死よ、美しき天使よ

前河涼介

第1節 鯉苑

 鯉苑りえんに来て私は生まれて初めて自分の目で船を見た。井戸のような宇宙の群青の手前、太陽光に霞んだ大気の向こう、船は周りよりも少しだけ濃い青のシルエットになって浮かんでいた。太陽の強さに目が慣れてくるとそれなりにはっきりと見える。尾鰭のない鯨のようなシルエット。

 美しい。

 なんて美しい。

 あんなにも美しいものを知らずに私はこの世界の息苦しさに喘いできたんだ。

 「船」。四十数年前、成層圏の上層に初めて観測された飛翔体。その大きさは長いところで数百メートル、スピードは時速五百キロに満たない。飛んでいるというよりも浮かんでいるように見える。かつて大西洋を席巻したツェッペリン型飛行船との形状的な類似性から「船」と呼ばれるようになった。「船」研究の第一人者、ダグラス・ニコラテスは『バレッジ・バルーン』の導入にそんなことを書いていた。私には大した知識はない。ここへ向かう列車の中で呼んだばかりの部分だった。曰く「彼らの存在が我々の技術を超越していることは明白な事実だ。しかしそれが、自らの目で船を直視したことのない人にはわからない感覚かもしれないが、私の中に畏怖よりも魅了を催すのはなぜなのだろうか」

 也宵やよいさんが戻ってきた。彼女はほとんど物音を立てなかったけれど、それ以上に私の感覚が澄み切っていた。天廊館てんろうかんの戸口に彼女の気配があった。それで十分だった。さざ波のひとつもない水面に小さな水滴が落ちたようなものだった。

 彼女はこの宿・鯉苑のオーナーで、私は客だった。でも普通の客とはちょっと事情が違う。彼女と私のおじが高校の同窓で、その縁で鯉苑を紹介してもらって、夏休みの間長期滞在することになるのだ。初日の今日、彼女は私を駅まで迎えに来てくれた。ここで私と私の荷物を下ろしたのが今から十分ほど前のことで、それから彼女は車を置きに行っていた。鯉苑は敷地の中にかなり高低差があって、ゲスト用の部屋がある天廊館のレベルとロビーや駐車場のレベルはほとんどその天地に分かれている。それを長い階段が繋いでいるわけだけど、それでも上ってくるだけならもう少し早かっただろう。部屋の確認だとかをしていたのかもしれない。私はその間に荷物を天廊館の廊下へ入れて、そのあと空を見上げていた。標高が高い分、地表と宇宙の間にある大気の層は薄い。低地では見えない船の影が見えたのはそのせいだ。

 也宵さんは砕石敷きの上を私の横まで歩いてきて、私が見ているのと同じ船の影を見上げた。

「あの影」私は言った。

「マルガレーテ・クラス」と也宵さん。

「マルガレーテ?」

「船にも色々形や大きさがあるの。それを大まかに区別するための名前。……ああ、そうね、ニコラテスを読んでいるのよね。彼の時代にはまだほとんどマルガレーテしか観測されていなかったから、呼び分けがないのよ。調査型とか、高速型とか、その程度ね」

 也宵さんはしばらく口を閉じて影を見ていた。私は彼女の首筋をちらっと見た。少し肉がこけて皮膚の襞ができ始めているが、それでも綺麗な首筋だった。おじと同い年だから五十前後なのだろうけど。

「いい形でしょう」彼女は言った。「流体の中を滑らかに進むのに最適な形。魚と同じ」

「ここではよく?」

「晴れの日は探せば見えるわね。でも今日みたいな快晴は結構珍しいの。運がよかったわね」

「毎日見れるようなものじゃない」

「そう。それに太陽が高い間は眩しくていけない。一番いいのは秋から冬にかけて。雪が降るようになるとだめね」

 確かに太陽がほとんど天頂にかかっている。八月の初めだ。

「あれでどれくらいの大きさがあるんでしょう」私は訊いた。

「あのクラスだと全長で二百五十メートルくらいだったかな」

「二百……」

 船の影の下を黒い点が横切る。点はひとつ。後ろに白い雲が四本。旅客機のようだ。高度は船の半分くらいだろうけど翼の端から端まですっぽりと船のシルエットに収まる。

「大きいクラスだとその二倍三倍。マルガレーテは小さい部類だけど、高度が低いからよく見えるのよ」也宵さんは言った。

「あれではっきり見える方なんだ…」

 またしばらく沈黙して影を眺める。影はやがて千切れ雲に差し掛かり、それを境に見えなくなった。高度を上げたようだった。真っ白な千切れ雲は相変わらず無邪気に浮かんでいた。

