久しぶりのお泊りの朝。

 恵美子は午前中から部活があるからと言って、朝ご飯を食べ終えるとすぐに帰ってしまった。わたしは恵美子と別れたあとはひとりで美術館に行く事に決めていた。ルーブル美術館展が開かれていて、わたしの好きなレンブラントやフェルメールの絵が来日しているって新聞に出ていたのだ。もう、楽しみで楽しみで、指折り数えていたんだもん。今日は梅雨の中休みで天気もいいし、出かけないわけにはいかないじゃない?

 いそいそと出かける支度をしていると、きぃさんがどこに行くの、と訊ねてきた。

(美術展。レンブラントとフェルメールが一緒に見られるんだよ)

(れ、レブ?)

(レンブラント、と、フェルメール。知らないの? 新聞にも出てたのに)

 わざわざその新聞を持ってきて説明すると、きぃさんは苦笑しながらぽりぽりと頭を掻いた。

(絵には興味ないんだよ)

(誰も誘ってませんよーだ)

 わたしも苦笑しながらそう言った。きぃさんはそういう文化的な場所に行くとお腹が痛くなるんだって、以前そう笑いながら話してくれた事があったから。誘ってあげないのだ。

(ひとりで大丈夫? 美花さんがお休みの日に一緒に行けば?)

 お母さんは不定休だからいつお休みが合致するか解んないもの。今月のシフト表を見たらずっと日曜日は出勤だったし。もうひとりで通学するのにも慣れたんだから。なんとかなるって思うんだよね。

(いつまでもお母さんに甘えてられないもの。それに、お母さんのお休みはきぃさんとのデートのために取っておかなきゃ、ね?)

 そう言うと、きぃさんは耳まで赤くなった。体はでっかいくせに以外とうぶなのだ。

(じゃ、気をつけてね)

(うん。行ってきます)

 玄関を出ると、東の空がほんのりと曇っていて。わたしはどうしようか迷った挙句、折りたたみの傘を持っていく事にした。黄緑色でなんとなく制服のスカーフの色とお揃いになっている、わたしのお気に入りの傘を。

 地下鉄にゆられていると薄ぼんやりと自分の顔がドアのガラスに映って見えた。小刻みに電車の振動が伝わってくる。電車の音はタタン、タタンっていうんだって、確か本に書いてあった。

 タタン、タタン。文字では理解できるけど……それってどんな音なのかなぁ。この足元から伝わる振動が音なんだろうけど……一度くらい聞いてみたいな。

 音。

 音ってなんだろう。空気の振動。その波の長短で聞こえ方が違う物理現象。でも、本当にその人が聞いている、聞こえている音は世界共通の音なんだろうか。

 人の耳は世界の音を何倍かに増幅させて聴いているらしい。なら、この世界はきっと、みんなが想像しているよりももっとずっと静かなはず。でもそれって本当の音だと言えるのだろうか。人が知覚するからこそ、音が音だと認識できているわけで。増幅装置だってきっと個人個人で違うはずだし、その人の感じている音が別の誰かの感じている音と同じだなんて、誰にも解らないはずなのだ。

 もっとも、わたしの場合、その増幅する、掛け算をする数がゼロだから……どんな音も聞こえないのには変わりがないんだけど。

 うー。やだやだ。そんな事ばかり考えていると悲しくなってしまうので、わたしはなにか楽しい事を考えようとした。

 例えば……なにかなぁ。

 あ、そうそう。そう言えば。

 わたしが正式に妹になることを受託した日、その話をお母さんにしたらすごくびっくりしていたっけ。

 その日、学校から帰るとお母さんは台所で天ぷらを揚げている最中だった。うちでは台所が汚れるからってあんまり揚げ物はしないんだけど、時々無性に食べたくなるんだって。……おもにきぃさんが、なんだけど。

(ねえ、お母さん)

 ちょんちょんと背中を突つきながらわたしがそう話しかけると、

(今揚げ物しているんだから、あとで)

 お母さんが素早く手を動かしてそう言った。

 わたしは横目で天ぷらが揚がっていくのを見ながら、食卓を拭いて綺麗にしたり、お皿を並べたりしていた。

 ひと段落ついた頃、お母さんは濡れた手を布巾で拭いて。

(どうしたの? 学校でなにかあったの?)

 と訊ねた。

(うん。まぁ……ちょっと。そう言えばさ、お母さんがミシンにいた頃にも三人の聖徒トリス・サンクトゥスとか、妹とかって制度はあったんだよね?)

