よん

 週末、久しぶりに恵美子が遊びに来てくれた。梅雨本番になってもからりと笑う恵美子は湿気とは無縁みたいに思えた。彼女は早くも全身から夏の匂いをさせていた。それはラムネとひまわりと太陽の匂いだった。

 お母さんもきぃさんも久々のお泊りに大喜びで、特にきぃさんなんて腕によりをかけて豪華な夕ご飯を作ってくれた。活発でスポーツ万能の恵美子はきぃさんとも馬が合うみたいで。わたしと恵美子は一緒にその夕食を食べて、交代でお風呂に入り、お布団を並べて近況報告をし合った。わたしたちは指がつりそうになってもまだまだ話し足りなくて。途中でお母さんからいい加減にして寝なさい、と呆れられてしまうほどだった。だって、こんなふうに長い時間恵美子と離れ離れになる事なんて今までなかったんだもん。メールのやり取りはしていても、話さなきゃいけない事、聞きたい事は山のようにあったのだ。

 わたしは電灯の明かりを小さくして、恵美子を見つめた。

(で、さっきの続きだけどさ)

 ……まだ喋るのね。

 わたしは苦笑しながら恵美子の手を見つめた。

(その妹って結局なんなの? 実のところなにをするものなの? なんか一、二回説明受けただけじゃいまいち理解できないんだよね)

 うーん。

 わたしもまだよく解ってないんだよなぁ。

 わたしはごろんと布団の中で体の向きを変えて、天井を見上げながら腕組みをした。

(さっきもだけど、メールでも話したじゃない。わたし、聖徒の妹ソロルに選ばれたのよって。と言ってもわたしに出来る事なんて執務室の雑用係もいいとこなんだけどね。あとは……生徒会との折衝役って事だけど、要するにメッセンジャーみたいなものだわ。それにしてもよりにもよって夜零様が『歌』の系列だったなんて……)

(だからさ、それが解んないっての。聖徒の妹? 生徒会との橋渡し? なんでイッチーがそんな事せにゃならんのさ。それにさ、もしかしてイッチーが歌を歌うの?)

 わたしは恵美子にそう言われて、言葉に詰まってしまった。もちろん、耳が聞こえないのに聖歌なんて歌えるはずがない。それにそもそもわたしが歌える歌なんて、たった一曲しかないんだもの。

 ただ、……たった一つだけだけれど、歌が歌える事を今までずっと恵美子には黙っていた。どうしてなのかは自分でもよく解らない。でもきっと……恥ずかしかったんだと思う。自分の歌が人前で披露するようなものじゃない事くらい、わたしだって重々承知していたのだから。

三人の聖徒トリス・サンクトゥス様たちにはそれぞれお役目があるの。園芸部の面々と共にミサの花を育てる『花』の聖徒、聖歌隊と共に歌を歌う『歌』の聖徒、そしてミサの第一朗読やロザリオの先唱を行う『祈り』の聖徒、わたしは『歌』の聖徒の妹から次の妹に、と誘われたから、『歌』の系列になるの。もっとも、聖徒の中での役割はきっちり固定されているわけではないという事だから、ゆくゆくはお花の世話をさせてもらう事になるのかもしれないけれど)

(やっぱよく解んない。というかさ、大体なんでイッチーがそんなものに選ばれなきゃなんないのか、理由が全然解んない)

 恵美子はちょっとムッとした表情のまま、さらにそう訊ねた。

 でも、

 まさか妹には顔で選ばれたんだよ、なんて言えなくて。その辺はずっと濁していたものだから……恵美子の疑問もまあ当然なわけで。それに、……あんな事をされたなんて、恵美子にだって言えやしない。

(……色々あったのよ)

 わたしは大きくため息をついて、これ見よがしに眉根を寄せてみせたのだった。


 あの日、呆然としているわたしに向かって夜零様は(明日、わたしたちの執務室にいらっしゃい。放課後迎えに行くわ)と言った。

(それでは、ごきげんよう。あ、それと明日からはわたしをお姉さまと呼ぶのよ? いいわね)

 立ち上がるとまるで光の粒がふあっと舞い上がったように思えた。凛とした立ち姿は白い百合の花のようだった。

(あの、まだお受けするとは……)

(あら。まだそんな事を言うの?)

