第8話「再会」

 大会当日、会場へ行く前にいつもの喫茶店を訪れた。

 検査入院で休養していた店主は復帰しており――特に悪いところはなかったらしい――、店内は以前のように葉巻の芳香が漂っている。

 席に座り、私は目を瞑ってそれを享受する。全身が脱力し、その隙を突いて安堵と孤独がすり抜けていく。感情は増えも減りもせず、起動の時機を見計らって頭の隅にとどまっている。

 

 アイスティーにミルクを注ぐと、感情は起動した。

 この日の液は、緊張と熱気を帯びているように見える。私は、輻輳ふくそうを解かずに液の変貌を見届けた。飲み干すころには、自身の中に液と同様の感情が萌芽ほうがしていた。


 会場に着くと、社長はすでに自身の対局席についていた。対局相手をはさんで目が合うと、社長は普段通りに品よく微笑む。

 私も社長の真似をして笑みを作り、一礼する。会場内は開会式前にも関わらず、あちらこちらで石音が飛び交っていた。


 席につき、かばんから一本の扇子を取り出した。

 数年前、気に入りの歌手のコンサート会場で購入したそれは、開くと青や黄やピンクといった極彩色ごくさいしきで構成されている。単色の碁石とは対照的な色彩を確認し、ほんの少し相好を崩す。孤独とは無縁のような彩りを誇る扇子を手にすると、孤独が少しだけ減ったような気がした。


 大会が始まると、目の前の対局にのみ専心した。

 社長と対局して以来、またネット対局を再開したためかはわからないが、三年近いブランクはなかったかのような自然な感覚で打つことができ、四連勝で決勝進出を決めた。


 決勝戦は、偶然にも三年前の最終局と同じ席だった。

 椅子に座るよりも早く、かつての情景がフラッシュバックする。対局中は鳴りを潜めていた孤独が一気に押し寄せ、続けて過去の様々な記憶が順不同で想起された。扇子を握る左手が急激に汗ばみ、手から滑り落ちる。

 幾ばくか経ったころ、眼前には麻帆の姿があった。


「はい、落としたよ」

 麻帆は扇子を拾い、微笑を湛えて私に差し出す。


 私は、状況を飲み込めずにいた。なぜ彼女がここにいるのか、夢でも見ているのかと錯覚した。

 麻帆の横に視線を移すと、私と同じくらいの年齢と思しき長身の男性が立っている。


「今付き合っている人なんだけど、彼も偶然囲碁をやる人だったの。決勝戦で当たるからよろしくね」

 麻帆の両耳には、以前と変わらず雫型のイヤリングがぶら下がっていた。


「初めまして、津崎康弘つざきやすひろと言います。決勝戦よろしくお願いします」

 麻帆の恋人は、絵に描いたような爽やかな男だった。その爽やかさは、ハローワークの男性職員を思い出させる。

 私は、嫉妬でも不安でも後悔でもなく、ただ安堵していた。かつて自分に安らぎをもたらしてくれた麻帆が、今こうして幸福な様子で日常を送っているらしきことを率直に喜べるほどには、私にもまだ人間らしい感情が残存していた。いや、社長をはじめとする塗装工場の人たちの関わりによって、失っていたポジティヴな感情を取り戻しつつあるのかもしれないと思った。


「こちらこそ、お願いします」

 社長のような微笑みを返し、津崎康弘と握手をした。

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