しち

(これ、持って行きなさい)

 そう言われて。わたしはお母さんが差し出した三枚のお札をじっと見つめて……首をかしげた。恵美子と出かける約束をしていた朝の事だった。

 三万円?

 え?

 ……なに? お母さんが気前いいと……なんだか、すっごく不安なんだけど。

(これで旅行のこまごまとしたものを買ってらっしゃい。あ、ちゃんとお釣りは返すのよ。いいわね?)

 お母さんはお札をわたしに押し付けると、それこそ押し付けがましくそう言ったのだった。

(でも、お母さん。一泊二日だよ? それにお姉さまの別荘に泊まるだけなんだよ? ……なにが必要だって言うの?)

 お母さんはちょっとだけ天井を見つめて。

(そうねぇ、旅行用の小さな容量の乳液とか化粧水とかかしら? あと服はいいとしても……新しい下着は必要でしょう)

 と言った。

 ……し。

 下っ?

 わたしは真っ赤になりながらお母さんの手をペチンと引っ叩いた。

(なによ。ぶつ事ないでしょう)

 ムッとしたその顔に、ぱたぱたと手を使って抗議した。

(おっ、お母さんが変な事言うからじゃんっ。なんで新しい下着なんかっ)

(そんな事言ったって。着ていく下着もそうだけれど、持っていった下着が汚れていたらみっともないでしょう。大切なお姉さまと過ごす初めての夜なんだもの。女の子の勝負は一瞬なのよ? それに女の子の下着って、ただでさえ汚れやすいんだから。気をつけなきゃいけないわ)

 な、

 なななっ。

 なんて事言うのこの親はっ!

(だって、生理とかオリモノとかそのほかにも色々……ね?)

 ね? ……じゃないわよっ。い、色々ってなによっ。ミシンのOGだからって、聖徒様に昔憧れてたからって、一体全体なに言っちゃってんのっ?

 ほら、見てごらんなさいよ。きぃさんが顔を真っ赤にして目を逸らしてるじゃんっ。

 それに、それに……お姉さまに汚れたパンツ見られるシチュって……なんなの? どんななのよっ!

(もう、お金いるの? いらないの?)

 わたしはぐうっと言葉に詰まりながら。

(……貰います)

 背に腹は替えられなくて。渋々手を差し出したのだった。

 と、ここまでの話しを恵美子にすると、恵美子はお腹を抱えて笑っていた。音が聞こえないからあれだけど……絶対に大声で笑っているはずだ。見れば解るもん。

(それで下着ショップにちゃんと足を運ぶんだから……イッチーは律儀だねぇ)

(だって)

 わたしは頬を膨らませながら恵美子を睨みつけた。きっとお姉さまの下着はゴージャスなものに違いないから。せめて毛玉が付いていたりするようなみっともない下着はつけて行きたくないって思ったんだもん。

 今日は恵美子と二人で買い物に来ていた。下着屋さんに来たのもその一環である。

 改めて見つめると、恵美子は光合成するみたいに夏の日差しを全身で吸って、健康的な小麦色になっていた。特にショートパンツから覗く脚はとても綺麗に日焼けしていて、まるで夏そのものを象徴するように光り輝いていた。そしてまた、白い夏物のジャケットとの対比がすごくよく似合っている。

 ……でも、将来シミになっちゃってもわたしは知らないんだからね。夏のUVケアは乙女のたしなみなんだから。なんて心の中だけでちらりと思う。外で部活に忙しい恵美子はたぶんそんな事、気にもしていないと思うんだけど。

(……お金、貰っちゃったんだもん。仕方ないじゃん)

 わたしは駅から程近い下着ショップの入り口の前でくつくつと笑っている恵美子を横目で見ながら、これ見よがしに思いっきり深いため息をついた。


 お姉さまから一泊二日でわたしの別荘に来ない? と誘われたのは、終業式の日の事だった。いつものように執務室での執務を終え、姉妹ごとに「ごきげんよう、また登校日に」なんて挨拶を交わしたあとで。例の如くお姉さまからこのあと少し時間があるかしら、と執務室に留め置かれたのであった。

(……お姉さまの別荘、ですか?)

