じゅう

 御心祭三日目の朝は、気持ちの良い青空だった。初秋特有の澄んだ空気の中、遠い場所に真っ白な雲がぽかりぽかりと浮かんでいるのが見えた。

 前日の曇り空から一転しての青空に、わたしの心も晴れる思いだった。ここのところ忙しくて帰りも遅かったし、寝不足の日が続いていた。それも今日でおしまいかと思うとどこか晴れがましくも寂しい気持ちがする。

 わたしは制服に袖を通しながら、ぼんやりと、まるで他人事みたいに昨日までのバタバタを思い返していた。園芸部の部員と一緒に花の飾り付けをしたり、聖歌隊のメンバーと打ち合わせをしたり……御心祭は本当なら生徒会が取り仕切るはずの催しではあるのだけれど、実際のところ三人の聖徒が関わる事案だって決して少なくはなかった。

 一昨日のクララ様の祝福と昨日のモニカ様の祝福を受けた初等部、中等部の御心祭も無事に終わり、今日はわたしのお姉さまであるカタリナ様が高等部の御心祭に祝福を与える日だ。

 そして因縁の生徒会長就任式が執り行われ、美滝様が生徒会長として承認される日でもあるわけで。それを考えると少し憂鬱なのだった。

 あの日以来、わたしは美滝様と顔を合わせていない。生徒会との連絡係は以前のようにお姉さま自身がなされていたから、わたしは生徒会室に近づく事すらしなかった。もっとも、聖歌隊との打ち合わせが忙しくて、美滝様の事どころじゃなかった、というのもあるのだが。

 それでも美滝様が次の生徒会長に内定したことはお姉さまから聞かされていた。ひらひらと動く指先からはお姉さまの感情は最後まで読み取れなかった。

 今日のお式の事をお姉さまが厭わしく思われているのかどうか、実はよく解らない。でも、わたしだって今日は妹としてお姉さまのお力になれるよう、スケジュールは全て頭の中に叩き込んであるんだもん。頑張らなきゃ。わたしにお姉さまもサポートが務まるかどうかは……この際置いておくとしても。

 こほん。

 えーと。……まず初めに、お姉さまが三日目となる御心祭の開催を宣言し、祝福の言葉を述べられるはず。そのあとすぐに生徒会長の就任式になり、お姉さまはその席で美滝様を生徒会長として承認する事だろう。そして御心祭の一般公開は生徒会長の就任式が終わったあとから行われるから、それからすぐ、わたしたちはまず校門に出て……なんて考え込んでいると、部屋のライトが点滅したのが見えた。誰かがわたしの部屋をノックした合図だった。

 わたしもドアをノックし返して、そっと扉を開けた。

(朝ごはんができたよ)

 そう言ってにっこり笑ったのはわたしの義父、きぃさんだった。

(ありがとう。お母さんは?)

(まだ寝てる。昨日準夜だったから、もう少し寝かせてあげようか)

 きぃさんは自分たちの寝室をちらりと見て、苦笑いを浮かべた。

 基本的に、お母さんの勤める病院の準夜勤が終わるのは午前一時半だから。家に戻ってきてなんだかんだで寝付くまで、三時を過ぎる事もざらなのだった。

(そっか、まあ仕方ないよね。でも今日はちゃんと三人で来てくれるんでしょ?)

(うん。恵美子ちゃんもあとから合流する予定。一般公開は十一時からだよね?)

(そうだよ。チケット忘れずにね)

 わたしは指を動かしながらきぃさんに笑いかけた。

 男性は父又は祖父、血縁者に限る……とチケットの裏に但し書きされているけれど、きぃさんはわたしのお父さんだもの。血が繋がっていなくても大丈夫だよね。

 ただ、時々……本当のお父さんはどうしているのかな、って思う事がないでもない。もちろんお母さんにも訊ねたりしないし、そんな考えを持っている事すら秘密にしているわけだけれど。あるいは……お母さんは薄々感づいているのかもしれない。でも、そうだったら少し嫌だなぁ。

 ……わたしを捨てた人の血が半分自分の中に流れている。その事が無性に重く感じる。いっそわたしの半分を切り捨てて、新しくきぃさんの細胞を分けて貰えたらいいのに。この人の本当の娘だったらよかったのに。そうしたら……耳が聞こえない事だって仕方ないよねって素直に笑えるのに。

(どうかした?)

 じっと自分を見つめるわたしを怪訝に思ったのか、きょとんとした仕草で首をかしげて見せる。そんな大きな熊みたいなきぃさんが大好きで。

(なんでもないよ。きぃさんはかっこいいなって思っただけ)

 手話でそう伝えると、途端に顔を真っ赤にさせちゃうところがすごく可愛い。

(そんな台詞、美花さんにも言われた事がないなぁ)

 きぃさんは無精髭をざらりと撫でて、笑いながら階段を降りて行った。

 わたしの耳の障がいについては、お母さんとお父さんのどちらに原因があったのか、解らないそうだ。それでもお父さんはお母さんとわたしを捨てて行ってしまった。もしかしたらどちらにも原因はなかったのかもしれない。耳が聞こえないのはわたしだけのせいなのかもしれない。

 存在するだけで誰かを傷つける。

 物心ついた頃から、わたしはそれを肌で感じて育った。いいとか悪いとかは関係なく。子どもってそういうのにはすごく敏感だから。

 それでも、ううん、だからこそ。愛してくれる人がいる幸せをわたしは知っている。

 きぃさんを追いかけて階段を下りながら、今日一日が無事に済みますように、と心の中でお祈りをした。きぃさんやお母さん、恵美子が御心祭を楽しんでくれますように。

 そして。

 聖セシリア様。

 どうかお姉さまが恙無く、公務を終えられますように。


 朝の注意事項伝達のあと、わたしはすぐに執務室へ行き、お姉さまや他の妹たちと合流した。

「ごぃげんよぅ。みなしゃま」

 手話混じりにそう声をかけると、次々とごきげんよう、と挨拶を返してくれる。けれども今日も執務室の中は朝からピリッとした空気が流れていて、たちまちその緊張感に身の引き締まる思いがした。

 ただ、そんな中、お姉さまばかりがのんびりと優雅にお茶を啜っているのを見て、ちょっと拍子抜けしてしまった。

(お姉さま、どうしてそんなに余裕なのですか? 壇上での挨拶の練習はしなくてよろしいのですか?)

 わたしが心配になって訊ねると、

(あら。原稿なら全て頭に入っているもの。どうして今更挨拶の練習なんてしなければならないの?)

 ティーカップをソーサーに戻して、嫋やかに手話でそう返答された。

 こ、この人はっ。

 昨日一昨日とクララ様もモニカ様も直前まで必死に挨拶の原稿をさらっていたのを見ていないはずがないのに。なんて人なんだろう。まったく、我が姉ながら呆れてしまう。

 クララ様もモニカ様も、そんなお姉さまを仕方のないやつだ、といった目で見つめている。二人の妹たちだってパタパタと忙しそうにしながらも、お姉さまを見つめる目はどこか唖然としている様子なのだった。

「スピーチがばっちりだからって、他に仕事がないわけじゃないだろう。座ってないで働いたらどうなの?」

 少しイラっとした様子のクララ様がテーブルに手をついてそう話しかけると、お姉さまは紅茶を飲み干してから。

「今日は気分がすぐれないの。朝薬を飲んできたのだけれど……今更ながらに眠くなってしまって。紅茶を飲んで少ししゃっきりしようと思っただけだよ」

 手話混じりにそう反論した。

(具合悪いのですか? お薬って……?)

(ちょっと鎮痛剤を。でも……女の子って嫌ね。あ、そうだ一花。あなたが代理を務めてくれてもいいのだけれど。どう?)