(ええ。その言葉を聞くのも久しぶりだわ。みんな上級生の聖徒様を見てキャーキャー大騒ぎで。それはもうすごい人気だったわね。わたしのクラスにも聖徒様になった子がいて……綺麗な子だったわ)

 お母さんが少しだけ、遠くを見るような目をした。

(懐かしい。わたしがカトリックに入信して洗礼を受けたのは、彼女たちに憧れたから、っていうのも少しあるのよね)

 ……え?

 マジで?

 わたしは夢見る乙女な顔をしているお母さんをまじまじと見つめて、唖然としてしまった。まさかそんなミーハーな理由——だけじゃないにしても——でキリスト教徒になったなんて。今まで全然知らなかった。えっと……それでわたしにまで洗礼を受けさせるってどんだけなのよ? というか、いつもきりっとしているお母さんが聖徒様たちを見てキャーキャー騒いでいたっていうのがそもそも想像つかないんだけど。

(そっか、もうすぐ聖母祭になるのね。懐かしいわ。聖母祭は新しい聖徒様とその妹たちのお披露目も兼ねているから、一花もよく見ておくといいわ)

(その事なんだけどね。わたし、今日正式に聖徒の妹ソロルになったの)

「……え?」

 お母さんの手が止まった。

「じょ、冗談よね?」

 あ、珍しい。口で喋ってる。

(冗談だったらよかったんだけど)

 わたしは小さくため息をついた。

(外部生から妹になるのって、ほとんど過去に例がないんだって。だからってわけじゃないけど、どんな事をしなきゃいけないのかまだうまく把握できてないの。お姉さまたちは追い追いでいいわよって言ってくださっていたけど……OGのお母さんならなにか知ってるかなって……)

(ば、馬鹿っ。なんでもっと早く言わないのっ。もう、ご飯炊いちゃったじゃないっ)

 え? ……ご飯?

(もっと早く教えてくれたらお赤飯だって用意できたのに。あ、今からでも遅くないかしら。喜三郎に電話すれば、ううん、そうじゃないわ。えっと鯛ってスーパーで売ってるのかしら、えっと)

 わたしはワシャワシャ動くお母さんの手を両手でガシッと握りしめた。

「おち、ついて。おかぁしゃん」

 お赤飯。

 お母さん、お赤飯て……言ったんだよね。

「おかぁしゃん。わあしがそおうになったの、うぇしい?」

「……当たり前じゃない」

 あ、お母さんの目がきらきら光ってる。

 そう思った瞬間。わたしはぎゅっと抱きしめられていた。く、苦しい。でも、……嬉しい。首筋に微かな振動を感じる。きっと、なにか喋ってる。わたしには解らないけれど……。

 お母さんが喜んでくれた。それだけでも夜零様の妹になれてよかったって、聖セシリア様のご加護があったんだって……そんなふうに思うわたしはちょっと罰当たりなのかもしれない。でも、少しくらい……いいよね? 

 わたしはお母さんをぎゅっと抱きしめ返しながら。そんな事を思っていた。

 ——ふと電車の電光掲示板を見上げると、乗り換えの駅の名前がオレンジ色に光っていた。わたしは慌てて電車から降りて、案内図を頼りに歩きだした。日曜日の午前中とあって家族連れの姿が多い。ただでさえ地下鉄の駅の構内は人が多いから。わたしはなるべくはじのほうを通って、人にぶつかられないように注意した。最近はスマホを見ながら歩いている人もいるから、なかなか気が休まらない。

 本当は一度、朝の通勤ラッシュのときにやってみたい事がある。

 それは、目をつぶってホームを歩く事。

 目をつむれば無音の闇が広がる。

 その瞬間。この世界にはわたしひとりだけになる。誰かにぶつからない限り、たった一人でこの世界に取り残される気分になれる。

 そう考えるだけで背筋がぞくっとする。怖い。すごく怖い。だから、想像するだけで実行した事なんてないんだけど。


 ……目を閉じているあいだだけ。

 わたしはこの世界の王になれる気がしたんだ……。


 別の路線に乗り継ぎ、三駅目。地下鉄の駅からその美術館は直通になっていて、専用出口を出ればすぐに美術館の入り口になる。チケットの購入ブースも黒山の人だかりで、展覧会の盛況ぶりを物語っていた。

 きっと恵美子と一緒に来ていたら、この人ごみを見ただけで帰るって言いだしそう。彼女の耳は、たぶん……この人の多さには耐えられないと思うから。

 ……この世界はもしかしたら多角的な意地悪で出来ているんじゃなかろうか。主がお創りになられたはずなのに。

 ふと、その真実に。わたしは気づいてしまう。

 胸の中の小さな黒い点が大きくならないように。やれやれと思いながらわたしは列の最後尾についたのだった。


 美術展を見て回り、途中でちょっと催してトイレに入ったとき。わたしは個室の壁にそれを見つけた。

 ……音姫おとひめって書いてあるボタンを。

 おトイレをする際に、音が隣に聞こえないように押すんだって以前支援校に通っていた頃に聞いた事がある。もちろん中学校にもミシンのトイレにも設置されていなかったから、外でおトイレしたときじゃないと見かけない装置ではあるんだけど。