 そう言うと夜零様は屈みこんで、

 わたしの唇に、

 まるで小鳥が挨拶するように。

 ……チューした。

(さあ……誓いの口付けを交わしたんですもの。わたしから、運命からは逃れられないと思いなさい。これは神聖な儀式なのだから)

 な、

 ななな、なに?

 今、なにされたのっ?

 ボンって頭から煙を噴きながら。わたしは固まってしまった。頭の中が真っ白になっちゃったのだ。

(一花。これであなたはもうわたしの妹よ。……それではまた明日、ね?)

 夜零様がきびすを返すと……夜を紡いだ黒い絹糸のような美しい髪が、純白の制服の後ろでさらりとゆれた。

 わたしは徐々に小さくなっていくその匂い立つような後ろ姿を見送りながら、今更ながらそっと唇に触れてみた。

 ここに、夜零様の唇が……触れた?

 ちゅ、チューされた?

 されたよね?

 女の子同士なのに。

 初めてのキスだったのに。

 でも、……あれ?

 ……なんでわたし、あんまり嫌じゃないんだろう?

 呆然としすぎていて。

 気づいたら空には星が光っていた。どのくらいそうやって座っていたのかよく解んない。だってわたしには下校を告げるアンジェラスの鐘の音なんて聞こえるはずもないんだもん。だからわたしは慌てて、帰り支度をするために急いで教室に戻ったのだった。

 遅くなって帰ってきたわたしをお母さんもきぃさんも心配してくれたけれど、でもまさか……上級生の女の子にいきなりキスされたなんて言えなくて。わたしはキョドりながらも黙っていた。そしてこれはあとから気づいたんだけど、お母さんだってミシンのOGなんだもの、そのときにある特定の上級生が特別に姉妹関係を結ぶ事の本当の意味を訊いておけば……よかったんだよね。そうしたら、あんなに恥をかかなくて済んだのに。

 その日はベッドに入ってからも夜零様の唇の感触が何度もリフレインしてしまって、うまく寝付けなかった。執務室、執務室ってなんだろう。わたし、いったいなにに、どんな流れの中に迷い込んでしまったのかなぁ……なんて思いながら、明け方近くまで枕を抱きしめたまま、わたしはベッドの上で煩悶はんもんし続けるのだった。

 次の日の朝。眠い目をこすりながら学校に行くと、校門近くのイエズス様の像の前で千夏さんがわたしを待っていてくれた。ちょっとバツの悪そうな顔で。心配そうにわたしを見つめている。

(昨日はごめんなさい。千夏さんにも嫌な思いをさせちゃって)

 わたしは慌てて駆け寄って、ぺこっと頭を下げた。

(ううん。わたしのほうこそごめんね。あのあと一花さんを探したんだけど結局見つからなくて……先に帰ってしまって。本当にごめんなさい)

 お互いにごめんね、の応酬をしていると、何事かと思ったのか生徒が集まってきちゃって……周囲の視線がチクチクと痛かった。そりゃ、校門近くで手話を使って話していれば目立つよね……。

(教室、行きましょう)

 千夏さんがちょっと頬を赤らめながらそう言った。

 わたしも頷いて同意して、千夏さんと並んで歩き出した。

 教室に入るといつもと同じように、クラスメイトが手話を交えて「ごきげんよう」と笑いかけてくれる。わたしもそれに返事をしながら自分の席に着いた。

 教科書を机にしまっていると、

(ねえ、一花さん。昨日は残念だったけれど、今日は一緒に行けるかな? 倶楽部の見学)

 千夏さんがわたしの肩をちょんちょんと突ついて、そう訊ねた。

(あの、そうしたかったんだけど。……実は今日ね、執務室ってところに行く用事が出来ちゃったの)

 わたしがそう告げた瞬間。

 千夏さんが手を止めて、呆然とした表情でわたしを見た。

(あの、どうかした?)

「し、執務室って、それって三人の聖徒トリス・サンクトゥス様たちの執務室? うそ、なんでっ?」

 え?

 と、とり……なんて言ったの?