 どう、って訊かれても。

 そんなの無理に決まってるじゃん。

(謹んで、お断りさせていただきます)

 やっぱりこの人の考えている事はイマイチ理解できない。

 お姉さまは「あら残念」とか呟きながら、クスクス笑っていた。そしてようやく立ち上がると、大きく背伸びをしたのだった。

 わたしも今日のスケジュールを晶帆さんや彌生さんと確認しながらこまごまとした準備に追われた。そしてあっという間に時間が来て、わたしたち六人は揃って執務室をあとにした。

 そのときにはまさか、御心祭があんな風になってしまうだなんて……予想できた人間はいなかった。わたしも、ううん、もちろん……お姉さまだって。


 暗い舞台袖からは、壇上に当てられるスポットライトの光があまりにも眩しくて。お姉さまは光と同化してしまったようにしか見えない。まるで天使が住まう楽園にあって、それこそが本来のお姉さまのあるべき姿であるように。スポットライトが当たっているあの場所は、わたしには別世界にしか思えない。

 その壇上ではお姉さまが全校生徒に向かってお言葉を述べている真っ最中だ。まっすぐ前を向き、滔々とうとうと語りかけているのは見ていれば解る。果たしてどんな内容なのかは……舞台の袖からじゃ唇を読むことなんてできなかったけれど。それでも、聴衆がお姉さまの言葉にうっとりと耳を傾けているのは、肌で感じる事ができるのだった。

 わたしたち聖徒側の人間が詰めているのは舞台向かって左側。ステージの反対側には生徒会の役員が並んでいる。その中に久しぶりに美滝様の姿をお見かけしたが、不思議と心はざわめかなかった。

「やっぱりカタリナはすごいわね。姉があれだと、一花ちゃんは来年比較されて大変ね」

 ちょんちょんと肩を突かれて、振り返ると。モニカ様が苦笑しながらそう話しかけてくださった。わたしは暗がりの中で唇を読みながら、小さく苦笑し返した。

 そして、場の空気が変わった。講堂に居並ぶ生徒たちが、お姉さまに向かって拍手をしているのが見て取れた。

「終わったみたいですわ」

 彌生さんの唇がそう動いたのが見えた。

 わたしもこくっと小さく頷いて、それから少し息を詰めた。これから生徒会長の就任式が行われる。見ると舞台反対側の生徒会役員らの動きが慌ただしくなったのが解った。なにやら御心祭実行委員の生徒と最終確認をしているようだった。講演台が片され、司会進行役の生徒がマイクに向かってなにかを喋っている。そしてお姉さまが右手に視線を向ける。視線の先には美滝様の姿が見えているはずだ。

 美滝様もお姉さまを見つめているんだろうか。なら、どんな思いで……ふたりは見つめあっているんだろう。いつものように少し足を引きずりながら、ゆっくりと美滝様は壇上に上がってきた。他の生徒会役員たちはまだ動かない。彼女たちは承認の口づけが済んだあとに登場する手筈になっている。

 わたしは次第の用紙に目を落とした。壇上ではマイクを渡された美滝様が生徒たちに向かって喋っていた。

 新生徒会長の挨拶が終われば、いよいよ承認の口づけだ。……ただ。

 お姉さまに……美滝様に口づけしてほしくないという気持ちももちろんある。けれども美滝様に生徒会長になっていただきたいという思いもないわけじゃない。

 もし、花の君の名前が本当に復活していたのなら。

 美滝様は〝百日紅の君〟と呼ばれていただろうか。

 ぼんやりとそんな事を思いながら、改めて壇上を見ると、挨拶が終わったのだろうか、美滝様がマイクを進行役に返すところだった。

 このあとは美滝様がお姉さまに右手を差し出し、お姉さまがその手の甲に口づけをすれば、承認は終わる。そうしたら生徒会役員全員が壇上に上がり、改めてご挨拶をする……。

 そう思って見ていた。そういう段取りだと思っていたから。

 けれど、右手を差し出した美滝様がまるで見えていないかのように。お姉さまは微動だにしなかった。

 え。

 なに?

 いったいなにが起こっているの?

 当然、会場はざわついているはず。舞台左手のわたしたち聖徒サイドは元より、反対側の生徒会役員たちも顔を見合わせている。

 お姉さま? まさか……段取りを忘れちゃった、とかじゃないですよね?

「…………っ」

 そんな馬鹿なことを思っていた、そのときだった。

 お姉さまがなにか、美滝様に向かって言ったように見えた。でも、いったいなにを……仰ったの?

 わたしにはもちろん解らない。ただ、美滝様が驚いた様子でゆるゆると右手を下げたのが見えただけで。

 お姉さまは結局承認の口づけをする事なく、こちらに引き上げてこようとしている。

 わたしは近くにいた晶帆さんの肩を叩いて、壇上を指差した。いったいなにがあったのか説明してほしい、と。

「カタリナ様……『わたしはあなたを承認しない』って。言ったわ」

 晶帆さんが茫然とした表情でそう呟いた。モニカ様も、クララ様も、彌生さんも。みんな茫然としている。

 そんな、まさか……。

 わたしは喉の奥が詰まりそうになりながら、改めてお姉さまを見つめた。

 こちらに歩み寄るお姉さまの怜悧な瞳はどこまでも澄んでいて……酷薄な、冷たい光を宿していた。


「どういう事なの、説明してっ」

 同じ一年生の生徒会庶務、みらいさんがわたしに詰め寄ってそう唇を動かした。その表情から察するに、きっと怒鳴っているんだと思う。わたしはみらいさんの迫力に気圧されながら、わたしだって説明してほしいんだって、言い返してやりたくなった。

 お姉さまが壇上を去ったあと、わたしたちはするりとその場を離れたお姉さまの後ろ姿を追いかけたのだけれど、なんとお姉さまは執務室に鍵をかけて閉じこもってしまったのだった。外からいくらモニカ様やクララ様が声をかけても返事は返ってこなかった。

 そして。

 講堂は混乱の坩堝るつぼと化していた。長い歴史を持つ御心祭においてもこんな事は前代未聞で、どう収集をつけていいのか誰にも解らない。とりあえず講堂に戻ったわたしたちは教職員やシスター、生徒会役員や実行委員の生徒と協働しながら事態の収拾に当たった。その甲斐あって三十分遅れではあっても、なんとか一般公開にまで漕ぎ着ける事ができたのだが……。

 ただし、生徒会側にしてみれば面目を丸潰れにされたわけで、当然それだけで収まりがつくわけがなく、わたしは元々連絡役をしていた事もあって……今こうやって生徒会室まで連れてこられて吊るし上げを喰っている。

 ……わたしのせいじゃないのに。

「なによその顔。言いたい事があるならはっきり言いなさいよっ」

 ぐっと襟を掴まれて、わたしは息ができなくなった。

 ちょ、そんなに乱暴にしないでよっ。

「や、やぇて」

「ちゃんと喋りなさいって言ってるのっ」

 さらに力のこもった未来さんの腕を押しとどめたのは、意外にも美滝様だった。

「やめなさい、みらい。一花に当たっても仕方ないでしょう」

「でも」

「黙ってなさい。暴力を振るうなんて。反省するのはあなたのほうだわ」

 みらいさんの顔が苦々しげに歪む。それでも。

「……すみません」

 素直にそう呟いていた。

「わたしに謝ってどうするの。謝るのなら、相手が違うでしょう?」

「はい。……ごめんなさい、一花さん」

 わたしは喉を押さえながら、なんとかふたりの会話を読み取っていた。そしてふるふると首を横に振って、もういいから、という意思表示をした。

「けれども困ったわ。こんなの初めての事だから……どうしたらいいのかしら」

 眼鏡のフレームに触れながらそう呟いたのは、書記職の朋美様。前生徒会長の佳奈穂様も腕組みをしたまま、難しい顔をしている。

『今回の事はお詫びのしようもありません。本当に申し訳ありませんでした』

 わたしはホワイトボードにそう書いて、お姉さまの代わりに渋々ながら頭を下げた。

「一花さんに言っても仕方ないとは思うけれど、三人の聖徒側はどうするつもりなの。まずはそれを聞かせてくれないかしら」

 副会長の由紀さまが小さく手を上げてそう言った。

『帰ってクララ様やモニカ様とも協議させていただいてもよろしいでしょうか。今はまだ、わたしだけの一存ではお答えしようがありませんから』

「ま、それが妥当よね」

 生徒会室の空気はどんよりと重い。わたしだって泣きたいよ。もう。

 だって……お姉様がなにを考えていらっしゃるのか、全然解んないんだもの……。

「三人の聖徒の……というよりもカタリナが承認しなかったから生徒会長が決まらない、というのではこの先わたしたちは組織としてやっていく事ができないわ。二年生の庶務職が生徒会長を継ぐのはあくまでも慣習でしかないけれど、それでもわたしたちが責任を持って推挙した人選なのだから。尊重してもらわなければ困るの。それにもしもそちらの承認なしで生徒会長になれてしまう前例を作ってしまったとしたら、困った事になるのはわたしたちではなく、三人の聖徒の側だという事を忘れないで。今は聖徒が新生徒会長を承認するという形をとっているからそちら側にアドバンテージがあるわけでしょう。それに、今回こちら側にはなんの落ち度も不備もないはずよ。承認しなかった理由すら述べないというのならそれは単なるわがままと一緒だわ。いい? つまりあなた方三人の聖徒側だけの汚点として、この先ずっと不名誉な記憶が残ってしまうという事なのよ?」