 きょとんとしながら訊き返すと、

(ええ。九月の御心祭の事で少し話があるの)

 なんて言うから。わたしはてっきり他の聖徒様たちや妹も同行するのだとばかり思っていて。

(モニカ様やクララ様もいらっしゃるんですよね? 晶帆さんも彌生さんも。皆様のご都合はどうなっているんですか?)

 さすがに六人の都合のいい日、となると……合わせるのが大変そうだなってそのときは思ったのだ。モニカ様は夏休みには海外に行かれると言っていたし、彌生さんは人形劇サークルの方たちと児童施設の慰問に行くって言っていたし。それに、なによりお姉さまの家庭の事情もおありだろうし。……って、ちょっと待って。それなら……なんでさっきみんながいるところでこの話をしなかったんだろう。三人の聖徒様たちを主としての集まりだとするのなら、お姉さまとわたしだけで話をしたってらちはあかないだろうに。

 なんて不思議に思っていると。

(他の聖徒や妹? なぜ? わたしとあなただけよ)

 ……へ?

 思わず間の抜けた顔でお姉さまの顔を見つめてしまった。

(……そんな顔をしないで。わたしとふたりきりでは……いや?)

 なんて、切ない表情で仰るから。わたしはぶんぶんと慌てて首を振った。

(い、いやじゃないです。でも、お姉さまの別荘で行われるのは九月の学園祭の話し合いなのでしょう? わたしとお姉さまだけじゃ……意味がないのでは?)

 当然といえば当然の質問をしてみると、お姉さまは顔を赤らめながら頬をふくらませ、ぷいっとそっぽを向いた。

 なにかぶつぶつとつぶやいているようだけれど……あの、こっち向いてくれないと唇が読めないんですけど。

(あの? ……お姉さま?)

 お姉さまの制服の袖を引っ張って、恐る恐る訊ねてみる。

(……一花のばか。ふたりっきりで旅行がしたいっていう意味だったのに)

 え、っと。

 ……それが本音なんですね。

 わたしも顔を真っ赤にしながら。

 こくんと小さく頷いて見せたのだった。

(……よかった。それでね、八月のええと……十二、十三日でいいかしら。ううん、この日じゃないとダメなの)

(その日になにかあるんですか?)

 八月の十五日は学校の登校日で聖母被昇天のミサもあるから、そこに被らないようにとのご配慮なのだろうけれど……どうもそれだけじゃなさそうで。

 お姉さまはただ、花のように微笑んでいる。

(秘密、よ)

 って。


 というあの日の甘酸っぱい出来事を、頬を染めながら思い出していると。

(イッチー、見てみて。これ、すごくない)

 恵美子に肩をバシバシ叩かれて、現実に引き戻されてしまった。

 って、あんたっ。その手に持ってんのなによっ?

 見るとそれは下着……というよりもただの黒い紐にしか見えなくて。しかもレースの透っけ透けのやつで。

 こんな、こんなのっ、下着なんかじゃないやいっ。

(なに考えてんのっ? そんなのお姉さまに見せられるわけないじゃんっ)

 わたしは真っ赤になりながらパタパタと指を使って抗議した。

(……ふぅん。やっぱり見せるのが目的なんだ?)

(なっ? ば、馬鹿じゃないのっ)

 するとそのとき。入店してからずっとわたしたちの様子を遠巻きに見ていた店員さんが、ゆっくりと近づいてくるのが解った。

「あの、なにかお探しでしょうか」

 茶髪の若い店員さんが、恐る恐るといった感じのぎこちない笑みを浮かべてそう言った。彼女にもわたしたちの耳が聞こえない事は解ったようだった。ま、そりゃ手話で話していれば普通そう思うだろうけどさ。

 読唇のあまり得意ではない恵美子は、困った顔で店員さんに向かって少しだけ首を傾げて見せた。

 わたしはバッグから少し大きめのノートを取り出すと。

『ベースが白で、できればあんまり派手じゃない花柄の上下とか……ありますか?』

 と書いて見せた。

 店員さんが目に見ええてほっとしているのが解って、なんだか……ちょっとだけ悲しくなったのだった。

 

