第2節 仮説

 鷺森に会ったのはその日の夕食だった。

 十八時を少し回った頃に也宵さんが部屋に呼びにきた。彼女は昼間とは違う服装になっていた。襟にスリットの入った深緑色の中国風のワンピースで、彼女のほっそりした体型によく似合っていた。私は部屋の明かりを消して鍵を閉め、也宵さんに続いて大階段を下った。山の上は日が長いというけど、山の陰に入る一帯では話は別だった。外の暗がりが建物の中まで入り込んでくる。天井に丸いランプが下がっていて坑道のような雰囲気だった。也宵さんはどんどん深い方へ下りていく。

「天廊館のお客には大抵試作品を食べてもらうの。見た目が悪かったり味が変だったりするから遠慮なく言ってね」也宵さんは猫のように静かに階段を下りながら言った。

 私は立ち止まって左手の窓から宴会場の下にある崖を見下ろした。也宵さんは何段か行き過ぎてから同じように窓辺へ寄って、それからゆっくりと私の方へ階段を上ってきた。

「すごい崖」私は呟いた。

 その崖は下より上の方が出っ張っているんじゃないかというくらいものすごい傾斜だった。細かな丸みやへこみや出っ張りがなかったら壁といってもいいくらいのものだった。

「一枚岩だから崩れないのよ」と也宵さん。

「でも奥の方へ行くと、あの辺りは蛇紋岩ですね。たぶん脆い」

「ああ、あの辺りは時々崩れるわね。さすがに真下に人の入るものは建てられないから新館の裏は石庭にしてあるの」

「あの、鯉苑の中で材料を採ってもいいですか」

「あの崖から?」

「わざわざ削ったりしませんけど、落ちているのとか、これくらいのを」私は両手でひと抱えくらいの大きさを示した。

「うん。仕方なく使うのでなければ。それか、明日石切り場の跡へ行ってみない? たしか御影石だったと思うけど、いい素材が見つかるかもしれない」

 御影石、花崗岩か。也宵さんが一枚岩だといった崖も確かに花崗岩らしい風合いだった。この辺りはそれなりの産地だったということか。

 階段を降り切ったところで右斜め前方の従業員棟に入って二三段上がり、さらに二階に上がる階段をぐるりと上った。その廊下沿いに従業員用の食堂がある。

 鷺森は入口に近い窓側の席に先に座っていて、私たち二人を戸口に見つけると腰を上げた。彼が作家だという話は聞いていたけど、顔立ちはともかく体格は想像とは違って胸板が厚くて腕もガチガチのマッチョだった。ミントグリーンのシャツに明るいベージュのチノパン。歳は三十くらいだろう。

「沖田知花です」私はテーブルの前に立って挨拶した。

「よろしく、鷺森です」彼は下の名前を言わなかった。彼は奥の席を引いて私に座るよう促す。私は素直にその椅子に腰を下ろした。

 也宵さんは取り澄まして手前の席に横からすっと座る。

 食堂は従業員用といっても全くみすぼらしいところがない。広くて窓が大きく、教会建築のように柱の上がアーチを描いていた。

 奥の厨房で五人くらいが動き回っている。料理は豆腐や酢の物の先付けから鱒の刺身、鹿肉の炊き合わせなど。一品一品は少なめで、試作中のものをサーブしてもらうので一人一人盛り付けが違っていて、新しいプレートが出てくる度に也宵さんが一つずつ確認と評価をして、私たちにも感想を求めた。だから私と鷺森が話せるのはサーブとサーブの合間だけだった。

 鷺森は私に基本的なことを訊いた。わかっていることをわざわざ訊くのも野暮だけど、それより黙っている方が気が利かないな、といったような感じだった。

「君のおじさんが也宵さんの高校の同級生だそうだね」鷺森は言った。

「大学のアトリエが耐震工事中なんで、その間だけここで作業場を借りることになったんです。石を割るのにタガネを打ったりすると結構響くから、うちもだめ、他の親戚のうちもよくないってことで、それならここがいいって」

「うん。それはいいね。いい人脈だ。天廊館に入るのは也宵さんを頼って泊りにくる客なんだ。中には普通よりいい待遇を期待してくる輩もいるようだけど、そういうのには向いてない」

「鷺森さんは?」

「僕は単に長期だから安い方を選んでいるだけさ」

「長いんですか」

「半年くらいになるね」

「仕事?」

「半分はね。鯉苑を題材に月一でルポのようなものを書いてる。ここほどの旅館でここより高いところにある宿はこの国には他にないからね」

「あとの半分は?」

「船を見るためさ。鯉苑と船の記事だったら十割で仕事にできたんだけどね。非科学的な言説が一時ブームになってから船の記事は嫌われてるんだ。どちらかというと科学的に突っ込んだものの方が嫌われている。鯉苑は船を見るための宿じゃない。あくまで船が見える宿なんだ。まあ、それくらいの心構えの方がいいのかもしれないけどね。鯉苑にも、船にも」

「その仕事だけ?」

「まさか。創作は一人になれる部屋とワープロがあれば場所は選ばないからね。――ところで、石を使うって話だったけど」

 私はポーチからポートフォリオを出して鷺森に渡した。はがき判で作ったのはこういう時のためだ。持ち歩いても荷物にならない。

「石も持ってきた?」彼はポートフォリオを捲りながらちょっと目を上げて訊いた。

「こっちで調達します。崖の石がいい具合ですね」

「そう。何を作るかはもう決めた?」

「船を。――ねえ、鷺森さんも船が好きなのね」

「ここへ来てから魅せられたね。もうずいぶん観察しているけど、今日みたいにいい日はなかなかないよ。もしかしたら君が来たおかげかもしれない。でも君は別に前々から船に興味があったわけじゃないんだろう?」

