あなたに鈴蘭の花束を

田所米子

あなたに鈴蘭の花束を

「紗江先輩って、ほんと花が好きなんですね。それに、いつ来ても部屋が綺麗に片付いてる」

 広さも日当たりも、二十代半ばのOLの住まいとしてごくごく一般的な広さの一室に入るなり感心したように呟いたのは、高校時代からの後輩だった。

「何言ってるのよ、鈴香。あなたが来てくれるっていうから、急いで片付けたに決まってるじゃない。花だって、もう園芸部じゃないんだから、一番近くの花屋に、飛んで行ってきたのよ。あなたにどうしても渡したいものがあったから、ついでにね」

 この部屋にはもう何度も訪れているはずなのに、妙に緊張した面持ちの彼女――私たちがまだ女子高生という、一種の神秘性漂わせる存在だった頃の鈴香は、同じ部の先輩である私にとても懐いてくれていた。

 ――ちょっとドジやっちゃって、腱を痛めちゃって。それで、陸上は中学でやめにしたんです。

 先輩、センパイとちょっと鼻にかかった声で私を呼ぶこの子に出会ったのは、入学式を華麗に彩った桜が薄紅の花弁をはらはらと散らす頃。入学したての鈴香は、全身真っ黒に焼けてガリガリに痩せた、まるで墨みたいな子だったけれど、本当に可愛かった。

 ――だから今度は、少しでも女らしくなれるように園芸部にでも入ったらどうかって、お父さんが。そしたら、彼氏の一人や二人ぐらいできるかもしれないぞ、って。……こんな女の園でどうやって彼氏を見つけろって言うんだ、あのバカオヤジ!

 私たちの高校からは電車を幾つか乗り継いだ会社にいるはずのお父さんに向かって叫ぶ鈴香の、くりくりとした大きな眼は泣きだしそうに潤んでいた。私は、私だけはそのことを知っている。だから私だけが、インターハイに出場するという長年の夢を諦めざるを得なかったこの子の哀しみを、癒してあげられるんだと思っていた。ずっと自分の夢を応援してくれていた両親の期待を裏切ってしまった・・・・・・・・という、見えない十字架の重みに密かに喘ぐ鈴香を助けてあげられるのは、私だけだったはずなのだ。

「先輩のアイスティー、やっぱりいつ飲んでも最高ですね。丁度喉が渇いてたから、余計に美味しいです。何杯でも飲めちゃう!」

 話をどう切りだそうと迷っているのか、わざとらしく明るく振る舞っている鈴香は、私と同じ短大に入学し卒業して、私と同じ会社に入社した可愛い妹は、もう墨でも棒きれでもない。

 楽しくはあっただろうが苛酷な陸上をやめると同時に白く、柔らかくなり始めた体はマシュマロのようで。でも、長年鍛え続けた筋肉は決して衰えず、その猫のような体をしなやかに魅せていた。園芸部に入部したての頃は日焼けによる痛みでぱさぱさになっていた髪は、今ではすっかり艶やかなミルクティー色に。私が愛用しているトリートメントを教えてあげた時のこの子の笑顔は、何度見ても飽きないだろう。

「そうでしょう? なんたって、パックじゃなくて茶葉から淹れてるんだもの。そうだ。茶葉と淹れ方教えてあげるから、水筒に入れて明人さんに持たせてあげたら? 彼、外回りが多い部署だから、まだ春とはいえ熱中症とかには気を付けた方がいいんじゃないの?」

 だから、私も彼女に合わせて何気なくを装ったのに、大きな茶色の瞳を覗き込んだ途端、花柄のワンピースに包まれた細い肩はびくりと震えた。

「……先輩。その、明人とのことは、本当に、ごめんなさい。でも、あたしは明人のことが本当に好きで……」

「そんなこと、分かってるわよ。だってあなたたち、今じゃもうすっかり社でも公認の恋人同士じゃない。新婚旅行では、フランスに行くんでしょう? どこを回る予定なの? 折角フランスに行くんだから、ルーヴルは外せないわよね。あとは、ヴェルサイユ宮殿とエッフェル塔を見て、セーヌ河に映る夕陽を眺めながらキス……なんてしたら完璧だわ」

 ああ、そういえば、モンサンミッシェルも素敵よね。

 いつか鈴香が私と・・二人で行きたいと言ってくれた地名を出すと、結婚式を間近に控えた女は追い詰められた小動物のように震え出した。

「……あの、今回のことでは、ついカッとなってセンパイには色々酷いこと言っちゃいましたよね、あたし。でもあたし、センパイのこと好きなんです。昔のように・・・・・とはいかないけれど、ほんとのお姉さんみたいに。だから……」

 パールピンクのマニキュアで彩られた爪が差し出したのは、数か月前に私が彼女の目の前で破いたはずの招待状だった。

「虫がいいことを言ってるのは分かってるけど、やっぱりセンパイにも出席してもらいたくて……」

 か細い指先を、いや、かたかたと震える小さな身体をかつてこの部屋で幾度となくそうしたように抱きしめたかったけれど、そんなことはもうできない。また突き飛ばされて、こんなおままごとはもうやめましょう、あたしたちもう女子高生じゃないんだからと、泣きながら出て行かれるって分かっているから。

「そのことについては、私もあなたに言いたいことがあったの。だから、ライン返してくれて、またここに来てくれて、嬉しかった」

 ちょっと待っててときょとんとした顔の彼女に告げて、キッチンに置いてあった鈴蘭の花束を差し出すと、やや青ざめた頬はチークを叩いたように血色が戻った。やっぱり、この子も花が好きなのだ。

「フランスでは花嫁に鈴蘭を贈る。……これが今の私の気持ちよ、鈴香」

「……センパイ」

「たった一歳とはいえ私の方があなたより年上なのに、あなたを困らせてごめんなさいね。だから、あなたに長年・・、散々迷惑・・かけたお詫びにはならないけれど、この花束持って行ってちょうだい」

「ありがとう、ございます」

 今日は何もしていないのに、大粒の涙を流しながらこの部屋を出ることになった鈴香は、それでも宝物のように白い花束を抱きしめていた。あの子がここに来るのは、これが最後になる。

 天使が振るベルのような花を階段状に付ける鈴蘭は、鈴香が最も好む花でもあった。あたしの名前と同じだから好きだ、と。だからあの子は、鈴蘭の花束を生けていた水で淹れたアイスティーを、三杯もお代わりしたのだろう。

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