 手話じゃなくて急に声で話してくるから。慌てて唇を見つめたんだけど、やっぱりうまく読み取れなかった。

 そのとき、はじめてわたしは教室の雰囲気が今までなかったくらい緊張感に満ちている事に気づいた。

 えっと、ちょっと。

 待って、待って、いったいなにが始まっちゃったの?

 わたしはわけが解らなくて、辺りをキョロキョロと見回した。

 周囲のクラスメイトもびっくりした顔で集まってきて、いつの間にかわたしは一年百合組の生徒ほぼ全員に取り囲まれてしまっていた。

 あ、あの。これって……?

「執務室に招かれるなんていったいなにをなさったの? それとも……ねえ、もしかして一花さん、まさか次の聖徒の妹ソロルに……?」

 クラスメイトの一人が恐る恐るわたしに訊ねた。

 そ、ソロル? ソロルってなに?

 よく解らなくて曖昧に首を傾げていると、千夏さんはそんな事も知らないの、と目を大きく見開いた。

(ソロルはラテン語で妹の事よ。この学校の象徴である聖徒様たちの妹になる事を、特別にソロルになると言うの)

 え?

 ええっ?

 背中を冷たい汗が流れ落ちる。昨日の夜零様の言葉がよみがえる。


〝わたし、次の代の妹を探していたの〟


 それって、そういう事だったの?

 学校の象徴? その妹?

 な、なによそれっ。

 そんな話、聞いてないんだけどっ。

 無理、無理無理絶対無理っ。

 わたしにそんな大役務まるわけないじゃんっ。

(わ、わたしね、次の代の妹にって、昨日の放課後言われたんだけど。執務室に来いって……そういう意味だったの?)

「やっぱり! 本当にそうだったのねっ。すごい。すごいよ一花さんっ。それで誰にお声をかけていただいたの?」

 興奮して少し顔を赤らめながら、千夏さんがそう口を動かした。

(あ、えっと、夜零様って方から)

「えっ、本当にっ!」

「待って、千夏さん。わたしたちにも解るように話してくださらない?」

「そうですわ。わたしたち、挨拶程度しか手話ができないんですもの」

 あ、そうだよね。気付かなくてごめんね。交代でわたしにも解るようにゆっくり喋ってくれるクラスメイトに、ちょっと申し訳なくなって、わたしはぺこっと頭を下げた。

 そしてわたしはつかつかと黒板まで歩いて行って、

『夜零様という方から、昨日妹に、というお声をかけていただいたんです。でも、まさかそんな大事だと知らなくて』

 と書いてみんなに見せた。

 騒然となって、口々になにか言ったり、わたしに握手を求めたりするクラスメイトに唖然としてしまって、だからわたしはそのあとの言葉を書くことができなかった。本当はこう続けるはずだったのに。

『けれどもわたし、お断りさせてもらおうと思っているんです』

 ……と。


 お昼ご飯を食べながら、この学校における聖徒のあらましを千夏さんから教えてもらった。外部生なのになんでそんなに詳しいの、って訊ねたら。この学校に通っていて聖徒を知らない一花さんのほうがどうかしてる、と反駁はんばくされてしまった。むー。だって、そんなの興味なかったんだもん。

 この学校に聖徒という制度ができたのは、遥か設立当初にまで遡るのだという。ここは華族の御令嬢の躾や教育を目的として設立された学校ではあるのだけれど、それとは別に敬虔けいけんで有能な学生の中からキリスト教教育の根幹をなすべき人材を発掘し育成する、という目的もこの学校にはあったのだという。そのため、洗礼を受けている生徒の中から聖パトリックの三つ葉と同じ数である3人を選出し、将来シスターとして、またあるいは宗教教育を担える人材として、特別に教育を施したのが契機である、らしい。

 千夏さんにしたって又聞きの域を出ないのだから、どこまで本当か怪しいものだけれど、今現在はそのシスターの見習いというか徒弟制度のようなものは三人の聖徒と名前を変え、この学校の象徴となっている。学校で行われる宗教的な行事の一切を取り仕切り、生徒会ですら介入できない孤高の独立組織として存在している。

 聖徒の任命式は毎年五月の聖母祭で行われるのだが、三人の聖徒に選ばれた生徒はその任期のあいだ洗礼名で呼ばれ、生徒たちの崇敬を受ける存在となるのだ。彼女たちは行事毎の記念ミサでは侍者となり、園芸部と共にミサに使用する花を育て、日々のロザリオの祈りの先唱を行い、文化祭である御心祭に聖歌による祝福を授ける……等々、その仕事は多岐にわたる。

 あるいはこう言い換えることができるかもしれない。生徒会が国民である生徒たちの投票で選ばれる政府であるとするのなら、三人の聖徒は政府に承認や祝福を与える王や神官の如き存在なのだと。そして聖徒は各々が直属の妹をひとりだけ持ち、その妹がゆくゆくは次の代の聖徒に……。

 って、ちょっと待って!