 ずっと黙っていた佳奈穂様のそのお言葉に、わたしは唇を噛み締めた。

『重々承知しております』

「なら挽回できる? 持ち帰って議論するなんてまどろっこしい事は言わないで、今ここでそれを証明できる?」

 わたしはぐっと言葉に詰まりながら、震える指先でペンを握りしめた。

『三人の聖徒として壇上にあがる機会は、もう聖歌を歌う場しか残されていません。そこでどうにか生徒会長の承認をさせてもらえないでしょうか。それまではまだ時間がありますし、なんとかカタリナ様を説得してみせます』

「解ったわ。やり方は任せるから。段取りが出来たら連絡を頂戴。……美滝、あなたはそれでいい?」

 佳奈穂様はそう言ってちらりと美滝様を見た。わたしもそっと視線を動かして美滝様の様子を伺った。

「ええ。佳奈穂。わたしもそれで構わないわ」

 一瞬目と目があった。でも、それは、わたしの心を悲しくさせただけだった。

 ……どうして二年生の美滝様が三年生の佳奈穂様に敬語を使わないのか、なんて。そのときには考える余裕すらなかった。


 重い足取りのまま執務室までの帰路につこうとしていたところに、スポーツバッグを肩にかけた千夏さんとばったり出くわした。たぶん、これから弓道部の集まりがあるのだろう。わたしはその顔を見た瞬間、胸の奥底からこみ上げてくるものを感じて……ぽろぽろと泣いてしまった。千夏さんに出会えたおかげで張り詰めていた糸が切れてしまったのだ。それに、……親友の顔を見て安心したのもあったのだと思う。

(一花さん? どうしたの? なんで泣いているの?)

「……もぅやだっ」

 わたしは千夏さんにしがみついて顔を押し付けた。いつまでも泣き続けるわたしを千夏さんは優しく抱きしめて、そしてそのまま外の部室棟の裏まで連れて行ってくれた。

(ここなら人が来ないと思うから、ね?)

 御心祭は一般公開も始まり、どこもかしこも人だらけだ。誰も来ない場所というと、こういった建物の裏手しかないわけで。

(少し落ち着いた?)

(うん。ありがとう)

 手話で会話できるだけで嬉しい。わたしは鼻をすすりながら、ハンカチで目元を拭った。

(一花さんも大変ね。夜零様がらみで泣いていたのでしょ?)

 わたしは小さく頷いた。涙がまた一粒、頬を伝って落ちていった。

(もうわたし、お姉さまがなにを考えているのか解んない)

 わたしがそう指を動かすと、千夏さんはためらうように、一瞬肩を震わせた。

(それで……肝心の夜零様は今どうされているの?)

(執務室に閉じこもったまま、出てこない)

 手話をする手が、指が震える。このままだったら、なにも打開できなかったら……どうなっちゃうんだろう。

 ずっと楽しみにしていた、みんなで頑張ってきた御心祭の当日なのに……ねえ、お姉さま。お姉さまはいったいなにを考えていらっしゃるの?

(怖い、怖いよ。……千夏さん)

「一花、さん?」

 また涙が溢れてきて、わたしは千夏さんの両手を握りしめたまま、泣いた。周りに聞こえたりしないように。唇を噛み締めながら。ハンカチが足元に落ちたのにも気づかずに……。

 千夏さんはさっきと同じように、なにも言わず、ただじっとわたしを抱きしめてくれている。背中に回された手が優しく、ポンポンとわたしを叩く。

 まるで小さい子どもをあやすようなその仕草に、逆に涙が止まらなくなってしまう。

「お願い。なにがあったのか教えて」

 千夏さんの唇がそう動いた。わたしはしゃくりあげながら。一生懸命生徒会室でのあらましを伝えた。

 ……どのくらいそうして話していたんだろう。わたしは不意に、千夏さんも忙しいはずなんだって、気づいてしまった。

(ご、ごめんね。千夏さんだって今日は色々忙しいんだよね。それなのに、わたし)

(……わたしの事なら気にしないで。一花さんが泣いているほうが、わたしにとっては重要だもの)

 そう言って苦笑してみせてくれた千夏さんは、わたしが落としてしまったハンカチをそっと拾い上げて、土埃を払った。

(汚れてしまったね。わたしのハンカチを使って。ね?)

(ありがとう)

 スカートのポケットから取り出した千夏さんのハンカチを、わたしは押し抱くように受け取った。

(夜零様は怖い方だね。あの日もそうだったよ)

 ……え?

 あの日?

 不意に動いた千夏さんの指に、わたしは固まってしまった。

 あの日、あの日って……いつ?

 いつの事?

「ち、ちなう、さん?」

 千夏さんは言ってしまった事を後悔するように、そっとかぶりを振った。

(ねえ、一花さん。今の状況がどうなっているのか、知りたい?)

(うん。でも……)

 わたしの反駁(はんばく)を許さないように。千夏さんがキュッとわたしの両手を握りしめた。

「聞いて。今はまだみんな混乱しているわ。承認してもらえなかった美滝様と承認を与えなかった夜零様……どっちに非があるのか解らないから。誰も本当の事を知らないから。だから憶測だけが流れてる。生徒会側だってそれを理解しているはずだわ。だからその状況を利用しようとしている。一番近くにいて、それでも一番状況が耳に入りにくい一花さんだけを生徒会室に連れて行ったのがその証左だと思うの。生徒会側は自分たちに非がないって言う。その上で一花さんに確約を迫り、自分たちに都合のいい状況を作り上げようとしているのじゃないかしら。でも、本当に非がないのかなんて誰にも解らないわ。だから……」

 一瞬つらそうな顔をした千夏さんは、言葉に詰まらせながら。言った。

「だから。夜零様に逢っておいで。全部、話を聞いておいで。あなたは……あなたは夜零様の妹なんだから」

 ……わたしは、しっかりと頷いた。

 どんな想いで千夏さんがそう言ってくれたのか、解らないほどわたしだって馬鹿じゃない。

「あいぁとぉ、ちなつしゃん」

「うん。……好きよ。一花さん。頑張ってね」

 千夏さんはわたしの背中を押して、くるりと背中を向けた。肩が小刻みに震えている。わたしは一瞬躊躇ちゅうちょしたけれど、勢いよくその場から駆け出した。

 ありがとう。

 本当にありがとう。

 千夏さん。

 わたしも千夏さんが、大好きだよ。

 胸が押しつぶされそうになりながら、必死に走った。

 立ち止まったら絶対に泣く。そう思ったから。

 執務室の前ではクララ様が扉を叩き続けていた。そしてそれを不安げに見つめる幾様、小百合様、そしてうてな様という先代の聖徒の皆様の姿も見える。クララ様の行いはミシンの、そしてシャムロックの乙女にあるまじき行為とそしられるかもしれないが、それだけ必死なのだというあかしでもあった。

