さん

 軽くやわらかな質感の白いセーラー服は、今時珍しいワンピースで。なんと異国の修道服を模したものなのだという。薄い浅葱色のスカーフが胸の中央で結われ、胸元には校章である白詰草の三つ葉のマークが刺繍されている。

 素敵。

 びっくりするぐらい素敵な制服なのだ。

 鏡の中の自分が……三割り増しくらいに可愛く見える。なんて言うと自画自賛になっちゃうかなぁ。でも、馬子にも衣装なんて言われたらそれはそれでムッとしちゃいそうだけど。

 うっとりと見つめていると、鏡越しにお母さんが話しかけてきた。

(よく似合っているわ。可愛い)

 逆さまになってもお母さんの手話は解りやすい。だって……ずっとお母さんの手を見て育ったんだもん。鏡越しだって読み間違えるはずがないのだ。

(ありがとう)

 きっとみんなが最初の覚えるはずのその手話を使いながら。わたしは鏡の中のお母さんににっこりと微笑みかけた。

(これであなたも立派なシャムロックの乙女ね)

 ……シャムロック?

 なにそれ?

 不思議に思い振り返って訊ねると、お母さんはわたしの胸の刺繍を指差して。

(シヤムロックは白詰草の事よ。ミシンの生徒を、シャムロックの乙女と呼ぶの)

 と言った。

(白詰草は聖パトリックがアイルランドで布教をしたときに、キリスト教の理念を示すために用いたものなの。あなたも知っているように神様は父と子と聖霊……三位一体であるのだけれど、その全てが一つに結ばれている、というのを白詰草の三つ葉を使って説明されたそうよ。だからあの学校では今でも3という数字はとても意味のあるものだと考えられているわ。校章が三つ葉であるように。きっと、いろいろな場面でそれに出会うと思うわ)

 お母さんはそう言ってクスッと笑った。

 わたしはぽかんとしながら話を聞いていた。

(というか、学校案内のパンフレットに書いてあったでしょう? あなた、それでよく面接に受かったわね)

 わたしはそっと目を泳がせた。

(ま、いいわ。喜三郎が待ってるから。そろそろ行きましょう)

(あ、待って。髪の毛変じゃない? 跳ねたりしてない?)

(大丈夫よ。さっき梳かしてあげたじゃない)

(ほんとにほんと?)

(本当に本当よ。大丈夫だから。ほら、遅刻しちゃうわ)

 やれやれといった表情でお母さんがわたしの背中を押す。わたしはわわってなりながら、慌てて部屋を出たのだった。

 てとてとと階段を下りていくと、居間できぃさんがコーヒーを飲みながら新聞を読んでいた。わたしが降りてきたのに気づいて視線をあげて、

(…………)

(な、なんか言ってよっ)

 呆然としているきぃさんにそう言うと、きぃさんはどぎまぎしながら。

(可愛くて、見とれちゃった)

 と言ってくれた。でも。

(この制服を着てた頃の美花さんに逢いたかったなぁ。あ、今でも似合うかも)

 なんて余計なことを言うから。お母さんに後頭部を思いっきり引っ叩かれたりしていた。

 入学式の日はとても澄んだ空気の晴れた日で。春爛漫のキラキラと輝くような陽射しの眩しい、心が浮き立つ……そんな日で。

 わたしはお母さんときぃさんと三人で最寄りの駅から電車に乗り、一度私鉄に乗り換えて、ミシンの最寄り駅に着いたら今度はバスに乗った。家から学校まではトータルで小一時間といったところ。けっして遠いわけではないと思うのだけれど、今まで一人で外出する事なんてほとんどなかったから。これからずっと一人で通学しなきゃいけないっていうのは、わたしにとっては大冒険にも等しい。

 ミシンは初等部、中等部、高等部に分かれていて、校門もバスを降りる場所も全部違うから。明日から間違えないようにしなきゃ。なんて決意を新たにするのだった。

 バスの中をそっと見回すと、真新しい制服の女の子で溢れ返っている。在校生はすでに登校しているはずだから、ここにいるのは全員新入学生だと思われた。ボタン式のネクタイをしている小さな女の子は初等部の子。えんじ色のリボンタイをしているのは中等部の子。そして……浅葱色のスカーフをしているのが高等部の生徒だろう。高等部の子がみんな自分よりも大人っぽく見えて、なんだか焦る。わたしも……できればもうちょっと胸が欲しいなぁ。

