第5節 重力

 天廊館の外の蛇口の前に船台を組み直して、水を流しながら仕上げの研磨を繰り返し、そのあと天日に干しながら材木を一つ椅子代わりにして自分のつくった彫刻をじっくりと眺めた。長さは八十センチくらい。重さは十キロにならないくらいだろう。まるで魚だ。空気の中を泳ぐ魚。長く縦長の楕円断面の尾、平たい頭、長い胸鰭。そう、それは初日の夢に出てきた船だった。手で触って曲面を確かめる。表面には太陽の温もりがたまっている。でも内奥には深い冷たさがあった。

 次の朝の十時頃、私はその彫刻をロビーに持って下りた。長いこと持って移動するにはあまり適さない重さと形だけど、結局抱き枕のように抱きかかえるのが最も安定した。

 中庭では鯉たちが相変わらず鯉の塔に集まっていた。私は鯉たちがどんな顔をして彫刻を見るのか確かめてみたかった。池のへりにしゃがみ、像を水平にして膝の上に置いた。鯉たちは餌を期待する目でちょっとだけこちらを見て、でもあとは普段通り鰓や鰭をひらひらさせているだけだった。全然興味が湧かないみたいだ。何が面白いのかわからない。あるいは私が何を持ってきたとも思っていないし、なんなら私がここにいることも大して認識していないのかもしれない。私に鯉の気持ちがわからないのと同じだ。

 試しに水の中へ沈めてみる。近くにいた小さな鯉たちが身を翻して距離を置く。水面にばしゃりと波が立つ。ゆっくり沈めて背中が全部浸かったくらいでごんと鈍い音がした。頭が底についたようだ。もっと広い場所で泳がせてやりたいような気がした。

 ベンチに像をそっと置いて横に座る。時々表面を撫でて乾くのを待つ。上空に流れる雲が池の水面に反射していた。

 しばらくして鷺森がガラス戸を開いて隙間から顔を見せた。

「やあ」

「はい」

「完成したの?」彼はそう訊いて像の前にしゃがんだ。

「ヘルガっていうの」

「ヘルガ」

「昨日ね、也宵さんに見せたら、名前をつけようって」

「ふむ……。人が想像したものも船に列するのか、彼女は」

「ちょっと気を利かせてくれただけでしょ」

「まあね」鷺森はそう言って、でも敗軍の司令官みたいに難しい顔をしてしばらくヘルガを見つめていた。

「ねえ」

「なに?」私が呼ぶと彼は顔を上げた。

「船に乗れないかな」

「え?」

「あの船じゃなくて、水に浮かぶ方」

「ああ、そういうことね」

 鷺森が也宵さんのジャガーを借りて下りてくるまで私はロビーの椅子に座って待っていた。緑色のジャガーは車寄せの下までするりと入ってきて停まった。トランクを開けて車体にぶつけないように慎重にヘルガを乗せる。走っている間に滑ると恐いので私は後ろの席に乗って押さえておくことにした。

「聞いたことあるかな」坂をしばらく下ったところで鷺森が口を開いた。ルームミラー越しに目を合わせる。「スタッフたちが言ってるんだけど、近頃夜になると出るらしいんだ。火の玉みたいなものが」

「ふうん。鯉苑にもそういう怪談があるんだ」

「いや、長いことなかったね。つい最近だよ。そいつは茶室の渡り廊下だとか新館だとか、天廊館も、方々をあてどもなくゆっくり進んでいる。その光が窓越しに見えるわけだ」

「夜中っていうけど、昼間だと光ってても見えないだけだね」

「それは……、そうだろうけど、知花ちゃんはそういうの信じないの?」

「火の玉を信じないって言ったんじゃないよ。だけど、簡単に説明できることを奇跡みたいに言うのはただの無明であって、ロマンチックじゃない」

 桟橋でボートを借りて沖に漕ぎ出す。湖は山脈と山脈の間にできたV字の谷に水が溜まったような構造で、細長くて複雑な輪郭をしている。平らな岸はほとんどない。水面は穏やかで流れはなく、水は氷のように透き通っている。太陽はほとんど真上にあって、いくら気温が低いといってもしばらくいると日焼けしそうな日差しだった。船の内側がパラボラのように光を集めているのだ。

 ちょうど両岸からの中間くらいのところで水にオールを差し込んで舟足を止める。艇尾に座ってヘルガを膝に乗せ、尾鰭の付け根と背びれをしっかりと掴んで頭の方から水の中に差し込んだ。水中の方がかなり軽く感じるけど、それでも浮力はない。

「漕いで」私は振り向かずに言った。

「こっちへ?」と鷺森。

「そう。ゆっくりね」

 彼はオールを掴んだ。次第に流れが生まれ、水に差し込んだ私の手首が水を切る。

 石と指の間に水が入り込む。やがて層状の薄い水が私とヘルガを引き裂く。

 でも掴み直さなければいけないという気持ちは不思議と起こらなかった。

 ヘルガが沈んでいく。

 艇尾が軽くなって浮き上がる。それを察した鷺森が右舷にオールを差して船を旋回させた。

 透明な水の中をヘルガがまっすぐに進んでいくのが見えた。

 やがて闇の中に紛れて見えなくなる。

「死よ、美しき天使よ。わが魂とともにあれ」私は小さな声で言った。

 たぶん聞こえていたのだろうけど、鷺森はしばらくの沈黙のあと、「アーメン」と唱和した。せっかく完成させた作品をいきなり湖の底に沈めるのだ。傍で見ていて驚かないわけがない。彼なりに配慮してくれたのだと思う。

