあなたから生きた教訓を得たいんです。あなたの裏切りは悲劇でしょう。悲劇は二度と繰り返されてはならない。違いますか?」
ここまで他人に踏み込めることに驚いていた。沙由さんにもこんな無礼な質問はしないだろう。だが、俺はここに解放軍と公安庁の紛争の根源があるような気がした。
「そうね。悲劇は繰り返されるべきでない。おじいも言ってたわね。でも……いいえ、ダメね。言えないわ。あなたの前で泣きたくないのよ。分かって」
別人のようだった。この女性が俺を屈辱的な責め苦へと陥れた張本人だと思うと、信じられなかった。
「また食事の時に来るわ。見張りの兵士が時々来ると思うから、そのときは苦しそうな顔をしといて。もし私との賭けのことをばらしたら、あれ以上の辱めを受けるわよ」
前言撤回だ。じゃあねと妖しい笑みを浮かべた彼女を見て確信した。間違いなくこの女性は俺を辱めた。
あるとき、俺は静さんにどうしてここまで話してくれたのかと聞いた。静さんは笑って、
「私は別にどちらの味方でもない。諜報が好きなだけよ。諜報ができればどこに属そうとかまわない。女スパイとして生きることこそ、私の享楽なの。沙由がいなかったら、また公安庁に戻ってもいいわ」
と、冗談めかして答えた。
以来、静さんは公安庁の情報を話さない。それはあくまでも自分はプレイヤーではなく、ディーラーであるということを意味していた。俺は食事の時以外は黒い頭陀袋を頭にかぶらされ、左手に手錠をかけられ、小部屋の壁に拘束されていた。夕食が済み、俺は久しぶりにぐっすり眠ることができた。拷問の一つである睡眠妨害を静さんが買って出てくれたからだ。
はっとして目が覚めた。今何時だろう。朝食はきっかり七時に出されるから、早朝か深夜か。眠れたと思ったが、緊張でそれほど寝ていないような気もする。
前方からカチャカチャという音がする。ピッキングの音だ。耳を澄ましていると、錠が落ちる音と、ドアがそっと開く音がして、小さな足音が近づいてきた。スニーキングブーツのそれだ。頭陀袋を取られたとき一瞬誰かわかりかねた。一週間ぶりに会った沙由さんはやつれていた。その目は
「我久。俺だ。助けにきた」
「沙由……さん」
涙があふれそうになる。この人がそばにいるだけで、もう助かったような気がしていた。
「指をやられたのか」
俺の左手を見て、沙由さんはつぶやいた。
「大丈夫です」
それだけしか答えられなかった。話したいことがたくさんある。しかしそれはどれも、のどの手前で止まってしまう。
「待ってろ。今、手錠を外す」
沙由さんが俺の左に手を伸ばしたとき、女性が入ってきた。静さんだ。
「静さん、賭けは俺の勝ちです」
静さんは俺の顔を見て優しげな目を向けてくれたが、沙由さんの存在に気づき険しい表情になった。
「ええ、そうね。でもやっぱりアンタの顔見ると腹が立って仕方ないわ。ねえ沙由、教えて。あの時なんで一緒に来てくれなかったの?」
静さんは、まっすぐ沙由さんをにらんでいた。その目は憎悪に満ちている。
「静。いや、今はセレッサか。すべては国民の安全のためだ」
「違うわ。すべては院の安寧のため、でしょ」
「黙れ」
にらみ合う二人の女スパイ。かつて命を託しあったであろう二人が、なぜ仇敵となってしまったのか。静さんは院と言った。夕月や長官の院を意味するとは分かったが、それ以上は分からない。
「瑞月ちゃんはなんのために死んだの?」
「黙れ!」
先に仕掛けたのは、沙由さんだった。猛然と向かってゆく。冷静さを完全に失っていた。静さんは、こぶしを軽くいなし、ひじうちを繰り出す。それを今度は沙由さんが腕で受けた。お互いの格闘のくせや強みを知っているからこそ、決着はなかなかつかない。俺が介入するすべはなかった。日本で最も優秀な二人のエージェントの最高の格闘を,ただ茫然と見守るしかなかった。