 えーと。

 でもおトイレの音って、そんなに気になるものなのかなぁ。わたしはいつも不思議で仕方がないのだった。

 もちろん。押したってわたしにはどんな音が流れているのか——水の流れる音らしい——解らないから。なんの意味もないんだけど。隣の人は誰かのおトイレの音が聞こえたら不快なのかな。それがこの世界の成り立ちなのかな。

 ……変なの。

 この世界の住人が全員、耳が聞こえなかったら。こんな装置いらないのにね。

 そんな思いにかられながら結局音姫のボタンは押さずに用を足し、手を洗っていると。

 鏡越しに……ここにいるはずがない人と目があった。

 え?

 なんで、……こんなところにこの人がいるの?

 そう思って振り返ると、向こうもちょっと驚いた顔でわたしを見ていた。

「ごきげんよう」

 彼女の口がそう動く。わたしもぺこっと頭を下げて挨拶をした。

 この人は入学当初、わたしが夜零様と知り合うきっかけになった人。勝気そうな眉と緩やかにウエーブする栗色の髪が、まるで夏の盛りの真っ赤な花のような。

 ドクン、ドクンと心臓が胸を打つ。

 ……釘宮くぎみや美滝みたき様。生徒会、庶務。

 わたしの天敵。


「……三人の聖徒側はなにを考えていらっしゃるの? もしかして、ふざけているのかしら?」

 聖母祭のあと、正式に聖徒のひとり、カタリナ様となられた夜零様に連れられて、わたしは生徒会室に来た。そこで、生徒会の面々との初顔合わせとなったわけなのだが……その中にあの、廊下でぶつかりそうになってしまった先輩の顔を見つけて。わたしは背中につうっと冷たい汗が滑り落ちていくのを感じた。

 嘘。この人……生徒会の役員だったんだ。

 わたしは夜零様と生徒会の方々の両方の顔、というか唇が見えるように少し端に寄って控えていたのだが……ちょっとだけ夜零様のそばに移った。

「なんの事? これからわたしの代わりに生徒会との連絡役を務める、妹の一花よ。……どうしてふざけているなんて言うの? 美滝さん」

 少し足を引きずるようにして近づいてきた美滝様は、わたしに向かって冷たい視線を投げて寄越したあと、とぼけないで、と吐き捨てるように言った。

「その子、耳が聞こえないのでしょう? どうしてそんな子を連絡役に使うのよ。……あんた馬鹿なんじゃないの?」

 夜零様はしれっとした顔で聞き流しているが、わたしは気が気じゃなかった。わたしのせいで批難されている夜零様を見るのは耐えられなくて。

(夜零様……わたしのせいで)

 思わず手話で話しかけていた。

(大丈夫よ。あなたのせいなんかじゃないわ)

 夜零様が優しく微笑んでくださる。

 それを見ていた美滝様の表情が、さらに険しいものとなって、わたしは思わず一歩下がってしまった。

 うっ。やっぱりこの人、怖い……。

「そうやってわたしたちにも手話を使えというの? いい迷惑だわ」

『唇も読むことはできますが、できれば筆談でお願いします。複数の唇を同時に読む事ができないので』

 わたしは慌てて携帯用の小さなホワイトボードにそう書いて、生徒会の方々にお見せした。

 そのとき、なにか言いかけた美滝様が不意に後ろを振り返った。ボブの髪をカチューシャでまとめた……生徒会長の佳奈穂かなほ様がなにか仰ったようだった。そして小さく頷いて可動式のホワイトボードに歩み寄ると。

『生徒会長の柏崎かしわざき佳奈穂です。こんな感じでいいかしら?』

 と書いてくださった。

『あなたが喋れないというのなら、それは仕方ないわ。でも、できれば連絡事項は事前に書面にしていただけると助かる。ホワイトボードに書きながら議論のやり取りをするのは少し疲れるから。その提案は飲んでいただけて?』

