入試の朝、親友の恵美子えみこから一通のメールが届いた。

『がんばれ。でもダメだったら一緒に支援校に行こうぜっ』

 って。

 相変わらずテンションの高い男らしいメールだなぁ。女の子にしとくのがもったいないくらいだわ。

 わたしも眠い目をこすりながら返信メールを打つ。

『学校別々になっても、エミちゃんとは親友だからね』

 すぐに返信が来る。

『なんだとぉー。でも、その意気だったら大丈夫。ちゃちゃっと合格しておいで。お祝いに燐花堂りんかどうのパフェおごったげるわっ』

 わたしは恵美子からもらった合格祈願のお守りをぎゅっと握りしめた。

 恵美子。大好き。

 するとそのときだった。ドアに取り付けてあるボタンが押されたのだろう、部屋に置かれたライトが点滅した。耳の聞こえないわたしのためにきぃさんが取り付けてくれたチャイムの代わり。わたしは一度ノックをして気付いているよって合図してから扉を開けた。

(ちょっと早めだけど朝ごはんの準備、できたよ)

 きぃさんがそう言いながら、わたしの握ったままのお守りを見た。

 そしてくしゃくしゃとわたしの髪を撫でて、

(大丈夫。リラックス、リラックス)

 と言った。

(うん。ありがとう。今日のために読唇の勉強もいっぱいしたんだもん。わたし……がんばってくるね)

 わたしもきぃさんに笑いかけながらそう言った。筆記試験よりも面接試験のほうがネックだったから。せめて相手がなにを言っているのか解るように、それだけはこの半年間、必死になって練習したのだ。

(ねえ、きぃさん。なにか喋ってみて)

 わたしがそう訊ねると。

 少し考えていたきぃさんは、

「聖セシリア様の御加護がありますように」

 と言った。

(聖セシリア様の御加護がありますように)

 わたしも手話で繰り返した。

 それはわたしの口癖で。

 間違えるはずがなくて。

 だから全然……練習になんてならなかったけど。

 嬉しくて涙が出そうだった。

 朝食を終えて制服に着替えて、わたしはお母さんと一緒に家を出た。バスにゆられながら、ミシンの門が見えてくるまでは緊張してお母さんともうまく喋れなかった。

(終わったらメールして。迎えに来るから)

 とお母さんが言った。

(うん。がんばる)

 手話で会話をするわたしたちを……受験生と思わしき女の子たちが怪訝そうに見つめている。人に見られるのは慣れっこだったけれど。でも……今日ばかりはなんだか嫌だった。変に緊張する。それが顔に出ちゃったんだろう。

(……入学したら、ずっとこんな感じよ。それは解っていたのでしょう?)

 と言われてしまった。

 わたしは無理矢理に笑って、

(負けないわ)

 って答えた。

 お母さんがわたしの手の動きを見てにっこりと笑う。それだけで勇気をもらえた気がして、わたしはポケットの中のお守りをもう一度ぎゅっと握りしめた。

 ……恵美子に普通校を受けたいって初めて伝えたとき、彼女は一瞬キョトンとした表情を浮かべて、でも次の瞬間……わたしを思いっきり抱きしめてくれた。

(……怒ってないの?)

 わたしが恵美子の体を引っ剥がして恐る恐るそう訊ねると、

(どうして? わたしが怒るわけないじゃん。応援するよ)

 って。笑ってくれた。

(一緒に学校見学に行こっ。わたしもその学校を見に行ってみたい)

(ほんと? あ、……でも)

 わたしの小さなためらいを見て取って、恵美子はちょっとバツの悪そうな顔をした。

(あ、うん。そうだね。それに……耳の聞こえない同士じゃ説明受けても解んないか)

 そんな事ない、と言うのは簡単だったけど……わたしはなにも言えなかった。恵美子の過去の出来事をお互いに思い出してしまったのが解ったから。だから……胸がズキンと痛んだんだね。

 恵美子は重度の難聴なので、ほんの少しだけだけれど音が聞こえる。それでも人の声はほとんど聞こえないし、騒がしいところでは耳鳴りがひどくてすぐに気分が悪くなってしまう。補聴器を付けているのも気にしていて、ショートの方が好きなのに……ずっと髪を切れずにいる。だから一概にどっちがいいっていう問題じゃないのは解ってる。でも、……時々わずかでも音の聞こえる恵美子が羨ましいと思ってしまう。

(お母さんにも一緒に来てもらうから説明なら大丈夫なの。だから……エミちゃんも一緒に行こうよ。ね?)