 夏休みの読書感想文の宿題は、全国共通、普通校も支援校もミッションスクールだって関係はないらしい。

 わたしたちは下着屋さんを出たあと、電車に乗って、隣町の少し大きな書店まで来ていた。クーラーの効いた店内はひんやりとしていて過ごしやすい。外は影がアスファルトに灼けつくような強い日差しで、きっと、蝉だって盛大に鳴いているに違いない。書店の外に広がる風景は、さながら陽炎のようにゆらゆらとゆらいでいた。

(イッチーはもう、決まった?)

 文庫本の棚を見ていたわたしに、恵美子がひょいと顔を覗かせながら訊ねた。

(そう言うエミちゃんはどうなの? もう決まったの?)

 わたしがそう訊き返すと、恵美子はバツが悪そうに笑いながら。

(宮沢賢治と芥川竜之介とどっちにしようかなって、検討中)

 と答えた。でもわたしは恵美子ならもっと現代の作家のものを選ぶと思っていたので、ちょっと意外だった。あるいは学校の課題図書なのかな?

(そういうイッチーは?)

 わたしはちらりと文庫の棚を見て。

(まだ選んでいないわ。お姉さまからは遠藤周作の作品を勧められたんだけど……どれがいいのかなって、思案していたところよ)

 勧められておいてなんだが、日頃あまり読んだ事のない作家なので、読書感想文用にするのは実のところ悩ましかったりもする。作家の背景や意図が読み取れないかもしれない……と思ってしまうのだ。そうしてみると、お姉さまならどの本をお選びになるんだろうってちょっと疑問に思った。手堅く『海と毒薬』だろうか、それとも意外と渋めに『侍』辺りを選んだりするのだろうか。うーん。遠藤周作のどの本がいいのかまで訊いておけばよかったかなぁ……。

 ん? ……あれ?

 恵美子?

 わたしはそのときになって、恵美子がなにやらむず痒そうな、複雑な表情を浮かべている事に気づいたのだった。なんか変なものでも食べたのかしら?

(どうかした?)

(いや、……下着屋さんでも言ってたし気にはなってたんだけどさ。イッチーがお姉さま、なんて言ってるのを見てると、なんだかこう、背中がムズムズして痒くって)

 むー。失礼な。

(だって、自分の姉なんだもの。お姉さまって呼ぶ以外になんて呼べばいいのよ)

(あー、うん。……イッチーがいいなら別にいいんだけどさ)

 なによ。……なんかひっかかる言い方ね。

 まあ、昔みたいに夜零様って呼んでもいいんだろうけど。でも、指がもう(お姉さま)に慣れちゃったんだよねぇ。

 なんて思っていると、わたしたちの会話を小さな子どもが物珍しそうに見つめているのが解った。わたしがにっこり笑って手を振ると、その子は慌てたようにどこかに行ってしまった。

(ま、あーゆーのが普通の反応なんだろうけどね)

 恵美子がちょっと寂しそうな顔で指を動かした。下着ショップの店員さんのぎこちない笑顔といい、恵美子には堪えるものがあるようだった。

(イッチーは学校で今どうしてるの? 手話で話せる人がいるって聞いてるけど……その他はどう? うまくやれてる?)

(うん、なんとか。まあまあうまくやれているとは思うけど)

 わたしはそう言って苦笑してみせた。

(だって手話で話せる人なんて今のところたった二人だけだもん。まあでも……普通校ならそれだけでも珍しいと思うんだ。けれどね、そのうちのひとり、わたしのお姉さまは手話がとてもお上手で、わたしでさえ見惚れちゃうくらいなの。あとはクラスメイトでひとり、手話を一生懸命勉強してくれた子がいて)

 わたしはそこで、ピタリと手を止めた。どくん、と一瞬心臓が震えた。

(イッチー?)

 恵美子が訝しげに訊ねる。

(……千夏さんて子なんだけど、そのふたりには特に色々と助けてもらっているわ。あ、でも確かこの話って、前にもエミちゃんにした事あったよね?)

