ろく
次の日の月曜日は今の季節を思い出したかのような梅雨の一日で。朝から憂鬱な雨がしとしとと降り続いていた。雨粒が窓ガラスをまだらに染めて、世界を歪ませている。水滴と水滴が重なり合って、時々つうっと
でも。
わたしは手を止めてふと考える。
しとしとってどんな音なんだろう、と。
わたしは掃除の時間、ぼんやりと雑巾を手に持ったまま、雨が流れ落ちる教室の窓を指で触れて……そんな取り留めもない事を思っていた。でも、実際に雨の降る音って、どんな音なのかな。
ざーざー、しとしと、ぱらぱら……。
それってどんな音なの?
わたしはぎゅっと雑巾を握りしめた。考えたってそんなの、解りっこないのに。
(どうしたの? アンニュイな顔をしているのね)
ちょんちょんと肩を突つかれ、振り向くとそこには……千夏さんがモップを体に立てかけながら、手話をしてくれていた。
(アンニュイ?)
わたしは雑巾をサッシに乗せて、苦笑しながら答えた。
(ええ。今日は一花さん、ずっとそんな顔をしているわ。なにかあった?)
なにか、と言われれば……昨日のあの一連の出来事しか思い浮かばないけれど。まさか美滝様の事を千夏さんに相談するわけにもいかないから。
(天気。雨だなって)
咄嗟にそう言ってしまった。
(梅雨だもん)
千夏さんは笑った。
(でも、本当にそれだけ?)
(……ねえ、千夏さん)
わたしは言った。
(雨の音ってどんな音なのかな)
「え?」
(雨の音。どんな音なのかなって考えていたの)
「……一花さん」
わたしは千夏さんが浮かべた表情を見て、途端に後悔した。千夏さんに八つ当たりする事なんてなにもないのに。
(ごめんね、千夏さん。お願い……そんな顔をしないで)
(ううん。わたしのほうこそ……)
(掃除、さっさと終わらせちゃおっか)
わたしは無理矢理笑った。
(うん)
千夏さんもぎこちなく笑ってくれた。
そして、ためらいながら手話を続けてくれた。
(今日の雨はね、静かに降っているから。音なんてなにもしないよ)
(……そっか。ありがとう)
雑巾なんて持ってなかったら。千夏さんを強く抱きしめる事だってできたのに。
あーあ。……なにしているんだろう、わたし。
馬鹿だ、わたしは本当に馬鹿。
一体なにがしたかったんだろう。
心にまで黴が生えてしまいそうな、そんな雨降りの日の放課後。
執務室に行くと瑠夏様——今は『祈り』の聖徒、クララ様となられている——がひとり、お茶の用意をしていた。わたしは慌ててジェスチャーで交代を買って出たのだけれど、反対に身振りで座っていなさい、と押し止められてしまった。
背が高く、すらりとしたクララ様はそのお名前の可愛らしさと相反して中性的で、見目麗しい。口数も少なく、なにを考えているのか解らないところもあるけれど、とても優しいわたしたちのお姉さまのひとりだ。
「今日は
わたしにティーカップを渡してくれながら。クララ様が訊ねられた。
わたしはテーブルに紅茶の入ったカップを置き、こくんと頷いた。そしてスカートのポケットに入れているメモ帳に簡単に事情を書いてお見せした。
『晶帆さんは日直だって言っていましたから。少し遅くなるそうです。
「そっか、じゃあお茶っ葉はもう取り替えたほうがいいね。苦くなっちゃう」
そう言ってクララ様は苦笑した。
ちなみに、
彼女たちとは一緒に聖母祭のお手伝いをした事ですっかり仲良くなった。
わたしの耳が聞こえない事で色々と迷惑をかけてしまっているはずだけれど……彼女たちは気にしないでいてくれる。来年、本当にわたしは彼女たちと一緒に聖徒のひとりになれるんだろうか……。うぅーっ。その事を思うと不安で胸がツキンと痛くなる。
『クララ様、訊いてもよろしいでしょうか』
わたしは新しい文字を書いて、クララ様にそっとメモ帳を見せた。前々から疑問に思っていたのだが、つい訊きそびれてしまっていた事だった。
「わたしでいいなら」
『クララ様は花の君ってご存知ですか』
クララ様はご自分の顎に指を添えながら、少し考えているようだった。
「その名前をどこで?」
『わたしのお姉さまから』
「そう」
『どうして花の君の名称は無くなってしまったのでしょうね』
「ああ、それについては……」
クララ様が答えようとしたそのとき。
「ごきげんよう、あら、一花も先に来ていたのね。……なにか相談事?」
鞄を置いて、途中から手話を交えながら。夜零様がわたしたちに訊ねた。扉を開けて閉める、棚に鞄を置く、ただそれだけの所作なのに。なんでこんなに一つひとつが美しいんだろう。ちくん、とする。
あれ……? ちくん?