 わたしはそう訊ねてみた。

 でも、恵美子は静かに首を振って。その提案をやんわりと拒否した。

(ううん。やっぱりやめとくわ。ねえ、それよりも学園祭に呼んでよ。イッチーがわたしを案内して。そのほうがいいもん)

 恵美子はそう言って笑った。でも、ほんのちょっとだけ寂しそうだったのも……わたしは気づいていた。

 恵美子は小学校のある時期までは普通校に通っていた。でも、耳が聞こえない事でひどいいじめにあっていたらしい。わたしも詳しく訊かなかったけれど……補聴器を取り上げられて踏み潰された事もあったって。その話をしてくれたときの恵美子の顔を、悔しそうなその表情を、わたしはきっと……一生忘れる事はないだろう。

 支援校の中学で初めて会った頃、恵美子はずっとなにかに怯えていた。でも同じ耳の聞こえない同士の中で。少しずつ明るさを取り戻していった。わたしは恵美子と親友になれたのが嬉しかったのと同時に、普通校って怖いんだな、って。ずっと思っていた。

 だから。

 わたしだって……恵美子と一緒に支援校の高校に行くのだと思っていた。それでいいと思っていた。支援校に行くのが嫌になったわけでも、思いつきでこんなだいそれた事を決断したわけでもなかった。わたしはこの歳になって初めてこれから先の人生を考えてみたのだ。小さなコミュニティーの中で縮こまって、傷を舐め合いながら生きていけたらどんなに楽だろう。大切な人に守られながら、繭の中で生きていけたらどんなに素敵だろう。でも……って。

 この世界はそんなふうにはできていない。あんなに優しくて快活な恵美子がいじめの対象になってしまったように。それにきっと、お母さんもきぃさんも……わたしよりも先に死んでしまう。それが順番というものだから。わたしは一人で生きていけるだけの力を、音と悪意に満ちた世界で生きていけるだけの力を、身につけなきゃならない。

 だから、わたしは決心した。チャレンジしてみようって。

 ミシンの入試の今日この日が……その第一歩なんだもの。試験を受ける前から、こんなところでめげているわけにはいかない。

 わたしはもう一度その決意を新たにして、ぎゅっと奥歯を噛み締めた。


 午前中の試験が終わって、わたしはいささかげんなりしていた。試験が難しかったというのももちろんあるけれど……試験官が「五分前になったら声をかけます。名前など、記入漏れがないか見直してください」って言ってくれたって。そんなもの、どうせわたしに聞こえるわけないじゃん。

 ……なんて心の中だけでぐちぐちと文句を言い、わたしは午後の面接に向けてきぃさん特製のサンドイッチをペットボトルの紅茶で飲み下しながら、気持ちを切り替えようって一生懸命考えていた。

 すると、そのときだった。

 不意に肩を叩かれて、わたしはびっくりして紅茶をこぼしてしまった。

 慌てて振り返ると、見知らぬ女の子が困ったようにわたしを見ていた。

「ごめんなさい。驚かすつもりはなかったの。お呼びしたんだけど……返事がもらえなかったから」

 彼女の唇がそう動いたのが見えた。

 わたしは染みにならないようにハンカチでスカートを拭いてから、胸ポケットに入れていたメモ用紙に。

『こちらこそ、気づかなくてごめんなさい。わたし、耳が聞こえないの』

 と書いて相手に見せた。

 彼女の目がびっくりしたように見開かれた。そしてどうしようという困った表情になってしまう。

『普通に話してくれていいよ。唇の動きでだいたい解るから。それで……わたしになにか用かな?』

「……あの、わたしも一人で受験だったから。……食事、一緒にどうかなって思ったの。……ごめんね」

 わたしは首を横に振った。

 気にしないで、って。

 でも、やっぱり急に体に触れられるとびっくりする。なにが起こったのかとっさに解らなくて、体が固まってしまう。……こんな場面だって、これからいくつも経験しなきゃならないはずなんだけど。……慣れたりするのかなぁ。