 わたしは何気無いふりをして、指を動かした。

(うん。このあいだお泊まりしたときに、でしょ? ちゃんと覚えてるって)

(ありがと。でもそれ以外の人だってわたしを除け者にしたりはしないわ。お嬢様学校だからかな、割とわたしみたいな人間に対してもおおらかというか、緩いというか……随分アバウトなのよね。だから今のところ、学校生活でそれほど困る事はないかな)

 まあ、本音を言えば、先生の説明が解らなかったり、自分一人だけ聞きそびれてしまった連絡事項があって千夏さんが慌てて教えてくれたり……と、それなりにしなくてもいい苦労はしているんだけど。それに美滝様との事もあるし、あんな事もあったし……日々気が抜けない。でも、そんな事を言いだしたらキリがないよね?

(……そっか。イッチーは学校やクラスメイトに恵まれたんだね。イッチーが幸せそうで嬉しいよ)

(なにそれ。年寄りみたいよ?)

 わたしがそうからかうと、恵美子はわたしのおでこをペチンと叩いた。

(ひっどいやつ。せっかく心配してあげてるってのに)

 恵美子の指がパタパタと動く。

 わたしは苦笑しながらおでこに手を当てて、そんな恵美子の様子を見つめていた。恵まれているから、幸せだからこその苦労というものもこの世の中にはあるんだけど……ね。

 結局わたしは遠藤周作の『沈黙』を、恵美子は迷った挙句、新潮文庫の『地獄変・偸盗』を選んだ。恵美子のそれは芥川竜之介のいわゆる王朝ものに属する短編集なのだけれど……なんというか、いったいこれのなにで感想文を書くつもりなんだろうと、はなはだ疑問なのだった。

(ずいぶんアクの強い短編集を選んだのね。どうして?)

 わたしが訊ねると、

(決まってるじゃない。『藪の中』の犯人探しをするのよ)

 なんて真顔で言うから。わたしは思わず力が抜けてしまった。

 本屋の帰りに久しぶりに恵美子の家に寄った。元々は買い物よりもそっちがメインだったのだ。恵美子の共働きの両親は留守で、居間には冷房が緩めにつけてあった。部屋の隅のソファーの上には、二匹の猫が仲良く寄り添うように、丸まって眠っている。

 わたしがその両方の小さな頭をぐしぐしと撫でると、迷惑そうな顔で二匹同時に大きく伸びをする。茶トラのアミと黒猫のパンは、赤ちゃんの頃に恵美子の家に迷い込んでそのまま恵美子の飼い猫になってしまった。ちなみに名前の由来はどちらも〝友達〟なのだそうだ。二匹の猫を撫でていると、……恵美子の当時の寂しさを垣間見てしまったような気がして、いつもちょっとだけ切なくなる。

(イッチーが遊びに来るのも久しぶりだよね)

 恵美子は麦茶を用意してくれながら、わたしにそう話しかけた。

(うん。久しぶりだね。相変わらずアミちゃんもパンちゃんも可愛いねー。二匹ともわたしを覚えてくれているのかな。会いたかったんだよー)

(でしょでしょ? でも、そろそろ予防接種の時期だからねぇ。病院連れて行くまでが大変で大変で。キャリーに入れるまで大暴れされるかと思うと頭が痛いよ)

 眉を八の字に下げた恵美子がおかしくて、わたしは声を出して笑った。

(エミちゃんは学校どう? クラスにかっこいい人いたりする?)

 高校一年生なんだもの。そろそろお互いに恋愛にだって興味はあるのだ。

(うーん。どうなんだろうね。というかね、わたしはできれば……耳の聞こえる人と一緒になりたいんだな)

 ……え?