「ありがとうございます」

 夜零様がぺこりと頭を下げた。

 その言葉を聞いて、佳奈穂様がくるりと後ろを振り返った。

 ……なにか仰ったのだろうか、生徒会の役員の方々が次々立ち上がると、ホワイトボードに名前を書いていく。

『わたしは姫野ひめの由紀ゆき。生徒会副会長』

 くるんと毛先のカールしたややきつい面差しの上級生がすっと手を差し出した。

 わたしが慌てて握手していると、別の人がとても綺麗な字で。

『生徒会書記役、河野こうの朋美ともみです。宜しくお願いします』

 と書いて、にっこり微笑んだ。黒ぶちの眼鏡をかけたその人は、笑うと右の頬にえくぼが浮かぶ。

 あ、この人……入学式の日、わたしの胸にバラの花をつけてくださった方だ。

麻木あさぎ知紗ちさ。会計です』

 朋美様の笑顔に見惚れていたわたしは、手を差し出されて慌ててそのポニーテイルの先輩と握手した。

『庶務、沢谷さわたにみらい。あなたと同じ一年で、わたしは藤組。よろしくね』

 ちょっとはにかんだ表情の気の強そうなツインテールの女の子がぺこっと頭をさげる。

 ……えーと、一度にこんなたくさん覚えられるかなぁ。

 そう思って顔を引きつらせていると、美滝様はわたしの前に仁王立ちになって。

「まどろっこしいわね。こういうやり方は好きじゃないの。唇が読めるならわたしの言っている言葉は解るのでしょう?」

 と言った。

 わたしは小さく頷いた。

「わたしは釘宮美滝。庶務。今後も一対一なら唇を読みなさい。……あなたたちの茶番に付き合うつもりはないわ」

 わたしはぐっと唇を噛み締めて、もう一度小さく頷いてみせた。

 生徒会との初顔合わせはそれで終わったのだが、執務室に帰る道すがら。

(一花。朋美さんに見惚れていたでしょう)

 不意に立ち止まった夜零様の指がそう動いた。

 え?

 えーと。

(一花はあんな感じの人が好み? 胸が大きいから?)

(……なにを仰っているんですか)

 わたしはちょっと呆れながら答えた。確かに制服を盛り上げていた胸はDカップ以上ありそうだったから、うらやましいと思わなくもないけど。

(だって)

 ムッとした表情を浮かべる夜零様にわたしは苦笑して。

(入学式の日、わたしの胸にバラの花をつけてくださった方だなって。思っただけです。それよりも夜零様、知っていらしたんじゃないですか?)

(……なにを?)

(美滝様の事です。初めてお逢いした日にわたし、少し足を引きずっていた方とぶつかりそうになったって、夜零様にお話しましたよね? あのときはわたしのせいで足を捻ったのかと思っていました)

 わたしはごくんと唾を飲み込んだ。

(でもそうじゃなかった。あの人の足の引きずり方は、もっと長いあいだそうしていた人の仕草でした。だから思ったんです。もしかしたら夜零様は美滝様が生徒会の役員だと知っていて、わたしを妹に、生徒会との連絡役にしようと思われたのではないか……って)

(買い被りすぎよ。わたしはあなたの顔が気に入ったから妹にしたって、そう言ったはずでしょう?)

 夜零様は指を動かしながらやわらかく笑ってくださったけど、でも……本当にそうだろうか。

 夜零様の性格なら、わたしを美滝様に対面させようと思われたとしても不思議じゃない。わたしを強くするために。現実と立ち向かわせるために。もっとも……そのためだけにわたしを妹にしたのではないのだろうが。

(確かに美滝の事は前から知っていたわ。今年から同じ学年で、その上同じ藤組だもの。それよりも一花。覚悟なさいね)

(なにをですか)

 夜零様がすっと目を細めた。怜悧な瞳に冷たい光が宿る。

(九月の御心祭で美滝が次の生徒会長になるわ。代々庶務を務めた二年生が生徒会長に就任するのが習わしだから。でも、美滝が生徒会長になれば今までのわたしたちと生徒会の関係が崩れるかもしれない。昔のような関係に逆戻りするかもしれないわ)

(……昔?)

 確かに今だって美滝様を見ているとそれほど協力的とは言えないけれど、昔のような関係って……どういう事なんだろう。不思議に思って訊ねると夜零様は渋面を露わにされた。

(ええ。昔、生徒会長が花の君と呼ばれていた頃のように、ね。美滝はその名前を望んでいるようだから)


 昔々、と言ってもわたしのお母さんの時代にはまだその名称は存在していたというのだから、そんなに古い話ではないのだけれど。

 昔、ミシンの生徒会長は〝花の君〟と呼ばれていた。そしてミシンの絶対的な君主だった。

 花の君は次の花の君の任命権を持っていて、まるで世襲のように生徒会長が誕生していたのだという。生徒たちは花の君と聖徒と、自然とそのどちらかの陣営につき従うようになり、学院を二分してなにかと諍いが絶えなかったらしい。

