第4節 兆候

 夢を見た。大勢が船を見上げていた。東京らしい。船は低い。隅々まで也宵さんのファイルを見たはずなのにその船の型には見覚えがなかった。やはり優雅な形をしている。でも他のどの船とも違っていた。細部も、印象も、全部が違っていた。強いて言えばマルガレーテをベースとして、魚のように後ろの方を縦長に、船首の丸みをやや下に潰したような感じだった。あるいは中庭の逆さ水槽で見た鯉のイメージが混じったのかもしれない。とにかく大勢が足を止めてその船を見上げていた。表情も固まっていた。でも信号は青から赤に変わり、街頭のテレビは映像を映し続けていた。時間は動いていた。公園で、横断歩道で、橋の上で、人々だけが静止していた。


 次の日は朝食のあと約束通り也宵さんと採石場へ向かった。昨日と同じようにジャガーの緑色のクーペの助手席に乗って、昨日駅からバイパスを迂回してきたのと逆の方へ道を出た。道は湖の岸に出て東へ走っている。右手にはガードレールが立っていた。湖の水面までかなり切り立った傾斜になっている。左手も崖が上に続いていて左カーブはブラインドになる。道が寸断されていなければ昨日もこっちから宿へ来たはずだ。ちょっと雲が厚くなってしまったけど、確かにいい眺めだった。対岸の山々の何箇所かは地震で崩れた斜面に露出した土が傷口のように赤く、その下に倒れた木々がただ枯れるだけの自分たちの運命を悟ったような虚ろさで折り重なっていた。

「船の名前は也宵さんがつけたんですか?」私は訊いた。「マルガレーテ、リーゼ、アベローネ」

「そうね」也宵さんは頷く。

「国の発表でも、ニュースでも、その名前になってるから、少し驚いちゃった」

「あなたのおじさんが私に訊くのよ。で彼はそれを自分で考えたみたいにお役所に言うの。私の本棚にいくらか小説があったでしょう。その中に出てくるヒロインとか、女性名から。必ずしも登場人物ではないけれど」

「ドイツの」

「そう。好き?」

「私はあまり読書家じゃないですけど」私はちょっと口籠った。「ドイツの古典文学って、とても暗澹とした雰囲気を備えている印象があって」

 也宵さんはちょっと笑った。「確かに。ひどく大雑把だけど、その印象は間違ってないと思うわ。少なからずとても濃密な死の気配が漂っている。より良い未来を想像する力を失ってしまったような、そんな感じね」

「私がきちんと読んだドイツ文学って、たぶんヘッセの『車輪の下』くらいなんです。あのお話では、たしか、主人公の死がとても唐突に訪れる。唐突なのに、それでいて全く必然のような、もともと予定されていたみたいな語り方にしている。そのイメージなんです。普通に生きているのに、当然のように自殺を考えている。うん、まあ、今の日本だって死に親近感を抱きながら普通に生きている人はいるだろうと思いますけど」

 採石場はもはや跡地だった。ゲートも看板も焼けたように錆びていた。でも鍵だけはしっかりしていた。也宵さんはその錠前に鍵を差し込んで開けた。ここも萩家の所有なのだろうか(也宵さんの名字は萩というのだ)。でも錆びた看板の会社名は全然違う名字を冠していた。だいたい錆び具合からしてその会社がきちんと管理しているとも思えなかったし、そもそもその会社が依然として存在しているとも思えなかった。たぶん管理を放棄しているので也宵さんが勝手に錠前だけ替えてしまったのだろう。

 ゲートの向こうには麓を垂直に切り取られた小さな山がいくつか並んでいた。なかなか壮大な眺めだ。そうした山々の手前にプレハブをコンクリートで建てたような社屋が残っていた。外壁は酷く汚れ、窓ガラスも半分ほど割れてなくなっている。通りがかりに近づいて中を見ると、椅子や棚が残ったままだった。でもそこはもう室内ではない。風雨と砂の侵食を受けている。ガラスのなくなった窓から妙に白い光が注いでいる。まるで洞窟だ。

 採石場の敷地で一番高いところへ登っていくと切り立った円形の崖の下に深い青い穴が見えた。

「ここで一番深い採掘抗。山を崩してそのまま下へ掘ったのね。地球の中心に向かって、どこまでも深く」

 もともとはここにも山があったようだ。ホールケーキを切り分けたような具合に元の一部分だけが残っている。私たちはその残った部分のてっぺんから穴を見下ろしている。

「岩脈がそのまま突き出て山になってた。だから周りは掘らなかった」私は言った。「でも湖と繋がっているのは?」

「穴のままだとイノシシやシカが落ちて死ぬでしょう。廃業する前にあの堰を切って水を入れたようね。水路に出れば岸に上がれるし」

「落ちた衝撃だけで死にそうだけど」

 水は深く黒かった。底には光は届かない。

「地球の中心」私は呟いた。

「まるでそれくらい深く見える」

 私は頷く。

「そこに空間があったらどんな感じがするのかしらね」

「地球の、重力の中心に?」

 也宵さんは私の質問には答えずに腕を伸ばしてゴルフ用のスコープを下に向ける。きちんと水面までの距離が測れたようだ。六十八ヤードの表示。水面から水底までの距離はわからない。

 跡地には確かにたくさんの石があった。御影石だ。でも手頃な大きさのものにはあまり魅力を感じなかった。削りたいという衝動が湧かない。どちらかというと大きい石の方が感じがよかった。でも持って帰れるわけじゃない。

「どうする?」也宵さんは訊いた。

「鯉苑の石でやります」 


 それから二週間ほどかけて私は一つの作品を仕上げた。鷺森の言った通り天気のいい日はあまりなかった。というよりも天気のいい時間が長続きしなかった。晴れ間自体は珍しくなかったけれど、雲がないところにちょうど船のシルエットが見えるということはほとんどなかった。

