帰還

 集落を占めていた哀しみはやがて薄らいで、どうやら過去となったらしい。笑顔を見せる者が増えてきた。わたしは拙い言葉で彼女に訴えた。わたしを待っている人がいるのだと、不在を悲しむ者がいるのだと。意図はどうやら伝わって、彼女は困ったように、ためらいつつも同意を指で示す。帰る方法を探すことを約束してくれた。

 地理に詳しい男を紹介してくれた。壮年の、背の高い彼はわたしの下手な言葉にも辛抱強く付き合ってくれた。滑落の始点の地形や時間帯、詳細な状況をあの手この手で伝える。身振りは非常に役に立った。


 光はようやく見えてきた。それなのに胸のうちは散らかったままだった。やっと覚えはじめた言葉、質素ではありつつも鮮やかに感覚に刻まれた暮らし、彼女への名前のない愛着。捨て置くには惜しく思えて、けれど永遠にそのままではいられないもの。毎晩、ひとりになると喚きたくなった。それこそが、わたしはかれらの暮らしに不適格である証拠だった。

 帰り道は数日と経ずに得られた。彼女はわたしの荷物を土砂の下に失ったことを謝った。それはいっさい、彼女のせいではないのに。しいて言うならば、早く決断を下せなかったわたしの誤りなのだった。その気になれば、必死に訴えようとすればとっくに出て行くことができたはずだ。あまりに簡単に進んだ帰還計画が示している。

 男の先導で、わたしと彼女は尾根を目指す。別れの告げ方がわからなかった。ちいさな集団のなかで、死ではない永遠の別れなどあるわけもない。彼女もそんな単語は知らないだろう。集落の人々には、少し出て行くときの挨拶を残した。だいたいのところは伝わるはずだ。彼女は黙したままだった。腕は歩行に揺れるままになっている。


 見覚えのある景色が現れた。尾根沿いの道はまだ残っていた。奇しくも、あの時と同じ角度で日が差している。

 彼女は片手に握っていた糸の玉をわたしに握らせた。淡く笑む。それだけだった。細い道に立ったわたしと斜面に残る彼女の間には、もう取り返しのつかない距離が開いている。たまらず手を振った。わたしの知っている、わたしの故郷の別れの挨拶。彼女はそれを真似て、空になった手をひらひらと揺らした。背を向けて去っていく二人を姿が見えなくなるまで見ていた。


 歩き出す。街の方角だ。日が落ちきるまえにはたどり着くだろう。家族は喜んでくれるだろうか。それより、仲間は無事に調査を終えただろうか。


 いまだ鋭いままの聴覚に、耳慣れぬ風が触れる。

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かれらは声をもたない 夏野けい/笹原千波 @ginkgoBiloba

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