「ええ。おじに鯉苑を教えてもらってからちょっと調べて」私はタオルで手を拭いながら少し考えた。「船って何なんでしょう」

「諸説ある。僕にも解釈はあるけどね」

「どんな?」私は訊いた。彼はその言葉を待っているように思えた。

「船が美しいと思うかい?」

「ええ、まあ」

「僕もそう思う。あれは我々にカタストロフィを与えに来たんだと僕は思うね。一種のエイリアンだ」

「非科学的?」

「異星体の存在そのものは決して非科学的なものじゃないよ。実証に不足するだけで」

 鷺森は少し間を置いて私の様子を見た。

「いや、だめだ。僕の考えを参考にする前に君の純粋なイメージを聞いておきたい。どう思う?」彼は言った。それからポートフォリオを閉じて私に返した。

「私は天使だと思う」私はポーチを閉じてから答えた。

「うん」鷺森はしっかりと頷く。「天使、それは人々に幸いを齎すもの?」

「幸いも苦しみも、あらゆる運命を齎すもの。存在のない不可知のもの。燦然と輝く美のイデア」

「うん。正解はない」

「わからない。これ以上、言いたくても言えない。鷺森さんの考えはずいぶん固まってるみたいだけど、なぜエイリアンなの?」

 鷺森はまた少し間を置いて私の様子を見てから先を続けた。

「船の形態は地球を侵略するのに非常に理にかなっていると僕は思うんだ。まずアメリカの映画やなんかに伝統的に登場する侵略者の格好をイメージしてごらんよ。だいたいおどろおどろしい気色の悪い見た目をしてる。触手がたくさん生えてたり、全身からよだれを垂らしてたり、目が赤く光ったりしてさ。金属的なのも、ナマモノ的なのも、どっこいどっこいだ。そいつらは人間を目の敵にしていて、地球の利権を狙っているか、星ごと滅亡させようとしている。それでもって人間を探し出してずたずたに引き裂いたり、電磁波で携帯を駄目にしたりする」

 私は頷いた。

「でもそんなのって賢明な侵略の仕方だとは思えなくないかな。大抵地球人の団結を催して退治されちゃうわけだ。そういうシナリオになってるし、そういう団結を示唆するための創作であるわけだからね、そこはリアルじゃない。脚本家のご都合だ。あるいは国家戦争の写しといってもいい。アメリカは負けたことがないからね。いや、勝つのに失敗したことはあっても、降伏したことはない。まだ知らない負けというものが怖いんだよな。どんなものがどんなふうに自分を負かすのか、想像してみたい。不安を拭いたい。地球では負けようがないから、自分より強いのは、じゃあ、宇宙だ。でも船は違うよね。綺麗だ。ぞっとするかもしれないけど、質が違う。そういうものは敵の戯画としては不適だね。恐がったり、恨んだりすることが難しい。でも僕は本当に世界を滅ぼすのはああいった美しいものだと思う」

 じゃあ、どんな侵略が賢明なのか。私が何も訊かなくても鷺森は先を続けた。

「人間が、あるいは地球上のあらゆる生き物が、嫌がるようなことをしなきゃいいんだ。リアリティのある侵略というのは、まず人間を魅了することさ。敵視されなければいい。甘い香りのする睡眠薬を相手の鼻に翳すようにしてね。僕も君も船を美しく感じるというのはそういうことなんじゃないだろうか。宇宙を渡ってくるだけの技術を持っているのだから、その文明、侵略手段は人間の想像を圧倒して然るべきなんだ。だから、船が神に類するものではないかという考え方をするのはまさに船の術中にあるような気がするよ。人間の心の中に入り込んでいるわけだからね」

 私は鷺森の意見をじっくりと考えた。本当に世界を滅ぼすのはああいった美しいものだと思う。口の中でその言葉を繰り返す。

「それはいけないことなのかな」私は言った。

「え?」

「人間を魅了する侵略者に征服されることは、不幸なのかな」

「わからない」鷺森はとても意外そうに首を振った。「でも征服されるということは人類種が衰退に向かうということを意味しているんじゃないかな」

「そう……。人類種の行方に私自身の幸不幸は絡まない、という考え方は世界を議論する時には嫌われるのかもしれないけど」

「醒めてるね」

「少しね」私はそう言って少しだけ微笑をつくった。

「也宵さんはどう思います?」鷺森が話を振った。

「何?」

「船が何者なのか」

 也宵さんは答える前にゆったりとキールのグラスを傾けた。

「船は船に他ならないわね」彼女は言った。「成層圏上層より上空を飛翔、あるいは浮遊し、時折対流圏下層まで突入する。その行動は海面に達することがある。低高度に滞留しないのは船があまりに軽量なせいかもしれない。私にできるのは科学的な解釈だけ」

「じゃあ、どこから来たのか」

「宇宙ね」

「そうですか?」鷺森はちょっとにやっとした。

「二十年くらい前だったかしら。アベローネ級がカリフォルニア沖の海面に残した観測機械に使われていたリチウム合金の組成は人間によるいかなる製法とも異なっていたし、採掘物や出土品にも似たようなものは見られなかった」

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