「私は瑞月ちゃんからすべてを聞いた。でもそれを話す前に死んでしまった。しかもあの子の死は家族にさえ明らかにされることはなかった。案の定、父親の彰さんも消されたわ。殺されまではしなかったけど、公安庁からは去った」
御院彰、夕月の父だ。ということは瑞月とは、夕月の姉か。
「それ以上、言うな!」
沙由さんの怒りに任せた蹴りが静さんを襲う。隙が大きい。危ないと叫んだ時には、沙由さんは静さんに組み敷かれていた。
「お前だって、お前だって言えなかった。お前はすべてを知っていたくせに」
「アンタだって最初から全部知っていたくせに。このバカバカしい紛争のからくりをすべて!臆病者!」
形勢が逆転した。臆病者という罵倒に激昂した沙由さんが、あらん限りの力で静さんを押し倒したのだ。そして力いっぱい殴りつけた。静さんの短い悲鳴が響き、沙由さんの荒い息以外、何も聞こえなくなった。
沙由さんは無言で俺の手錠をピッキングする。俺は何も聞けなかった。沙由さんは静さんを抱え、俺がいた場所におろした。そして手錠をかけ拘束した。静さんは気を失ったままだ。沙由さんはいきなり大きく開いた胸元に手を突っ込んだ。俺は思わず目をそらした。
「な、何してんですか」
「昔からこいつはここに物を隠すくせがある。ない俺への当てつけかもしれんが。おっ、これはなかなかいいものを」
沙由さんが取り出したのは一枚の銀色のカードだった。ピンときた。IDカードだ。中央指令室に入ることが可能になる代物だ。沙由さんは仕上げに頭陀袋をかぶせた。
「そこまですることはないんじゃないんですか?」
俺は静さんに助けられたこともあって、異を唱えた。
「殺さないだけいいと思え。静と何があったか知らんが、敵だぞ。忘れるな」
「はい」
そうだ。また油断していたかもしれない。油断が今回のミスを生んだ。時には冷徹にならねばならない。
「行くぞ。みんなが待ってる」
涙があふれた。
「沙由さん……好きです」
思いもかけず、そんな言葉が飛び出した。助かった安堵からか、それとも沙由さんを女性として見ていたからなのかはよく分からない。沙由さんはふっと笑って、意外な返事をした。
「その言葉、榛原のために取っといた方がいいんじゃないか?」
「何で知って……」
「話はあとだ。ここから逃げるぞ」
榛原のこともそうだが、なによりも四年前の真実が知りたかった。静さんはそこに今の紛争のきっかけがあると話した。なおも聞きたそうにする俺に、沙由さんは優しく声をかけた。
「還ったら、俺からすべてを話す。夕月と徹にもな。今は生きて還ることだけ考えろ。いいな」
「はい」
俺たちが部屋から出ようとしたとき、後ろからうめくような声が届いた。
「ハァ……ハァ……俺だなんてバカみたい。それで過去を清算したつもり?女の時のアンタは死んだって言いたいわけ?」
痛みが走るのだろう。苦しそうな口調だ。
「俺は女を捨てただけだ。俺は贖罪をしなくてはならない。お前もそうだろう。セレッサ、いや静。お前は俺だ」
出会った時から沙由さんの一人称は、「俺」だ。最初は違和感があったが、今では慣れてしまった。かつては違ったということか。
「我久君、これだけは言っておくわ。あなたたちが守ってるのは日本じゃない。大国のエゴよ。あとは沙由にたっぷり教えてもらいなさい。レディの扱い方もね」
静さんはそれきり黙ってしまった。気絶したのか自ら口をつぐんだのかは、分からなかった。だが頭陀袋の向こうであの妖しい笑みが見えたような気がした。
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