夏思いが咲く
蜜柑桜
チューリヒ国際空港
「当機はただいまより、着陸態勢に入ります。お席をお立ちのお客様はお座席にお戻りになり、シートベルトをしっかりとお締めください」
耳に感じる圧に変化が起こり、喉元が圧迫されるような気分がする。さっきまで外を隠す濃紺色だったサイド・ウィンドウがゆっくりと無色透明に変わる。眼下に広がる雲海の合間に頂を出すアルプス。盛夏だというのに銀白に包まれて雄壮に聳え立つ姿を照らすのは、雲の向こうから閃光を放つ夕陽。
その美しさに目を見張ったわずか数秒の後、視界が灰がかった雲に遮られた。ガシャッ、ギィイィー、という機械音と共に座席が振動する。着陸までまもない。車輪が出たのだ。
雲を抜けると山林に囲まれた緑豊かな土地が広がり、木々の間を通る車道に自動車が見えた。そして斜め前方では、
スイス、チューリヒ国際空港。
格安航空会社から大手まで、世界中から旅客機が集う、ヨーロッパ指折りのハブ空港。二大航空会社グループのうち、日本からのフライトではフランス、イギリス系に強いグループがヘルシンキ・ヴァンター空港を拠点とするのに対し、こちらはドイツ系統の中継地となっている。
三角形の白い大地の中に、斜めに交差した滑走路。数秒前には窓の中心に収まっていたそれが見る間に大きくなり、ガラスの縁からはみ出す。
——
***
昨年の晩秋、研究室の扉を開けると、教授はすっと立ち上がってこちらに手を差し伸べた。欧州人らしい挨拶にまだ慣れず、すでに緊張でカラカラだった喉がキュッと狭くなった。
「どうぞ座って。コーヒーはいかが?」
クリスマス・マーケットが始まる直前の十一月。外は信じられないほどの極寒だというのに、部屋の中はヒーターの熱が強く、何枚も着込んだ上着の下で汗が流れた。
半袖のニット姿の教授は手慣れた様子でコーヒーを運んでくると、ローテーブルを挟んで私の向かいのソファにゆったりと腰掛けた。
「あなたの研究計画を読みました。とても興味深いわ。喜んで受け入れたいと思います。でも、海外留学生には学費がかかるの」
大学のシステム上、国籍によって学費が変わってくる。EU圏内で高等教育を修めていれば少額の税金で済むが、日本国籍者がダイレクトに入学する場合は、国別で数段階に分けられた学費の中でも一番高額だった。
しかし研究の内容上、現地資料は必須だ。それに……。
「
「いえ、ここで、あなたの下で研究したいんです。奨学金に応募します。それについては、推薦状をお願いするかもしれないのですが」
「もちろん喜んで書きましょう。それでは、
教授はパソコンをスリープ画面から復帰させ、入学課のページを呼び起こす。真冬のようにどんよりとした空から、雪が舞い落ちてくるのが窓の外に見えた。
***
ガタッ、ドドドドドッ……
激しい振動に体が前につんのめり、耐えきれずに目を閉じる。ボーイング787の巨大な機体は振動を繰り返し、お尻が座席の上で数回ホップした。しかしそれもほんの束の間で、目を開けると窓枠を額縁のようにして、新緑と美しいコントラストを成す白い滑走路が、緩やかに視界を流れていく。
「皆様、本機は、チューリヒ国際空港に着陸いたしました。ゲートに到着しますまで、いましばらくシートベルトをしっかりとお締めください。ただいまより、全ての電子機器をお使いになれますが、周りのお客様のご迷惑となりますので、通話はお控えください。到着ゲートは……」
チューリヒからトランジットでドイツへ。日本からドイツへの直行便は高額だ。チューリヒ空港は旅行で来たことがあるが、乗り換えは初めてになる。トランジットの時間は四十五分、乗り換え可能規定のほぼギリギリ。しかもここからシェンゲン圏内に入るからイミグラを通らなければならない。この機体だけでも日本人客が満員だというのに、パス・コントロールの列はどれほどになるのか。
なるべく早く機体から出て空港内に入るため、シートベルト・サインが消えるとすぐに立ち上がり、客席間の通路に出た。
あれから半年以上。来たのだ。欧州に。
***
「ごめん。勝手だと思うんだけど……」
『ん?』
「……別れましょう」
詰まりそうになる息を無理やり、言葉とともに押し出した。
教授との面接で受け入れ許可をもらって帰国後、怒涛の日々だった。
入学課への慣れないドイツ語の問い合わせ。手続き期間に合わせての提出書類の準備、翻訳。並行して国費留学奨学金への応募と試験。欧州の事務からは一回メールを送ってもなかなか返事が来ない。でも電話じゃ今の語学力では不安だし、文書証拠が残らない。
