第10話「斜棒の楼閣」

 大会の後、社長は行きつけの個室居酒屋で、私の優勝を祝ってくれた。

 

 ステンレス製のビールグラスを片手に、会場(日本棋院)の売店で購入したマグネット碁盤を広げ、本日の対局を検討する。


「“斜棒の楼閣”か」

 マグネット碁盤の上に再現された例の布石を見て、社長は、こちらの言わんとしていることを察したかのように微笑んだ。


 砂の上に建てた楼閣のごとく、見た目は立派――かどうかは分からないが、天元を敢えて通らず斜めに直線を描いたこの布石は、迫力だけは一人前だ――だが、足場が確立していないがゆえに脆く崩れやすい。

 これはまさしく私のことであると気付いたのは、津崎康弘との対局の最中だ。

 

 一定の教養を備え勉学に長けており、一見すると怜悧れいりなようであっても、相手の心の内を探るという、他者と接する上で根本となる基礎が確立していなかった。

 だから私はすぐに崩落し、孤独を量産してきたのだろう。


 これまでの人生、相手や相手の行動の表面だけを見て判断し、その奥を探ろうとしてこなかった。それゆえに他人を傷付け、自分も傷付けた。相手の真を知る努力を怠り、自分の感情だけを強引にぶつけた結果、感情はどんどん摩耗した。

 

 私の感受性の強さは、単なる傲慢だったのだろうか。

 グラスの生ビールを音を立てて飲み干し、私は音を立てずに両眼から液を落とす。


「君の不器用で生真面目なところを、私は気に入っているよ」

 社長が店員を呼び、二人分の生ビールを追加で注文する。

「まだ、何も遅くはないさ」

 社長の声の優しさに、私は堪らなくなりむせび泣く。

「この布石、一度きりにするには惜しいなあ」

 冗談っぽく笑う社長の瞳はしかしたいそう濃情のうじょうで、少し液が溜まっているように見えた。


 翌日、折り入って両親と話をした。

 私は、ひどく緊張していた。自分の親と会話をするのに、まるで見合いの席であるかのような畏まった所作であった。


「自分は孤独とは不可分で、それは今後も変わらないと思うけれど、なんとかちょうど良い距離感を保って付き合っていきたいと思う」

 両親は表情を変えず、摯実しじつな眼差しで私を見つめる。


「目を瞑るのではなく、内面を探ることで正を貫く」

 生真面目な眼差しを返し、深く頭を下げる。

 ここまで育ててもらった恩義や、これまでの様々な失敗に対する謝罪、あるいは孤独を蓄積して抜け殻になった自分さえも受容してくれたことへの深甚しんじんなる感謝が、そのゼスチュアに含まれていた。


「お前らしくて良いじゃないか」

 そう言って微笑む父と、声を出し堂々と液を流す母の姿に、私はこれまでで一番の安堵を覚えた。


 社長から正規雇用の話を受けたのは、その一週間後のことだった。

 私は、しかしそれを辞退し、敢えて非常勤を続ける選択をした。

 おそらく、社長の読み筋通りだったと思う。以前話していたように、少し時給を上げてもらった。


 仕事終わり、いつもの喫茶店でアイスティーを注文した。

 ミルクを入れる前のなめらかな茶褐色が喉の渇きを誘い、ミルクを注いで混沌とした液を、私は目をそらすことなく注視する。感情の揺らぎも不安も、もう恐れる必要はない。

 かき混ぜて均衡を取り戻すと、ストローでごくごくと液を摂取した。


 アイスティーを飲み終えてひと息つき、赤本を開いていると、店主が興味深そうな視線を向けた。


「もう一度、忖度なしで勝負してみようと思いまして」

 

 執行猶予期間は、明日で満了を迎える。

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サンダルウッド @sandalwood

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