「まっすぐに沈んでいったね」彼は言った。

「蛇紋岩って重いの。比重が3を超えるのもあるくらい」

「特殊な岩石なのかい?」

「全然」マントルの主成分からできた橄欖岩が熱水に触れると変質して蛇紋岩になる。含水鉱物だから脆くて加工しやすい。私はそんな説明をした。

「ともかく深く潜れそうだ」鷺森は言った。「あるいは地球の奥深くまで」

 私はもう一度水底を覗き込んだ。そこには宇宙のようなとめどもない闇が溜まっているだけだった。

「全部嘘なの」私は言った。

「嘘って」

「大学で耐震工事をしているっていうの」

 鷺森は何も言えずに私を見つめていた。

「だから、どこか他の場所、誰かの家で作業しなきゃいけないというのも嘘。家族にも親戚にも本当のことは言ってない」

「ふむ。本当は大学で作業できるんだ。でも君はここに来なきゃいけなかった。何かが君を呼んだ」

「来なきゃいけなかったというか、なんというかね、普段の場所の近くにいたくなかったの」

「どうしてだろう」

「人の愚かさのようなものが嫌になってしまったのだと思う。自分だけは賢明だなんて思うつもりはないけど、私自身もきっと愚かな人間の一人なのだろうけど、この世界には道理というものがあって、合理性というものがあって、それを守ることは全然簡単な、労力のかからないことなのに、私の周りではそれが満たされないの。わかるかな」

 鷺森は慎重に頷いた。「わかると思う。だけどそんなふうに考えられる君が愚かだとは思えない。君は賢明だ。周りの人間よりもずっとね。だから大勢の人間の中にいると苛立ち、疲れてしまう」

「そうかもしれない。でも人間がそんなものだって思いたくないの。昔は本当の大人たちがいて、全てにおいて私を上回っていて、私もいつかそこへ行く、だんだん登っていくんだって思っていた。でも今は全然上が見えないの。私だけが勝手に天井を越えられるわけじゃない。この世界にはこれ以上私が昇っていける場所はないんだ。それは幻想の中にしか存在しないみたいに思えた」

 鷺森はゆっくりと両手を擦り合わせた。「だから君は船を天使だと言ったんだ」

「そうだと思う」

「君が鯉苑を選んだのかい?」

「ううん。おじさんに相談して紹介してもらったのは本当」

「おじさんにも打ち明けてない?」

「ない。静かで広々したところを知らないかって、それだけ。今初めて自分以外の誰かに言ったの」

「うん。確かに、今の鯉苑にはお客もスタッフもいない。一人になれる」

「でもね、おじさんが鯉苑のことを教えてくれたのはあの地震の前のことなのよ」

「何かおかしい?」

「あの地震がなかったら、この時期だもの、もっとお客さんがいるでしょう」

「新館や離れの方は混雑するだろうけど、天廊館は別さ。あの納屋だって別に何らありがたい建物じゃない。でもまあ、君の気持はわからないでもない。そこには何らかの必然が感じられる。違う?」

「そう。違わない。私は鯉苑に呼ばれたような気がする。あるいは也宵さんに」

「也宵さんに」鷺森はその部分を繰り返した。

「船だって彼女が呼んでいるような気がするの。鯉苑を目印にして、ここに降りてこいって。それがどういう方法かなんて想像がつかないけど、彼女は私やあなたよりもはるかに多くのことを知っているはずでしょう。それが私に理解できなくても、神秘的なものに思えても何ら不思議はないと思うの」

「船が天使なら、彼女はさしずめ預言者ってことになる。常人にはない次元の感性を備えているわけだね」

「どう思う?」

「僕もかなり時間をかけて彼女のことを理解しようとしてきたからね。あまり遠くへ行ってほしくはないよ」


 それから私は部屋に戻って長い昼寝をして、再び目覚めてから夕食までの1時間ほどでじっくりと体調を整えた。夕日の赤く重たい光が胃の中に入り込んで体をずっしりと重くしているような感じがした。

 也宵さんは普段通り食堂に入ってきた。黒地に赤と金の小さな花柄のついたサマードレスを着て一本残らずぴったりと髪を下ろし、ほとんど表情を変えずに料理の味に集中していた。

 デザートのカスタードプリンを食べている時に鷺森が湖のことを言った。私がヘルガを沈めたことを聞くと彼女もさすがにちょっと口を開けたままにした。

「どうして沈めたの」也宵さんは指先をナプキンで拭きながら訊いた。

「泳がせてみたかったんです」

「泳がせるだけでよかったのよね?」

「私の手を離れて進んでいく。彼女がそれを望んでいたような気がしたの」

「そう……」也宵さんはナプキンを口の周りにも当てた。「あなたは過去に動物をモチーフにした作品をいくつか作っているわね。彼らにそうした意思を感じたことはある?」

「ええ」私は頷く。

「あなたの手から離れていく意思を?」

「いえ、それはない」

「そう」也宵さんは頷いた。質問はそれで終わりだった。

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