 それじゃ、わたしが来年その聖徒とかいうのになるって事じゃんっ。

(そうよ。だから、すごい事なんだって。ねえ、やっと気付いてくれた?)

 千夏さんがもどかしそうに指を動かすのをわたしは呆然とした思いで見つめていた。自分の将来に対する暗澹あんたんとした陰鬱いんうつな気持ちとは別に、ふつふつとこみ上げてきたのは……怒りだった。

(わたし、断る)

「……え?」

(そんなの、わたしには無理だもの)

 やっとお弁当に箸をつけ始めた千夏さんが、わたしの指の動きを見て手を止めた。

 なにか話したそうな千夏さんは、それでも無言でご飯を食べ始めた。千夏さんの悲しそうな、どこか辛そうな表情を見ているとわたしも胸が痛んだ。洗礼を受けていない千夏さんにとって、どんなに憧れても手が届かないものを簡単に捨てようとするわたしが理解できなかったのかもしれない。

 あるいは、わたしだって、……健常者だったら。この耳が聞こえていたら。

 もっと違った思いを抱いたかもしれない。

 でも、

 でも。

 わたしはサンドイッチを口いっぱいに頬張って、牛乳のパックに吸い付いた。

 形状し難い憤りはわたしの胸の中心で消化できないまま、まるでマグマみたいにいつまでもゆれていた。

 放課後。

 帰り支度をしていると、不意にクラスメイトのひとりがわたしの目の前に手をかざした。わたしが不意に肩を叩かれたりするとすごくびっくりしてしまうのを知っているから、みんなそんなふうにしてわたしに呼びかけてくれるようになったのだ。

 首を傾げながら見上げると、彼女は緊張した面持ちで真っ直ぐに教室の入り口を見つめていた。わたしも彼女の視線を追った。そして、そこに……昨日と同じ天使の姿を見つけた。

 夜零様はすっと右手を上げて合図を送ると、つかつかと教室の中に入ってきた。

 まるでモーセが海を割るように。クラスメイトたちが慌てて道を開ける。

 夜零様は昨日と同様、そこだけにまるで別の世界から光が差しているように、美しく輝いていた。ミケランジェロの彫像が命を持ったなら、きっと彼女のようになるのではなかろうか。わたしは彼女が存在しているというただそれだけで、神様の存在を信じないわけにはいかなかった。それは本当に神の造形そのものだったから。

 夜零様がわたしの眼の前に立たれる。

 冷たい印象の眉と切れ長の瞳が、わたしの眼の中の戸惑いを見つけてやわらかくほどけていく。

 あぁ。

 それだけでもう、喉がカラカラになって、指先が震えた。胸がバクバクしている。どうしよう。この心臓の鼓動は、みんなに聞こえたりしちゃわないのかなぁ……。

「一花。迎えに来たの。さぁ、わたしと一緒に執務室へ」

 手話を交えながら。夜零様の唇がそう動いた。きっとクラス全員に自分の来訪目的を知らせるために、そして、わたしとの事を周知の事実にするために。夜零様は言葉を使われたのだ。

(……はい)

 わたしが硬い表情でそう返事をすると、なにを勘違いしたのだろう。

(大丈夫。心配しないでいいわ。お姉さまがたはみんな優しいから)

 ウインクしながら夜零様が言った。わたしは胸の痛みをひたすら押し隠して、小さく頷いてみせた。

 夜零様に連れられて教室を出るわたしを、クラス全員が羨望の眼差しで見ている気がした。そして、たぶん実際にそうなのだ。

 夜零様は現聖徒の妹である事の矜持きょうじからなのか、歩きながらでは一言も喋らない。ただ、わたしの目の前をとても優雅に歩いて行くだけで。衆目をまるで意に介さずに。夜零様は颯爽さっそうと歩いて行く。