 わたしに気づいたモニカ様が困惑顔で手招きをする。

「生徒会はなんて?」

『その話は後程のちほど。それよりお姉さまは?』

 メモ帳に殴り書きしてお見せすると、

「見ての通りよ」

 モニカ様はそう言ってため息をついた。

「まだ出てこないの。カタリナったらスペアキーまで持って閉じこもってしまって。呼びかけるくらいしか手がなくて」

 そのあいだもクララ様が今まで見た事もないくらい怖い顔でなにか叫んでいる。執務室は特別棟最上階の一番端にあるとはいえ、これだけ騒いでいれば人目も引く。晶帆さんと彌生さんは遠巻きに見ている生徒たちを近づけないようにしながらも、その顔にはやはり強い戸惑いの色が浮かんでいた。

 わたしはクララ様の肩にそっと手をかけて、かぶりを振った。

『これだけギャラリーがいてはクララ様のやり方では逆効果です。お願いします、わたしに任せてもらえませんか』

 クララ様はメモ帳に書かれた文字を見て一瞬ためらったけれど、すぐにわたしに扉の前を譲ってくれた。

「……お願いするわね、一花ちゃん。わたしが言っても駄目だったけど……あなたになら扉を開いてくれるかもしれない」

 小さく手を挙げたうてな様が、沈痛な面持ちでわたしを見上げていた。こんな表情のうてな様を見たのは初めてだった。

 大丈夫。大丈夫だから。

 わたしは小さく頷いて、それから大きく一度深呼吸をした。

 そして。

 コンコン、と。優しくドアをノックする。

「おねぇしゃま、わあしえす。いちぃかです。……おねあい、なあぁにいえてくりゃあい」

 わたしは目を瞑って、そっと扉にひたいをつけた。

 その瞬間……時間の流れが止まる。目を瞑っている限り、この世界にはわたししかいないのだから。たった一人きりの王様なのだから。……わたしはいつまでだって待てるんだよ。お姉さま。

 一分、二分、ううん……もっと。もっと長くて、もっと……刹那の時間だったのかもしれない。

 小さく扉が開いて、お姉さまの白い手が覗いた。ほっとした空気が流れたのも束の間、その手はわたしの腕を掴むと、するりと執務室の中に消えた。もちろん……わたしの体ごと。

 えっ?

 ちょ、なにそれっ。

 わたしが完全に執務室の中に入った時点でまた、お姉さまはドアに鍵をかけた。わたしは呆然としてその場に立ち尽くしていた。カーテンも窓も閉め切ったままの執務室は、熱気がこもっていて暑いくらいだ。お姉さまはそれでも涼しい顔をして、朝と同じようにテーブルに着くと、いつからそこに置いてあったのか解らない紅茶のカップをコロコロともてあそび始めた。

 いつも見慣れた場所なのに。なんだろう……まるっきり見たことのない空間に見える。そう、まるで違う世界に迷い込んでしまったような。

(外はすごい騒ぎになっているみたいね。クララったら、うるさくて迷惑だわ。そのうち扉が壊れてしまうのではないかしら)

 ティーカップをテーブルの上に放り出すと、お姉さまはそう言って花のように笑いかけてくださった。

(そういえば珍しくわたしのお姉さまもいらっしゃっていたわね)

 わたしはこれ見よがしにため息をついて言った。

(それが解っているのに、ずっとおひとりで紅茶を飲んでいらしたのですか?)

(ええ。一花もどう?)

(……お姉さまが注いで下さるなら。いただきますが)

 そう返事をするとお姉さまはくすくす笑いながら茶葉を取り替え、ポットのお湯を注いだ。そしてティーコゼーをかけて小さな砂時計をひっくり返した。こんなときなのに。お姉さまの所作はとても優雅で。つい、見惚れてしまう。

(ここのところ忙しかったから。こうやってふたりきりでお茶をするのも久しぶりね)

(はい。……ところでお姉さま。ひとつだけよろしいでしょうか)

(あら、なに?)

 わたしは一度ぎゅっと両手を握りしめてから恐る恐る訊ねた。

(お姉さまは、わたしが……好き、ですか)

 お姉さまは質問の意味が解らない、といったように、小さく首を傾げてみせた。

(わたしはお姉さまが好きですよ)

(もちろん、わたしもよ。言わないと解らなかったの?)

(本当に……好きなんです。だから、もうっ)

 ずっと我慢してたのに。

 また、涙が溢れてきた。

 お姉さまはそっとわたしの肩を抱くと、いつかのように、涙の通り道に唇を寄せた。わたしは咄嗟に突き放そうとしたけれど、お姉さまの腕に絡みとられて、そうする事は叶わなかった。だから。わたしは逆にお姉さまに強くしがみついた。もう離れたくなくて、失いたくなくて。必死でしがみついていた。

(……なんだかね、全部馬鹿らしくなっちゃったの)

 気づくと紅茶はとっくの昔に渋くなっていた。わたしは泣き腫らした目でぼんやりとお姉さまの手話を見つめていた。

(だから、全部壊してやろうと思ったのよ)

(どうして?)

(美滝が一花を泣かせたから。美滝がわたしの好きを穢すから。組織のしがらみなんてもう知らない。いっそ生徒会も三人の聖徒もなくなってしまえばいいわ。そうしたらわたしも一花も自由になれるもの。誰も彼もがみんなわたしに役割を演じろって言う。もう、うんざりなのよ)

 わたしは愕然とした。

 そんな、……そんな理由で?

 そんな理由のためにこれだけの人たちが右往左往しなきゃいけないの?

(ねえ、このままずっと、御心祭が終わるまで一緒にいましょう。新しくお茶を淹れましょうね。一花はわたしが守ってあげる。この繭の中で)

 わたしは奥歯をぎりっと噛み締めながら、

(お姉さまの好きは偽物です)

 きっぱりとそう言った。

「……え」

 お姉さまの指が空間に縫い付けられたように、ぴたりと止まった。

(だって、お姉さまはいつか卒業してしまわれるのに、繭の中だと言ったこの場所は三人の聖徒の執務室なのに、どうしていつまでもわたしを守れるだなんて……そんな事を言うのです? お姉さまの場所はずっとここにあるの? 違う。そんなの変です。間違ってます。お姉さまだけがなにかの役割を演じているわけじゃないんですよ。クララ様も、モニカ様も、それに美滝様も。みんな一緒じゃないですか)

 お姉さまは驚いた顔で、じっとわたしの指の動きを見ていた。

(わたしはね、お姉さま。誰かの……ううん、美滝様の代わりでもよかったんです。いつかわたしを本当に好きになってくれるかもしれない。そう思っているだけでよかったんです。わたしが欲しかったのは……そんなささやかなものだったんです。それなのに、どうして? なぜこんな事をしてしまうの? わたしはそんな生温かい優しさなんていらない。お姉さまだってずっと……そんな真綿で首を締められるような環境がお嫌だったのではないのですか? だから、音楽の道に進もうと思われたのでしょう?)

 自分の頬を、涙がつうっと滑り落ちていくのが解った。

(でもね、お姉さま。普通、高校生の女の子はフレンチのレストランを貸し切ったり、自分だけの別荘を持っていたりはしないんです。それを可能にしているのはご家族の愛情なのでしょう? わたしはお姉さまのお家の事情を知りません。お姉さまが将来、本当に好きでもない男の人と結婚しなければならないのかどうかも。わたしは知りません。でも、嫌な事があるならちゃんと話し合うべきです。そのせいで美滝様だって苦しんだんです)

「美滝が?」

 お姉さまは動揺したように、手話を交えずにぽつりと呟いた。

 わたしは小さくかぶりを振った。

(美滝様が好きになった夜零様は、自分を慕ってくれる可愛らしい下級生だった。自分自身を、そのまま、ありのままに好きになってくれている存在なんだって思っていたかったんです。でもずっと、美滝様は……自分が男の人の代わりなのでは、という負目からは逃れられなかった。事故に遭われて、余計にその思いが強くなってしまったみたいです。ねえ、おふたりのその関係を壊したのは、本当はどちらだったんですか? わたしは今だってお姉さまが……美滝様が事故に遭われたあとに接する態度を変えたなんて思っていません。男の人の代わりに美滝様を好きになったなんて思っていません。それでも、関係が壊れてしまったのは事実です。どうして? どうして修復できなかったんですか? 修復しようとしなかったんですか? 誤解を解くことだって、本当ならできたでしょう?)