 ……お嬢様学校なのに。

 なぜ花の君という名称だったのかというと、それぞれの生徒会長が自分に一番似合う花の名前を名乗ったからなのだそうだ。例を挙げてみると、〝木蓮の君〟や〝待雪草の君〟といった名前になるらしい。そんな説明をされてもへぇーそうなんですかぁーという感想しか思い浮かばないが、その昔、生徒会と聖徒は犬猿の仲であったようだから。聖徒としてはその名称の復活は看過できない事なのだろう。もっとも今だって生徒会と三人の聖徒はそれほど仲が良いとは言えないようだけれど……。

 らしい、ようだ、そうだ、って。わたしとしても又聞きになるからイマイチよく解っていないんだけど、えーと要するに……どういう事なんだ?

 夜零様が懸念しているのは、また花の君の名称が復活して学内が諍い合うようになってしまわないか、という事みたい。そんな馬鹿な、とも思うけれど、今の三人の聖徒は生徒会を承認するという意味においては上位に存在している。そのパワーバランスが気に入らないのなら、それに並び立ちうるものとして花の君の名称は必要不可欠であるのかもしれない。美滝様がそんな野心……というかなんというかを持っているかどうかは別にどうでもいい事だけど、連絡係のわたしにまでとばっちりくるのは止めてほしいなぁ、と思う今日この頃なのだった。

 そして事実、夜零様が懸念した事があたかも現実味を帯びるように、わたしが妹として連絡係を務めるようになってから生徒会との関係がギクシャクしてきたのは正直なところどうしても否めなかった。

 他の生徒会の面々はわりとそうでもないのだが、美滝様は聖徒に対して激しい敵愾心てきがいしんをお持ちのようで、わたしは目の敵にされていた。議案書のどうでもいいような箇所をネチネチと突つかれたりといった事は何度もあった。そしてよくよく観察してみると、どうも一番の仇敵と見做みなしているのは……わたしのお姉さまであるところの夜零様に対してのようで。そのせいか妹のわたしに対する風当たりは余計に強くなっているようなのだ。

 ……非常に迷惑な話だけど。

 そんなわけで。わたしは美滝様が苦手になった。元々の出会いからして最悪だったのだし、どうにもその印象を払拭できずにいる。できれば学校の外でまで会いたい人じゃないんだけど……どうしてよりにもよってこうなっちゃうんだろう。

「もう全部見て回ったの?」

 美滝様の唇がそう動いた。

 わたしは静かに首を横に振った。会場途中のトイレで鉢合わせしたんだもの。回りきれていないのは明白だと思うんだけど。

「そう。なら、わたしと一緒に回る? ……なによその顔。不満なの?」

『いえ、そういうわけではないんですけど。美滝様もお一人なのですか?』

 うー、顔に出ちゃってたかなぁ。

 わたしは慌ててバッグの中からメモ帳を取り出して、書いた文字を美滝様にお見せした。

「一人じゃ悪い?」

『そんな事は。ただ』

 文字が止まる。

 ……美滝様はいったいなにを企んでいるんだろう?

 そう考えてしまうわたしの方が不埒なんだろうか。

「……ただ?」

 美滝様がわたしのメモ帳を覗き込む。

『わたしと一緒に回っても面白くないのではないか、と思っただけです』

「……そんな事ないわよ。どうしてそう思うの?」

 わたしはぎゅっと奥歯を噛み締めた。


〝耳が聞こえない人間がなんでこんなところにいるのよ。……迷惑だわ〟


 わたしはあの日、この人から言われた言葉を絶対に忘れない。

 ……もしかしたら美滝様はわたしがその言葉を〝見た〟なんて思っていないのかもしれない。

 でも、それでも。

「じれったい子ね。いいから来なさい」

 キュッと手を掴まれて。

 わたしはよろけるように美滝様についていった。

 今後のことを思えば、美滝様とお近づきになっておくのも悪い事じゃない。それは解ってる。わたしにだってそんなの解っているつもりだ。

 でも、それでも。

 わたしは彼女を許したくないのだ。


 美滝様と共に美術展の会場をめぐり、ふとその絵の前に立ったとき。

 一瞬、胸が震えた。

 ……セピア色にせた夕刻。

 幼子に乳を与える母親。

 それをそっと見つめる年老いた祖母。

 幼子に差し込む光。

 そして、作業を続ける男。

 それは……その当時どこにでもあるような光景であったのだろう。そう思ってしまえば、これは綺麗なだけの絵でしかなくなってしまう。

 けれども、つけられた絵のタイトルは。

『聖家族、または指物師の家族』

 レンブラントの作品。わたしが今回一番楽しみにしていた絵だった。

 描かれているのは幼子のイエズス様と、聖母マリア。その母アンナとマリアの夫ヨセフ。その構図の、イメージの奔流に、わたしの足は、目は、釘付けになってしまった。

 その空間に縫い付けられてしまった。

 ……すごい。

 そんな感想しか浮かばない。

 そこに込められているのはレンブラントの魔法だ。わたしにはその絵が本当に聖なる家族の絵なのかどうか、よく解らない。時代背景も違うし、そこがただの民家の一室にしか見えないから。