クララ様がそんな夜零様を手招きして、わたしたちの会話を書いたメモ帳を指差した。
不思議そうにゆっくりと近づいてきた夜零様は、書かれた文字に目を通すと、小さく首を傾げて見せた。
あ、そういう仕草をするとすごく可愛い。本当に天使みたいだ。
なのに、……なんだろう。胸が痛い。ざらざらする。
あれ?
……さっきから、なに?
なんなの?
“夜”のように艶やかな黒髪がさらさらと流れて“零”れた。わたしはそんな美しい夜零様の様子をただじっと見つめていた。
「これは、あれよね」
夜零様がポツリと呟く。
「お亡くなりになったのよ。任期の途中で」
……え?
「そうだっけ。わたしの聞いていた話と違うな。生徒会の顧問の先生がお亡くなりになって、そのショックで学校をお辞めになってしまった、とかって話じゃなかった? まあ、なんにせよ、それで花の君の名前は途絶えてしまったんだね。今では花の君という名称を知っている生徒も少ないはずだけど」
(一花。もしかしたらこのあいだの事を気にしているの?)
夜零様が心配そうにそう手話で話しかけてくれた。
(もしかして……また美滝にいじわるされたの?)
どくん、と鼓動がゆれる。
ううん、ゆれたのは……心臓じゃない。もっと違うなにか。それは、きっと……わたしの心だ。
わたしはぎこちなく笑って、そっと首を横に振った。そして夜零様にコーヒーを淹れて差し上げるために席を立った。
聖徒様たちの執務が終わり、帰り支度をしていたわたしを夜零様が「少し残って欲しいの」と言って引き止めた。その様子を見ていた晶帆さんの唇が『歌』の姉妹は熱々ね、と動いてにやりと笑みを作ったのが見えた。
もっとも、言葉に出したのかどうかまでは解んないけど。
彌生さんも興味津々といった顔でわたしたちを見ていたのだが、モニカ様に軽く睨まれて。腕を取られて一緒に出て行ってしまった。晶帆さんもごゆっくり、とかなんとか言いながらクララ様と一緒に執務室をあとにする。
まったくもう。
そんなんじゃない、……と思うんだけどな。夜零様のお顔を見ていると、たぶん、言いたい事はそんな艶っぽい話とは違う、別のなにかのはずで。
(わたしになにかお話ですか?)
そう訊ねてみると、
(ううん。一花がわたしに話があるのではないかしらって、思ったの。執務のあいだもどこか上の空だったようだから。それに、わたしに対する態度がどこかぎくしゃくしているの、気づいていないと思っていたの? ねえ、困っている事があるのなら、遠慮しないでわたしに話して)
白い指を嫋やかに動かしながら。夜零様が少しだけ悲しそうな顔をされた。
わたしはカバンの中からポストカードを二枚取り出して、そっと夜零様に差し出した。
(これは?)
(お土産です。昨日、ひとりでルーブル美術館展に行ってきたんです。わたしの好きな絵なのでぜひ夜零様にも、と)
二枚のポストカードを受け取ると、夜零様はそれをまじまじと見つめて、そしてまるで春先に花がほころぶように。にっこりと笑ってくださった。
(フェルメールとレンブラントね。わたしも好きよ。でも、ちょっと気が利かないのね。一花が誘ってくれたら、ふたりきりでデートだって出来たのに。残念だわ)
そう言って夜零様が苦笑した。
わたしも夜零様が冗談でもそう言ってくださった事が嬉しくて、ちょっとだけ苦笑いして見せた。
(今日、考え事をしているように見えたのは、わたしにこれを渡すタイミングを見計らっていた、という事でいいのかしら?)
