記憶を踏みつけて愛に近づく
「
中央駅の地下構内。切符券売機のボタンを押していた私に、流暢な英語で声が掛けられた。ドイツ語が公用語のこの地で発音に訛りや淀みが無く、明らかに旅行者だ。
「Ah,
「
「
空港から電車一本。周りに現地人がわんさかいるところ、一週間旅行用の大きなスーツケースを脇に置いたアジア人の私に道を聞く。ドイツ語が出来ない旅行者が英語のできそうな外国人に、というのはよくあることとはいえ、日本人を選ぶとは。券売機に迷い無く小銭を入れてボタンに指を伸ばすあたりが、現地居住者と思われたか。
——まあ、ちょっと前まで現地居住者だったけど。
何となく、胸にすぅ、と風が吹いたように感じた。すると同時に、空腹なのも思い出した。乗り継ぎの短距離線はLCCでスナックも出なかったのだ。ホームへ向けた足を返して、駅構内のスーパーを目指す。
店に入り迷わず右へ折れる。軽食の並ぶ商品棚を眺め回すと、手頃な値段を見つけて手を伸ばし——空中で止めた。
——まったく。
別の商品の値札が堂々と平気でかかっている。手を引っ込め身を屈めて、三段下のサンドイッチを取ると、パック裏の賞味期限を確認してからレジへスーツケースを引っ張った。
***
十一月末。九月頭に完全帰国した頃はまだ半袖で平気だったのに、もう手袋無しでは手が動かないほどだ。屋内とはいえ駅のホームでも、冷気がブーツの底を通して足の裏を麻痺寸前まで攻める。足踏みをして、列車を待つ。十五分遅れ。後ろの旅行者が驚愕と落胆を言い合っているが、驚くことじゃない。いつものことだ。
——ええっ! カホさん、あの街に留学だったんですか? 私大好きなんです。
——そこに住んでたなんて、すごい良いところですよね。羨ましい。
留学経験のことを話すと、誰もがそう言った。目をキラキラさせて。そう言われるたび、心の中で呟いた。
図書館は土日に閉まるし、平日でも午前しかやっていないところあるけどね。
スーパーは遅くても八時には閉まっちゃうけどね。
まあ、従業員さんの休みを確保していると言う意味ではとってもいいけど。
事務所は人によって言うこと変わるけどね。
日本と比べるといろんなシステムがいい加減でヤキモキするけどね。
どれも日本との比較だから、偏った杓子定規で見ているに過ぎないし、見方を変えてみるとプラスに捉えられることもある。そうは言っても、外国人だからなのか何なのか、理不尽だな、と思うこともやっぱりあった。
——カホさん、私も旅行で行きましたよ。すごく素敵なところだなって。私もそこに留学したいと思っているんです。
それでも、彼ら彼女たちの希望や期待を踏みつけにするのは気が引ける。判断するのは私じゃない。
とめどなく浮かぶ否定の言葉を押し殺し、苦笑いして答えた。
——まあ、旅行するにはいいかもね。他の都市と比べると治安はいいし。
冷え込んだ空気の中、車輪と線路が擦れ合う音を高く立てながら、列車が滑り込んできた。いまだにバリアフリー化していない、乗車口の階段。はあ、と溜息をついて、重いスーツケースを持ち上げようと、取手を握る手に力を入れる。
「お嬢さん、上げますよ」
言うが早いか、私の脇に立った男性が軽々とスーツケースと共に列車に乗り込んだ。
「あ、ありがとうございます」
「いえいえ」
一つ向こうのドアのところでは、若い母親の乳母車を学生らしき女の子が持ち上げていた。これもまた、毎日のごとくよく見た光景。目に映ると、ふっと笑顔が溢れる日常の出来事。
日本で人に留学について聞かれたら、逡巡する思いの後に、付け加えた。
——日本と同じつもりで住もうとすると心労もあるけど、人はとっても優しいよ。
プシュ、と古びた音を立てて扉が閉まる。こちらで買った裏起毛付きのコートのポケットが震えた。取り出して画面をタップする。
『
ふふ、と自然に口元が緩む。住んでいた家の大家さんだった。
『了解です。お孫さんにも会えるの、楽しみにしてます』
画面を消して、車窓から外を眺める。列車は地上に出ていた。あちこちの建物にリースや鈴が飾られて、灰色の空の下を彩る。
***
「いらっしゃい! 嬉しいわ、また会えて!」
挨拶の言葉と一緒に私が差し出した右手を握りかえして、指導教授は晴ればれと笑った。いつ見ても太陽みたいな人だが、やや衰えが見える。
「私もです。書類の受け取りとか、銀行口座を閉じたりとかで、一週間だけですけど」