 でも、聖アンナの手にしている開きかけの聖書。まるでやわらかい光の粒子が幼子を取り囲んで見えるような……そんな不思議な光景。

 そこには確かに聖性が見て取れる。本当に尊いものなのだという事を、わたしに知らしめている。

 すごい。

 ほんとにすごい。

 絵画を見て背筋がぞくりとするのは久しぶりの事だった。

 美滝様がこの絵にどんな感想を抱いているのかと思ってそっと隣を窺うと。

 彼女の勝気そうな瞳から、

 すうっと……涙が零れ落ちるのを見てしまった。

 絵を凝視して、泣いているのも気づかない彼女の横顔は、すごく綺麗だった。

 絵にも負けないくらいに。

 でも、

 彼女は、美滝様はなにを思ってこの絵を見ているんだろうか。

 それに……どうして泣いているの?

「……なによ?」

 わたしの視線に気づいたのか、美滝様が途端に不機嫌そうな表情でそう唇を動かした。

 わたしはそっと、自分の瞳の端から一筋の線を頬に引いた。

 美滝様が慌てたように頬をこすり、そっぽを向いた。その際、なにか呟いたようにも思えたけど。

 ……わたしには解らない。確かめようもないし。

 帰り際にフェルメールの『天文学者』と、レンブラントの『聖家族、または指物師の家族』のポストカードを夜零様へのお土産用と自分用に二枚ずつ購入した。ショップは混み合っていて時々来場者と肩やお尻がぶつかった。その都度わたしはペコペコと頭を下げた。

 本当はこういうごみごみした場所は嫌い。だって、全然気が休まらないんだもん。

 美滝様はレジの近くで展覧会の目録をパラパラとめくっていたけれど、あまり興味を引かなかったのかもしれない、結局売り場に戻してしまった。そしてなにを思ったのか不意に展覧会記念のA5サイズのノートを手に取ると、レジで会計を済ませていた。でもあーゆーのって結構割高なんだよねぇ。

 左足を少し引きずりながら、彼女はゆっくりと出口に向かって歩く。わたしは別れるタイミングが掴めないまま、美滝様の後ろをついて結局美術館の外にまで来てしまった。

 さて、どうしよう。

 そんなふうに思っていた、そのとき。

「ねえ」

 くるりと振り向いた美滝様の唇がそう動いた。

「まだ、時間はあるかしら」

 わたしはメモ帳をバッグから取り出して、文字を書き込んだ。

『あとはもう帰ろうと思っていたところですけど』

「そう。もしお暇なら、少し話したい事があるの。よかったらお茶でもどう?」

 お茶?

 美滝様と……わたしが?

 ……なんで?

「……返事くらいすぐになさい」

 美滝様は眉をしかめてそう言った。

『お茶、ですか?』

「ええ。ついてらっしゃい」

 あ、うそ。

 えっと、あの……これって拒否できないパターン?

 暫し呆然としてしまったが、わたしは小さくなる美滝様の背中を追って足早に歩き出した。

 ……連れてこられたのは大通り沿いにある華やかな雰囲気の喫茶店だった。日曜日だからかカップルや女性同士のお客で混雑していた。それでも四人掛けの席がたまたま空いていて、座ってしまえば狭苦しさは感じなかった。

 ユニフォームの可愛い店員さんが持ってきてくれたメニューを見ると、モンブランケーキがオススメって書いてある……。

 うわ、やばい。メチャクチャ美味しそう。

 じっと写真を凝視していると、ちょんちょんと手を突つかれて。わたしは慌ててメニューから顔を上げた。

「このノートを使いましょう。わたしも一緒に筆談させてもらっていいかしら?」

 え? どうして?

 それはさっき美滝様が買ったばかりのA5の展覧会のノートで。

 でも、……意味が解んない。美滝様が筆談する必要がどこにあるんだろう。

 美滝様はわたしの戸惑いを見て取ったのか。

「ねえ。人づてに聞いたのだけれど、ずっと唇を読み続けるのはとても疲れるものなのでしょう? それに……周りの人にこの会話を聞かれたくないの。たとえ赤の他人だったとしても。一緒にノートに書けば誰にも知られなくてすむわ。そういうわけだから荷物、こっちに渡して」

 慌てて鞄を美滝様に渡すと、美滝様はわたしの隣の椅子にするりと座り直した。

 あ、あの、すごく近いんですけど。

 それにこの座り方って……なんだかカップルみたいなんですけどっ!

