第9話「碁の本質」

 四連勝同士の私と津崎康弘にとって、最終局はクラス別での優勝を懸けた大一番だった。

 

 全員もれなく五局ずつ打つ形式の大会なので、好調の者もそうでない者も含めてそれぞれ、最後まで自身の力を出し尽くすことに意識を燃やしているように見えた。二勝二敗と競った勝負を展開している社長もそのようで、四局目終了後に私に激励の言葉をかけに来ることはなかった。

 私は、しかし少しの焦りも気負いもなかった。順風満帆な日々を送っている――と推察される――麻帆と、その恋人である津崎康弘の姿を見られたことで、すでに充分に満たされていた。最終局の勝敗に関わらず、大会に出場してよかったと思えよう。


 この一局は、私の人生を大きく揺るがすものになると直感した。

 私は、だから「とっておき」を出すことにした。ネット対局で何度か打ってはいたがまだ試行段階で、対面では一度も打ったことがない布石だった。

 黒の初手、右上隅星みぎうわすみほしを受け、私はノータイムで天元(碁盤の中心点のこと)の斜め上に着手した。

 津崎康弘は落ち着いた表情で手を返すが、こちらが三手打ち終えたところで苦笑に似た半笑いを浮かべ、双方が五手ずつ打ち終えると盤面を凝視し、「嘘だろ、まじかよ」と呟いた。

 https://24621.mitemin.net/i307774/


 津崎康弘の後方で遠慮がちに盤面を眺めている麻帆は、かつてと同じ顔をしていた。笑顔でも不機嫌でもない、純粋な好奇心が生成したような繊細な表情は、彼女の確かな魅力なのだと再認識した。


 私の放った布石は、常識を大きく逸脱していた。

 勝負になるのか定かではなかったが、この斬新奇抜な布陣を前にして眼前の相手がどのような反応を示すか興味があった。そして、津崎康弘が何を思っているか探りたいと思った。

 

 彼がしたように、私も改めて盤面を注視する。中央でオオゲイマに繋がった白五子の形を見て、私の脳は脈絡なく「砂上の楼閣」という言葉を掲げた。


 こちらの意欲的な布石に対し、津崎康弘も序盤から工夫した打ち方で対抗してきた。彼は、私の一手一手に微妙に表情を変化させる。

 私もまた、彼の一手一手を咀嚼した。左手に持った派手な扇子は、閉じた状態で口元よりも少し下の位置に固定する。手に対する読みを働かせるだけでなく、そこに打つに至った彼の心理や、あるいは私が知る由もない彼の根本の性格までも想像した。

 相手の放つ一手一手に興味を抱き、心の内を探るのが碁の本質であることに、私はこのとき初めて気付いた。


 五十手目のツケから、激しい戦いに突入した。

 https://24621.mitemin.net/i307775/


 この後の数十手が本局のハイライトであり、どちらかが潰れてもおかしくはない難解な局面だったが、私たちは笑っていた。

 勝ち筋は見出せていなかったが、私はもう、この先自分がどう生きるべきかという答えを見つけていた。

 斜め右に、勝ち越しを決めて早足で駆けつける社長の姿をとらえた。社長は盤面をひと目見ると、声は出さずに喫驚きっきょうする。中盤に入っても、序盤の異様さは色濃く残っていた。


 これまで、対局中に周囲の観戦者を意識したことはあまりない。

 私は、しかしそうした付帯状況を含めて咀嚼することに意義を見出だしていた。対局が始まっても時折脳にちらついた孤独が、半分ぐらいになる感触を得た。なんとなく、社長たち観戦者が半分背負ってくれているような気持ちになった。対局が終われば元通り返還されるものだとしても、今の自分にとっては確かに重要なことだった。

 社長以外にも、次第に自身の対局を終えて観戦に訪れる人が増えた。私は、可能な範囲でそれぞれに一瞥をくれる。

 終盤戦に差し掛かる頃には、ギャラリーが稲麻竹葦とうまちくいのごとく集まっており、もはや目視で数えるのは困難であった。


 下辺での攻防が一段落した後、右上黒の攻めに回る。ここの黒の対応が悪く、上辺の大きなオサエ(白百二手目)に回って少し白の面白い形勢となった。

 この後こちらにもミスが生じ混沌とした場面もあったが、ヨセに入ってから白地が大きく増えて十六目半勝ちを収めた。

 https://24621.mitemin.net/i307777/


 津崎康弘はそれなりに悔しがってはいたが、それ以上に充実を思わせる表情をしていた。 

 優勝を決めた喜びを享受するより先に、外部に預けられていた孤独が返還されてゆく感触を得た。私は未だ、執行猶予中だ。


「しかし、序盤のあの布石はどういう意図なんです?」

 津崎康弘のもっともな質問に、私は数秒黙する。


斜棒しゃぼうの楼閣」

 その奇妙な言葉を受け、津崎康弘や周囲の観戦者はいぶかしげな表情になった。


「多分、もう打つことはないでしょうね。難しいので」


 きまり悪そうに微笑むと、津崎康弘は拍子抜けした様子で半笑いを浮かべていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る