 バスは広大なミシンの敷地をぐるりと反時計回りに回っていく。御心女学館・南の停留所で初等部の子が降り、御心女学館・東で中等部の子が降りると、残っているのは高等部の生徒とその父兄。晴れがましくも緊張したその様子は、自分もそうだと思うけれど……微笑ましいのだった。

 バスを降りると高等部のアーチ状の大きな門がバラの花で飾られていた。それも造花じゃなくて本物のバラだった。すごい。生徒会の先輩方だろうか、「ごきげんよう。ご入学おめでとうございます」と微笑みながら一人ひとりの胸に白いバラの花をつけてくださっていた。新入生も頬をバラ色に染めて「ごきげんよう」と挨拶を返していた。

 そして。わたしの番になる。緊張して胸のドキドキが止まらない。

 どうしよう、どうしよう。

「ごきげんよう。ご入学おめでとうございます」

「ご、……」

 わたしは途中でもう声が出なくて。

 ……最後まで言えなかった。

 しょんぼりしているわたしの頭を、きぃさんが優しく撫でてくれた。

「喜三郎。そうやって簡単に甘やかしちゃ駄目よ」

 お母さんの唇が動く。

 解ってる。解ってる……はずなのに。

 あんなに口話の練習だってしたのに。

 いざとなると声を出すのが怖い。

 だって、どんなふうに相手に聞こえているのか解んないんだもん。うまく喋れているか解んないんだもん。変な声なんじゃないか、発音が変なんじゃないかって思うと……怖いんだもん。

 黒ぶちの眼鏡をかけたその上級生はちょっとだけ苦笑して。

「大丈夫よ。緊張しただけよね。ほら、せっかくの入学式なんですもの。笑ってみせて?」

 と言ってくれた。

 なのに。

 きっとわたしの耳が聞こえないなんて……思ってないんだろうな、って。心のどこかで恨みがましく思ってしまうわたしは……なんて心が醜いんだろう。

 わたしは無言のまま、ぺこりと頭を下げて。その場を足早に通り過ぎた。あーあ、感じの悪い一年生だって思われちゃったかなぁ……。

 少し歩いたあと。

(一花)

 お母さんが思いのほか優しい顔で話しかけてきた。

(……ごめんなさい)

(いいの。怒ってないわ。ゆっくりでいいの。焦らなくてもいいの。だからこれからは慣れていきなさい)

(うん)

 手話で会話をするわたしたちを、周りの新入生も保護者の方も……不思議そうに見ている。

 この学校では、口で喋るのが当たり前で。

 誰も……わたしの話す言葉を理解してくれない。手話なんて通じない。

 きっと、声を出さなきゃいけない場面だって、いっぱいあるはずだから。その世界に慣れるためにわたしは……今まで努力してきたつもりなんだから。

(すぐには無理かもしれないけど……頑張るね)

 わたしは言った。

 きぃさんの大きな手がもう一度わたしの頭を撫でてくれる。その優しい感触に、わたしの心の中のさざ波がすうっと治まっていくのを感じていた。

 校舎の前には大きな掲示板が出ていて、クラス毎に名前が張り出されていた。目を皿のようにして眺めていると、お母さんにポンと肩を叩かれた。

(一花の名前があったわ。一年百合組ですって)

(どこ?)

 お母さんの指差す方向を見つめると、確かに月庭一花という名前が墨書されている。そしてそのすぐ近くに、わたしはある名前を見つけて目を見開いてしまった。

 久里山千夏。

 千夏さんも一緒のクラスだっ。

 合格したのはメールのやり取りで知っていたけれど、まさか、まさか同じクラスだなんて。こんな偶然があっていいんだろうか。

 わたしは咄嗟に小さく十字を切った。胸の鼓動が早くなる。それを感じながら表示板を見ていると、今度は反対側から肩を叩かれた。

 そこにいたのは……なんと千夏さんその人だった。

(千夏さんっ。久しぶり)

 思わず手話で話しかけてから、わたしはそれじゃ伝わらないって思って慌てて手を止めた。

(うん。久しぶり。ねえ、手話、合ってる?)

