第7話 誤算

 夜明け前の空はまだ暗いが、山並みを縁取る朝焼けの気配は天上めいて美しい。吹雪は山脈の彼方に去り、宝石国アリヤの王宮は真っ白な雪に半ば埋もれてしんと建っている。

 その雪を汚して撒き散らかされた赤黒い血はやはり毒々しく、同じ色のおれの髪をなぜレアは綺麗だなんて言うのか分からない。姉も、白髪頭も、どちらのレアもだ。

 誰も来ないし腹も減っていたので、斬り落とした首の断面をかじった。多少腹の足しにはなるが、何度やってみても人間はあまり美味くない。

 空石宮カッライスの周りの天幕からくすねた布に生首四つを放り込んで背負い、明るくならないうちに最寄りの山と王宮を往復した。ティフィス王子の用心棒はこれで十三人全員が首になって雪に埋まったことになる。後で掘り出して賞金に替えればしばらくは金に困らないで済むだろう。

 このまま首を持って逃げても構わないんだよな、と夜中から百回くらい考えている。用心棒十三人の首を取っただけで相当の稼ぎにはなるし、王子を殺さなかったからといって身の危険も特にない。

 仮に今回の雇い主から刺客が差し向けられたとしても殺してしまえばいいことだ。残念ながら、おれを倒せるほどの使い手はそれほど数が多くない。奴らを雇うには破格の報酬が必要で、今回のおれの雇い主にそこまでの財力はない。

 とにかく、ティフィス王子を殺すか殺さないかというのは最大の問題ではなかった。まあ、殺されても文句の言えないような男だとは思うが。

 そんなことより、この身体という器に注がれた水がずっと揺れているみたいに治まらない。心がどこかに走って行こうとして、言うことを聞かない。

 こんな仕事をけるんじゃなかった。長い年月が経ったのだから一度くらいアリヤを再訪するのもありか、なんて思うんじゃなかった。

 レアの泣き声を背にこの王宮を後にしてから数百年、今更心を乱されることもないだろうと思ったのに、いざ来てみたらこのざまだ。過去と現在が手を取って、おれの一番弱い部分をぎゅうぎゅう締め上げる。

 姉を思い出すことなんて、この数百年に何千回とあった。それなのに、昨夜だけはどうしてあんなに、声を上げるほど泣きたくなったのだろう。飢えからではなく、もっと心の奥のことで。……そう、昨夜どうして全然飢えなかったのだろう。


 多分、そういった様々な珍しいことがおれの感覚を大幅に乱していたのだと思う。

 考えがまとまらないまま王宮に戻ったところ、無人のはずの宮の中でティフィス王子の護衛にくわした。それは別にいい。ただ、すいされていつも通り答えてしまった。名乗る気はない、ティフィスを殺しに来たと。

 その護衛は次の瞬間には殺した。この百年ほど気に入って使っている黒い短剣ナイフの切っ先が鮮血を鞭のように滑らかに飛ばし、それが当のティフィス王子に一直線に当たって豪奢な白いはだぎに赤い点線を描いた。

 王子は奥の扉を開けて部屋の中から外のこちらを覗いたところだった。

 つまり、見られたし、聞かれた。

 おれは、部屋に人がいることにまったく気がついていなかったのだ。

 これはだめだ。有り得ないほど気が散っている。予定とは違うが、こいつも今殺すか。

 でも、ティフィスが何故ここに? ここは、今は誰も使っていないはずの橄欖宮エライアだ。玻璃宮アクイラのすぐ隣の――。

 そこまで考えたほんの一瞬の間に、ティフィス王子の後ろにいるもう一人が見えた。

 美しい刺繍が長く縁取ったうすものだけをしどけなく裸身に纏った娘。

 それは、どこかレアにも似て色の薄い金髪に蒼い眼をした天唱鳥カラヴィンカ、皇女水晶キランだった。


――ああ、そういうことかよ。


 理解した瞬間、別の護衛が後ろからおれの頭を殴りつけた。

 とんでもなく腹が減ったな、と思った。



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