「それでもどう? 久しぶりに来て嬉しいんじゃない?」
嬉々とする教授に対し、まあ、と私の返事は図らずも曖昧になる。
「こちらの方が興味深いものは見られるし、演奏会や演劇は日本よりずっと安いですしね。先生は学部長になられてお忙しそうだけれど……」
「そうね、名誉なことではあっても、子供達もいるし……。ところで貴女は日本の生活はどう? もう落ち着いたのかしら」
「まあまあ……留学していた分、日本も色々変わりましたし。社会人一年目で、勉強することばっかりです」
マグカップを両手で包み込む。暖かい室内ではあっても、じんわり指に伝わる熱が冬を感じさせる。湯気が立ち上って、鼻柱を温めた。初めて来た時に教授が出してくれたのと同じ、ブラックコーヒー。
留学体験などを読んでいると、留学先の土地が大好きだ、とか、第二の故郷だ、と言う言葉をしょっちゅう見かける。でも私は、どう頑張ってもそう言うことはできなかった。
一時帰国するたびに様変わりする地元の様子。無くなってしまったお気に入りのお店。母校で修了し、会えなくなった学友たち。
家族と共に過ごせる時間と、それが減るのと並行して薄れていく理解。友人との絆。社会に出遅れて感じる置いてけぼり感。それに、渡航中に手の届かないところへ行ってしまった人。
無くしたものは、目に見える存在でもあるし、手にはつかめないものでもあるし、両方だった。そしてどれも、今から取り戻そうと思っても、取り戻せなかった。
欧州の生活に表向きはたくましくなる精神の代わりに、可愛げのなさを手に入れ、簡単には泣けなくなった。
失ったものは数多く、そして、私には大きすぎた。
「でも貴女のことだから、よくやっているんだと思うわ。これからもきっと大丈夫よ」
それでも。
「明日、他のみんなも来るから、一緒にクリスマス・マーケットに行きましょう。グリューワインでも飲んで、またゆっくりね。じゃぁ事務的な話だけれど……」
こちらで信頼できる人、かけがえのない繋がりが得られたのも確かだ。
***
教授との面接を終えて、研究所付きの図書館の扉をくぐる。全面ガラス張りの窓から、いつの間にか晴れてきた外の陽光が入り、屋内を照らす。日本人とは違う目の構造だからだろう。これだけの明るさがあれば、閲覧室の電気は消えたままだ。
毎日通った時と同じく、筆記具を片手にセキュリティー・ゲートを通る。いつものおじさんが、カウンターの向こうの肘掛け椅子から恰幅の良い体をよいしょと回して立ち上がった。
「ヤァ、随分と久しぶりだねぇ!」
「完全帰国しましたからね。今回は一週間だけです。その後は次の休みまで、しばらく来られないの」
「それはそれは。どのくらい?」
「三ヶ月かな」
私はおじさんの名前も知らない。多分、向こうも私の名前は毎回、IDで確認している。そんな間柄。それでも毎日通ったおかげで、すっかり顔馴染みになってしまった。
「三ヶ月! そりゃぁ短い休暇だぁ」
舞台役者のように両手を広げて、おじさんは目を見開いて戯けてみせた。来る日も来る日も、ユニークに出迎えてくれる癖は相変わらずらしい。つい、ぷっと吹き出して、笑いながらIDカードを渡す。
「さて今日はどこの机がいい?」
「窓側」
「
変わらぬやりとりに、自分の気持ちがほころんでいくのを感じる。
***
IDカードと引き換えに閲覧座席の番号札を受け取って、お決まりの席へ向かう。窓辺のヒーターが脚を温め、ガラス戸に結露を作る。椅子に腰掛けて、上を見上げた。
氷点下の中で冴え渡った青空が、目に眩しい。
この街が大好きだと、心から言うことは、まだ出来ない。
それでもきっと、時間が経てば、「辛かった」が薄れるのかもしれない。
少しずつ、「好き」が増えるのかもしれない。
窓の外では、キャンパスに立ち並ぶクリスマス・マーケットの小屋の屋根を覆った気の早い雪が、光を返して輝く。
Fin.
***何もかも、全てが糧になります。
辛いし、きついし、でもその中でかけがえのない大事なものが生まれます。
留学前の戦い、留学中の厳しさ、憧れや綺麗事ばかりではないけれど、確かにつながるものができるはず。
どうか(頑張りすぎずに)頑張って!
夏思いが咲く 蜜柑桜 @Mican-Sakura
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