 わたしは少し意外に思って、恵美子をじっと見つめた。

(いつか、誰かと恋に落ちて。結婚して……子どもが生まれたとき。赤ちゃんの産声が聞こえる人にそばにいて欲しい。結婚するならわたしの知らない世界を知っている人がいい。だから……わたしは健常者と恋がしたいよ)

 その目はあまりにも真剣で。

 わたしは……なにも言えなくなってしまった。

 小学生の頃、ひどいいじめを受けた恵美子は、それでも……耳の聞こえる人がいいって言う。悔しくても、悲しくても、絶望しても。それでも……自分の知らない世界を知る人がいいって言う。

 この世界は多角的な悪意で作られている。それは間違いなくて。でも、それでもきっと、……自分を、ありのままの自分でいいって言ってくれる人がどこかに必ずいる。

 恵美子はそれを信じている。

(な、なんか変な事言っちゃった。あ、あははっ。柄じゃないよね)

(そんな事ない)

 顔を赤くする恵美子に、わたしは小さく微笑みながら言った。

(そんな事、ないよ)

 恵美子は可愛い。恵美子は優しい。スタイルだっていいし、スポーツは得意だし、両親が共働きなのもあって、料理だってそこそこできる。

 ほら。だから、ね。

 恵美子が幸せになれない理由なんてないのだ。

(そ、そう言うイッチーはどうなのさ? お姉さま、なんて言ってる場合じゃないでしょうに)

 そう言われて、わたしはあの日の事を思い出してしまった。できれば思い出したくなかったあの日の出来事を……。恵美子から急に視線をそらして慌てて麦茶を飲むわたしを見て、なにを勘違いしたのか。恵美子がびっくりした顔をしていた。

(うそっ、もしかして彼氏できた? そうなの? マジで?)

(じょ、女子校で彼氏なんてできるわけないじゃんっ。違う、そういうんじゃないの)

(じゃあなによ)

(なっ、なにって、それは……)

 わたしはしどろもどろになりながら、わたわたと指を動かした。

(……ねえ、エミちゃんは)

 顔を赤くしたまま問いかけたわたしに、恵美子はちょっと小首を傾げて見せた。

(女の子同士の恋愛って、ありだと思う?)


(——わたしはあなたが、……好きだもの)

 お姉さまが少しだけ顔を赤くして、真剣な目でそう言った。

 誰もいない執務室で。まるで美滝様との邂逅の記憶を拭い去るかのような、お姉さまの衝撃的な一言だった。

(ご、ご冗談はおやめになってください。そんな事言われたらわたし、……本気にしちゃいますよ?)

 わたしはぎこちなく笑いながら答えた。

 まだ、今なら冗談にできるから。

 だから。

(わたしは、本気よ)

 ……そんなにさらりと言わないで。

 わたしの表情を見て取って、お姉さまはくすっと笑った。

(そんな顔をしないで。別にあなたをどうこうしようとか、そんな事を思っているわけではないのだから。ただ、好きなの。わたしの気持ちを知っていてもらいたかっただけなの。……それだけよ)

 言いたい事を言ってしまうと、お姉さまは大きく背伸びをした。口が強く引き結ばれていて、なにか呻き声のようなものをあげているらしい。

 それは心の中のわだかまりを吹っ切っているような、そんな切なげな仕草で。……わけもなく胸が痛んだ。

(わたしはもう帰るけれど。あなたはどうする? 一緒に帰る?)

(わたしはまだ教室に荷物を置きっぱなしなので)

(そう。ならここで待っているから。早く用意をしていらっしゃい)

(はい。お姉さま)

 鞄から文庫本を取り出したお姉さまにわたしはぺこっとお辞儀をすると、足早に執務室を出た。胸の痛みはまだ続いていた。

 一年百合組の教室に入ると、……そこにはわたしの机をそっと撫でている千夏さんがいて、お互いにびっくりしてしまった。

 え? あの……なにしてたの?

 千夏さんは凛々しい白い弓道着姿と袴姿で。たぶん、部活を抜けてきたのだと思う。その顔は戸惑いと羞恥でほんのりと赤くなっていた。窓ガラスの向こう側では、相変わらず雨が水滴になって、ゆっくりと滴り落ちている。……教室には千夏さん以外はもう、誰もいない。

 わたしはなぜだか人に見られてはいけない気がして。

 後手で、そっと教室の引き戸を閉めた。

(……千夏さん?)