「ペンを」

 美滝様の唇が動く。

 ペンを渡す手が微かに震える。刹那に触れた美滝様の指先のぬくもりに、一瞬ドキッとする。

 だから、かな。美滝様の書いた字が奇妙に歪んでいる事に……わたしは気づけなかった。

『なんだか変な気分ね』

 わ、わたしだって、変にドキドキする。こんなの変だって、解ってるのに……。

 なぜだか美滝様の頬が薄っすら紅く染まっていて。うー。わたしまでなんだか顔が熱くなってきちゃったよぅ。

『ごめんなさいね。ずっと謝ろうと思っていたのよ』

 え?

『なにを、ですか?』

 彼女からペンを受け取り、震える文字の下に自分も文章を書き込む。

 問いかけたそのとき、店員さんが注文を訊きに来た。

 わたしはもう一度メニュー表を広げて、モンブランケーキとカプチーノをそっと指差した。美滝様は……横からだと唇が読めない。なにを注文したのかな。

『初めて会ったあの日の事。体調が悪くて、苛々していて、ついあなたに当たってしまった』

 美滝様がまた文字を書き始めて。わたしは驚いて紙面から顔を上げた。美滝様はバツが悪そうにそっと視線を外した。

『それに』

 ペンが少しのあいだ止まる。

『あなたが夜零の妹なんかになってしまうから。それが許せなくて、ついいつも辛く当たってしまって』

 夜零様? なぜ……夜零様の名前が出てくるの?

 顔を上げると、まなじりをほんのりと朱に染めた美滝様と目が合う。

 あ、

 ……どうしよう。

 胸が苦しい。

 美滝様がパタンとノートを閉じたのが解った。

 不思議に思って首を傾げていると、店員さんがモンブランケーキとカプチーノをテーブルにゆっくりと置くところだった。

 わたしの分と、美滝様の分。同じものが……ふたつずつ。

「食べましょうよ」

 美滝様が小さく呟く。

 わたしはこくりと頷いて、カプチーノを一口啜った。

 無音の世界で、胸の鼓動と……フォークが歯に当たる金属の刺激。ただそれだけの時間が過ぎていく。ちらりと隣を盗み見ると美滝様も黙々とモンブランケーキを食べ続けていた。

 お喋りもしない。

 笑い合うことすらしない。

 視線も合わせない。

 ……それでも。

 誰かの、ううん、美滝様のいつもとはまるで違うやわらかな気配に、不思議な居心地の良さを感じている。

 わたし、この人が……嫌いだったはずなのに。

 なんで? どうしてなんだろう?

 先に食べ終えた美滝様はテーブルの上を簡単に片付けると、またノートを開いて文章を書き始めた。

 わたしはカプチーノを飲みながらその様子を見つめていた。

 それはとても長い文章だった。

『字が汚くてごめんなさい。でも、今日のわたしはなんだか謝ってばかりね。文字で会話をするとつい、本心が出てしまうのかしら。だからというわけじゃないのだけれど、ここには本当の事を書かせてもらうわ。

 わたし、交通事故にあってから体がうまく動かせないの。時々ひどい頭痛に悩まされるし、足を引きずるのも、字がうまく書けないのも、全部そのせいよ。でも、不思議ね。こんな事、誰にも話すつもりはなかったのに。なぜだろうってずっと考えていた。多分、レンブラントのあの絵のせいだと思う。あの絵を見ていたら一緒に事故にあって亡くなった両親の事を急に思い出してしまった。涙を見られて、わたしはこの事をあなたに喋りたかったんだって、ふと思ったの』

 わたしは息を飲んだ。

 あのときの涙は……そんな。

 美滝様は驚愕の表情を浮かべるわたしには構わずに、ぎこちなくペンを動かし続けている。

『あなたにこんな事を言っても始まらないと思うけど、言っておいたほうがいいと思うから全部書かせてもらうわ。夜零との事も。

 夜零とはね、昔、恋人同士だった。女同士で不潔だと思われても仕方ないけれど。事実だからしょうがないわね。夜零とは中等部の頃から付き合っていたの。あの子は一年後輩で、交通事故にあったあともわたしを献身的に支えてくれた。でもね、事故にあったわたしを見る目が、哀れみの目だと気づいてしまった。それまでの、わたしに憧れてくれていたときの目とは全く違っている事に、たとえあの子自身は気づいていなかったとしても、わたしは気づいてしまった。弱い人間には手を差し伸べるのが当然でしょっていう目をしていた。それは高いところから見下す目だった。わたしはそれが許せなかったの。先輩、後輩だからっていうのではないの。わたしは彼女と対等でいたかったの。それが一方的に破棄されてしまったのが悲しかった。それに、』

