第7節 天

 次に目を開いた時、最初に見えたのは也宵さんの顔だった。彼女は私の上に屈んで顔を覗き込んでいた。彼女の髪がべったりと濡れていた。

 天井が見える。也宵さんの部屋のようだ。作業場ではない。畳敷きの寝室の方だ。

 也宵さんの横に鷺森もいた。立ち上がって柱に手を突いている。彼は乾いている。

「気付いたわね」と也宵さん。

「地震で?」と鷺森。

「地震?」私は訊いた。

「いや、ほんとに地震で目を覚ましたと思ってるわけじゃないよ。ただ、確かにさっきから弱いのが何度か来てたね」鷺森が答えた。

 早朝らしい。光の加減が白く薄い。二人が私を救助してくれたのだろう。特に也宵さんだ。彼女が水に入って私を回収した。鷺森はそれを引っ張り上げたのかもしれないが水には入っていない。也宵さんも服は替えたようだ。髪だけが濡れていて服は乾いている。私は服を脱がされている。枕の横に鯉苑の浴衣と帯が畳んである。

 なぜ二人は私を助けることができたのだろう? 私が出ていくところを見て追ってきたんだろうか。そうでもないとあの穴には辿り着けないはずだ。

「船は浮かんでいなかった?」私は訊いた。まだ少し胸に水が残っていた。飲み込もうと思ったけど咳と一緒に吐き出してしまった。

「あなただけ」也宵さんは私の肩を起こして背中を軽く叩きながら言った。「何もあなたが命を差し出すことはなかったのよ」

「どうして私、助かったんでしょう」私はそう訊いて天井に向けたままの目を細めた。

「ヘルガの心臓を連れ出したでしょう」也宵さんは言った。

「ヘルガの心臓」私は繰り返した。不思議だった。天使の心臓のことは誰にも言っていないし、口にしたことさえなかった。

「あの光は結構目立つから」

「知ってたんですね」

「ええ。だから助けられた」

「そうだけど、そうじゃなくて、あの心臓のことを知ってたんだって」

「謎の光のことは噂になっていたもの。私も探したわ。でも手は出さなかった。それほどの勇気は私にはなかった」

「なぜ心臓だと?」

「心臓といっても、便宜的な表現よ? 血を送り出すわけでもないし、生き物の臓器でもない。ただ、船にとって中核となる要素だろうというだけの比喩であって」

「だけど、私もそう思ったんです。これは心臓だって」

「あら、それは不思議ね」

「也宵さんがあれを呼び寄せたの? それとも鯉苑が何か、そういった『場』としての機能を持っているの?」

 それは核心的質問だった。でも残念ながら答えは得られなかった。

 その時また地震がきた。その揺れは細かく、とても長かった。一二分では収まらない。

「鷺森くん、カメラを用意して」也宵さんがそう言って立ち上がった。

 鷺森が部屋を出たところで私も起き上がって浴衣を羽織り、帯を結びながら外に出た。也宵さんが私の肘を掴んでいる。転ばないように支えているのかもしれないし、どこかへ行かないように捕まえているのかもしれない。

 天廊館を出て也宵さんの部屋の反対側へ回る。崖の上から湖を眺める。大地の揺れは空気まで振動させていた。低い汽笛のような重い音がかすかに聞こえた。

 鷺森がカメラバッグと三脚を持ってきた。

 湖の水面が白く変色し泡立つ。一瞬、水柱が立ち上がり、衝撃波が大気の歪みとなって木々を押し圧す。やや遅れて耳を叩く。風圧が続く。すさまじいエネルギーだ。私は何も言えずにその景色をただ眺めていた。

 収まりつつある水柱の中から何かが姿が現す。丸い頭が現れ、胸鰭が見え、尾鰭の先端が水面を離れた。まるで急速浮上した潜水艦がそのままの姿勢で空に飛び出したみたいだった。それくらい天に頭を向けていた。色は全体がやや赤みを帯びた鼠色、長さは二百メートルくらいはありそうだった。

 それは船だ。ヘルガだった。そう、形だけは。なぜ形状を保ったままあんなに巨大化したのか、それともあの船がヘルガの形状を模しただけの全くの別物なのか、そんなことはわからない。でもきっと天使の心臓の作用がヘルガを本物の船に変えたのだ。天使の心臓はちょうどいい形の石を探していて水底に沈んだヘルガを見つけたのかもしれない。

 でも、何のために?