「一花さん」

 わたしの机に触れたまま、千夏さんが切ない表情でつぶやく。

(そこ、わたしの机……だよね?)

 なんだかドギマギしてしまって、解りきっている事を恐る恐る訊ねた。

 でも。

 千夏さんはなにも答えない。じっとわたしを見つめている。

 ……えっと。

 なんだろう。なんか言ってよ。あの……無性に気まずいんですけど……。

「忘れ物を取りに来たの」

 暫くしてから、千夏さんは小さく唇を動かしながらそう言った。手話を使ってくれない千夏さんを少し訝しく思いながら。わたしは唇を見つめつつ、小さく頷いてみせた。

 忘れ物が……わたしの机にあるとは思えないんだけど。

 千夏さんが嘘をついている、って感じにも見えなくて。それよりも、なんだろう……なにかを隠しているような、そんな雰囲気なのだった。

(忘れ物、見つかった?)

 わたしは訊ねた。千夏さんはぎこちない仕草で苦笑した。

「見つけちゃった」

 ごくん、と千夏さんがつばを飲み込むのが解って、わたしも緊張した。

 千夏さんはそっとわたしの机に触れたまま、唇をキュッと引き結んでいる。

(……千夏さん?)

 彼女の沈黙に耐えられなくて、わたしはそっと指を動かした。でも、それを制するように。

「一花さん」

 千夏さんの唇が動いた。

「わたし。一花さんが好き」

 え。

 ……えっ?

「ごめん、ごめんね」

 あの……好きって、なんで……え? なんで謝るの? わたしも千夏さんの事、好きだよ? どうしてそんな苦しそうな顔をしているの? ねえ、どうして?

 なんで……謝るの?

 ……わたしの好きと、千夏さんの好きは……違うの?

「一花さんが聖徒の妹に選ばれたとき、ね。わたしも嬉しかった。羨ましいって思ったのも事実だけど、それよりも誇らしかった。わたしの友達が妹に選ばれるなんて、って。そう思っただけで胸がドキドキしたわ。……でもね」

 千夏さんの瞳から。

 ぽろっと……一粒だけ。涙が零れ落ちた。

「一花さんがいつも妹のお仕事で忙しそうにしていて、中々一緒の時間が持てなくなって、それで……ついさっき。自分の気持ちを見つけちゃった。ああ、わたし……一花さんが好きなんだ、って。もしかしたら一緒の倶楽部で活動ができたかもしれなかったんだなって。ちょっとの時間離れているのも辛いんだなって。……気づいちゃったの。だからね、いけない事だと知りつつ、一花さんのお姉さまである夜零様にまで……嫉妬して」

 瞳に収まりきらなくなった涙が、次々と溢れてくる。それがわたしには今日の天気と同じに見えた。空を灰色に染めて、まるで心まで曇らせる梅雨の雨と同じように。

(……どうして?)

 わたしは訊ねた。

「わたし、忘れ物を取りに来て、そして何気なく一花さんの机を見ていたら。……よく解らないけれど、触れずにはいられなかったの。だからそのときふと、ね。自分の気持ちをみつけちゃったんだ。ごめんね、本当にごめんなさい。こんな、こんな話されても困るよね。迷惑だよね。でも……でもわたし、嘘はつきたくなかったのっ」

 しゃくりあげるように泣きながら。

 必死に涙をぬぐいながら。

 千夏さんがわたしに訴えかける。

「……お願い。わたしを嫌わないで」

 ぎゅっと、両手を掴まれて。不意に指と指が絡まって……千夏さんの顔がすごく近いのに今更ながらに気づいて……。

 待って、待ってよ千夏さんっ。

 わたしもう、もう……どうしたらいいか解んないよっ。

 ……でも、

 そのときだった。

 一瞬雷に打たれたようにびくんと体を竦ませた千夏さんは、驚愕の表情を浮かべてわたしの背後を見つめていた。わたしも慌てて、急いで後ろを振り返ってみたけれど……そこには半開きの教室の引き戸が見て取れるだけで、なにもなかった。

 そう。

 誰もいないし、なにもなかったのだ。

 ……なぜだか違和感を感じたけど。

(千夏さん?)