 涙の幕が、夜零様のお顔を滲ませていく。

 わたしは馬鹿だ。お姉さまと美滝様の関係が修復されていたら……わたしなんて出る幕がないのに。それなのに、言わずにはいられないなんて。

(わたしが好きになった夜零様は聖徒の、ウルスラ様の妹でした。夜零様が聖徒になられて、わたしは夜零様の妹になりました。夜零様はわたしのお姉さまになったんです。……ねえ、それも全部否定してしまうの? お姉さまが聖徒を捨ててしまったら、もう姉でも妹でもないんですよ? そんな関係をお姉さまは本当に望んでいるんですか? 全部捨てたら、壊してしまったら、それでわたしたちは対等になれるんですか? それともわたしはずっとお姉さまに守られていなくちゃいけないような弱い存在ですか? なら、お姉さまがご卒業されたら、ここでわたしはどうやって生きてゆくというのですか? ……ねぇ、お姉さま。わたしはちゃんとここにいるよ。弱くても、惨めでも、わたしはわたしとしてここにいるよ。お姉さまがいなくなってしまっても、わたしはここで生きていかなきゃいけないんだよ? わたしはお姉さまの跡を継いで聖徒になります。その覚悟がなければ、わたしは聖徒の妹ソロルになんてなっていません)

「一花……」

(……お姉さまは嘘つきです。最初にキスした日もお姉さまはわたしに嘘をつきましたよね。あの日だってそうだったんですよね。本当は見ていたんでしょう? 千夏さんがわたしに告白した場面を。ねえ、お姉さま。わたしは確かに教室の扉を閉めたんです。それなのに、気づいたら扉は開いていたんです。誰かが扉を開けたんです。千夏さんがびっくりするくらい大きな音を立てて。耳が聞こえない人間じゃなければ簡単に解る事だったのかもしれません。そのあと咄嗟に隠れて千夏さんを脅したとしても、わたしには決して気づかれたりはしないですよね。……ねえ、どうして? どうして黙っているんですか? 違うって言って笑ってください。そんなの全部あなたの妄想だって、今までわたしが話した言葉は全部嘘よって、そう言ってわたしを馬鹿にしてくださいっ)

 わたしは止めどなく溢れる涙を、何度も……何度も制服の袖で拭った。

(それともそんなにわたしが信用ならなかったですか? 一度好きだって言った相手を簡単に裏切るように見えましたか? わたしの好きは偽物だと思いましたか?)

 わたしは唇を戦慄わななかせて、荒い息をついた。滲む視界の向こう側に。お姉さまの顔が悲しそうにゆれていた。

(わたしをおもちゃにしたいだけならそれでもいいです。わたしも楽しかった。……でも。もうやめましょう、こんな事。わたしは出て行きます。残りたいのなら、お姉さま一人で残ってください)

「ま、待って。一花、わたし……」

「ごぃげんよう、おねえしゃま」

 ……お姉さまの馬鹿。いつか幼年期の終わりは必ず来るのに。それなのに、ずっと繭の中で過ごす事なんて出来ないってどうして気づかないの? どうして解ってくれないのっ? 

 泣きながら執務室から出てきたわたしに、クララ様もモニカ様もわたし以外の妹たちも……その他大勢も、誰一人声をかけてこなかった。

 わたしは目の前に広がる光景に、途端に後悔した。廊下に集まっている生徒は聖徒のメンバーだけじゃなかったのに。

 泣き続けているわたしの姿は、誰の目にも……説得が失敗だったようにしか映らなかったはずで……。


 どうしよう。……どうしたらよかったんだろう。

 わたしは廊下を早足で歩きながら、何度も制服の袖で目元を擦ってため息をついた。執務室から出たあと、少し経ってから。モニカ様とクララ様、それに先代の三人の聖徒様たちから「どうして泣いているの、カタリナはなぜ出てこないの」と色々質問されていたみたいだけれど、涙で霞んで唇がよく読めなかった。わたしは逃げるようにその場を離れていつかの藤棚の下に来ていた。裏庭にも幾人かの生徒やご父兄がいらっしゃっていたけれど、誰もが遠巻きに見ているだけでわたしに声をかけようとはしなかった。

 わたしは今日、何回泣いたり泣きやんだりを繰り返せばいいんだろう。考えてみればそれもこれもあれもみんなお姉さまが悪いのに、悪いはずなのに、そう思いきれないのは……お姉さまと一方的に別れしてしまったのをずっと悔いているからだ。わたしはお姉さまの弁明を聞かなかった。わたしだけが喋りたい事を喋って部屋から出て来てしまった。……あんな事まで言う必要なんて、どこにもなかったのに。

 お母さんときぃさん、恵美子とはこの藤棚の下で落ち合う事になっていた。この藤棚の下はお母さんにとっても懐かしい場所なのだそうで、一も二もなく賛成してくれた。ただ、携帯電話は持ち込み禁止だから、わたしからは連絡できなくて、本当はこんな顔で会いたくなかったんだけど……でも、わたしが来ないと心配すると思うから。だから無理してでも来たのだった。

 そのときのわたしの目は擦り過ぎてまるでウサギみたいになっていた。まぶたも腫れぼったくて、上手に前も見えやしなかった。それ以上にそんな顔をお母さんたちに見せなくちゃならないのが……恥ずかしくてたまらなかった。

(どうしたの、その目。いったいなにがあったのか話してごらんなさい)

 真っ先にわたしの異変に気づいたお母さんの指が、心配そうにゆれている。やっぱり心配させちゃったな、と思って、わたしは苦笑した。

(ちょっと進行の関係でトラブってるだけよ。心配しないでお母さん。それよりも今日は来てくれてありがとう。きぃさんも、エミちゃんも)

 そう話しかけても、きぃさんと恵美子は怪訝そうに顔を見合わせているだけだった。

(ほんとに大丈夫なの、イッチー)

 恵美子は、人の痛みには誰よりも敏感だから。

 たぶんわたしがまだ困っているのも、今にもまた泣き出しそうなのも、全部解っていると思う。

 それでも……笑いかけながら頷いて見せると、恵美子はそれ以上なにも言ってはこなかった。

(本当は一緒に見て回ったり色々案内してあげたかったんだけど、ごめんね、そうもいかなくなっちゃって。わたしそろそろ行かなきゃいけないの。でもお願い、最後までいてくれるかな)

(そりゃもちろんいいけど、ねえ美花さん?)

 きぃさんがお母さんに同意を求めている。けれどもお母さんはきぃさんの手話にちらりと目をやっただけで、暫くのあいだ黙っていた。

(なにか、あったのね?)

(……うん)

(理由は聞かないわ。でも、これだけは覚えていて。わたしはあなたを信じてる。だからあなたも最後まで頑張りなさい、一花)

 わたしははっとして、お母さんの真剣な眼差しを見つめた。

(うん。頑張る。わたしはわたしの仕事をする。だから、ちゃんと見てて)

 わたしはしっかりと頷いて、お母さんたちに手を振って別れた。

 時計を見るとすでに二時半を大きく回っている。聖歌隊の歌が始まるのは四時からだから、もうあまり時間がない。お昼も食べていないし千夏さんの弓道教室にも顔を出していないけれど、それでもこれからの事を考えると時間が足りない。わたしは聖歌隊の風見かざみ様に会うために廊下を急ぎ足で歩いた。どう対処したらいいのか一緒に協議するために。

 だって、わたしはまだお姉さまの妹なのだから。お姉さまが大好きなのだから。

 だから。

 最後まで。諦めずに……お姉さまのために動かなきゃ。


 そして。

 再び生徒会室。

「それで、結局どうなったのかしら、一花さん」

 腕組みをしたまま、佳奈穂様がそう問いかける。

『お姉さまにお会いしてきましたが、説得するはずが喧嘩になってしまって。本当に申し訳ありません』

 ホワイトボードにそう書いて見せると、生徒会室の空気がざわりとゆれた。一瞬佳奈穂様の顔に嗜虐的しぎゃくてきな笑みが浮かんだように見えたのは……たぶん、気のせいだと思いたい。