 ややぎこちない手つきで、千夏さんが話しかけてくれた。

 ……え?

 手話、できるようになったの?

(少し、勉強した。伝わってる?)

 わたしはこくこくと頷いた。

 千夏さんが安堵のため息を漏らした。

 わたしのため、だよね。そうだよね?

 嬉しい。

 ……涙が出るくらい嬉しかった。

「あ、お母様とお父様ですよね? はじめまして。久里山千夏といいます。入試のときに一花さんとお会いして、お友達になったんです。これもなにかのご縁だと思います。あの、どうか宜しくお願いします」

 千夏さんはそう言って、わたしのお母さんときぃさんに頭を下げた。

「こちらこそ宜しくお願いします。どうか仲良くしてあげてください」

 お母さんも頭を下げる。

 頭を上げた千夏さんの頬も、今日はバラ色に染まっている。見るとすぐ近くに千夏さんのご両親が立っていて。わたしも慌てて頭を下げた。

(行こう? 教室)

(うん)

 差し出された千夏さんの手をそっと握って、わたしは校舎の玄関をくぐった。

 編み上げの短いブーツを脱いで、新しい上履きに履き替える。新入生が大勢いて、きっとガヤガヤしているはず。でも……ガヤガヤってどんな音なのかなぁ。

 そんな事を思っていると、不意に千夏さんの手が動いた。

(上がり組は落ち着いてる)

(あがり?)

 不思議に思って千夏さんに訊き返すと、

「あ、えっと……中等部からの持ち上がり組っていうのかしら? どう手話で言えばいいのか解らなかったの」

 わたしは千夏さんの唇を読んで、ちょっと考えた。

 左手の手のひらに右手の人差し指と中指を立てて、同時に斜め上に動かす。

「……それってエスカレーター?」

(うん。エスカレーター)

 あはは、って千夏さんが笑う。そっか、それで通じるんだね、って。

 確かに周りを見てみると、やや挙動不審な外部生と澄ました顔の内部生に分かれているような気がしないでもない。そんな目で見てみると、割合的には圧倒的に外部生のほうが少なそう。

(手話、嬉しい。でも、無理しないでいいから。ね?)

 わたしは千夏さんが解りやすいようにゆっくりと指を動かす。

(ありがとう。でも、無理してない。もっといっぱい、あなたと話したい)

 千夏さんもゆっくりと指を動かす。

 そんなふうに言ってくれる千夏さんがとても愛おしくて。この思いをどう伝えたらいいか解んなくて。わたしは彼女の指をキュッと両手で握りしめた。

「あ、あの?」

「あ……」

 さっきと同じように、途中で言葉が止まる。

 うまく言葉にならない。声にならない。

 でも、

「うん。わたしも嬉しい」

 千夏さんは微笑んでくれた。

 だからごめんなさい。

 わたしはそれに甘えてしまった。

 声に出せなくて、本当にごめんなさい。

 教室に入ると古い校舎の匂いを打ち消すような、甘い女の子の匂いで胸がいっぱいになる。わたしはその匂いにちょっとだけくらくらしながら自分の席を探した。すると、教室での並び順は名前の通りになっているはずなのに、わたしの机が教壇のすぐ目の前になっているのに気づいた。厳密に言うと、二列目最後の久里山千夏さんの次がわたしで、わたしの後ろの席が小菜谷こなたに美紀みきさんになっている。

 それに気づいた美紀さんが不思議そうな顔で。

「これ、順番が違ってらっしゃるんじゃないかしら? 先生にお伝えしますわ」

 と言った。

 わたしはスカートのポケットに入れていたメモ帳を取り出して、

『たぶん合ってると思う。わたし、耳が聞こえないから。黒板がよく見えるように前にしてもらっているんだと思うの』

 と書いてみせた。

「え? あなた、耳が聞こえないの?」

 美紀さんの唇がそう動いた。

 わたしは苦笑しながらこくんと頷いた。

「でも、わたしの言っている言葉……解っていらっしゃるようだわ」

『唇を読んだの』

「唇? すごいっ、そんな事がお出来になるの?」

 やっぱり珍しいよね。うん、それはよく解るんだけどさ。

 でも、とっても上品な言葉遣いだけど訊き返した美紀さんの声って……どのくらい大きかったんだろう。気づくと周りに人が集まっていて、みんな興味津々といった顔でわたしを見ていた。