 わたしはそっと彼女の手を振り払うと、まだ目を見開いている千夏さんに恐る恐る訊ねてみた。

(どうかしたの?)

「ごっ……ごめんなさいっ」

 …………?

 誰に……謝っているの?

 瞳が。わたしの背後を凝視する千夏さんの瞳が……恐怖でぎゅっと収斂しゅうれんする。

 そしてそのまま、まるで逃げるように千夏さんは教室を飛び出して行ってしまった。袴をふんずけそうになりながら。机にぶつかってまろびそうになりながら。それはもう、制止する間もないほどだった。

 ……わたしは呆然としたまま、釈然としない思いを抱えつつ帰り支度をすると、のろのろと執務室まで歩いて行った。なぜならわたしを……お姉さまが待っているんだもの。

 でも……。

 わたしは階段の踊り場で足を止めた。雨降りの薄暗い夕闇が、そっと足元に忍び寄っていた。

 千夏さんをあのまま行かせてしまってよかったのだろうか、追いかけたほうがよかったんじゃないの?

 だって、どう考えたって……あの態度は普通じゃなかったもの。尋常じゃなかったもの。

 でも教室での千夏さんとのやりとりを思い出すと……胸が苦しい。まるで胸の中心にぽっかりと暗い穴が開いたようで。追いかけたいのに足が動かない。

 ……わたしの胸の中で、得体の知れないなにかが不規則なリズムを刻んでいる。震えているのは心臓じゃない、もっと魂に近いなにかだった。

 この得体の知れなさはなんだろう。なんで……わたしにだけ解らない事があるんだろう。

〝わたしを嫌わないで〟って。

 そんなの……当たり前なのに。

 執務室の扉をノックして、少しだけ間をおいてから真鍮製のドアノブに手をかける。部屋の中では少しだけほつれた髪をもてあそびながら、お姉さまが読書を続けていた。

 お姉さまはわたしの姿を認めてパタンと文庫本を閉じると、

(よかった。遅いからどうしたのかと思って心配していたのよ?)

 と言って微笑みを浮かべた。それは白い梅の花の蕾がほころんでいくような、そんな優しいやわらかな笑みだった。まるでお姉さまの体から清々しさが香気として漂い出したかのような、そんな錯覚に陥ってしまう。

(一花がなかなか戻ってこないから、見に行こうかどうか迷っていたの。でも待っていて正解だったみたいね。行違いになってしまったらそれはそれで困るところだったわ)

(ごめんなさい、お姉さま。お待たせしてしまって)

 わたしはいたたまれなくて、慌てて頭を下げた。

(ううん。大丈夫よ。おかげで本も読めたし)

 そう言ってお姉さまは苦笑して、文庫本を少しだけ持ち上げて見せたのだった。

(でも、どうかしたの? 顔色が悪いわ)

 椅子からそっと立ち上がったお姉さまは、わたしの頬を優しく撫でてくださった。その指先はしっとりとしていて。わたしの肌に吸いつくようで。

(お姉さま。珍しく手に汗をかいてらっしゃるのですね)

 わたしは苦笑しながらお姉さまの指に自分の手を重ねた。お姉さまと手と手を触れ合わせるのは、妹という立場柄多いのだけれど……今まで手に汗をかいていらした記憶がない。

「だって、もう初夏になるのだもの。わたしだって汗くらいかくわ。……人間なんだから」

 お姉さまもそう言って笑った。

 まぁ、そう言われてみればそうだよね。うん。だからそう……安心したから、かな。わたしの頬をつうっと涙が滴り落ちていったのが自分でも解った。

 って、あれ?

 ……なに? なんでわたし、また泣いてんの?

「やっぱりまたなにかあったのね?」

 わたしの頬に手を当てたまま、お姉さまが心配そうに呟く。わたしはお姉さまの指先がわたしの涙で濡れて汚れてしまったのかと思うと、申し訳なくて気が気じゃなかった。

 おろおろしているわたしを面白そうに見つめていたお姉さまは、そっと手をわたしの頬から離して、涙で濡れた指先をしげしげと眺めていた。

 あのっ。

 ちょ、ちょっとっ、

 メチャクチャ恥ずかしいんですけどっ。

(……舐めてもいい?)