「それでは約束と違うわね」

 佳奈穂様の唇が動く。

 わたしは深々と頭を下げたあと、もう一度ホワイトボードに文字を書き足した。

『申し訳ありません。でも、まだお姉さまの説得を諦めたわけじゃないんです』

「そんな事を訊いているんじゃないわ。あなた方の責任について」

「……よ、佳奈穂」

 佳奈穂様を押し留めるように。美滝様が口を開いた。でも、途中からだったから。わたしはなにを話しているのかよく解らなかった。

 美滝様はわたしに向かって苦笑して、もう一度話してくれた。

「もう充分よ、って言ったの。元々、わたしがあなたを泣かせてしまったから……それで夜零は怒ったのでしょう? あの子は自分の大切にしているものを傷つけられるのを極端に嫌がるから。そういう子だって失念していたわたしが悪いの。ごめんね、一花。あなたに迷惑をかけるつもりじゃなかったのだけれど……」

「……っ? ………っ」

 美滝様の言葉を聞いて、佳奈穂様が、他の生徒会役員が口々になにか言い合っている。そんな中で、美滝様はいつもの様子とは全く違って、悲しそうな表情のまま……じっとわたしを見ていた。

 イライラしたように佳奈穂様が美滝様の肩を掴んだ。そのあとの二人の言い合いの内容は、早口すぎてよく解らなかった。やっぱり二人同時に唇を読むのはすごく難しい。ただ、断片的に解ったのは……美滝様がわたしを泣かせたのは事実だと話している事だけだった。

 喋り方から気づいた点がもう一つある。それはふたりがお互いに、対等の立場で物を言い合っているという事だった。美滝、佳奈穂、と呼び捨てにしている。そういえば美滝様は一年間休学をされていたのだから、本来ならこの二人は同学年になるのか……などと今更ながらにわたしは思った。

 そのときだった。

 みらいさんがすっと手をあげた。

 それを見た美滝様と佳奈穂様は口論を中断させた。

「一花さんが説得を続けると仰るなら、それはそれで尊重して差し上げてもいいんじゃないでしょうか」

 そんな風に唇が動いたから、わたしは驚いてみらいさんをまじまじと見つめてしまった。

 まさか……みらいさんがわたしの味方になってくれるとは。思ってもみない事だったから。

 そのうえお二人の口論を止めてくれるなんて、なんて優しいんだろうって思って、じんわり涙腺が緩んでしまった。

 けれど。

 それは……わたしの早とちりだった。

「一花さん、この状況を変えられるなら……なんでもする覚悟くらいあるわよね?」

『はい。わたしにできる事なら、なんだってします』

 真意が解らないまま、わたしは半分無意識にホワイトボードにそう書いた。

「そう。じゃあ、あなたの説得を待ってあげてもいいわ。その代わりと言ってはなんだけど。もしもカタリナ様が最後の聖歌の場にご出席せず、わたしたちの新しい生徒会長に祝福をくださらないようならば……そのときには一花さんに聖歌を歌って祝福してもらいたいの。カタリナ様の代わりに。だって、一花さんはカタリナ様の、『歌』の聖徒の妹なんだもの。一人で聖歌を歌うくらい、それくらいの事おできになって当然でしょ?」

 慇懃いんぎんな口調が逆にいやらしく思えてしまうくらい。みらいさんの言葉には毒のようななにかが含まれていた。けれど、そんな嫌味な物の言い方なんてのはもう、どうでもいい事で……っていうか、

 わたしが、

 わたしが……全校生徒の前で、歌を……聖歌を歌う……?

 ……冗談だよ……ね?

「そうね。それもいいわね」

 佳奈穂様がそう呟き、美滝様がなにか反論したけれど……「あなたはまだ生徒会長ではないのよ、わたしに逆らうつもりなの?」と言われ、口を噤んでしまった。たとえ対等に喋りあう事ができたとしても、今の立場は圧倒的に違う。それが如実に現れた結果だったのかもしれない。

 そしてまた、比較的穏健派の朋美様でさえ口を挟めずに黙り込んでいる。副会長の由紀様と会計の知紗様はこのやりとりに取り立ててなんの不服もないのか、我関せずといった態度を終始崩していなかった。

 今更だけど三人の聖徒と生徒会って……ほんとに仲良くないんだなぁ。そう思うと、とても悲しい気分になってしまう。お姉さまがしでかした事とはいえ、なぜ、なぜって、そればかり考えてしまう。

 わたしは自分でも気づかずにずっと、制服の胸の辺りをぎゅうっと握りしめていた。心臓が嫌な鼓動でいつまでも胸の内側を叩き続けている。

「他のメンバーに異論がないのなら。わたしたちから正式にお願いするわ。お歌のほうはよろしくね、一花さん」

 まるでそれは、死刑宣告のように。

 わたしの胸に重く響いた。


 聖歌隊と共にお姉さまが聖歌を歌われるつもりがあるのかないのか……わたしにはもう解らなかった。

 急遽きゅうきょ風見様への二度目の訪問を終え、戻ってきた頃には……すでに執務室の前には聖徒のお姉さま方や妹たち、そして一般の生徒も誰もいなかった。ただ、講堂への移動に流れて行く際にわざわざ遠回りして来て、扉を見つめている生徒がちらほら見えたから……部屋の中にまだお姉さまがいるのだろう、という事はなんとなく理解した。他の聖徒のお姉さまたちも聖歌の場には出席し、聖歌隊と一緒に聖歌を歌う。妹たちだってそれを舞台袖から見守る役目がある。だから。誰もがずっと……この場にいられないのは最初から解っていた。それなのに、いつも見慣れたはずの扉がとても寂しげに見えて。今日はもう何度目かも解らない涙が自然と溢れてくる。あのまま風見様と一緒に講堂に行ってしまおうかとも考えたのだけれど、わたしにはまだやり残したことがあったから。だからお姉さまの元に戻ってきたのだ。

 ただ、わたしはお姉さまの事だけが気がかりだった。このままずっとこの中にいられるはずがないのだからと思っても胸が痛む。繭の中のさなぎは、出てこられなければ死んでしまうのだから。

 ……それがたとえ、出てくる切っ掛けが掴めなくなってしまっているだけなのだとしても。


『お姉さまが最後の聖歌を歌われないのなら、代わりにわたしが歌います。だから、来て。出てきて。お願いです、お姉さま。


                                 一花』


 わたしはメモ帳に走り書きをすると、小さくノックをしてから、扉の下のほんのわずかな隙間に破いたメモ用紙を滑り込ませてその場を立ち去った。今はお姉さまの返事を待つ時間さえ惜しい。わたしは歩きながら十字を切った。とっさに出た仕草だったから、それがなにに対する祈りだったのか……自分でもよく解っていなかった。あるいはこんなメモ紙一枚でお姉さまが出てきてくれるなんて、本当は思っていなかったのかもしれない。

 講堂の舞台裏にはすでに聖歌隊がスタンバイしていた。クララ様とモニカ様が隊長の風見様となにか話しているのが見えたのだが、その内容までは読み取れない。心配そうな顔の晶帆さんと彌生さんの姿もお二人のすぐ近くに見えていた。やっぱり行き違いになってしまったんだと思いながら、お姉さま方の、そして妹たちの表情を見て、風見様が事の成り行きを全て伝えてくれたのだと悟った。

「……どういうことなんだ、一花。説明して」

 クララ様がわたしの姿を認めて、ゆっくりと近づくとそう話しかけてきてくださった。

『お姉さまとはあのあと、お話しできたのですか?』

「ううん、駄目だった。相変わらず……また鍵を閉めて返事もしない」

『そうですか』

 わたしの書いた文字を見て、そしてわたしが悄然としながらもあまり慌てていないのを見て、クララ様は苛立たしげな表情でぼりぼりと頭を掻いた。

「なんでそんなに落ち着いていられるの? あなたたち『歌』の姉妹がいったいなにを考えているのか……もうわたしには解らない。だいたい一花はまだ聖徒の妹ソロルだろう? 勝手に動いて、自分一人で責任を取ろうとして……わたしたちに少しくらい相談してくれてもいいじゃないか。あぁっ、もうっ! なぜそんなふうに全部背負い込むんだっ!」

