木挽町画塾の夜更け 上

 日没にちもつに至って、御城よりその木挽町こびきちょう蓬屋ほうおく、ならぬ屋鋪やしき退しさった惟信これのぶは、数刻すこく前に奥の坪庭つぼにわの光の中で眼にした、志津と呼ばわれるあの幽禽ゆうきん末嫩うらわか公方くぼうとの喃語なんごの様を思い返していた。そして未だ眼裏まなうらに名残るその景趣ありさまを夜の闇に塗り籠められてしまわぬよう、夕餉ゆうげ匇々そこそこに、相応しい構えの鷹図たかのずの類を渉猟せんと、今参りの弟子三二郎を伴って道具蔵どうぐぐらった。弟子とはいえど、三二郎はよわいすでさんじゅうわたり、市井しせい流行はや黄表紙きびょうしの幾つかに施した挿画さしえが評判を得るや、これを聞こした美作みまさか津山候つやまこうに召し抱えられ、その御絵師の分として木挽町こびきちょうの狩野画塾に入門して来た、師たる惟信これのぶも一目置かざるを得ぬ気鋭の絵師であった。

 画塾は惟信これのぶの父栄川院典信えいせんいんみちのぶ安永六年(一七七七)に時の御老中田沼主殿頭とのものかみに殊遇され、初祖である主馬しゅめ尚信なおのぶが二代台徳院殿たいとくいんでん秀忠公より拝領して以来、歴代が棲まった京橋竹川町の屋敷をそのままに、木挽町こびきちょうの田沼邸の一角を分与されてこれに居をうつして開いたことに始まる。主殿頭とのものかみのみならず、その彼の勢威の最大にして唯一の泉源であった先代の公方、すなわ浚明院殿しゅんめいいんでん家治公にも典信みちのぶが寵されたことは、よわい十八にしてはかなくなった世嗣せいし家基公の肖像を、浚明公しゅんめいこうが自身の画の師たる中橋なかばし狩野かのう宗家そうけを差し置いて典信みちのぶえがかせたことからも察せらる。今、その浚明公しゅんめいこう主殿頭とのものかみも、他ならぬ典信みちのぶとて二度ふたたびとして戻らぬ幽世かくりよに旅立っていた。

 小間使いのこものではなく、三二郎に蔵行灯くらあんどん火点ひとぼしを申し付けておいた道具蔵どうぐぐらは、夜気やきさやけさと表裏うらはらの、あたたかな山吹色に揺らめいていた。

明日あす晝間ひるまでも宜しかったのでは? 今宵こよいは少し冷えまする」

病み上がって間もない師を、三二郎は気遣った。

「善いのだ。忘れぬうちに幾つかかいさぐっておきとうてな」

「先生らしいです」

欽慕きんぼ表地おもてじなかあきれた色の糸をい交ぜたような声を掛けられて、惟信これのぶは雅量に富んだ苦笑にがわらいを以てこれに返すよりほかなかった。

(私もそう思うよ)

 絵師たる技倆ぎりょうの研鑽に励む者にとって、あおい御稜威みいつを後ろ楯とする奥絵師狩野家が諸国よりあつめた古今名画の模本もほんは、商家の蔵に満つる黄白こうはくにも等しかった。狩野家歴代が残した膨大な量の下画したえ粉本ほんぽんの類もまたしかりである。弟子達は都度、蔵からそれらを手本として借りいだしては模写にいそしみ、修練を積むことができた。それゆえ各国諸侯の御抱おかかえ絵師えし達は、模本粉本の形となってなお名画が下垂らす、留め得ぬその美の余滴よてきを吸わんと、今を時めく木挽町こびきちょう画塾にこぞって入門して来るのである。

「十三の尾羽おはつ鷹とは珍しきものなのでしょうか」

ほとんどの鷹は尾羽おはが十二だが、たまに居るのだそうだ。然様な鷹を描いたものがあるかどうか……」 

 師弟は箱梯子はこばしごを上った二階にしつらう蔵座敷に、渉猟しょうりょうした鷹図たかのず模本もほん粉本ふんぽんの幾つかを広げた。巨大な桐箪笥や桐箱、長持ながもち車長持くるまながもちでごった返す階下のその雑然を避けたのである。模本もほん粉本ふんぽんを二階でなく一階のこれらに収むる故何ゆえなんとなれば、それは御絵師おえしにとって殊におそるべきが、を喰らう蟲のみならず、頻々ひんぴんたる江戸の火事もまた同様であったからで、いざという時に容易たやすはこび出せるようそなえる要からであった。これは狩野家にとって真正しんしょうの家宝たる原画原本の類を収むる寶蔵ほうぞうとて同じことであった。

公方くぼう様より直々じきじきに浜御殿での鷹狩にお召しがあった。其方そなたも付いて参れ」

「宜しいのですか」

其方そなたも観たかろう、その鷹を」

三二郎の双瞠ふたまなこが妖しく耀いた。

「是非とも」

 師弟は蔵行灯くらあんどんうち蝋燭ろうそくが幾筋もの涙を流していることさえ構わず、あかりが煮詰まってとろけていく頃合になってようよう蔵を出た。

 惟信これのぶは、田村たむら直翁ちょくおう架鷹図かようず屛風に、十三の尾羽おはつ鷹がえがかれていることを見出すにとどまった。

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塒出の鷹 工藤行人 @k-yukito

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