第7話「潤沢な液」
行きつけの喫茶店に半月振りに足を運ぶと、見慣れない若い男性――店主の孫だと後でわかった――が迎えてくれた。店主が先月から体調を崩し、今月の半ばまで検査入院で不在となるため、しばらく代理で店をやるらしい。
「今は大学が春休みで授業がないので、不幸中の幸いでした」
彼が接客用の笑みを浮かべると、アイスティーが来るのを待たずして、私の感情は起動した。感情は、でも孤独に集約される。
アイスティーにはいつも通りミルクとガムシロップが添えられていたが、この日はストレートで味わう。洗い物をする
数日後、仕事終わりに社長室を訪れ、社長と対局した。
相手がいなくとも棋譜並べに使用するという
三段か、弱い四段ぐらいという社長の申告から、三子置かせて打つことになった。二子局でも良いのではと提案したが、社長はそれでは碁にする自信が持てないと言い、苦笑していた。
あの事件以来、囲碁は一度も打っていない。
打ちたくないというわけではなく、囲碁を打とうという発想を、あれ以降はそもそも抱けなかった。対局する自身の姿を想像できなかったし、想像したくもなかった。
碁盤を前にしたとき、恐怖に
社長が丁寧な手つきで星に三つ黒石を置き「お願いします」と頭を下げたとき、私は、静かに両眼から液を落とした。そのとき何を感じたのか、よく覚えていない。
あの時の液は、ストレートのアイスティーよりも潤沢を帯びていた。
社長から大会への参加を勧められたのは、二月の半ばのことだった。
それがあの時と同じ大会であることは、時期を考えると容易に推測できた。社長は、上から四番目のクラスにエントリーしたらしい。
「なぜ私に?」
その質問は不自然にも思えたが、聞かなければならないという気持ちが先行した。
社長は少しの沈黙をはさみ、全てを見透かしたような微笑を浮かべる。
「君がここから先へ進むために、必要な過程だと思ってね」
返す言葉が見つからなかった。同時に、社長があの事件を知っていることを確信した。
「あの時、君の対局を観戦していたのだけれど、盤面に注目していたし、加えてこの歳だからね。はっきり顔を覚えていなかった。君が最初にうちに来たときも、どこかで見たような気がしたけど、思い出せなくてね。でも、この前君が涙を流す姿を見て記憶が甦った」
動揺し、ここでも返答に窮したが、社長の言葉に対する動揺ではなかった。私の中で膨張していた孤独が、ほんの少し縮小した気がしたからだ。
「もう、楽になってもいい頃ではないかな」
社長の言葉は、いちいち私を不安定にする。
深々と頭を下げ、大会の案内を受け取った。
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