 たぶん、風見様からこれからについての話を聞いて、さぞびっくりされた事だろう。それは聖徒としての自分たちの顔を潰されたようなものだもの。ごめんなさい。……クララ様とモニカ様には本当に、心から申し訳ないと思っていた。

『ごめんなさい。クララ様。わたしたち姉妹の事でご心配をおかけしてしまって。でも、お姉さまの代わりに誰かが新しい生徒会長を祝福しなければならないのなら、どうか、わたしに美滝様のお祝いをさせていただけないでしょうか。お姉さま方のように上手には歌えないと思いますが』

 そうメモ帳に書いてお見せすると、クララ様は渋い顔でわたしを見つめた。

「どうしてあなたなのって、訊いてもいいわよね?」

 すっと手をあげて、心配そうにそう訊ねたのは一緒にメモ帳を覗き込んでいたモニカ様だった。

「なぜ、一花ちゃんが聖歌を歌う事になってしまったの?」

『風見様からお聞きになりませんでしたか』

「わたしは一花ちゃんから直接聞きたいの」

 わたしは弱々しげに笑って見せた。

『生徒会側からの要望です。わたしがその条件を飲めば、生徒会側も溜飲を下げてくださるでしょう。無用な混乱が避けられるのなら、わたしが恥をかくくらいどうって事ないんです。それに』

 わたしはメモ帳をめくった。

『それに、お姉さまは必ずここに来てくださいます。わたしはそう信じています。だから、なにも怖くありません』

 モニカ様はそれを見て、お姉さまが歌を歌うために出てきてくれるのではないか……と思ったのだろうか。小さく頷いていた。

 けれども、本当は、嘘だった。

 怖い。

 めちゃくちゃ怖くて……不安だった。

 心配で心配でたまらなかった。

 わたしが恥をかくだけならいい。下手くそな歌だと笑われたって構わない。

 でも、お姉さまにまで累が及ぶのかと思うと耐えられない。だって、だってわたしはもう……これ以上お姉さまを悲しませたくないんだもん。

 だからお願い、来て。お願い、……お姉さまっ。

「……解った。そこまで言うなら、わたしはもうなにも言わない。カタリナが来なくても、一花は……本当にそれでいいんだね?」

 クララ様の顔は相変わらず渋面のままで。でも、それは、わたしの事を気遣ってくれているからで。

 それがよく解るから。わたしは小さく、それでもはっきりと頷いてみせた。ともすれば震え出しそうな自分を隠すように。

 モニカ様がちらりと腕時計に目をやった。

「あと、七分よ」

「解ってる」

 クララ様が苛立たしげな表情で返事をした、そのときだった。

 朝と同じように、舞台反対袖に生徒会の役員たちがそろって現れたのは。

「あいつらっ」

 ぎりっと奥歯を噛みしめるようにして、クララ様がそう呟いたのが見えた。居並ぶ役員たちの中では、美滝様と朋美様だけが申し訳なさそうに佇んでいる。わたしが見つめていると、美滝様は辛そうに視線を逸らした。

『元はと言えばこちらが悪いんです。怒らないで、クララ様』

 そっとメモ帳をお見せすると、クララ様は目をつぶって腰に手を当て、深いため息をついたのだった。

 緞帳の内側ではそんなわたしたちの様子を不安げな眼差しで聖歌隊のメンバーたちが見つめている。彼女たちにまで不安を抱かせてはいけない。だって、聖歌隊はこの日のためにずっと練習してきたんだもの。彼女たちの晴れ舞台をわたしたちがこんな事で穢しちゃいけないんだ。

「最後に確認させてください」

 聖歌隊の風見様がモニカ様に話しかけた。頭に血が登ってしまっているクララ様よりはモニカ様の方が話しやすいと踏んだのだろう。

「カタリナ様がいらっしゃれば今まで練習してきた通り、聖徒の皆様三人もわたしたちと一緒に聖歌を歌っていただきます。もしもカタリナ様がいらっしゃらなければお二人だけでお願いする事になります。ここまではよろしいでしょうか」

「ええ」

「そして、カタリナ様が来られなければ……わたしたちのあとに月庭さんがお一人で聖歌を歌う事になる。……ねえ、モニカ様、本当にこんないじめみたいな事が許されていいんですか?」

 聖歌隊は園芸部と並んで聖徒と密接な関わりのある倶楽部だから。心情的にも生徒会よりはわたしたちに近しい。

 まともに喋ることもできないわたしに歌を歌わせて恥をかかせようだなんて、風見様だって内心穏やかじゃないのは先ほど事前に相談に行ったときから解っている。風見様は憤りも露わに、そんな条件を飲めるわけがないじゃないって、そう言ってくれたもの。

 風見様が、聖歌隊の人たちがそう思ってくれている、それだけでいい。それだけで嬉しい。

 モニカ様もクララ様も風見様の質問に対してなにも答えなかったように見えた。

 もう時間は二分も残されていない。誰の表情にも諦めや絶望に似た表情が浮かんでいた。……お姉さまは間に合わなかった。来なかったのだ。

 風見様は小さく首を横に振って、振り返ると、聖歌隊の面々に向かってなにかを言った。メンバー全員が真剣な顔で、「ハイッ」と返事をして、大きく頷いたのが見て取れた。

 そして彼女たちの正面に立たれた風見様の手の振りに合わせて、一様に口を大きく開けているのはたぶん、最後の発声練習だろう。聖徒のお二人も所定の位置についた。

 お姉さま。

 わたしはその光景を見つめながら。胸の前で指を組み、小さく祈った。

 そんなわたしの様子を見て、晶帆さんと彌生さんが心配そうにわたしの肩に手を置く。

 緞帳が上がる。

 スポットライトが風見様の姿を、聖歌隊を真っ白に染め上げる。

 そして、御心祭最後の聖歌が始まった。


 風見様の手がまるで舞うように動く。その手の振りに合わせて、声をそろえて歌う聖歌隊の上半身がゆれる。

 それはとても美しい光景だった。

 もしもわたしの耳が普通に聞こえたなら。彼女たちの歌はどんなふうに心に響いたのだろう。

 そう思うだけに、あそこにお姉さまがいないのが……とても辛い。たぶん講堂に集まった生徒たちも、お姉さまの不在を不審に思っている事だろう。

 わたしはじっと舞台を見つめながら、そこにいないお姉さまの姿を見ていた。あの場所で……聖母祭でお姉さまが聖母マリア様と同じ青いローブに身を包み、朗々と聖歌の『やすかれわがこころよ』を歌い上げる姿を思い出していた。モニカ様とクララ様には申し訳ないとは思ったけれど、三人の中でやっぱりお姉さまが一番綺麗だったなって、思い出していた。

 ……それはでも、わたしの……妹の贔屓目だったのかな。

 風見様の手が止まる。

 聖歌隊が姿勢を正す。

 そして、風見様を残して聖歌隊が帰ってきた。

 わたしの肩を叩きながら、口々に、

「がんばって」

 そう言ってくれる聖歌隊のメンバーたちに頷き返しながら。わたしはゆっくりと歩き出した。お姉さまは姿を見せない。わたしは行かなきゃならない。晶帆さんも彌生さんも、戻ってきたクララ様もモニカ様も、みんな悲愴感を漂わせた表情を浮かべている。

 ……もう。別に死にに行くわけじゃないんだから。

 わたしは弱々しく笑って、眩しい壇上にあがった。

 講堂の暗がりの中から、何百という瞳がこっちを見つめているのが解った。これは一体どういう趣向なのだろうと、ざわざわしているのが耳が聞こえなくても肌で感じられるほどだった。それでも心は不思議と落ち着いていた。なぜだろう。自分でもよく解らない。

「静粛に」

 風見様の唇が開いた。

「わたくし、聖歌隊隊長如月きさらぎ風見かざみはここにいる『歌』の聖徒の妹、月庭一花に代わって皆様にご挨拶申し上げます。…………」

 わたしは改めて生徒たちに向き直った。風見様がどのようにわたしの事を紹介しているのかは解らないが、耳が聞こえない事、うまく喋ることができない事は伝えてくれているはずだった。

