第6話「愚形に緩む心」

 職場の人間とは、極力余計な会話はしない。

 挨拶を交わす程度はいとわないが、業務以外の会話はほとんどなかった。必要以上のやり取りは、感情の扱いに難儀するだけでなく、孤独との関係性も危うくなる。たとえひとたび離れても、孤独は至極律儀に舞い戻ってくるのだから、中途半端に放出するより、内にしまい込んだ方が心身に馴致じゅんちされる。孤独と私は不可分だ。


 二月初めの日曜日、珍しく休憩所には社長しかいなかった。

 工場の近くに、安くて美味いと噂の定食屋が開いたばかりで、ほとんどの従業員はそこになだれ込んでいるらしい。

 社長は、セブンイレブンのおにぎりを手元も見ずに食べながら、熱心にテレビに視線を送っていた。最低限の礼節を踏まえて「お疲れ様です」とひと言述べ、私は社長の斜め後ろの席に座る。

 

 テレビは、NHK囲碁トーナメントを映していた。

 芝野虎丸しばのとらまる七段 対 今村俊也いまむらとしや九段というカードで、組み合わせだけを見ると芝野七段が勝ちそうかなと思った。少し前に竜星りゅうせいのタイトルを獲得した若手棋士と、五十を過ぎたタイトル獲得経験のない九段棋士とでは、前者の方が猛々たけだけしく感じるのは自然だろう。

 局面を観ると、面白そうな中盤戦だった。黒の芝野七段が忙しく打ち、白の受け方を聞いた場面。


「いやあ難しいなぁ。封鎖は辛いからとりあえずツケるのか」

 独り言と呼ぶには大げさな、しかし誰に問いかけているわけでもない口調で社長がつぶやく。

 私は、社長がしたように手元を見ずにコッペパンを食べながら、無意識に次の白の手を小考した。休憩所に設置されたパネルヒーターが、部屋全体に器用に温風を放っている。


「ツケるとワリコミから切断され、黒の厚みが働きそうですね。形悪いですがマガリぐらいでしょうか」

 自身の口から発せられたその台詞に、私は驚きを隠せなかった。


「えっ、君、碁を打つのかい?」

 ほんの少しの間をあけて振り向いた社長は、驚きと興奮を備えているように見えた。

「はい、少しは」

 社長の胸元付近に目をやりながら、私は決まり悪そうに答える。

 今村九段は一回の考慮時間を費やした後、私の予想した場所に着手した。


「いやいや、少しなんてレベルじゃないよ。そうかマガリかぁ。アキ三角の愚形ぐけいだから考えなかったなあ」

「“世界一厚い碁”の異名をもつ、今村九段らしい重厚な手ですね」

 パネルヒーターは、少し効きすぎていると感じた。


「私も碁が好きなんだけど、今はできる人がいなくてね。十年ほど前まではうちにもやる人がいて、昼休みによく打っていたよ。一局打ち切るのに四、五日かかることもあったなあ」

 天井を仰ぎながら、社長は当時のことを追懐ついかいする。


「良かったら、今度一局教えてもらえるかな。他の奴らには内緒で、少し時給上げるからさ」

 社長の問いかけに、私は曖昧な半笑いを浮かべて頷く。

 ちょうど休憩が終わる頃に終局し、今村九段が三目半勝ちを収めた。

 

 休憩時間が終わり、社長とのやり取りに安堵を覚えている自分に気付いて我に返ると、それまで息を潜めていた孤独がのしかかってきた。

 私は、くだんの事件を想起する。対局相手の顔は覚えていないが、顔から流れる血の色は、私の脳に鮮明に焼きついていた。

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