第4話 黒玉宮

 黒玉宮ジエの扉は軽く押してやるだけですぐに開いたので、ざんばらに編まれた白髪頭の娘をその中に追い込んだ。人に見られたくはない。

 扉を閉めて、暗闇の中で壁の蝋燭ろうそくに火をつける。それから手に握っている紙切れを見せるように言った。

 血の気の失せた指がゆるむと、掌に幾つかの紙片が現れる。全部取り上げて広げ、順番に床に並べた。

 床に座り込んで素早く紙片を並べているうち、頭に注がれる視線に気がついた。見上げると白髪頭の娘が、あからさまに所在なげな様子で立ち尽くしている。


「もうちょっと掛かるから、座れよ」


 おれは自分の真向かいを指差してそう言い、娘は言われた通りにぎこちなく座った。蝋燭の揺れる明かりに斜めに照らされた頬を見て、泣いていたのがようやく分かる。この吹雪の夜に、顔が凍ったのではないだろうか。


「二枚ものだな。欠片かけらが全然足りてない。でもこの夜に庭を探し回るのはうまくない考えだ。凍死するし、欠片はどうせ吹雪で飛ばされてる」


 娘はうなれて床の上の紙片を見ている。


「二枚目は最初から半分もなかったんです」


 かさかさと乾いた紙がこすれ合うような囁きで娘は言った。


「今日大きな失敗をして、その罰に破られてしまったの」


 だいじなものだったんです、と娘は唇で囁いた。頬を滑り落ちた滴がぽたぽたと衣に落ちて黒い染みを作る。


「ふうん。何をやった?」


「姫様の前に立ってしまいました」


 それだけ?

 おれの顔にそう書いてあるのを感じ取ったのか、娘は言葉をついだ。


「私は醜いので、姫様のご不快になるから視界に入らないように言われています。でも、壁の陰にいて見えなくて、角を回ったら姫様とぶつかってしまって。それで、侍女頭のウェンプさんがかんかんに怒って、いくら物陰にいたって音で分かるだろうと。どうせまたその絵を見てぼうっとしていたんでしょうと言って、私から取り上げて、びりびりに破いて、窓から捨ててしまったんです」


 おかあさまのかたみだったのに、と娘は泣く。

 こんな質の悪い紙に雑な刷りの絵を遺すとは、ずいぶん変わった形見だ。全体の二割も残っていないが有名な話だから内容は分かる。これはカラヴィンカが天から地上に降りた神話を描いたものだ。

 草染めの袖にぽたぽたと涙が落ちては吸い込まれるのを見ながら、つまりこの娘はキラン姫と同じ日に生まれたんだな、と思った。かたや今から次期皇帝を婿に迎えてこの大国を継ぐ皇女様。かたやボロの紙切れ一枚半を後生大事にしていた使用人か。


「窓から捨てたって、どこから?」


玻璃宮アクイラの塔です」


 こいつはばかだな、とおれは溜め息をついた。皇女水晶キランの玻璃宮はここからずいぶん離れている。この吹雪の夜に塔の上から千切った紙をいたのが、全部見つけられるはずがない。むしろよくこれだけ拾ったものだ。そんなに大事だったのか。

 と、娘は急に両手で頭を抱えるような仕草をした。耳を押さえている。せた唇の隙間から苦しげな息が聞こえた。ぽたりとまた膝に落ちかかる涙はさっきまでのものと違う。

 ぴんと来た。この娘、何かいる。

 何か、聴きたくないものを。

 場所が悪かったかな、と思った。この黒玉宮には宝石国アリヤ皇族が経験したほとんどあらゆる弔いの記憶が染み付いている。魂の敏感な者や極度に混乱した者は、場や物に残る過去を読み取ってしまうことがある。占いや口寄せをする神子の類いは大体それだ。


「聴こえるのか?」


 娘はまた驚いたようにおれを見上げ、灰色の両目に涙をいっぱいに溜めて頷いた。


「何が聴こえる。怒らないから、言ってみな」


「……明日の宴に呼ばれた踊り子は、七峰国ウージの王子様を殺したい。一家で旅の途中ウージにいた時、王子の情けを受けた妹が妊娠した途端に殺されたんです。刺し違えても仇を取るつもり。剣舞の剣に本当の刃をつけて。それから、ウェンプさんが明日の朝、私を転ばせて鞭打ってやろうと思ってます。彼女は最近ずっと機嫌が悪いの。姫様はウェンプさんが大嫌いで、最近すごく辛く当たってるものだから。だって、姫様のこれまでの恋人を全部知っていて脅してたんだもの。ウェンプさんは後でウージの王子様に全部バラしてしまおうとしていて、姫様も気がついてるから、もう彼女を殺そうと思ってるの。乳母が姫様に協力して毒を手に入れた。乳母にとってもウェンプさんは、何でも張り合ってくる邪魔者だから」


 場や建物の記憶ではなかった。

 頭を抱えて両耳を押さえたまま、出ない声を息の音で置き換えて果てしなく話し続けそうな娘を見ながらおれは、どうもこれはよくある憑きもの神子とは違うな、という気がしていた。過去ではなく今のことを読んでいるし、やけに遠くのもののことを読んでいる。側にあって相当強い記憶を宿しているはずのこの黒玉宮やおれ自身からではなく。

 つまりこれは、場のせいでも感情のせいでもなく、この娘本来の性質として広範囲から声を聴いてしまっている。


「いつも聴こえるのか」


 娘は頷く。涙がぽたりぽたりと落ち続けている。


「怨みや悪意だけ?」


 娘はまた頷く。

 変だ。普通、聴く者は聴く。それなのに悪いものだけ聴こえるというのは、この娘自体が悪いものだけ引き寄せている。それを望んでいる風でもないのに。

 そうしているうち、微かにうめいた娘の膝に、ぱたぱたと黒ずんだ血が落ちた。涙に続いて鼻血を出している。

 悪意を聴く力に身体が耐え切れていないのだ。

 こんな神子は見たことがない。

 おれは懐を探って布切れを引っ張り出すと、娘の鼻に当ててやった。


「へんな奴だな。そんなもの、いつも聴こえていたんじゃ皇女様の足音だって分からないだろうよ」


 布越しにおれに鼻を摘ままれながら、鼻血娘は灰色の目をいっぱいに見開いた。どうしたというのだろう。こいつは何かというと驚いた顔をする。

 唇が動いて何か告げている。見えないので一度手を離した。


「あなたはだれ? 神さまですか?」


 ばかじゃないのか。

 おれみたいな、凶々まがまがしい血色の赤毛の、生首ぶら下げて何日も雪山をほっつき歩くような、人狩りの賞金稼ぎを生業なりわいにしているような神がいるものか。

 神なんかじゃない。

 もし神がいるとすれば、おれはむしろ神に呪われている。

 だがそれを目の前の娘に言っても始まらない。だからおれはただ首を横に振り、こう言った。


「おれは神じゃない。悪夢イールだ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る