 私が首を水平に戻した時には也宵さんはまだ見上げて目を細めていた。まるで彼女の目には大気の層が透けて船が見えているみたいだった。私にはまだ彼女にとって船がどんな存在なのか、どんな意味を持つのか、全くわからなかった。でも彼女がそうして眩しそうに何かを熱心に見つめている姿はとても様になっていて綺麗だった。彼女は白いカッターシャツにスパッツのような黒のジーンズ、白いデッキシューズを履いていた。しっかりと目立たない化粧をしていた。

「私、船をつくろうと思ってるんです」私は言った。私が石の彫刻をすることは車の中でも話したし、おじからも伝えてもらっていた。

「あの船を?」と也宵さん。

「そう。でも難しいですね。ニュースでも写真はほとんど出ないし、本に載ってるのはろくでもない想像の挿絵だけだし」

「私の部屋にもいくらか資料があるから貸してあげる」

 まるでそれを期待して言ったみたいになっちゃったなと思って私は苦笑いした。也宵さんも微笑した。

「もし夜まで晴れていたらもう一度船を見ましょう。よく見えるから」

 夜の方がよく見える、というのはどういうことなのだろう。でも私が質問する前に彼女は歩き始めてしまっていた。

 これも車の中で話したのだけど、天廊館の向かいに使っていない納屋があるので作業場として貸してくれるということだった。正面の大きな両開きの扉を開いて中に入る。屋根が部分的に朽ちて、そこから太陽が差し込んで地面に木漏れ日と同じような模様を描いていた。ただ単に除雪車を囲っておく目的で建てた建物なので床などないし、土間と呼べるほど整っているわけでもない。剥き出しの地面だった。鉄骨組みの下敷きになるところだけきちんとしたコンクリートの基礎が埋められている。天井は低いところで三メートル。外板はトタンの波板だった。壁際に錆びついた工具箱や何かの解体で出たような不揃いな材木が積んであった。

「すごい。広くて、屋根があって、風も入らない」私は言った。

「ちょっとボロだけどね。ここの鍵はあなたに預けておく。自由に使って」

 私が差し出した手に彼女はしっかりと鍵を置いた。キーホルダーに白い鯉の根付がついている。元から白いのか、あるいは塗りが禿げて白くなっているのかもしれない。

「あとこれ、うちの地図。持っておいて。慣れないと遭難するかもしれないから。こうして平面にしてみると大したことないように見えるのだけど、結構上下にあるの」

「はい。覚悟してます」

 地図の方は普通の旅館にパンフレットと一緒に置いてある館内図と同じようなものだった。私はそれを折り畳んで鍵と一緒にズボンのポケットに入れ、天廊館の廊下に入ってタンスくらいある大きな革の旅行鞄を二つ持ち上げた。

「そこ、気をつけて。床に穴があるの」也宵さんは先導しながら言った。

 確かに彼女の指したところだけ板張りの上に一辺五十センチくらいの合板が敷いてあった。ほとんど廊下の真ん中なので両手に荷物の私は跨がなければならない。でも床が抜けたにしては周りの床は割にしっかりしていた。納屋と違ってボロな雰囲気もない。名士の元別荘のようにきちんと手入れされている。

 与えられた部屋は402という番号だった。天廊館の上から二階層目、中庭に面した也宵さんの部屋の斜め下だった。六人くらい雑魚寝できそうな広さだ。私は修学旅行を思い出した。

「次、六時半か七時頃になると思うけど、夕食の前に呼びに来るわね」

 私がお礼を言うと、也宵さんは部屋の扉を外からそっと閉めた。

 チェックのシャツの袖を折り返し、乳酸の溜まった手を少しほぐしてから荷解きにかかる。金物ばかりの制作道具は二つの旅行鞄に分けて入れてあった。その包みの片方に手をかけてみて、でもまだ材料がないことに気付いた。道具だけ納屋に持っていったところで何もできないし、作業場は作品に合わせて整備したい。

 腕時計を見ながら少し考えて、まずは散策をしてみることにした。さっき貰った地図がきちんとポケットに入っているのを確認する。先ほどの玄関から天廊館を出て也宵さんの部屋の反対側へ回る。手摺越しに鯉苑の中庭が一望できた。建物の位置関係もだいたい把握できる。