 それから、お姉さまの名代としてこれから聖歌を歌う事や、なぜそうなってしまったのかを。

 わたしは講堂の生徒をそっと見回した。

 眩しい。光のせいで生徒一人ひとりの顔なんて見えやしない。でも……もしかしたらこの群衆の中にお姉さまがいるかもしれない。ううん、それだけじゃない。恵美子は、きぃさんは、お母さんは、わたしの姿をどんなふうに見つめているのだろう。そして、千夏さんは、うてな様は……みんなはわたしの拙い歌を聴いてどう感じるのだろう。

 わたしは小さくかぶりを振った。

 これまでずっとわたしを愛してくれていた人たちのために。今は精一杯歌いたい。ただ、それだけだった。なぜだか恥ずかしいとも悔しいとも思わなかった。わたしのスカートの中にはいつものメモ帳と一緒に千夏さんのハンカチが入っている。たぶん、それがわたしに力を貸してくれているんだと思った。

 肩をぽん、と叩かれて、一瞬体が震えた。

 風見様が優しい仕草で頷いてくださったのが見えた。

 わたしも小さく頷いて見せた。

 そして、風見様は舞台から去っていった。わたし一人が壇上に残された。

 どくん、どくん、どくん……心臓の鼓動を感じる。

 わたしは十字を切って、聖セシリア様に祈った。今更ながらに指先が震えていた。

 失敗してもいい、笑われてもいい。どうか……最後まで歌わせてください。わたしと、お姉さまのために。


〝マリア様、あなたの全ては美しい

 《Tota pulchra es, Maria,》

   その身のうちに、元の穢れはありません

   《et macula originalis non est in te.》〟


 大きく息を吸い込み、わたしは歌う。ラテン語の歌詞に日本語の手話を交えて。揺蕩たゆたうように。


〝あなたの衣の白さは雪のようで

 《Vestimentum tuum candidum quasi nix,》

   あなたのお顔は太陽のようで

   《et facies tua sicut sol.》〟


 それはわたしが夢の中で聖セシリア様から教わった、たったひとつの歌。校長先生に訊ねるまで名前すら知らなかった歌。


〝マリア様、あなたの全ては美しい

 《Tota pulchra es, Maria,》

   その身のうちに、元の穢れはありません

   《et macula originalis non est in te.》〟


 ラテン語の辞書を引いて、一生懸命歌詞の意味を調べたりもしたっけ。あれは……そうそう、辞書を返しに行った帰りにうてな様に菓子パンをご馳走になったんだよね。チョココロネといちご牛乳だったのをよく覚えてる。


〝あなたはエルサレムの栄光

 《Tu gloria Jerusalem,》

   あなたはイスラエルの歓び

   《tu laetitia Israel,》

     わたしたちの民の誉れです

     《tu honorificentia populi nostri.》〟


 どうか、わたしの想いが届いて欲しい。

 みんなに、そして、お姉さまに。

 好きだよって、大好きだよって。

 お願い、お願いだから届いて、……届いてっ。


〝あなたの全ては美しい、マリア様

 《Tota pulchra es, Maria.》〟


 ……歌が終わる。腕の、指の動きを止める。

 わたしはもう、喉がカラカラで。立っていられるのが不思議なくらいで。光の中からだとよく解らないが、暗がりの中でみんなの姿がゆれている。もしかしたらゆれているのはわたしなのかもしれないけど。

 わたしは舞台袖を見た。美滝様は驚いた顔をして、呆然と立ち尽くしていた。ううん、美滝様だけじゃない。他の生徒会役員たちも、みんな初めて見るような顔をしている。戸惑い、それともあれは……畏れ、だろうか。

 わたしは手を差し伸べるように、美滝様に向かって右手を伸ばした。

 美滝様は雷に打たれたようにビクッと体を震わせると、ゆっくりと、いつものように少し足を引きずりながら壇上にあがってきた。

 すぐ近くで立ち止まった美滝様に対し、わたしは、

「てを」

 と言った。

 ゆっくりと持ち上げられたその手を取って、わたしはひざまずいた。そして。

「あなたのちせいに、しゅのしゅくうくがあいますおうに」

 そう告げて手の甲に口づけをした。

 ふと異変に気付いて目をあげると、美滝様がポロポロと涙を流していてびっくりした。

 あ、うそ……わたしの歌、そんなにひどかったのかなぁ……。

 なんか間違っちゃったのかもしれない。一瞬そう思って、めちゃくちゃ後悔した。

 でも、異変はそれだけじゃなかった。講堂の空気がざわついているのが解って、見ると、生徒たちが立ち上がって拍手をしてくれている。中には美滝様のように泣き出している子もいて、えっと……どういう事なのか全然解んない。

 あ、ぼうっとしてはいられない。このあと生徒会の挨拶があるのだから。わたしはもう壇上から消えなきゃいけないのだ。

 そう思って踵を返そうとしたとき、美滝様にぐっと右手を掴まれた。怒られるのかと思って恐る恐る窺っていると、

「ありがとう」

 そう、唇が動いたのが見えた。

「あなたに聖徒の妹は似合わないなんて言って、ごめんなさい。あなたは、一花は確かに『歌』の聖徒の妹なのね。……薫紫草じゃなかったのね」

 ……そうだね。ラベンダーの花言葉は〝沈黙〟だから。お喋りなわたしには似合わない。

 わたしはにっこりと微笑んで、その場をあとにした。

 舞台袖に戻ると、そこには、


 お姉さまがいた。


(どうして)

 わたしは驚いて、呼吸と心臓がいっぺんに止まりそうだった。まさか、お姉さまが舞台袖にいるとは思っていなかったから。来てくれないんじゃないかと思っていたから。

(あなたの手紙を読んだの。なんでこんな事になってしまったのか、モニカたちから全部聞いたわ。ごめんね、ごめんなさい。一花、一花っ)

 お姉さまは震える手で指を動かすと、泣きながらわたしに抱きついた。涙の匂いは温かいミルクのようだった。

 お姉さまは自分から出てきてくださったのだ。繭だと言っていた執務室の中から。それが嬉しくて、嬉しくて。なんだかわたしまで泣いちゃいそうだった。

「わあし、じょおうに……うたぁえてましたか?」

 お姉さまにきつく抱きしめられながら、わたしは訊ねた。

 何度も何度も頷きながら、お姉さまがなにか言ってくださった。そっと体を離して見上げると、右の頬だけが赤くなっている。

(叩かれちゃいましたか)

 わたしが苦笑すると、お姉さまも苦い表情で笑った。

(クララにね。でも、いいの。解ったの。わたしが馬鹿だった。お願い、わたしと一緒にいて。ずっとそばにいて。お願い)

 そっと首を横に振って、わたしは言った。

(この世に永遠なのは、わたしたちの主なる神様だけです。お姉さま。わたしたちはいつか必ず別れるんです)

 お姉さまが悲しそうに目を見開き、小さく息を飲んだのが解った。

(だからいつか死がふたりを分かつまで。そのときが来るまで。二人で歩いていきましょう。わたし……お姉さまから決して離れたりなんかしませんよ)

 お姉さまは感極まったようにもう一度わたしを強く抱きしめると、

「ずっと見ていたわ。ずっとあなたの歌を聴いていたわ。好きよ。一花が好きよ。……愛しているの」

 少しだけ顔を離して。優しく、ゆっくりと、わたしにもよく解るようにそう囁かれたのだった。

 わたしもお姉さまによく解ってもらえるように。ゆっくり、そしてしっかりと頷いた。

 それから。見つめあいながら。

 わたしたちはどちらともなく……そっと唇を重ねた。

 そうするより他に気持ちを伝えあうすべを知らなかったから。

 周りがザワザワしている。見なくても、聞こえなくても解る。

 でも大丈夫だよ。

 ほら、目を閉じれば……この世界にはわたしとお姉さましかいないから。


 さっきは執務室でひどい事を言ってしまってごめんなさい。

 わたしも好き。

 大好きです。……お姉さま。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る