第6節 墜落

 私は次の像をつくらなければならなかった。夏休みが終わるまでにここでできるだけ多くのことをしたかった。でも納屋は明りがないし、道具の手入れも昨日済ませてある。ヘルガを湖に沈めたあとの私にできることはほとんど何もなかった。夕食のあとは時間だけはあるからスケッチをしながらアイデアを練ろうと思っていた。

 でも三十分持たなかった。どこかそわそわしてくる。机にかじりついていることができない。『バレッジ・バルーン』を読む気にもなれなかった。部屋に備え付けの懐中電灯を持って納屋に行く。納屋の明かりをつけて入口に立ったまましばらく考え、箒を取って地面に落ちた石の欠片や削りかすを集めた。懐中電灯を壁に向けて距離を調節するとそれなりの明かりになった。その死にかけの光の中で全ての事物が水底に落ちたように暗く沈んでいた。材木で組んだ船台の上には何も乗っていない。ヘルガは今本物の水底にいる。私のもとには残っていない。私の人生に私の命だけが無意味に残されたような、そんな感じがした。

 また三十分ほどで部屋に戻ってテレビをつけた。帰っていくスタッフの車のヘッドライトが時折窓の外に光った。そして一度だけ小さな地震があった。深度二にもならないような小さな、でも長い地震だった。たぶん先日の地震の余震だろう。私は横になったまま肩や背中の下に畳の揺れを感じていた。その下には天廊館の基礎があり、土があり、岩盤があり、マントルがある。それは地球の蠕動なのだ。地球の震えなのだ。地球は動いている。地下の熱が地表の形を刻々と変革している。不変ではない。絶対ではない。そして星の熱もいつかは冷める。その命に終焉が訪れる。私はその上に寝転がっている。不安定なものの上で生まれ、そして死んでいく。

 二十一時半を回ったので着替えを持って風呂に行く。也宵さんの部屋は扉の小窓から光が漏れていた。それだけ確認して大階段を下る。相変わらず誰ともすれ違わないし、脱衣場にも浴室にも誰もいなかった。ただお湯の流れる音だけがざぶざぶと響いていた。

 耳と鼻を押さえて仰向けに潜る。岩壁に足をつけて体が沈むように押さえておく。目は開けない。お湯が注ぐごうごうという音が闇の中で響いていた。その音は風邪を引いた時に見る夢に似ていた。その世界は仮初のもので、じきに終わりを迎え、そのあとに新しい世界が始まる。それは一つの世界が崩壊していく時の音なのだ。

 真水の温かいシャワーを頭から浴びて髪を梳かしてから上がる。体を拭いて服を着る。

 そしてそれが現れた。

 最初はどこかの部屋の明かりが点いているだけのように見えた。でもそれにしては光源が揺らいでいる。そうか、そういえば鷺森が火の玉の噂を話していた。このことかもしれない。全く夜なので一見ちょっと方角がわからなかったけど、よく見るとそれはロビーのあたりだった。

 渡り廊下を下りて従業員棟を突っ切る。階段をゆっくり下りる。光の揺らぎが壁に映っている。心臓が高鳴る。唾を飲み込む。何かが壁に当たる、ごん、ごん、というくぐもった音が聞こえた。足を止め、体を低くしてロビーの中を覗き込む。

 それは細長い紡錘形の光源だった。

 白くほんの少し黄色がかった弱い光を発している。発光というよりも蓄光といった程度の弱い光だ。その動きはヘリウムの入った風船を思わせた。突風を受けたように左右に揺れながら、その度にちょっと天井を離れて惰性で移動し、また紡錘形の一端で着地する。それを繰り返してあてどもなくさまよっている。自分では行き先を決められないような感じだった。天地が逆ならマリオネットの脚がちょうどそんなふうな動きをするかもしれない。

 しばらく眺めているうちに固く締まっていた心臓が平静の柔らかい脈動を取り戻しつつあった。

 私は手近な椅子に服とバスタオルを置いて真下からそれを見上げた。生き物かと思ったけど、近づいてみても全くの紡錘形だった。長さは三十センチくらいだろうか。それが生き物ではないと気づいた瞬間、再び心臓がきゅっと締まった。呼吸がつらい。指先や脚が震えている。何度か唾を飲んで喉をこじ開け声を出す。

「ねえ、あなたは船なの?」私は言った。でもそれがあまりに小さな声だったのでもう一度繰り返した。

 繰り返したけれどそれは返事をしなかった。返事どころか何の反応も返さないのだ。ただくねくねと揺れながら天井をつついているだけだった。私の声が聞こえていないのかもしれない。私の姿が見えていないのかもしれない。

 私はフロントの裏に高い脚立があるのを知っていた。電球を取り換える時に使うやつだ。その紡錘形からできるだけ目を離さないように脚立を担いできて真下に立て、上に登って手を伸ばした。