 口々になにか言っているのは解るけれど、大勢にいっぺんに喋られるともう、わけが解んなくなっちゃって。

 見かねた千夏さんがあいだに入ってくれた。

 ごめんね、本当だったら自分でどうにかしなきゃいけないのに……。

 うー。もどかしいなぁ。やっぱり支援校と全然勝手が違う。女子校だから当たり前だけど、女の子ばっかりだし、みんないい匂いだし、それに椅子にも机にもテニスボールなんてついていないし。あ、テニスボールを机や椅子の足にくっつけるのは消音のため。ギギーって机や椅子を引きずる音が補聴器の子にはすごく不快なんだって。

 ま、それはともかく。

 いつこの会話は終わるのかなー、なんて曖昧に苦笑を浮かべながら彼女たちの唇を見ていると、教室の前の扉が勢いよく開いた。

「はい、それでは席について」と言いながら担任の先生が入ってこられた。わたしの周りを囲んでいた女の子たちが慌てて席に戻っていく。この先生どこかで見た顔だな、と思って見ていたら、そういえば面接のときの先生じゃないかと気づいてハッとした。ピンクのスーツのイメージが強かったから一瞬誰だか解らなかった。ちなみに今日のスーツは浅葱色。わたしたちのスカーフと同じ色だ。

「ごきげんよう。今日からあなたたちの担任になります、川場かわば桃子ももこです。モモちゃんと呼んでください」

 教室の空気がざわってしたのを肌で感じた。恐る恐る隣の席の子を見ると、驚いた顔で可愛らしく両手で口を隠していた。その気持ちは解らないでもない。

「……というのは冗談です。さ、それでは講堂に行きますので二列になって、私語厳禁。いいですね?」

 ちらり、と先生はわたしを見てくださったから。

 わたしはほんのりと頬を赤く染めた先生を見つめ返して、小さく頷いたのだった。

 ……すべっちゃったね、って。


 入学式が終わると身体測定や学力テスト、上級生との顔合わせ会等々、行事が目白押しであっという間に四月が終わろうとしていた。

 最初は馴染めるか心配だったクラスメイトとも雑談ができるくらいまで打ち解ける事ができた。でもそれは、なんといっても千夏さんが色々と世話を焼いてくれたのが大きいと思う。いつの間にか手話混じりに「ごきげんよう」と挨拶するのが一年百合組の流行になっていて。みんなが優しく接してくれる。それも腫れ物に触れるようにじゃなくて、きちんとクラスの一員として、なのだもの。わたしみたいな人間が一人くらい紛れ込んでいても、あまり気にしないところなんかは流石のんびりとした校風のお嬢様学校だけあるなぁ、なんて感心してしまうのだった。

 その日の放課後、わたしは千夏さんと一緒に倶楽部見学に行く約束をしていた。

(わたし、ずっと憧れていた倶楽部があるの)

 ちょっとはにかみながら千夏さんがそう言った。

 毎日のように手話で会話をしているうちに、千夏さんのぎこちなさは減って、その分語彙が増えた。何気なく手話うまくなったねって訊ねてみたら「お母さんに練習に付き合ってもらってるの、そうしたらお母さんの方がうまくなっちゃって。でもそれって悔しいじゃない? だから余計手話の勉強に熱が入っちゃって」って笑っていた。わたしはそんな彼女が愛おしくてたまらなかった。千夏さんが入学試験のあの日、声をかけてくれて本当によかった。友達になれてよかった。感謝してもし足りないくらいだった。

 それにしても千夏さんはどこの倶楽部に入るつもりなのかしら。キュッと手を握りあわせた千夏さんは夢見る乙女って感じ。

(憧れの倶楽部? それって?)

