第9話 翼の記憶

 辛うじて、レアが床に崩れ落ちる前に手が届いた。

 抱き寄せると昨夜と同じ、砂漠みたいに恵みのれた娘だ。違うのは、唇の端から血がしたたり落ちていること。

 おれのせいで。

 失策だった。レアがこんな真似をするとは思わなかった。そもそもおれが注意力散漫で護衛とティフィスに見つかったのが間違いのもとだ。

 レアは、呪われたおれが毒を飲もうが胴体を両断されようが死なず、数百年を生きてきたことを知らない。

 おれがこの宝石国アリヤの皇族出身で、暗殺者に毒杯が下される慣習を知っている、ということも知らない。

 だからこんなことをした。

 おれが知らずに毒を飲まされて死ぬと思ったのだ。

 それにしたって、昨夜偶然会ってちょっと話をしただけだろう。おれはおまえの失くした紙切れを全部集めてはやれなかったし、他にしたことと言えばたまたま鼻血を拭いてやって、思い付きでまじないの腕輪をつけてやっただけ。たったそれだけのことが命に値すると思ったのか。

 血濡れた唇がぴくりと動いて、震えるまぶたの奥から灰色の瞳がおれを探す。

 イール、と娘は囁く。喉の奥でごぷりと音がして、口の端からまた血が溢れる。窒息させまいとして身体ごと横向きにしてやると、レアはおれの身体に顔をくっつけ、昨夜と同じ傷だらけの手でおれの服を掴もうとした。


「イール……」


「聞いてる。聞いてるから無理に喋るな」


 にげて、と唇が囁き、眼差しが訴えている。

 おれはレアを抱き締め、この馬鹿、とだけ言った。

 おまえを置いて逃げたりするかよ。

 群衆の悲鳴も衛兵たちの足音も遠い。視界の端では床に座り込んだ水晶キランが、両手で口を押さえてこちらを見ている。その両の目は期待に輝いていて、恐らくこの哀れな侍女が目の前で死ぬことに興奮している。ろくでなしのティフィスを選ぶ側もろくでなしだ。

 レアの吐いた血がおれの着ているものにどんどん染みていく。

 二度、三度、レアの身体が痙攣した。

 おれの服を掴んでいた弱い力も不意に失せて、血濡れた顎が少し落ちて口が開き、ほんの少し息を吸って。

 それを最後に、両の目を半ば開いたまま、レアは動かなくなった。

 ああ、とおれは声を漏らす。

 レアが死んだ。

 おれが死なせた。

 おれと知り合わなければ、おれが今日下手を打たなければ。

 あるいは昨夜、眠ったこいつを玻璃宮アクイラに運ぶのではなく、どこか城の外に逃がしていたならこんなことにはならなかったのだ。

 たった十数年しか生きていないのに、おれのために人生を断ち切らせてしまった。

 腕輪なんて何の足しにもならなかった。


 おれが呪われているせいだ。

 この世に生まれてこなければよかった。


 ぽたり、とレアの口元に雨の雫が落ちて、肌の上に透明と赤が溶け合った。

 遠くでキランの笑い声が聞こえる。

 新しい杯を持って来いとティフィスが怒鳴っている。

 何もかもいとわしい。

 おれ自身が一番、忌まわしい。



――おまえのは、きっと呪いなんかじゃない。天は、産まれてくる人を苦しめようとはなさらないはず。



 姉さんレア、そんなのは嘘だ。優しいあなたがおれのために創った夢だ。

 痛い。苦しい。あなたに背を向けてこの王宮を出てからずっと、死んでしまいたいくらい、おれは独りだ。

 立ち上がる気がまるで起きない。兵士たちの足音が押し寄せてくる。おれはここで八つ裂きにされるんだろう。それでもきっと死なない。

 いや、だめだ。おれが切り刻まれるのはともかく、レアのむくろを巻き添えにできない。せめてきちんと葬ってやりたい。こんな最低の場所じゃなく、どこか静かで美しい所に。

 そうしてようやくレアの身体を抱き直そうとした時だった。



――わたしは天唱鳥カラヴィンカ天の遣いわたしの言うことを忘れないで。



 頭の中に、懐かしい姉の声が響く。

 それはおれが記憶できずにいたはずの言葉だ。



――おまえもやはりカラヴィンカなのよ。でも祝福が強すぎるの。暴走している。だからどんな傷も治り髪が早く伸び、その身体を支えるためにお腹が空くの。おまえは呪われているのじゃなくて、逆に歯止めのきかない祝福を抱えている。

――祝福の過剰な子が生まれるなら、不足した子も生まれるはず。わたしが見つけた古い神話では、かつて天に住んでいたカラヴィンカたちにもあったことなの。



 緩やかに風が巻いていた。

 レアが引きずるように着ていた草染めの服の、裾がふわりと持ち上がっては波打つ。

 おれの赤い髪が風に浮き、レアの口元の血も溶けながら浮き上がる。

 雪のように白い光が降ってくる。

 それは、閉じ込められていたおれの記憶だ。

 あの日の天唱鳥レアの、最後の言葉だ。



――おまえに宿る祝福の暴走と、他のカラヴィンカの抱える途方もないうろとが、引き合う時がきっとくる。鍵と鍵穴が合うように。



 抱いたレアの身体がふわりと軽くなり、光の雪が地面から吹き上げたのかと思った次の瞬間には大きな翼になっている。

 薄い虹色を纏った白い翼。

 昔、姉の背にも見た、それはそれは美しい。

 これは、天唱鳥カラヴィンカの。

 つまりレアは、



――天唱鳥わたしはいま、確かに予言しましょう。愛するおまえへの、さよならの代わりに。


――おまえはいつか、歌えない虚の天唱鳥カラヴィンカを救う。そして独りぼっちではなくなる。


――だから、

――だからそれまで死なないで。



 何かが焼き切れていく音がして、見るとレアの手にはめた腕輪が煙を上げながら千切れていくところだった。

 それから、象牙色の睫毛が小さく震えて。

 灰色の眼が見開かれたかと思うとレアはおれの腕の中から跳ね起き、まだ身体が再生し切っていないのか咳き込みながら急に抱きついてきた。

 いや、抱きついてきた、というよりも。おれに身を寄せ、大きな翼をぐるりと周りに巻き付けるようにして、レアは多分おれを何かから守ろうとしている。

 見たことのある光景だ。

 泣きたくなってしまった。

 これは幼い頃、姉がおれを庇おうとしてくれた時に見た光景だ。

 祝福に欠け、悪意に満ちた世界に生きてきてもなお示されるその優しさは何だ?

 おれはそれが知りたい。

 もっとおまえのことが知りたい。


 なあ、だから一緒に旅をしないか。


 くっついた身体はまるで泣いているみたいに震えている。

 やがて耳のそばで、初めて聴く声がする。



「イール」



 生まれ直した天唱鳥カラヴィンカが、初めて人の名を呼んだ。



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