第7話「潤沢な液」

 行きつけの喫茶店に半月振りに足を運ぶと、見慣れない若い男性――店主の孫だと後でわかった――が迎えてくれた。店主が先月から体調を崩し、今月の半ばまで検査入院で不在となるため、しばらく代理で店をやるらしい。


「今は大学が春休みで授業がないので、不幸中の幸いでした」

 彼が接客用の笑みを浮かべると、アイスティーが来るのを待たずして、私の感情は起動した。感情は、でも孤独に集約される。

 アイスティーにはいつも通りミルクとガムシロップが添えられていたが、この日はストレートで味わう。洗い物をする孝孫こうそんの後ろ姿を横目に、店主が吸うキューバ産の葉巻の香りがふと恋しくなった。


 数日後、仕事終わりに社長室を訪れ、社長と対局した。

 相手がいなくとも棋譜並べに使用するという本榧ほんかやの脚付き碁盤とはまぐりの碁石は、手入れが行き届いていた。もう何十年も使われてきたであろうそれらはほこりひとつなく、新品のような純潔さを放っている。私は、ミルクを入れる前のアイスティーみたいだと思った。

 三段か、弱い四段ぐらいという社長の申告から、三子置かせて打つことになった。二子局でも良いのではと提案したが、社長はそれでは碁にする自信が持てないと言い、苦笑していた。


 あの事件以来、囲碁は一度も打っていない。

 打ちたくないというわけではなく、囲碁を打とうという発想を、あれ以降はそもそも抱けなかった。対局する自身の姿を想像できなかったし、想像したくもなかった。

 碁盤を前にしたとき、恐怖におののくと思った。残り僅かな感情であっても、画面越しではなく対面で盤に向き合い、無心でいるはずはないと思った。


 社長が丁寧な手つきで星に三つ黒石を置き「お願いします」と頭を下げたとき、私は、静かに両眼から液を落とした。そのとき何を感じたのか、よく覚えていない。

 あの時の液は、ストレートのアイスティーよりも潤沢を帯びていた。


 社長から大会への参加を勧められたのは、二月の半ばのことだった。

 それがあの時と同じ大会であることは、時期を考えると容易に推測できた。社長は、上から四番目のクラスにエントリーしたらしい。


「なぜ私に?」

 その質問は不自然にも思えたが、聞かなければならないという気持ちが先行した。

 社長は少しの沈黙をはさみ、全てを見透かしたような微笑を浮かべる。


「君がここから先へ進むために、必要な過程だと思ってね」

 返す言葉が見つからなかった。同時に、社長があの事件を知っていることを確信した。


「あの時、君の対局を観戦していたのだけれど、盤面に注目していたし、加えてこの歳だからね。はっきり顔を覚えていなかった。君が最初にうちに来たときも、どこかで見たような気がしたけど、思い出せなくてね。でも、この前君が涙を流す姿を見て記憶が甦った」


 動揺し、ここでも返答に窮したが、社長の言葉に対する動揺ではなかった。私の中で膨張していた孤独が、ほんの少し縮小した気がしたからだ。


「もう、楽になってもいい頃ではないかな」

 社長の言葉は、いちいち私を不安定にする。

 

 深々と頭を下げ、大会の案内を受け取った。

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