時差に苛立ちが募る。向こうからメールが来たその時なら、相手はまだパソコン前に座っているはずだ。夜中に着信したメールに、寝不足で頭痛を覚えながら返信を打った。
それに、相手は入学課だけじゃない。向こうの大学とやり取りしながら日本国内の大学への留学手続き、在学延長期間の確認、渡航前に提出する研究進捗報告の起草、国費に落ちた時に備えて別の奨学金のチェック……時間はいくらあっても足りず、不安と焦りで四六時中、頭がいっぱいだった。
そんな中、付き合っていた彼氏とのデートは、正直言って苦痛でしかなかった。
街中を二人で歩いていても、カフェでお茶していても、映画館に誘われても、いつだって頭の中で「こんなことしている時間に……」という思いがよぎった。
ただでさえ留学準備は大変だと聞いていたが、運の悪いことに私の行きたい大学は、先輩にも知り合いにも、近年正規生で留学した人が一人もいなかった。身近に事情を知る人はなく、公の文言からはなかなかわかりにくい事務手続きの仔細について相談できる人がおらず、ネットのブログにも縋りたい気持ちで情報を掻き集め、万全に万全をと入学課へ細部にわたって確認しなければならない。
ほんの数分でさえ、研究計画書の推敲やメールの一文が書ける。少しでも空いた時間は資金集めのためにバイトを詰め込んだ。
デートの時間が邪魔だった。
『何で、突然?』
大学院に進んだ私と違って、智樹は就職した。平日にしっかり仕事を終え、土日は休む。メリハリの効いた社会人の働き方をしていた。オンとオフの区別がはっきりしている。
研究を続けている私は真逆だ。平日も休日も無い。怠惰になって休もうと思えばいくらでも休めるが、裏を返せばいつだってオン・モード、一分一秒でも惜しかった。
智樹のような余裕などあるわけがなかった。「たまには休みなよ」という言葉すら、肯定できないほどに。
精神的な距離は、感じるたび、さらに広がった。
「かほは、まだ学生だからいいよな」
社会人になった智樹が仕事で疲弊したとき、事あるごとに呟いた。会社勤めの辛さは私には分からないから、何も言えなかった。
でも自分も、タイム・カードはないけれど、やらなければならないことは山積の状況。一つクリアしたと思っても次があり、先方から回答があれば新たにこなさなければならないステップが加わる。自分で全て処理しなければ誰も代わりにやってくれる人はおらず、乗り越えなければ、研究は前に進まない。
しかし、それを当事者以外にわかってもらおうなんて、無理な注文だ。
「ごめん。勝手だと思う。智樹が悪いわけじゃないの」
智樹のことが嫌いなわけじゃない。大事にしてくれているのがとても良くわかった。
だから辛かった。智樹といる時間に、鬱陶しさを感じてしまう自分が。反吐の出るようなひどい罪悪感が胸の奥を切った。こんなに想ってくれる相手に対して、ざわついた感情を持って付き合っていることに。
しかも留学してしまったら、学位取得まで何年かかるか分からない。年に数回帰ってこられるかも。
好きだという気持ちをくれる智樹と、このまま付き合うことに耐えられるほど傲慢にはなりたくなくて。
けれども、彼に一から状況を説明して相談できる忍耐力を持つほど、強くもなれなかった。
『少し、考えさせて』
黙って私の話を聞いていた彼が通話を切ってから、虚無感と安心で、久方ぶりに頭の中がぽっかりと空っぽになった気がした。
***
客室の狭い通路に並んだ人の列が崩れた。前方部の非常口が開いたのだ。逸る思いに焦れながら、もたつく乗客の動きを待つ。完璧な笑顔のCAに礼を述べて機体とゲートの接続部に足をつけると、人の脇を縫って走り出した。
到着はゲートE18。一番端になる。人が列をなすエスカレーターを横目に階段をかけ登り、案内板を見ながら廊下を走る。保安検査場の手前に別の旅客機から降りたツアー客の群れがいる。あれの後になったら間に合わない。ツアー・コンダクターの脇をすり抜けて検査場のゴムベルトの前に陣取った。
靴まで脱ぐ厳重チェックを済ませ、ボストンバッグをひっ掴んで再び走る。今度は長いエスカレーターを階下へ、ちょうどホームへ到着した空港内のターミナル同士をつなぐスカイメトロは、私が飛び乗った直後に扉を閉めた。
「
今の気分に全く場違いな長閑な牧場のサウンドがわざとらしくターミナルを繋ぐ車内に流れる。
乗り換え便の搭乗時間まで残り二十分を切った。
メトロを飛び降りて再び走り出す——途端にフロアがひらけ、いくつものリード線がフロア内を細かく仕切っていた。頭よりはるかに高い位置にいくつものEUのマークと電光掲示板。
