第3節 星影


 夕食の間の話はそれで終わりだった。也宵さんがスタッフたちと料理について話している間に鷺森と一緒に厨房で皿洗いをして、それから部屋に戻る。階段を登りながら少しだけ続きの話をした。

「也宵さんの論はニコラテスに近いよ。船が極めて軽いものだっていうのはね。この三十年で船の観測はだいぶ進んだけど、結局のところだいたいの要素は彼の仮説を強める方へ働いている」鷺森が言った。

「お二人さん、三十分後に私の部屋に来て。夜の船を見ましょう」それぞれの部屋へ分かれる前に也宵さんが言った。

 私は部屋でお茶を一杯入れてそれを飲んだあと、鞄から洗面セットを出して歯磨きをした。少し冷えてきた。ダウンを着る。

 テレビを点けてチャンネルを回すと、ニュースでこの辺りの災害の様子を取材した撮り溜めの映像を流していた。家々が土砂に飲まれ、道が崩れていた。結構被害があったんだ。でも映像は被害のあるところだけを切り取っているのだろうな、とも思う。結局五分ほど余ってしまって、廊下に出ると也宵さんの部屋の扉が開いていたので中を覗いた。彼女は「入って」と言った。

 部屋の中は想像よりも雑多で、職人の工房のような雰囲気だった。でも私が一番驚いたのは部屋の様子ではなかった。作業台回りの壁に船の写真やイラストが何枚か貼り付けてあるのだ。夕食の時の会話からして、也宵さんは船についての知識は持っているけど、船に興味があるわけではないと思っていた。だから驚いた。彼女の部屋は船の気配で満ちていた。

 奥に壁一面のガラス戸、その向こうにウッドデッキのバルコニーがあり、白い帆布の寝椅子とサイドテーブルが置いてある。手摺から下を覗き込むとやはり崖があった。暗くて距離感がわからなかったが、目が慣れると昼間覗き込んだ崖と同じ高さだった。背筋が震えた。

「四十二ヤード」彼女は言った。「その手摺から崖下までの距離」

「ヤード?」

「ゴルフ用の測距儀で測ってみたの」

「四十二……、三十八メートルくらいでしょうか」

「高さはもう少し減るでしょう。いくら切り立ているといっても垂直ではないから」

 ゴルフ用の測距儀。レーザースコープみたいなものだろうか。

「それより上を見て」也宵さんが顔を上げたので私も見上げた。頭上には星空が広がっていた。昼間とは全く違う空の姿だ。

 也宵さんは部屋の中から踏み台に使っている丸椅子を持ってきてバルコニーのサイドテーブルの横に広げた。

「ここにいると空が近くに感じられるの。その高さがあってこそでしょうね」

 最後に作業台の前に置いてあった背凭れつきの椅子を引き摺ってきて三人分の席が揃った。全部違う椅子だ。対になったものもセットのものもない。この部屋には也宵さんしか住んでいないから、他の人のための椅子はない、ということだ。人と会うだけなら宿のどこかの部屋を借りればいい。

 鷺森が来るまでのあいだ私は也宵さんの部屋の中を眺めていた。本棚の一番上の段には外国の小説が文庫で並んでいた。ゲーテ、ノヴァーリス、ヘッセ、マン、リルケ。ドイツ語圏の作家が一大勢力をなしている。好きなのだろうか。

 そして作業台の上に置いてある小さな船の模型が目についた。両手に乗るくらいの大きさで、樹脂製。3Dプリンタで出力したものらしい。

「それも持っていく?」也宵さんが訊いた。彼女は私に答えを求めずに、続けてA3版の青いファイルを差し出した。

 それが例の資料らしい。開くとZファイルの挟みの間に船のペン画がたくさん挟んであった。かなり細かな陰影まで描き込まれている。

「あなたのおじさんが送ってくれた写真を私がなぞったもの。だいたいは」也宵さんは向かいからファイルを覗き込みながら言った。

「こういうのって機密じゃないんでしょうか」

「写真そのものはね。でも軍隊が知られたくないのは船の正体じゃないのよ。自分たちの能力なの。どれだけ船に近づけるか、どれだけきれいな写真が撮れるか、それで自分たちの能力が測られてしまうでしょ。そういうのを嫌うのよ」

 それから也宵さんは先ほどの模型を改めて手渡した。

「造形をやる人にこんなものを見せたらやる気を削いでしまうかもしれないけど」

「いえ。参考になります」

 そうしているうちに鷺森が約束より少し遅れてやってきた。「ちょっと乗っちゃってね」と誰も訊いていないのに言い訳。何か書いていたのが勢いづいたせいで遅れたというわけだ。