 ゆれる黒髪。

 少しだけ覗いて見える小さな耳。

 特級のアールグレイのような優しい香り。

 ……背中だけしか見えないのに、なんでこんなにも美しいのだろう。

 最上階の特別教室の並びの一番奥に、重厚な飴色に変色した木製の扉が見えてくる。その扉の前に立ち、目の高さにはめ込まれた古い真鍮のプレートを見ると、そこにはただ『執務室』とだけ書かれていた。

 夜零様が扉の前でわたしを見て、

(大丈夫。緊張しなくてもいいの)

 そう言って、わたしのスカーフを結び直してくれた。

(そうは言っても緊張しちゃうわよね。わたしもそうだったわ)

(もう一度お訊きしていいですか)

 まるで聖母のように優しい笑みを浮かべている夜零様に、わたしは訊ねた。

(どうして……わたしをお選びになったのですか?)

(言ったでしょう)

 小首を傾げながら。

(あなたの顔が好きだから)

(泣き顔が?)

(ええ。泣き顔が)

 くすぐったそうにそう言って笑うと、くるりと踵を返して。夜零様は扉をノックした。

 きっと、どうぞって声をかけられたのだろう。夜零様が少し間を取ってから、真鍮製のドアノブにそっと指をかけた。

 中に入るとすでに五人の生徒が楕円の形をした円卓に集まっていた。正面上座に座っている三人が現三人の聖徒……なのだろうか。そう思って見つめると、オーラと言うかなんと言うか、威厳に満ち溢れているような気がしないでもない。ただ、どう見ても正面真ん中の人は童顔でちっちゃくって子どもにしか見えないんだけど……。

 なるべく不躾にならないようにそっと視線を外す。座っている彼女たちの両隣には背の高いショートカットの女の子と、豊かな髪を三つ編みでひとつにまとめた女の子がまるで侍従の如く、といった感じで控えていた。

「ごきげんよう、お姉さまがた。わたしの妹、月庭一花を連れてまいりました」(一花。お姉さまがたににご挨拶をなさい)

 わ、わっ。すごい、口の動きと手の動きが違う。そんな事ができるんだっ。

 なんとかとっさに意味だけ読み取れたけれど、同じ真似をしろと言われてもきっと誰もできないと思う。わたしは呆気にとられながらも、ぺこりと頭を下げて見せた。というか、どのお方が夜零様の直接のお姉さまだか解んないんだけどっ。あの、夜零様は紹介してくれないのかしら?

 そんな焦燥感に駆られながら、わたしは恐る恐る座っている三人を見回した。すると右手に座っておられるお方が、小さく手を挙げた。

「……その子が夜零の、つまりは次の『歌』の聖徒の……カタリナの妹なのね。まさか夜零が一番始めに妹を連れてくるとは思わなかったわ。それにしても……聞いていたのとなんだか雰囲気が違うわね」

「あら、フランシスカ。人の妹の事をあれこれ言うのは野暮だわ。初めまして、わたしは『祈り』の聖徒。アガタこと、網代あみしろ小百合さゆりよ。わたしの言葉は……伝わっていて?」

 わたしは正面左手に座っているお方にこくんと頷いてみせた。銀色のフレームの眼鏡がキラリと光って、知的な瞳が好奇心で輝いているのが見て取れた。それにしても……歌とか祈りとか、どういう意味だろう?

「結構。そしてわたしの隣に立っている背の高いのが妹の花崎はなさき瑠夏るか。では、次ね」

「じゃあ、お先に」

 すっと手を挙げてそう言ったのは、さっきいの一番で口を開いた右手側のお方だった。

「わたしは木村きむらいく。今は三人の聖徒のひとりだから、フランシスカと呼ばれているわ。わたしは『花』の聖徒になるの。よろしくね」

 ソバージュがかった癖のある髪を肩のあたりで切りそろえた、どことなく猫を思わせるその先輩は、そう言ってニヤリと笑った。

「そして、彼女がわたしの妹。月嶋つきしま静香しずかよ。そういえば……あなたと名前が似てるわね」

 そう声をかけられて、三つ編みの先輩が小さく頭をさげる。

「月嶋です。よろしくね、一花ちゃん」

「それではトリ、ね。ウルスラ?」

 フランシスカ様の呼びかけに、正面真ん中に座っていた小さな女の子がゆっくりと椅子から立ち上がった。でも、やっぱりその背は中等部の子かと勘違いしてしまいそうなくらいちっちゃくて。わたしはちょっとだけ驚いた。本当にこのお方があの夜零様のお姉さまなのか、と。