 わたしが訊き返すと、千夏さんは少し恥ずかしそうに小さく弓を引く動作をした。

『弓道? それともアーチェリー?』

 どっちか解らなかったから、わたしはメモ帳に書いて訊ねてみた。

「弓道。ねえ、弓道って弓の動作でいいんだよね? アーチェリーも一緒?」

『どうだろう。違いを出すなら指文字で洋弓と和弓ってなるのかなぁ。ごめん、あんまり考えた事なかった』

「そっかぁ」(難しい)

 途中から手話に変えてくれた。わたしはこんなふうに普通の子と雑談できるのが楽しくて。思わず頬が緩んでしまう。千夏さんじゃないけれど、ずっと憧れてたんだもん。こういう放課後。

(というか、この学校に弓の倶楽部は一つしかないよ。一花さん、倶楽部紹介のとき寝てたんじゃないの?)

 あ、あはは。

 わたしはそっと視線を逸らした。そっか、アーチェリー部なんてないのか。

 うーむ。でも寝てたんじゃなくって、運動部には全然興味なかっただけなんだよねぇ。

(一花さん、結構そういうところあるよね。時々、ちょっとぼーっとしていたり)

(そ、そう? でも、そっか、運動部かぁ。……わたしにも出来ると思う?)

 話題を変えようと思って焦って、少し心配になりながらそう訊ねると、

(大丈夫、だと思う。だって、個人競技だし、すごく静かな中でやっているんだもの。わたし、ずっとあの雰囲気に憧れていたの。それでね、一花さんも一緒にどうかなって思ったの)

 と千夏さんが答えた。

(じゃあ、まずは見学だけ、ね。自分にもできそうだなって思ったら、そのときは一緒に入部する)

(本当? 嬉しい)

 千夏さんがにっこり笑って、わたしの両手をキュッと握りしめてくれた。その手のやわらかさにちょっとだけ頬が熱くなった。あれ、……女の子同士なのに、変なの。

(じゃ、じゃあ行こうか)

 わたしは照れてしまって。

 そっと彼女の指をほどくと、そう告げたのだった。

 弓道場は剣道場、柔道場等の武道施設の一番奥に建てられている。わたしたちは廊下を歩きながら、玄関を目指していた。武道施設には一度校庭に出なければ回れないから。

 すると、そのときだった。

 千夏さんの唇や手を見ながら余所見歩きをしていたわたしは、あやうく廊下の角を曲がってきた女の子にぶつかりそうになってしまった。

 素知らぬ顔で歩くわたしを、足音に気づいていた千夏さんが慌てて肘を掴んで引き留めてくれた。

 びっくりして足を止めると、すぐ目の前に女の子顔があって、わたしは思わずワッてなっちゃったのだ。

 あまりに急だったから、わたしの心臓は破裂しそうなくらいバクバクしていた。

 あー、やっちゃった。

 いつもだったら絶対にしないミスなのに。曲がり角は慎重に慎重を重ねるくらいじゃなきゃいけないのに。

 千夏さんと一緒だったから気が緩んでいた、なんて言い訳はしない。したくない。誰と一緒にいたって、わたし自身の身の安全は自分で気をつけなきゃいけないんだもの。でも。

 間近で見た彼女の姿にわたしは目を奪われてしまった。放課後の陽の光を受けて栗色に輝く、緩やかに波打つ髪の——たぶん上級生だと思う——美しい少女は、凛として咲く夏の花のようだった。きりりとした濃い眉は彼女の我の強さを表しているようで、勝気そうな彼女の美しい顔をより一層凛々しく引き立てている。まるで……そう、彼女はいつまでも咲き続ける、力強い真っ赤な花のようだった。