 地図と照らし合わせながら天廊館の大階段の方から目で辿っていくと、階段は中庭の右手の方へ下りていて、その下に厨房と従業員用の食堂と浴場があり、その左奥にロビー、その左にレストラン、客間のある旧館を挟んで離れと温泉、旧館から短い渡り廊下を隔ててモダニスム建築の新館。新館の最上階から空中通路で接続している神社建築のような宴会場。私がいるところからだと宴会場の屋根がほぼ真下に見えた。也宵さんの部屋の下はほとんど崖のようになっているのだ。じっと見下ろしているとだんだん寒気がしてきた。

 中庭には上下段に分かれた池があって、上の段が宴会場と同じレベルだった。上の池の縁に沿って橋のような壁のない廊下が通っていて、右手の端には茶室がついていた。その手前には大階段の途中から廊下の方へショートカットする通路も見えた。とにかく複雑だ。そしてその複雑さは也宵さんの言った通り主に立地の高低差に起因していた。

 私は屋内へ戻って大階段を下り、中庭の橋から新館の方を回ってロビーまで下りてみた。途中ほとんど誰にもすれ違わなかったのがかなり心細かった。唯一新館の二階のラウンジで他の客たちを見かけた。彼らは黒い服を着て書類を読み交わしていた。ゲスト客の他には葬式で集まっている団体だけだと也宵さんは言っていた。先月地震に見舞われてから今月のキャンセルが続出したらしい。確かに駅までの近道になる旧道は土砂崩れで通行止めになっているし、小さな余震も続いている。でもそれだけだ。鯉苑に被害はないし温泉もきちんと出ている。心配性な客が多いのだ。客が少ないからには従業員も手持無沙汰にはしておけない。もともと季節労働だから大半は例年より早く街へ下ろしてしまった。そうして人気のない鯉苑ができ上がっていた。まるで建物、宿全体が深い眠りの中にあるような感じがした。

 ようやくロビーに辿り着いた。中庭の方がガラス張りになっていて、テニスコート半面程の池に奥から岩伝いに水が流れ落ちているのが見える。そして池の中央の水面から巨大な水晶のようなものが立ち上がっていた。

 中庭に出るガラス戸を開けて池のほとりからよく見てみると、それはポリカーボネートの水槽を逆さにして水で満たしたもののようだった。空気の入り込む隙間がないから水位が下がらないのだ。そこに色とりどりの錦鯉が何匹も入り込んで日向ぼっこをしていた。

 私は池のほとりにしゃがんでその鯉たちをじっくりと観察した。下の水面を見渡してもそんなに鯉が集まっているところは他にない。どうも鯉はその透明な塔が好きみたいだった。でも見かけどおり日向ぼっこをするために集まっているのかどうか、はっきりしたことはわからなかった。彼らの目をじっと見ていても何を考えているのかよくわからないのだ。私のことを観察しているようにも見えるし、何にも考えていないようにも見えた。

 脚が痺れそうだったので窓際に置かれたベンチに移った。鯉の形もなかなかいいものだ。鼻先は丸みがあって薄く、腹側よりも背中側に膨らみがあって、水の抵抗や乱流を極力減らしながら体の容積を確保している。流れの速いところで生き続ける川魚は総じて洗練された形状を持つ。陸の動物にはない。「流体の中を滑らかに進むのに最適な形。魚と同じ」也宵さんが先ほどそう言ったのを思い出す。

 船もきっと大気の中を泳いでいるんだろうな。

 船のことをイメージすると少し気がはやった。

 外はどうなっているのだろう。ロビーの表玄関を出るとやや左へ傾いた土地に駐車場が広がっていた。右手の方は業務用の駐車場から天廊館の横まで登る坂道に繋がっている。そっちは来る時に通って知っているから、左手へ出てみよう。離れや温泉の周りは生け垣が高くて中の様子がよくわからなかったけど、新館の裏手まで来ると白砂利敷きの立派な石庭があって開けていた。でも私の目を引いたのは石庭ではなくその向こうにある崖の露頭だった。岩体が露出しているのだ。触ってみると橄欖岩や蛇紋岩らしいことがわかった。蛇紋岩は軟らかく加工しやすい。量は大したことはないけど、材料としては十分だ。使わせてもらえないだろうか。

 崖の上の方へ視線を辿っていくと、宴会場の軒の向こうに也宵さんの部屋のバルコニーが見えた。さらに向こうには群青の空があって、上で見た時よりも不思議と高く見えた。

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