第5話 悪夢と祈り

 赤毛の鬼子と呼ばれた。おれが何らかの強い呪いを受けた存在だと分かった頃のことだ。女ばかり生まれる家系の久々の男児誕生に喜んでいた大人どもはずいぶん失望したに違いない。おれは明らかに異常な子供だった。

 毎日、人の何十倍食っても飢えが満たされることはなかった。いつも空腹に苦しんでいて、だからいろんなものを食べてみた。人間の食べ物ではない何かがおれの本当の食べ物なのかもしれないと思ったからだ。人間以外の様々なものを殺して食べてみたし、木も石もかじってみた。

 それに、一族には他に誰もいない血のような赤毛が恐ろしく早く伸びた。短髪に刈っても、ものの数日で地面に届いてしまう。髪は魔力のしろのひとつだから、その強さに大人たちは怯えた。

 天に見放された鬼子のようなおれに家を継がせるわけにはいかないと誰もが考えたのも当然だった。

 ふいと家を出てそれきり帰っていない。

 門を出る時、一番下の姉が泣いていたことだけ覚えている。ゆるして、と泣いていた。おまえを助けられたらいいのに、わたしはおまえの名を呼べない、と。

 赦してもらう必要はなかった。おれが家の者みんなを長年怯えさせたのだから。

 おれは本当に呪われているのだから。



 そのおれの長い血色の髪を、白髪頭の娘はきれいだと言うのだった。

 聞いてみると、こいつがおれを天の神さまかと思ったのは、おれが触れると悪意が聴こえなくなるせいらしい。鼻血を拭いてやった時にそれが分かり、まさかと思って何度か試したという。怯えているくせに、氷みたいに冷えた手を伸ばしてやけに服の裾を触ってくると思ったらそういうことだった。娘が嘘をついていないなら、やはりおれと触れると耳は誰の悪意も拾わなくなるらしい。

 せかいはこんなにしずかなの、と娘は言った。

 こえがしないとめもよくみえる、とも言った。

 床の紙片はまとめて渡してやり、試しに膝に座らせてみる。するとたちまち鼻血も止まって、死後半日経ったかのような色だった顔色も少しましになった。それから娘は急に気付いたようにおれを見て、ああ、まっかできれいなかみ、と言って初めて微笑んだのだった。

 もしももう一度、子供時代を過ごしたあの頃の家に帰れるのなら、おれは必ず末の姉にこの娘のことを話すだろうと思う。おれのこの忌々しい色に波打つ髪を褒めた珍しいやつが、姉さんの他にもいたんだと。

 姉を懐かしく思った。でももう生きてはいない。墓の在処ありかもおれは知っている。それがもはや朽ちて草木に覆われ、野山に還ろうとしていることも。

 追憶を振り切ろうとしておれは、娘の名を聞いた。その名とおれの力を使って、ちょっとしたまじないをかけてやろうと思いついたからだ。

 娘は素直に答えた。


「私は、『余りものレア』と呼ばれています」


 不意打ちだった。

 身体に大きなあなが開いたかと思った。

 目を見られたくなくて、片手で顔を覆った。呼吸が震えるのが分かる。でも、飢えで苦しいわけじゃない。

 こんなにも長い時間が経ってしまった。墓陵が山に溶けるほど。言葉がその意味を変えるほど。

 レア。それは、たったひとりおれを守ろうとしてくれた末の姉の名だ。『落ちた雛』という意味の。

 落ちた雛。押し出されたもの。余りもの。

 同じ名なのだ。

 昔この辺りでは、魔除けのため子供に不吉な名をつける習わしがあった。それで姉は落ち雛レア、おれは悪夢イール。おれが呪われた子供だと分かってこう呼ばれるようになったわけではない。

 けれどもそんな風習はずいぶん昔に廃れたはずだから、この白髪娘の名は恐らくまもりの意味で与えられた名ではない。誰もこの娘を祝福しなかったのかもしれない。いなくてもいい、邪魔な子供。だから、余りものレア

 こんな偶然の、残酷な一致があるか。

 やがて、どうしたの、どこかいたいの、と娘が聞く気配がする。痛いところなんかない。嘘だ。痛い。死んでしまいたいくらい、おれは独りだ。

 おれは生まれ変わりを信じない。魂は身体の中でしかその人間ではいられない。

 だからおまえは姉さんじゃない。

 絶対に。

 余りものレアと名乗った娘は、関節という関節に小さな傷をこしらえた痛々しい手をそっとおれの手首に触れた。

 そして呼ぶ。


悪夢イール、あなたにも苦しいことがあるの? 私が助けてあげられたらいいのに」


 ああ、とおれはたまらずに嘆息した。

 そんなことはしなくていい。そんなことまで望んじゃいない。おれは長い長い時間を、この呪いと一緒に生きてきた。長く生きることそのものにも呪われてきた。

 それを、一発でも本気で殴ればすぐに砕けて死んでしまいそうな様子のおまえに何とかしてほしいなんて、そんな無茶なことを言うもんか。

 もう救われているんだ。

 この宝石国アリヤの王宮で、懐かしい姉さんと同じ名前のおまえが、同じ言葉をこのおれに言ってくれただけで。

 時間の向こうにかすんで消えそうな記憶を、おまえの声がつくろってくれた。それがおれにとってどれほど得難い食べ物であることか。

 何と答えたらいいか分からないでいるうちに、レアはおれの膝に乗ったまま、滑り落ちるように寝入っていた。世界が静かになり、緊張が緩んだのかもしれない。

 今しがた思い付いた通り、おれは自分の真っ赤な髪を一房、長く切り取って編むことにした。

 アリヤの皇女と違ってこの娘は大国や地位を手に入れはしないが、せめてこうして悪意の声を聴かずに眠れるだけの護りを得てもいいはずだ。

 おれを呪う力を、時には誰かを助けるために使ってもいいはずだ。

 肩にレアの頭を乗せ、眠りながら薄く呼吸する身体を抱いたまま、しばらく時間を掛けて丁寧に髪を編んだ。編み目は祈りだ。おれは天には祈らない。祈りの対象は今、レア自身だった。この不運で優しい娘が、明日からも優しいまま生きていけるように。

 やがて環の形に編み上がったものに口づけて、おれは囁く。


「悪意からレアを護るように」


 言葉を聴かせた赤い腕輪をレアの手首に通してやると、吹雪の音がだんだん強く戻ってきた。

 ずっと吹雪の中にいたのだ。

 これからもそうだ。

 ただ一時、蝋燭ろうそくの炎に近付いただけのこと。

 夜明けにはおれはまた殺し屋に戻る。それまで、もう少し。

 もう少しだけ。



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