 部屋の中にはヴィクセンの天体望遠鏡があったけど、使うのは照準用のスコープだけだった。眺める分には本体だと倍率が高すぎるのだそうだ。

「実は船の観察は夜の方がいいんだ」鷺森が言った。「昼間は影が強すぎてディテールが見えないだろう。それに夜なら星の光が遮られるところに船がいるとわかるからね。わかるかい、アルタイルのそば、あそこに一隻いる」

 鷺森が指したところに確かに影があった。小さいけど天の川の手前なのでくっきりと輪郭が見える。

「リーゼだ。この角度のまま見て」

 私は鷺森が支えているスコープに目を当てる。星々の手前に船のシルエットが淡く浮き上がっていた。側面に光が回り込んでいるので確かに多少立体的に見える。リーゼは舳先が長く翼は小さい。チェロを長く引き伸ばしたような外形だ。

「ああ、ほんと、細長い。クラスによってこんなに違うんだ」私は言った。

「リーゼは速いんだ。音速の五倍を維持したまま高度一万メートルまで下りてきて、距離六千キロに渡って衝撃波を観測したことがある。かなり窓が割れたらしいね」

「ロシアだったわね」と也宵さん。

「船って人間には手を出さないの?」私は鷺森に訊いた。

「基本的には何にも手を出さないよ。ただそこにいるか、あるいは観察している。まだ地球に来てすぐのころ、これはニコラテスが言ってるんでリーゼ級じゃないだろうけど、彼らは海の上でカツオドリの群れを追っていた」

「カツオドリ」

「矢みたいに海に飛び込む鳥だよ。その飛び込むところに舳先を向けて浮かんでいるんだ。観察してるっていうのはそういうことさ。それから彼らはクジラに目を移した。海面に出て息を吸うところを」

「潜っていくものに興味があるの?」

「だろうね。もし彼らに興味というものがあるなら、ではあるけど」

 私たちはそれから1時間くらい空を眺めていた。私が元から置いてあるデッキチェアを譲ってもらって、也宵さんは背凭れを一杯に倒した仕事用の椅子に座っていた。従って鷺森は踏み台を与えられていたわけだけど、座っている時間はあまり長くなかった。立って背中を反らせたり手摺に寄りかかったりしてスコープを覗いていた。それで結構崖の方へ身を乗り出すのだ。きっと彼は高さを恐がらないタイプの人間なのだろう。

 私も最初はちょっと心配したけど、次第に気にならなくなった。

 ずっと星空を見つめているとまるで星のシャワーを浴びているみたいだった。宇宙は果てしない奥行きを湛えていた。私の体がとてつもなく深い場所にあるような、とてつもなく高い場所にあるような、そのどちらともつかない不思議な感覚がした。

「昼から夜までこんな快晴が続いて、しかも船が見えるところにいるって本当に珍しいんだ。君は本当に歓迎されているみたいだね」最後に鷺森が私に言った。

 曇りの日は船の姿は全然見えないのだろうか。今までの快晴の夜は也宵さんと鷺森だけで観察会を開いていたのだろうか。だとして、それはどんな雰囲気だったのだろう。

 私は色々なことを考えたけど、どれもあえて訊くには野暮ったすぎる質問な気がした。

 温泉に入って体を温める。浴場も客用とは別のものが従業員棟の横にあって、浴槽は横長のものが一つ、向かいの壁は壁ではなく天然の岩壁がそのまま室内に取り込んであった。よって窓は一面なので眺めはよくない。お湯は熱くもなくぬるくもなく、かなり透明だった。二十一時頃、也宵さんの他には従業員二人ほどで、ほとんど周りを気にせずに体を伸ばせた。話によると従業員は寮と通勤が半々くらいだそうで、最近は仕事がないので遅番でも二十時くらいにはだいたい上がってしまうということだった。確かに駐車場を出ていく車の明かりがバルコニーから何度か見えた。

 その夜私は也宵さんから預かったファイルを布団の中で開いた。見開きの左右にスチールのトレースと3DCADから出力したキャビネット図が並んでいた。スチールの右下に小さな文字で船の愛称と観測高度が記してあった。座標はなかった。見開きの左右を見比べていると船の形状が徐々に頭の中にイメージとして出来上がってきた。そうしてページをめくる。そのうちにだんだんと目に涙が浮かんできた。今までの人生で私は私なりの、彫刻という手段で美というものを追求してきたつもりだった。でも船の姿形は圧倒的だった。どこがどう、というのは説明がつかない。説明がつかないからこそ美なのだ。こんなに美しいものを差し置いて私は今まで一体何をしてきたのか。それは他でもない創作だった。そうした創作の下に私の人生があった。人生そのものが無駄なものだったような気がしてきた。

 ファイルの上に水を零すわけにはいかない。畳もシーツも汚したくなかった。ポーチからハンカチを出して顎の下に広げた。ともかく明りを消して仰向けに布団を被ったけど、それでもしばらく涙が止まらなかった。

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