「わたしが夜零の姉の合歓ねむうてなです。それとも『歌』の聖徒のウルスラ、と名乗ったほうがいいのかしら。もっとも、もうすぐわたしたちの任期は終わってしまうから。役名も洗礼名も忘れちゃっていいわよ。でも、ありがとう。あなたが夜零の妹になってくれてすごく嬉しいの。これからは妹として夜零を助けてあげてちょうだいね」

 にっこり笑って、ウルスラ様はそう声をかけてくださった。

 そのまま……まるで歓迎会に突入しそうな雰囲気に水を差すみたいで申し訳なかったんだけど、わたしはおずおずと手を挙げて、執務室に置かれていた可動式のホワイトボードに、

『あの、その事なのですが』

 と書いた。

 うぅー。キョトンとした諸先輩がたの視線が痛い。わたしは手が震えそうになるのを、必死でこらえながら続けた。なぜなら、言いようのない憤りのほうが強かったから。

『実は、正式にお断りさせていただきたくてここまで来たんです』

 書いた言葉の意味を理解されたアガタ様とフランシスカ様がなにか仰ったけど、二人同時に喋られるとわたしにはもう唇が読めなくて。なにを言ったのかまでは解らなかった。その少し厳しい表情に、……批難されているんだったらどうしようって、心臓がばくばくしてきた。でも正面のウルスラ様はじっとわたしを見つめているだけで、特に口を開かない。

(ねえ、一花。理由を訊いても……いい?)

 青白い顔で、悲しそうな表情で、それでも手話を使って……夜零様がわたしに話しかけてくださった。

 夜零様のそのお顔を見ただけで、わたしの胸は申し訳なさでいっぱいになってしまって、ズキンと激しく痛んだ。今すぐごめんなさいって謝りたくなっちゃうくらいに。

 でも、それなら最初っから、こんな事……言ったりしないんだよ。

「(お願い。理由を訊かせて)」

 手と口を使って、夜零様がもう一度訊ねられた。

『もう、皆様もご承知の事と思いますが、わたしは』

 そこまでペンを走らせてから、わたしは一瞬だけ躊躇した。

『耳が聞こえません。聖歌を歌う事も、ロザリオの祈りを唱える事もできません。そんなわたしに、どうしてそんな大役が務まると思ったのですか?』

 わたしは他の皆様にも解るようにホワイトボードにそう殴り書きして、きつく唇を噛み締めた。

「そ、それは……」

 夜零様が言葉を失って、立ち尽くしていた。

『わたしを顔で選んだ、とか、そんなの』

 思い出すと悔しくて、

 とても悔しくて、

 涙が溢れてきた。

『わたしが障害者だからって、馬鹿にしないで』

 それ以上もう、なにも書けなくて。

 わたしは自分の書いた文字が涙で滲んでいくのをじっと見つめていた。

 あの天使みたいな人に優しくされた。

 慰めて、抱きしめてくれた。

 それだけでよかった。

 それだけで幸せだったのに。

 なんで……こんな思いをしなきゃならないんだろう。

 そう思って肩を震わせていると、誰かがわたしの手からすっとホワイトボード用のペンを取り上げた。

 見ると、それは……ウルスラ様だった。

 気配もなんにもしなかった。いつの間にわたしのすぐそばに立たれていたのだろう。わたしはそう思い、呆然と背の小さなウルスラ様を見下ろしていた。

「少し、わたしと話をしましょう」

 そしてわたしの後ろを見て、なにかを言った。

 振り返ると、そこには驚いた顔の夜零様がいた。

「さあ」

 ウルスラ様は小さく頷いて、苦笑された。誰かがなにかを言ったのだろうか。そんな気配がした。でも、わたしには解らない。

 わたしはウルスラ様の小さな手に引かれながら、ゆっくりと廊下を歩いた。

 階段を下り、玄関を出て、そして……連れてこられたのは先日のあの藤棚の下のベンチだった。見上げると、絡まり合った蔦の先から重たげな蕾が垂れていて、春の優しい風にゆれていた。