 そんな彼女は一瞬わたしを睨んで、

「ごきげんよう」

 と言った。きっと不機嫌な声で。

「ごきげんよう」

 そう言って千夏さんがぺこっと頭をさげたのが解った。

 わたしもそれに習って、同じように無言で頭をさげる。

 そしてそのまま通り過ぎようとした、そのとき。

 わたしは彼女に、不意に左腕を掴まれてしまった。

 な、なに? どうして? びっくりして悲鳴をあげてしまったわたしをその人は迷惑そうに見つめ、そして言った。

「なによ、うるさい子ね。あなた一年生でしょう? 上級生のわたしから挨拶しているのに、返事もしないつもりなの?」

 緊張して喉がカラカラに乾いていて、でもそんな事は元より……わたし、咄嗟に声なんて出せないのに。

 わたしは慌てていつもスカートのポケットに入れているメモ帳を取り出して、

『ごきげんよう。すみません、無作法で申し訳ありませんでした』

 と書いた。字を書くときに少しだけ手が震えた。

 でも。

「……ふざけているの?」

 ぎゅっと眉根を寄せてわたしを睨みながら、彼女は言った。怒った彼女の顔はとても美しかった。

「ううん、違うわ。あなたはわたしを馬鹿にしているのね? ねえ、なによこれ? これは一体どういう真似なのっ」

 バシッとメモ帳がはたき落とされて、廊下の隅に転がった。

 思わず立ちすくんでしまったわたしの中で、心臓が嫌な鼓動を刻んでいた。

 どうしよう、どうしたら伝わるんだろう。

 ふざけてなんていない、馬鹿になんかしてないって……どうしたらこの人に伝わるんだろう。

 誤解なのに、全部……誤解なのに。

 そう思って俯くしかないわたしを見兼ねた千夏さんが、わたしに代わって彼女に抗議してくれた。でも……なんて言ったのかは目の焦点が合わなくて解んなかった。

 きっと、……わたしの耳が聞こえないって伝えてくれたんだと思う。

 その上級生は一瞬眉をひそめると、

「耳が聞こえない人間がなんでこんなところにいるのよ。……迷惑だわ」

 わたしの読み間違えじゃなければ……吐き捨てるようにそう呟いて。彼女は行ってしまった。その背中が不自然にゆれている。

 よく見ると、少しだけ、彼女が左足を引きずっているのが解った。あるいはさっきぶつかりそうになって足を痛めてしまったのだろうか。だからあんなにも……不機嫌そうだったのかなぁ。

 わたしはそんな事を思いつつ、その背中が次の角を曲がるまで、呆然とした気持ちのまま見つめていた。

 心臓が相変わらずドクンドクンとものすごい早さでわたしの内側から胸を叩き続けていた。

(大丈夫?)

 メモ帳を拾ってくれながら。

 千夏さんが恐る恐るそう訊ねる。

 わたしは唇を噛み締めたまま。

(おねがい。ごめん……一人にして)

 それだけ伝えると、

 わたしはその場から逃げた。

 長いスカートをバサバサと翻しながら。わたしは走った。

 胸が苦しい。心臓が痛い。まるで鉛を詰め込まれてしまったように……体の中で真っ黒い塊が膨らんでいく。

 こんな事くらいでこんなにも動揺してしまう自分が情けなかった。なにもできなくて、千夏さんに庇われるだけだった自分が情けなかった。そして、なにより……、

 耳の聞こえない自分なんて大っ嫌いっ。

 もう、やだ。

 こんなの。

 こんなのってないよっ。

 なんで……世界はこんなふうにできているんだろうって、悔しくて……。

 わたしは滲む視界を制服の袖で拭いながら走り続けた。上履きのまま校庭に飛び出して、無音の世界から逃げ出すように、ただひたすら走り続けた。わたしの勢いに驚いて、周囲の生徒がさっと道を開けた。そんな小さな事が今のわたしには余計に苛立たしかった。

 気づくとわたしは小さな藤棚の下に設えたベンチにいた。随分古い木製のベンチは日に焼けてガサガサに乾いていた。生い茂る藤の葉の向こうに、オレンジ色にグラデーションしていく綺麗な春の空が見えていた。