(ダメっ、バカっ、お姉さまの変態っ)

 この人いったいなに考えてんのっ?

 きっと、わたしを慰めるための冗談だったに違いない。そう思いながら。わたしは慌ててお姉さまの指先を制服の袖でゴシゴシと拭ったのだった。


(女の子同士の恋愛って、ありだと思う?)

 わたしは恐る恐る恵美子に訊ねた。

(……いや、ないでしょ)

 恵美子がじとっとした、なんというか……哀れみの目でわたしを見つめている。

(イッチー、あんたってば。女子校で聖徒の妹なんていうわけ解んない役職についてさ、お姉さま、とか言っちゃってさ。頭が沸いちゃったんじゃないの?)

 なっ?

 なんて事言うのっ。

(だって。女の子と女の子だよ? ……どうやってエッチすんの?)

 そ、そんな手話使わないでっ。目が、目が穢れるっ。

 エッチって、エッチって……。

 そのあとも恵美子とギャーギャー言い合っていたのだが。

(……そもそもなんでそんな事言い出したのさ?)

 という恵美子の質問に、

(それはクラスの子に)

 そこまで指を動かして。

 わたしはふと、あの日教室で感じた違和感の理由に……気付いてしまった。

 千夏さんが逃げるように教室を出ていったあの日。わたしの背後を見て驚いていたあの日。

 わたしは確かに……教室の戸をしっかりと閉めたはずなのに。

 ……

 背中がわけもなくぞくっとした。脇の下に嫌な汗が滲んだ。

 それだけじゃない。……次の日にしたってそうだった。

「……ごめん、一花さん。昨日言った事……お願いだから全部忘れて。一花さんとはずっとお友達でいたいから。わたしを嫌わないで。……お願いします」

 放課後。そう言って千夏さんは深々とわたしに頭を下げた。顔面を蒼白にして、今にも泣き出しそうな表情で。

 わたしは震える手で『そんな事言わないで』ってメモ帳に書いて差し出しながら、千夏さんをぎゅっと抱きしめた。でも、……千夏さんの体が震えていたのに、千夏さんが抱えていたのは確かな恐怖だったはずなのに。わたしは気づかないふりをしてしまった。

 あの日からずっと、千夏さんはそれまでと変わらず……わたしの友達でいてくれている。そう、わたしはあんな話を切り出される前のふたりに戻れた気がしていたのだ。

 わたしは……怖かったから、蒸し返すのをためらってしまっていたから、だから、気づかないふりをしていた。知らないふりをしてしまった。

 でももう、自分に嘘はつけない。嘘をつき続ける事なんてできない。

 気づいてしまったのだ。なにかがおかしいって。

 ……なにか、わたしの知りようのないなにかが。確かにあの日あったんだって。あの話を反故ほごにさせるような、そんななにかが千夏さんの身に起こったんだって。

 しかしそれって……なんだったんだろう。

 解らない。

 解らない……けれど、今更千夏さんに訊ねるのは恐ろしかった。できれば千夏さんが言ってくれたように、友達のままでいたかったから。ずるいと言われても仕方ないかもしれないけれど……古傷を抉るような真似をして、千夏さんと疎遠になってしまうのは嫌だったから。だって、だって……。

 千夏さんはわたしの大切な、初めての健常者の友達なんだもの。

 わたしは……女の子に対して恋愛とか、そんな感情を抱く事なんてできないもの。

 彼女の気持ちには応えられない。

 でも、

 千夏さんを失いたくない。

(……イッチー?)

 恵美子がピタッと動きを止めたわたしに、いぶかしげな視線を送ってくる。わたしはぎこちなく口角を上げて、なんでもないよって。笑ってみせた。

 こんな事。そもそも恵美子に喋るべきじゃなかったのだ。

 わたしは唇を噛み締めながら、そう思って少しだけ後悔した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る