「いい天気ね」

 そう言いながらウルスラ様は大きく背伸びをした。

「座りましょうか。はい、これ」

 そして、わたしにハンカチを渡してくれようとした。

 わたしは咄嗟に(ありがとう)の手話をして、そっか、この人には通じないんだ、と思った。

「それは、ありがとう、よね? それなら知っているわ。さあ、涙を拭いて」

 わたしはぺこっと頭を下げて、ウルスラ様からハンカチを受け取った。

「ねえ、一花ちゃん。ここであなたたちは出逢ったのでしょう? 夜零が嬉しそうにそう話していたわ」

 ウルスラ様がゆっくりと喋り出した。

「でも……わたしならきっと、ここであなたと出逢っても……ううん、もう一度今の一年生全員の中から妹を選べって言われても、あなたを選んだりはしないわね。どんなに一花ちゃんを気に入っても、耳の聞こえないあなたの負担になるのではないかって、尻込みしてしまうと思うの。なんといってもわたしは『歌』の聖徒だから。でもね、あの子は……夜零は違う。本当に自分に必要だと感じたなら、たとえどんな理由があろうともためらったりしない。一花ちゃんの耳が聞こえなくても、目が見えなくても、歌えなくても、あの子にとっては関係ないの。あの子は自分の大切なものを見抜く力を持っている。夜零はね、そういう子なの」

『ずいぶんと夜零様を買ってらっしゃるのですね』

 いつもポケットに入れているメモ帳にそう書いて見せると、ウルスラ様はにっこりと笑った。

「ええ。だってわたしはあの子の姉だもの」

 そしてさらりとそう言ってのけた。……これが最上級生の余裕……ううん、貫禄というものなのだろうか。わたしは一瞬言葉を失ってしまった。そんなふうに信頼してもらえる夜零様がなんだかうらやましいなって思えた。

『でも夜零様はわたしを顔で選んだ、と言っていました。それがわたしの本質なのですか?』

「まあ、あの子ったら。そっか、そうだったのね……。そういえば執務室のホワイトボードにもそう書いていたわね。それで……一花ちゃんはヘソを曲げちゃったのね?」

 べ、別にヘソを曲げたわけじゃないもんっ。

 くつくつと笑っているウルスラ様がちょっぴり憎らしい。

「それ、わたしが去年あの子に言った台詞そのままよ。夜零はちゃんと覚えていたのね」

 え?

 どういう事?

 わたしの疑問を見て取ったのか、ウルスラ様はゆっくりと続けた。

「あの子もわたしに訊ねたの。どうしてわたしなのですか、って。わたしはね、あなたの顔が好みだからよって、そう答えた。あ、そんな顔をしないで、ちゃんと理由があるんだから。……人はなにか困難な事があったとき、立ち向かおうとするか、逃げ出そうとするか、どちらかを選ぶわ。なかにはどちらも選べない人もいるけれど……大概の人はそのうちのどちらかを選ばざるを得ないものよ。あの子とはたった一年の付き合いでしかないけれど……逃げるとか立ち向かうとかという選択肢では測れない子なんだって、解ったの。駄目になったと知ったらいっそ全部壊してしまう子よ。それが今でも少し気になっているのだけど。結局、彼女はそのまま変わらなかった。それが良い事なのか悪い事なのか、わたしには解らないけどね。あ、これは夜零には内緒にしていてね? ……去年のちょうど今頃よ、……あの子もここで泣いていたの」

 わたしはびっくりして、ウルスラ様の唇をまじまじと見つめた。ウルスラ様はぼんやりと藤の蕾を見つめていた。

「なにがあったのか……そこまでは知らないわ。わたしも訊ねなかったし。でもね、そのときの彼女の顔は素敵だった。悔しさをにじませた顔がとても綺麗だったの。だから……わたしはあの子を妹にしたわ。洗礼を受けている敬虔なカトリックなのは知っていたし。うん。……あの子はね、入学当初から有名人だったのよ。旧家である雪乃宮家の令嬢で、しかもあれだけの美貌を持っていて、大概の事は努力しなくても楽々とこなす事ができたから。彼女は多くのものを与えられて生まれてきたのね。そう言えば入学式の新入生挨拶もあの子だったわ。……ただ」