 わたしはベンチに座って呼吸を整えながら、それでも一向に溢れてくる涙に辟易へきえきとしていた。こんな事くらいで泣いていたら恵美子に笑われちゃう。

 うー。悔しい。

 強くなろうって決めたのに。

 一人でも大丈夫だと、現にクラスに溶け込めていたと、ついさっきまでそう感じていたのに。

 でも。……ただ、自分がそう思っていただけで。世界はあまりにもあっけなく崩れてしまう。

 まるで。

 砂上の楼閣のように。

 わたしは顔を覆った。

 入学式の日の、お母さんの言葉が蘇る。


〝……ゆっくりでいいの。焦らなくてもいいの。だからこれからは慣れていきなさい〟


 ……わたし、この学校に入ってから、一度もクラスで声を出してない。国語や英語の朗読だって当たり前のようにスルーされる。ううん、そうじゃない。そんな事じゃない。

 わたしはクラスメイトに「ごきげんよう」すら口語で言ってない。

 ……今までなにをしてたんだろう。なにをしてこなかったんだろう。

 悔しくて、

 悔しくて。

 涙が止まらなかった。

 みんなに甘えていただけの自分が許せなかった。わたしはわたしをサボっていたのかもしれない。だから今、そのツケを払わされているんだ。

 そのときだった。

 ふいにぽんぽんと優しく頭を撫でられて、わたしは慌てて顔を上げた。千夏さんが心配して追いかけてきてくれたのかと思ったのだ。

 でも、

 そこにいたのは、

「どうしたの? こんなところで、どうして泣いているの?」

 ……天使だった。

 漆黒の濡れたように艶やかなストレートの髪を腰のあたりまで伸ばしていて、まっすぐに切り揃えられた前髪に少しだけ隠れた眉は、新月を過ぎたばかりの生まれたての月のよう。切れ長の瞳は長いまつげに守られていて、光の加減で少し紫色をしている。怜悧れいりで冷たそうなのに……とても優しげなその眼差しは、見つめられていると吸い込まれてしまいそうだった。

 ……そんな、漫画や冗談みたいに美しい人。ううん、本当にこの世のものじゃないみたい。だから……だからわたし、とっさに天使だと思ってしまったのかも。

 わたしは暫し呆然とその少女の顔に見とれていたのだけれど、

「そんなにじっと見つめられると恥ずかしいわ……わたしの顔になにか付いていて?」

 と小首を傾げてわたしを見るから。

 わたしは慌ててスカートのポケットからメモ帳を取り出そうとして、……千夏さんに拾ってもらったまま受け取っていなかった事を思い出した。

 どうしよう。筆談ができなきゃ……なにも伝えられない。わたしの口話で通じるんだろうか。……そんなふうに思って一人焦っていると。

(もしかして、シスターが仰っていた新入生の子? あなた……耳が聞こえないのよね?)

 彼女の指がたおやかに動いた。

 え? うそ。……手話?

(手話がお出来になるんですか?)

 わたしも手話でそう訊ねた。

(ええ。以前ボランティアで少しだけ習った事があるの。わたしの手話、合っているかしら?)

(……とてもお上手です)

「嬉しいわ」

 彼女は手と同時にそう呟いて、ニコッと笑った。まるで雪を割って小さな白い花が咲くような、そんな笑みだった。

(よかった。それで……どうして泣いていたの? あーんあーんって。てっきりわたし、初等部の子が迷子になっているのかと心配してしまったわ)

(わ、わたし、そんなふうに声を出して泣いてなんか……)

 そこまで抗議して、わたしは彼女がくすくすと肩を小さく震わせて笑っているのに気づいた。

 ……手話で冗談まで言えるなんて。ちょっと習っただけ? とんでもない。それだけでこんなに流麗な動きができるわけがないじゃない。

(わたしの制服を見てください。高等部の生徒だって解っていただけました?)

 わざとムッとした感じでそう伝えると、細い柳の若枝のような指で口元を隠して。彼女が笑った。

(元気になってくれた。嬉しい)

 そしてもう一度手を伸ばしてわたしの髪に触れる。そんな優しい彼女の仕草にわたしは自分でもびっくりするくらい、頬が赤くなるのを感じていた。

 わたしはここに、この藤棚の下に来てしまった経緯を簡単に説明した。見ず知らずの上級生に……告げ口するようなはしたない真似をしている自分が少しだけ恥ずかしかったけれど、彼女があまりにも聞き上手で、つい喋りすぎちゃった。

(そう。それは辛かったわね)

 彼女は美しい眉をひそめてそう言った。

(でも……元を質せばわたしが悪かったんですよね。余所見をしていたのも、口話で喋れなかったのも……わたしなんですから)

(そうね。……そうかもしれない。でも、そうじゃないかもしれないわ。自分の歯痒さに涙できる人は立派よ。それを糧にして一歩前に進めるもの。でもね、きっと……あなたの感じた理不尽さだって間違いじゃないと思うわ。この世界は良い悪いって簡単に二分化できないもの。そうでしょう?)