 考える時間が与えられたのも束の間、上空から雲を引き裂いて何かが降ってくる。それがヘルガの表面に当たって何かが飛び散った。アンカーだ。上を見ると雲の間に別の船が見えた。低い。せいぜい三千メートルくらいだ。乳白色の船体がくっきりと見える。しかも一隻ではない。

 ヘルガの表面を見るとアンカーを打たれたところから罅が広がり始めていた。滝壺の霧のような水滴を滴らせながら高度を上げ、緩やかに右旋回してこちらへ進路を変えた。

 やがて罅は全身に回り、細かいところから表皮が剥離する。剥がれた破片が地面に落ちて爆発のような衝撃波を生んでいる。小さく見えても一つ一つがちょっとした岩以上の塊だ。それはやがて鯉苑の敷地や建物の上にも降り注ぐ。瓦を割り屋根を破る。

 ヘルガは私たちの頭上を超える。暗い陰が通り、周りに破片が落ちる。鷺森が私たちの頭の上に手を翳してしゃがませ、傘のように自分の背中で上を覆った。幸い私たちの真上に振ってくる破片はなかった。

 再び日向に出たところで周りを確かめて、私は破片を拾った。橄欖岩らしく見えた。

 橄欖岩? もしあれが私の彫ったヘルガのなれの果てなのだとしたら、天使の心臓はヘルガを地中に導いて熱で脱水したのだ。蛇紋岩は地中でマグマの熱に触れると脱水されて橄欖岩に変わることがある。船は高質量の実体を得ることで地中に潜ろうとしていたのか。そんな考え方にリアリティなどない。でも私はマントルの下に潜っていくヘルガをイメージした。とてもくっきりとしたイメージだった。それは私に孵化のようなものを思わせた。ヘルガの中で発生した天使の心臓が殻の形に沿って成長し外界に生まれ出る。でもそれはきっと船本来の生まれ方ではない。第二の産み、生まれ変わりのようなもので…… 

 でも、なぜ生まれ変わる必要がある?

 私は空を見上げる。そこには巨大なヘルガが浮かんでいる。ヘルガに打ったアンカーを頼りに他の船が低高度まで下りている。

「何がわかった?」鷺森が訊いた。

「船には重さがないんだ」私は言った。

「うん、そういう考え方もある」

「重さを手に入れるために重力の中心に接触しようとしたのかもしれない。接触? いや、融合というのかな」

「船はその重さを取り込むことができる?」

「そう。取り込むというか、周りにある物質を身体の材料にできるのかもしれない」

「でも、何のために?」

「何のため?」

 鷺森は私の顔を見て答えを待った。

「きっと、きっとそれが彼らの宗教だから。重さのない世界で生まれた彼らにとって、重力の中心は天なんだ。人間が科学を探求するように、宇宙の果てを想像するのと同じように、船は重力や星を目指していたんだと思う」

「重力の中心か。だとすれば船は地球だけじゃなく他の惑星にも進出しているのだろうか」

 見上げる。ヘルガは鼠色の殻を破って他の船と同じような乳白色の表面に変化していた。アンカーも抜け落ちている。他の船に捕獲されたように見えたけど、今ではヘルガの方からもアンカーを出して互いのアンカーを絡ませている。ヘルガはやや船首を上向け、他の三隻はその後上方に位置して逆に下を向いている。うち二隻はマルガレーテ。もう一隻は也宵さんのファイルでしか見たことがない船で、たしかヘレネー級といった。マルガレーテ級の一・五倍くらいの長さがあり、鰭が尻尾の方に集中している。目撃例が少ない割に発見高度が低い船の一種だった。その船団は鯉苑を囲む山々の尾根を辿るように千メートルほどの高度、時速五十キロほどの速さでゆったりと旋回していた。

「ああしていないと他の船はこの高度に留まれないんだろうね」鷺森は言った。

 私は也宵さんの方を見た。彼女は柵に手を置いてじっと船の方を眺めていた。彼女もきっとこんな近くで、自分の目で船を見るのは初めてなのだ。その反応はとても自然なものに見えた。

「ねえ、鷺森くん、あなたは船のことを一種の侵略者だと言ったわね」

「ええ、まあ」

「私はあなたの説も結構面白いと思っているのよ。本当に。でもね、もし船の侵略や破壊が私たちの感知しえない次元で行われるのだとしたら、その征服もまた私たちには感知しえないものだと思わない?」也宵さんは言い終えてから鷺森の方を見た。

「どうだろう」鷺森は曖昧に答えた。「僕は地球を尊重しすぎていたんだろうか」

 也宵さんは唇の端で少しだけ微笑んで船に目を戻した。「美しいわね」

 船団は何かの儀式のように舳先をやや地面の方へ傾けたまま緩やかに上昇していった。その乳白色の肌にも次第に空の青が滲み、やがて大気に溶け込んで見えなくなってしまった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

死よ、美しき天使よ 前河涼介 @R-Maekawa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