 そして。ウルスラ様は思い出したようにちょっとだけ笑った。

「最初はすごく怒ったわね。顔で選んだなんてふざけているって。でも、……あの子を妹にした事を、わたしは後悔していないわ。だって」

 そう言うと、わたしの髪を優しく撫でてくださった。

「……あの子はこんなにも素敵な妹を見つけられたのだから」

 わたしは胸がいっぱいになってしまって、ウルスラ様の小さな手に、自分の手をそっと重ねた。

『わたしに、本当に夜零様の妹が務まるでしょうか』

「さあ、どうかしら」

 ……え。

 せ、説得してくれてたんじゃないの?

「なに? そんな顔をして。わたしは困難に立ち向かう事が正しいとも、逃げる事が間違いだとも言っていないわ。そんなの関係ないの。なんて言ったらいいのかしら……そのときの心のありようがきちんと顔に、正しく表現できる人なら信頼できるかなって思っているだけ。夜零もあなたを見てそう感じたのでしょう。夜零はわたしの妹を立派に務めたわ。そして、次の聖徒のひとりになる。その夜零があなたに妹としての資質を見出した。わたしはそれを信頼するわ。でも、それと本当に妹として、次の聖徒としてやっていく事ができるかどうかは別なのではないかしら。それはね、あなたが実際に行動に移さなくちゃ解らない事なの。自分でやれる事をやるだけなの。ただそれだけ。誰かに言われたからじゃなくって、あなたがどうしたいかなの。逃げてもいい。立ち向かってくれてもいい。もっとも……わたしは一花ちゃんが夜零の妹になってくれたら嬉しいけどね」

 ずるい。

 ウルスラ様は外見に似合わず、とっても老獪ろうかいなお方だ。なんだか色々な思いがぐちゃぐちゃと頭の中で絡み合ってしまった。でも、でも……わたしはあの人と離れたくないって、そんな気持ちがあるのも確かなわけで。それになにより、ここまで言われて逃げてしまったら……きっと、わたしはわたしに対してずっと許せない思いを抱いて生きていかなきゃならない。

 ここで逃げるのか、それとも立ち向かうのか、その決断をウルスラ様も夜零様もじっと待っている。待っていてくださっている。でも……どっちを選んでもきっと、そうなのね、って。ただ笑ってくれるに違いない。けれどもそれに甘えてしまったら、わたしはこの世界に対してずっと言い訳をして生きていくことになってしまう。

 わたしは暫くのあいだ逡巡したあと、メモ帳に新しい文字を書いた。

『ご迷惑をおかけすることになるかもしれませんよ。それでもいいのですか?』

「もちろん」

『解りました。謹んでお受けします』

 ちょっとためらってから、わたしは続けた。

『それに、夜零様とは誓いの口付けもしてしまいましたし』

「……え?」

 え? 

 ……なんでそんな顔をしてる……の?

「ちょ、ちょっと、一花ちゃん、な、なにを書いているの?」

 慌てた様子でウルスラ様がわたしの肩に手をかけた。あ、あの? えっと……?

「キス、したの? 夜零と? 本当に?」

『あの、誓いの口づけを交わしたからもう運命からは逃げられないって、夜零様が』

 顔が怖い。

 ウルスラ様、顔が怖いんですけどっ。

『聖徒の妹になるときの儀式だって』

「……あの馬鹿っ」

 ガバッと勢いよく立ち上がると、小さなウルスラ様の背がなぜだか何倍も大きく見えた。

「帰るわよ。ほら、おいでっ」

 そう言うと、ウルスラ様は来たときと同様、わたしの手を引っ張って、執務室に戻ったのだった。

 このあと、ウルスラ様に夜零様がこっぴどく叱られたのは……彼女の名誉のために伏せておこうと思う。


 ……追記。

 なぜお姉さまがあんな嘘をついたのか、わたしは追い追い知る事になるんだけど。

 それはまた、別のお話。

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