悠々とEUパスポート所持者が空いたゲートをスムーズに通って行くのに対し、進みが遅いのは「
私はパスポートと、それから渡航に必要な全ての書類が入ったぱんぱんのドキュメント・ファイルをボストンバッグから取り出した。心臓が高鳴るのが聞こえる。何もやましいことはない。それでもここで、自分達が余所者であることに変わりはない。
「
なるべく笑顔で、係員にパスポートと旅券を差し出す。
「
「
「へえ、何を?」
「
母の言葉がフラッシュバックする。
***
「今から留学? なに考えてるの、あなた」
また始まった、と思った。
「日本で研究して論文書けばいいじゃない。留学したら、また社会に出るの遅くなるじゃないの」
自分の研究内容は日本ではできないし、学位を取らなきゃ専門で社会に出るのも難しい時代なの。
喉元まで出かかる言葉を、ぐっとこらえた。
「大体、文学なんていうのは余裕のある人がやることよ。今日生きるのに大変な人だってたくさんいるんだから」
何度聞いたか分からない論理だ。もう聞き過ぎたといくら思っても、どうしても慣れない。医学や法学など実学ばかりを見ていた母には、実学の世界だけが正しく見えるのだろう。私がやる虚学は、実利がないお遊びに思えるに違いない。
——でも、そんな風に文学や芸術から学ばずにいて、あなたみたいに人の心の機微に鈍感になる人ばかりで、本当に幸せな世の中を作れるの?
「まあ勝手にしなさいよ。何かアドヴァイスでも言って失敗したとき、私のせいにされそうだものね」
母と違って、実学分野の友人知人にも、いわゆる虚学を尊重してくれる人達も沢山いる。そうした考え方に触れてこられなかった母が、むしろ不運に感じた。
思った以上に遅れる入学課とのやりとりにやきもきし、在留許可証申請方法の情報が各機関のホームページで若干違って読めるのに混乱しながら、瞬く間に月日が過ぎていった。あまりの煩雑さに泣きそうになる自分を小馬鹿に言う母の言葉を背に受けながら、大使館、外務省、大学、警察本庁へと毎日あちらこちらへ帆走する。
必要書類は現地の移民課へ直接メールで確認し、言質をとった。国費留学生合格証明書を切符がわりに宿舎探し、出生証明の翻訳依頼、外務省と大使館での書類公認、無犯罪証明書の取得……ビルの窓ガラスから光が照り返す霞ヶ関で目眩を起こし、灼熱のアスファルトにへたり込みそうになったこともあった。
それでも、止まれなかった。そして、ついに来た。
「先生! 入学許可降りました!」
日本の指導教授へ報告に走った日は、台風一過の晴天だった。
「おめでとう。よく頑張った。気持ちが安定しないと、研究はできないからね」
普段厳しい師匠が、珍しく柔らかな笑みで迎えてくれた。
想定入寮日から一ヶ月を切ったところだ。航空券が、やっと買える。
***
「文学! いいねぇ。僕はトールキンが好きだな」
ドンっと大きな音を立てながら、役員はパスポートにスタンプを押す。
「もうすぐ新学期だ。
「ありがとう!」
手渡されたパスポートが熱い。握りしめたまま、ゲートを抜けてエスカレーターを駆け上がる。するとそれまで冷たい蛍光灯や灰青の壁ばかりだったのが、急に暖かなライトとスタイリッシュな幾何学デザインの壁面オブジェが目に飛び込んできた。出国ラウンジだ。
天井高く伸びる窓から青々とした空が見える。
ポップな店舗の脇に青く光る掲示板を見とめる。出発ゲートはB35。表示によれば、ここから歩いて約十分。搭乗はもう開始している。
色鮮やかなチョコレート・ボールで溢れたショップの横を通り過ぎ、Bの掲示を追って走った。息せき切って辿り着いたB35ゲートでは、もう乗客が一人ずつ、搭乗ゲートの先へ吸い込まれていっている。
走ってずり落ちたボストン・バッグを肩にかけ直し、ショルダー・バッグからトラベル・パスケースを取り出す。搭乗券を出すのと重なって、向こうの教授の推薦状の写しが引きずり出た。
——それじゃあ、
向こうに雪が舞う窓を後ろに、真っ直ぐに手を差し出した教授の笑顔が頭に焼き付く。自分が出した掌は、強く強く、握り返された。
——そうだ。
推薦状に記された、成果への期待と博士号取得の約束。プリントアウトされた無機質な字体が埋め尽くす中、教授の手書きサインと大学印が堂々と浮かび上がる。
——一人前になって日本に帰るために、私は行くんだ。
列の最後尾でゲートをくぐる。真夏なのに冷たい外気が、頭にキンと気持ちがいい。
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