 紡錘形の一端に指先が触れる。ドライアイスのような冷気。思い切って掴む。消しゴムのような柔らかさ。でも表面はガラスのようにつるつるとしている。不思議だ。大丈夫、危険なものではない。それはまだ私の手の中で暴れている。重さはない。むしろ昇って行こうとしている。風船と同じだ。そして掴まれてなお何ら反応を示さない。ただぐねぐねと体を振っている。

 私は脚立を下りて、紡錘形の動きと浮力を押さえられるぎりぎりまで掴む力を弱めた。ラウンジの椅子に座り、膝の上にそいつを寝かせる。

 するとそいつは少しだけ振動の力を弱めた。人肌を感じるのだろうか。そう思って一度胸に抱きしめてみた。でもそうすると振動はさっきのレベルまで戻ってしまった。再び膝の上に寝かせるとまた少し振動が弱まった。つまり私の体温ではなく自分の姿勢に反応しているのだ。紡錘形の軸を水平に近づけると振動が弱まるらしい。私はひとまずそのまま膝の上に置いてしばらくじっくりと観察してみることにした。

「ともかく、あなたが触れられるものでよかったよ。見えているだけなのかと思った」

 妙なことに私はもうそれが船の一種であるということを確信していた。合理的じゃないかもしれないけど、他に考えようがなかった。それには生き物としての要素はまったく見られなかった。目も口もなければ鰭もない。太いところで八センチくらい。両端は細く、よく見ると先が丸くなっている方と刺さりそうなくらい尖っている方があった。どうやら丸い方が頭だった。頭の方が振動の幅が大きい。どこかへ向かおうとしているのか。

 鷺森は言っていた。光の目撃証言は新館、茶室、天廊館と様々で……。

 私は廊下の穴を思い出した。也宵さんの部屋の前にあってベニヤで塞がれている穴だ。天井は確認していないけど、もしかしたら同じように穴が開いていたかもしれない。例えばこう考えるのはどうだろう。この物体は上空の船から持ち前の浮力に逆らって打ち出され、天廊館の床に突き刺さり、そこから鯉苑の方々の天井を伝って少しずつ高度を下げ、そして今ロビーにいる。下へ下へ。そしてもっと深く。でもその先はない。鯉苑で一番低い天井はおそらくここだ。ここが行き止まり。だとしたら鯉苑はこの何かにとって出口のない迷宮のように機能していたんだ。

「頑張ってここまで下りてきたの?」私は訊いた。

 もちろん返事はない。

 ヘルガは関係あるのだろうか。

 ふと鯉の塔を見やる。暗いが非常灯の明かりでかろうじて見えた。目を凝らす。でもそこに魚たちの姿はない。そうか、夜は上らないんだ。日当たりがないからだろうか。

 その時私の中で1つの決心がついた。こいつを送り届けてやるのが私の役目なのだ。それは也宵さんが求めたのかもしれないし、神が定めたものかもしれない。でも私はとにかくこれをできるだけ深い場所へ送ってやらなければならない。私は手の中のものを「天使の心臓」と呼ぶことにした。

「深く深く潜っていきたいのね?」

 持ち上げて目の前で訊くと天使の心臓はまたぶるぶると震え始めた。私は外へ出た。天井のないところでは離せない。両手でしっかりと掴み胸の下に引きつけておく。

 私は歩いた。その時私の頭の中にあったのは採石場跡のあの穴だ。車で十分弱、歩いていっても一時間にはならない。ゲートはどうする? 鍵はない。でもフェンスがあるだけで返しも有刺鉄線もついていなかったはずだ。乗り越えられるだろう。

 夜空は快晴。だんだん体が冷えてきて腕や背中が震えた。天使の心臓も震えていた。じっと体に押し当てていたので時折天使の心臓と私の体がくっついて一体になってしまったような感じがした。

 私は坂を上り、フェンスを乗り越え、藪を掻き分けてやっと穴の上に辿りついた。天使の心臓の頭は真下を強く指向していた。やはり深みを目指しているのだ。私はその穴の水底にヘルガの姿をイメージした。

 頭上に満月。息を吸う。天使の心臓をしっかりと抱きしめ、できるだけ遠くへ、崖の側面を蹴るように、飛ぶ。

 それは落ちるというよりも水面を引き寄せているような感覚だった。遠くにあったものがぐーんと引き伸ばされて一瞬後に目の前に急速に迫ってくる。垂直の岩肌が星屑のように後方へ飛び去る。

 そして目の前に水面がある。

 墜落。

 衝撃。額に残留する衝撃。気泡が頬を這う。

 そして私は気を失う。大切なものが私の手から離れていく感覚。とめどない慣性をもってすり抜けていく天使の心臓。

 細長い光は私の手を離れ、槍のように加速して深淵の中心に向かって突き進んでいく。

 待って、私も一緒に連れていってほしいのに……。

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