(それもありますが、実は)
わたしは少しためらったけど、結局夜零様には正直にお伝えする事にした。
(会場で偶然、美滝様にお会いしたんです)
「……え?」
夜零様の指が止まる。
(美滝様もひとりで来てらしたようでした。展覧会を見たあと、お茶に誘われたんです。そのときの会話が……これです)
そしてわたしはあのA5のノートを差し出した。今更なのだが、たぶん……こうなる事を予想してこのノートを美滝様はわたしに渡したのではないか、と思うのだ。
でも、……夜零様がノートを読み進めるうちにその美しいかんばせを蒼白にして、苦悶の表情を浮かべ始めたのを見て。わたしは激しく後悔した。そして、姉である夜零様をつまらない小さな嫉妬心から疑ってしまった事を、心から謝罪したくなった。
ああ、神様。聖セシリア様。
わたしはいつから……こんな嫌な子になっちゃったんでしょう。
夜零様の手が小さく震えている。そっとその手に触れると、驚いたように夜零様は顔をあげた。目尻がうっすらと赤くて、今にも泣き出しそうで……。
それを見た瞬間、わたしはもう、耐えられなくて。気づいたらぽろぽろと涙を零していた。しゃくりあげながら何度も何度も涙を拭った。でも、それでも涙はとめどなく溢れてくるのだった。
「一花?」
(ごめんなさい。ごめんなさい、夜零様)
「一花が謝る事なんてなにもないわ」
夜零様はノートをパタンと閉じると、わたしをそっと抱き寄せた。
抱きしめてくれた夜零様の腕も、……微かに震えている。それを知ったとき、それを感じたとき、わたしは思った。
もう、どうでもいい……って。
嘘でも本当でも。わたしを抱きしめてくれるこの腕の温もりだけを信じていればいい。
そう思った。
そう思ってわたしは泣いた。
しばらくして泣き止んだわたしに、夜零様はご自分のハンカチを水で濡らして、そっと頬に当ててくださった。
(夜零様?)
(随分泣いたわね。目が真っ赤よ)
泣きすぎてヒリヒリする頬に、ハンカチの冷たさが心地いい。
(全部読ませてもらったわ。あなたの態度をおかしくさせていたのは、これのせいだったのね)
わたしはこくん、と小さく頷いた。夜零様は瞳を糸のように細くして、どこか遠い場所を睨んでいた。そこにいるのは美滝様なのか、それとも過去の自分なのか……あるいはもっと別のなにかなのか。わたしには解らない。でも、解らなくてもいいんだって……ちゃんと解っていた。
(ねえ、夜零様)
わたしは言った。
(ここに書かれている事を、今は否定も肯定もなさらないで欲しいんです。わたしは、わたしを妹にしてくださった夜零様を信じます。わたしの泣き顔が好きだって言ってくださった夜零様を信じています。だから、どうか)
あ、駄目だ。また涙が。
そう思ったそのときだった。
わたしの手をキュッと握りしめて。夜零様がゆっくりと口を開いた。
「ひとつだけ、否定させて」
わたしは小首を傾げながら夜零様を見つめた。
「……あなた以外にわたしの妹になる人間なんていないわ。あなたはわたしの自慢の
また溢れてしまった涙を拭ってくださいながら。夜零様が花のように笑った。それはわたしという雪を溶かし、春の訪れを告げるスノードロップの、……聖母マリア様の微笑みそのものだった。
(帰りましょうか)
(はい。……お姉さま)
わたしの手話を見て、お姉さまは少し驚いたように帰り支度をしていた手を止めた。
(やっと、わたしをお姉さまと呼んでくれる気になったのね)
面と向かってお姉さまと呼びかけたのはこれが初めてで。わたしはなんだかくすぐったくて、恥ずかしくって、顔を真っ赤にしながら視線を逸らした。
(嬉しい。ねえ、またちゅーしてあげましょうか)
(……お断りします)
調子に乗りすぎです。お姉さま。
(というか、うてな様にも叱られたじゃないですか。神聖な儀式だとかなんだとか嘘までついて)
(だって)
お姉さまはちょっとムッとした、拗ねたような表情で答えた。
(——わたしはあなたが、)
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