 葬式客は二日後には全員がチェックアウトしていった。鯉苑には誰もいない。特に従業員の昼休みになると全く無人の館内を歩き回ることができた。

 結局のところ鯉苑にはオーナー一家たる萩家の人間が三人関わっていた。1人はオーナーの也宵さん。彼女は経営にも業務にも関わっていない。鯉苑は彼女に給料を出していないのだ。実際の経営者、つまり当主は也宵さんの弟、その奥さんが女将だった。弟の方が厨房を仕切り、奥さんの方がロビーや客室を握っていた。それぞれの下に弟子のような従業員が数人ついていた。でも下駄箱やロッカーを見た感じだとあと十倍スタッフが多くても全然驚かないくらいだ。客室の数を考えるとむしろそれくらいの人数がいないと繁忙期にやっていられないだろう。

 私は昼食後の気分転換に誰もいない館内を歩く。客室を見て回る。部屋の扉が開けっ放しにしてあり、窓から差し込んだ光が細く廊下まで達している。その光は採石場の廃屋で見た光に似ている。

 時々小さな地震が来た。鯉苑は揺るがない。でもじっくり館内を見ていると、前の日にはなかった罅が壁に走っていたり、土壁の小さな欠片が床に落ちていたりした。それはゆったりとした世界の終わりを思わせた。

 私はそのあとロビーに下りてラウンジのソファで鯉の塔を眺めた。西日に当たる時の鯉の塔が一番綺麗だった。ガラスと水の具合でプリズムのように光を反射した。私はそこで眠ければ少しだけ昼寝をして、そうでなければニコラテスを読んだ。船が最初に接触した動物がカツオドリであることも確かに書いてあった。

 そうして気を取り直すのに大抵1時間は費やさない。納屋へ戻って午後の作業に取り掛かる。石を削る。無心にヤスリを当てる。なかなか思い通りの形には近づかない。理想の線は見えている。でも石は硬い。木や石膏ならもっと早いだろう。形を作るのは簡単だ。でも私は石が好きだ。削る時の重たさが好きだ。磨き上げた時の手触りが好きだ。少しずつしか削れない分、理想の線を精密に探り当てることができる。

 そうして二三時間続けているとあるところでまたふっと気力が跡形もなく消し飛んで手が止まる。そうなると私はコーヒーを入れた小さな魔法瓶と双眼鏡(これは鷺森が私に預けている)を持って裏門を出て道を渡り、柵を飛び越えて草原の真ん中に立つ。道を挟んでいるがそこも鯉苑の土地だ。ちょうど小さな丘のようになっていて空が広い。コーヒーを蓋に出して一口飲む。夏とはいえ鯉苑の標高だと少し熱いくらいでも十分だった。それから空を見上げる。この時までできるだけ空を見ないでおく。期待したいのだ。でも船は見えなかった。大抵は雲が厚かった。雲の裏にはいるのかもしれない。そう思って雲が流れるのを眺める。でも現れない。別の日には雲はなかった。でも空全体に薄く靄がかかっていて、たとえそこに船がいてもシルエットを見分けるのは難しそうだった。快晴の日がなかったわけじゃない。初日と同じような宇宙まで落ちていけるような空だった。でもそこに船はいなかった。雨こそほとんどなかったけれど、でも結局何日経っても船は見えなかった。私が鯉苑に来た初日だけだ。鷺森が言った通り、事実それは奇跡のような一日だったのだ。

 そんなわけで私は別に朝から晩まで納屋に缶詰して作業に没頭していたわけじゃない。作業している時間と休んでいる時間が半々くらいだった。それでも私の作品は二週間もするとほとんど完成していた。同じくらいの大きさ、同じくらいの複雑さの作品をいくつか作ってきたけど、普通の工期が三四ヶ月であることを考えるとそれはすごい速さだった。普段の私には授業があり、人付き合いがあり、アルバイトがあった。今はそれがない。作業に長く時間を宛てることができる。でもそれだけじゃない。作業する時間だけで作品を作っているわけじゃない。そんな感覚があった。ここにきて私は手を動かしていない間にも作品のことを考え、頭の中で次の行程を考えていた。手が石の感触を思い出していた。そういう感覚がふとやってくる。休んでいる間に現実より早く石の感触が手の上に戻ってくる。そうすると、さあ、作業に戻ろうと思える。戻らなければ気が済まない。

 私は今あらゆる現実の問題から抜け出しているんだ。ここでは私が望むものだけを私の前に置くことができる。そのためだけに時間を費やすことができる。幸福だ。

 でもその時間にも必ず終わりは来る。いつかは終わる。きっと想像よりも早く、ヘッセや他のドイツの作家たちが怖れた死のようにやってくる。

 温泉に浸かっている間によくそんなことを考えた。考えたというよりも勝手に頭の中に入ってきた虫がぐるぐると飛び回っているみたいな感じがした。夕食の後部屋でテレビを見ながら道具の手入れをして、思いついた面や線の形を画用紙に描いたりしたあと、十時から十一時前くらいに入浴することがほとんどだった。納屋は明かりがないから夜は仕事にならない。その時間帯になると従業員たちは上がってしまっているから大抵一人だった。一人でかけ流しのお湯の音を聞きながら夜空の色に曇った窓を見上げているとそんな気持ちになる。心地よさの上に薄い膜のように不安が張ってくる。

 鏡の前に座る。あるいは窓の前に立つ。この広い空間に他の人間は誰もいない。あるいは窓の向こうに誰かがいるとして、それはきっと人間ではない。

 自分はどうするべきなのか、美に近づくことができるのか、映った像に向かって私は問いかけている。

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