 そこまで書いて、美滝様のペンが少し止まった。ちらりと表情を伺うと、とても辛そうな顔をされていた。

『わたしも結局、代わりでしかなかったのね。あの子にとってのわたしは、本当の好きではないのだと知った。だから、わたしは彼女と別れた。そしてわたしはリハビリのために一年間休学した。でも、夜零と同じクラスになってしまったのは誤算だったわね』

 わたしは震える手でカップをソーサーに戻した。

 美滝様が小さくため息をついたのが解った。

 これ……なに?

 なんなの?

 解らない。

 なぜこの人はこんな事を書いているの?

 夜零様が美滝様を見下す?

 代わり?

 ……なにが? 誰の?

『全部、本当の事なのですか?』

 コーヒーを飲んだばかりなのに。なんで喉がカラカラなの。

 わたしは震える手で必死に文字を書き、美滝様に訊ねた。

『本当よ。信じる信じないはあなたの勝手だけれど』

『わたしはずっと、夜零様と仲違いしていらっしゃるのは美滝様が花の君の名前にこだわっているからだって聞いていました。それは、嘘だったんでしょうか』

 美滝様の手が止まった。少し考えているようだった。

『嘘ではないわ。花の君の名前を復活させられたら、夜零を見返してやれると思ったのも事実だから。わたしだってまだまだやれるんだって見せつける事ができると思ったの。まあ、余計な反感を買うだけだったみたいだけど』

 美滝様がきゅっと、いきなりわたしの手を左手で掴んだ。

 どくん、と心臓がゆれた。

 え? あの……これ、なに?

『夜零があなたを妹にしたのだって、あなたが障害を持っていてかわいそうだと思ったから。わたしには逃げられたから。別の代わりが必要だったから』

 その文字は、文章は。

 わたしの胸を冷たいなにかでいっぱいに満たした。

『そんな事ありません』

 書いた文字が震えているのか、それともわたしの視線が震えているのか……。

『そう思いたければそれでもいいわ。でもあなたにだって思い当たる事くらいあるでしょう? あなたを妹にしたのは夜零の憐れみでしかないわ。あとは、後悔、かしらね』

 違う。

 そんな事ないっ。

 ……そう強く、きっぱりと言えるだろうか。断言できるだろうか。

 本当に?

 本当に……夜零様がわたしを選んだのは……顔、なんだろうか?

 選んでくれたのは、本当にあのときのわたしの泣き顔だったの? わたしの泣き顔が素敵だったというのは、本当の事なの?

 一年前の自分と同じように同じ場所でわたしが泣いていたから。だから夜零様はわたしを妹にする気になったのだろう。それはきっと確かなはず。でも、ならなぜそもそも夜零様は一年前……あんなところで泣いていたのだろうか。それがもし、……美滝様に別れを告げられた事が原因だったのだとしたら。そのときにうてな様に見出されたのだとしたら……。

 後悔?

 憐れみ?

 ……どうしよう。

 嘘だったら。

 全部、嘘だったらどうしよう。

『もう一つだけ言わせてちょうだい。いつも細かい事を言ってしまうのはわたしの性分だから、そこは仕方ないと思ってほしいの。あなたが夜零の使いで来ているものだから、幾分感情的になってしまっている事も自分では理解しているつもりよ。でも、あなたがよくやってくれているのはわたしにだって見ていれば解る。だからもしもあなたが生徒会の仕事に興味を持ってくれるなら。生徒会に来たいと思ってくれるなら。そのときは歓迎する。あなたには聖徒の妹は似合わないわ。もっとも、わたしは夜零のようにあなたを甘やかしたりはしないけれど』

 美滝様はノートをパタンと閉じると、わたしにそれを押し付けた。わたしは扱いに困ってテーブルの上にそれを置いた。

「これはあなたが持っていなさい。じゃあ、また学校で。ごきげんよう」

 そう唇を動かすと、美滝様はわたしが引き止める間もなく伝票をひょいと摘み上げた。そしてそのままレジで会計を済ませて喫茶店を出て行ってしまった。一度も振り返る事もなく、いつものように少しだけ足を引きずりながら。

 わたしはそっと、テーブルに置かれたそのA5のノートを持ち上げた。

 それはわたしの心と同じように。

 鉛のように重かった。

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