 改めてそう言われてしまって、わたしはそれ以上手を動かせなくなってしまった。

(あなたは、ここにいていいの。邪魔なんかじゃないわ。少なくとも)

 そう言って手の動きを止め、わたしの頬に軽く触れて。

「わたしはあなたに出逢えて嬉しいわ」

 手話に合わせてゆっくりと口に出してそう言ってくれた。

 嬉しくて。とても嬉しくて。途端に彼女の顔が涙で滲んでいく。

 すると不意に今まで言葉を綴るために使われていた手が、指がほどけて……わたしの背中に回された。彼女の胸に抱きしめられながら。わたしは涙を抑えきれなかった。彼女のやわらかな胸の向こうから心臓の鼓動がわたしの頬に触れる。彼女はわたしが泣き止むまでずっと背中を撫でてくれていた。首筋からは甘い、蜜のような素敵な匂いがした。涙は情けないくらいぽろぽろと零れ落ちて。彼女の制服を汚してしまった。

 暫くして、ようやく落ち着いた頃。

(ねぇ、あなた。お名前は?)

 わたしの眼の前で彼女の指がそう動いた。

(月庭。月庭一花です)

(そう。なら、一花って呼んでいい?)

(……はい)

 なんで、かな。名前を呼ばれると、ちょっとだけ恥ずかしい気持ちになる。

 そんなわたしを見て、彼女もクスッと小さく笑った。

 そして。

(あなた、わたしの妹にならない?)

 彼女の指がそう動いた。でも。

 ……なに?

 妹?

 わたしはよく意味が解らなくて混乱してしまった。妹ってなんだろう、って。だって戦前じゃあるまいし……でも、古くからある伝統校なのだもの、まさか本当に擬似姉妹とかS《エス》とかそういうやつなのかしら?

 彼女はわたしの混乱を余所よそに喋り続けている。

(わたし、次の代の妹を探していたの。だから一花と出逢えたのも、きっと主のお導きだと思うのよ。わたしにはあなたを抱きしめてあげられる腕がある。あなたの涙を拭う指がある。そして、その二つでわたしとあなたは言葉を交わすことができるんですもの。ねえ、……これが運命じゃなかったら、きっと運命なんてみすぼらしいローカル線の電車のようなものだわ。そう思わない?)

 そんな。あの……運命、って言われても。困るんですけど……。それにその例えはちょっとどうなんだろう。ドヤ顔してるとこ申し訳ないんだけど。

 でも、見ず知らずの美しい上級生にそんな情熱的な事を言われて、わたしの胸は痛いほどに激しい鼓動を打っていた。まるで心臓が別の生き物になってしまったみたいに。

(なぜ、わたしなのですか?)

 恐る恐るそう訊ねると、彼女はすっとわたしの鼻のあたりを指差して、そして言った。

(顔)

 顔。

 ……顔?

 え? ちょっと待って。顔? 顔ってどういう事? 顔が気に入ったとか、……え? 嘘でしょ?

(泣き顔がとっても素敵だったから)

 そう言われてわたしは真っ赤になった。きっと、はたから見たら子猿みたいになってたはずで。

(しっ、失礼な事言わないでください。それにわたし、名前も知らない人の妹になんてなれません。第一、妹ってなんなのですか。説明してください)

 わたしがそう抗議すると、彼女は両手で口元を隠して少し驚いた顔をしていた。

(……わたしを知らないの? 本当に?)

 はぁ?

 えっと。

 ちょっと待って。

 ど、どんだけ自信過剰なの?

 まさか、学校中の人が全員自分を知っているとでも思っているのかしら。確かに美人だけど。でも、そんなのわたしの知った事じゃないもん。

(申し訳ありませんが存じ上げません。ごめんなさい)

(そう。いいの。気にしないでね。でも、そっかぁ。お姉さまたちならいざ知らず、妹のわたしたちなんてまだまだって事なのかしらね。うん。あ、そうそう。わたしの名前だったわね。わたしは夜零やお雪乃宮ゆきのみや夜零よ)

(やお……様?)

(ええ)

 彼女の指はあくまでも流麗に動く。まるで、聞こえる事のない天上の音楽のように。見た事もない天使の微笑みのように。

(……夜が零れると書くのよ)

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