 やれやれと思いながら、わたしはメモ帳をめくって新しい文字を書き加えた。

『いいけど……相手がご飯食べていると、わたし唇が読めないの。だから会話にはならないし、気まずくなっちゃうだけだと思うよ。それでも、いい?』

 彼女はメモを見つめて、それからわたしの目を見た。

「いいよ。なんか緊張しちゃって。一緒にいてくれるだけでいいの。あ、わたし久里山くりやま千夏ちなつ……よろしくね」

『月庭一花です。よろしくね』

 わたしもにっこり笑って、彼女と握手をした。ここにこうしているんだから、お互いライバル同士のはずなのに……なんか変なの。

 わたしがそう思ってくすくす笑うと、千夏さんは不思議そうな顔をした。

「…………? …っ、…………?」

 だから、おにぎり食べながらじゃなに喋ってるか解んないってば。

 わたしの困惑した顔を見て取ったのだろう。千夏さんは急いで残りを頬張ると、ごっくんとそれを飲み下して。それからさっきの言葉をもう一度ゆっくりと繰り返してくれた。

「どうして笑ったのって訊いたの。それから一花さん、携帯かスマホ持ってる、って。よかったらメアド交換してくれないかな?」

 普通の子とメアドを交換したのはこれが初めてで。なんだか……ものすごく緊張して、キーを押す指先が震えた。千夏さんと知り合えただけでも……試験を受けてよかったって思えて。なんだかすごく嬉しかった。


 午後の面接は生徒一人に対して面接官五人というなんとも仰々しいものだった。そのうちの二人がシスターというのもすごい。さすがカトリックの学校だ、なんて感心してしまう。

「どうぞお座りください」

 真ん中に座っておられる年嵩のシスターがそう口を動かした。あ、確か……校長先生のはずだ。

 わたしはそう気付いてドキドキしながら椅子に腰を下ろした。そして手提げの中から小さなホワイトボードを取り出して、

『よろしくお願いします』

 と書いてみせた。

 その瞬間、空気がざわって動いたのが解った。

「事情は窺っています。わたしの言葉は……伝わっていますか」

『はい。唇が読めますので、大丈夫です』

「そうですか。でも、……失礼に聞こえたらごめんなさいね。あなたはどうしてこの学校を志望されたの?」

 ……なんだかなぁ。まさか志望動機を聞かれる前にごめんなさいって言われるとは思わなかった。

『母がこの学校の卒業生なんです。わたしはこの学校の素晴らしさを聞いて育ちました。しかしご存知かと思いますが、わたしは耳がまったく聞こえません』

 ここまで書いて一度ホワイトボードを消して、さらに続けた。

『入学したらご迷惑をおかけするかもしれません。でも、わたしは普通の人と一緒に勉強したかったんです。……母の愛したこの学校で』

「そうですか。授業はどうですか? ついていけそうですか?」

『板書しながら黒板に向かってお話しされると難しいです。あと、お風邪をひかれてマスク等をされてしまうとお手上げです』

 そう書いて見せると、先生たちのあいだから小さな笑い声が漏れたようだった。いや、笑いを取ろうと思ったわけじゃないんだよ?

「プリントを使うとか、色々方法はあるわ。でもなによりも、努力しようという姿勢は嬉しいですね」

 ピンク色のブラウスを着たまだ若い先生が小さく手を挙げ、ゆっくり大きく口を開けてそう言ってくれた。

『ありがとうございます』

 わたしはぺこっと頭を下げた。

「そういえば……今はつけていらっしゃらないようだけれど、補聴器を使えば少しは聞こえたりするのかしら」

『わたしの場合は難聴と違って失聴なので。補聴器は役に立たないんです。だから補聴器をつける事はありません』

「……そうだったの。ごめんなさいね。変な事を訊いてしまって」

 ピンク色のブラウスの先生が困ったような……少しだけ哀れみを込めたような表情でそう言った。たぶん、先生自身はその事にすら気づいていないと思う。

 タグをつけたままのセーターみたいに。胸のあたりがちくんとする。

 でも。……大丈夫。慣れてる。わたしはそんな事、気にしたりしないもの。

 そのあとも部活はなにをしていましたか、とか、支援学校ではどんな授業を受けていたのですか、といった質問を受けた。わたしはなんとかそれらの質問に答えながら、読唇だけで会話をこなすのは結構きついな、って思い始めていた。いっぱい面接の練習だってしたはずなのに、緊張もあって……頭がズキズキと痛み出してきちゃったのだ。

「……それでは最後になりますが、月庭さん。あなた……歌えますか?」

 ……え?

 わたしが唇を読み間違えたのだろうか。今、確かに歌えるかって訊かれたみたいだけど……あれ? 本当はなんて言ったんだろう?

『すみません。唇を読み間違えたみたいなのですが……もしかしてですけど、ここでなにか歌を歌わなきゃいけないのですか?』

 面接試験で歌を歌わせる学校なんてあるんだろうか?

 わたしが不思議に思っていると。校長とは別のシスターが申し訳なさそうな表情を浮かべて、

「カトリックの聖歌が歌えるかお訊きしたの。洗礼を受けている生徒には必ずお訊きする決まりだったのですが……ごめんなさいね。酷な質問だったわよね?」

 と言った。

『いいえ。そういう事でしたら。実は一曲だけなのですけど、歌える歌があります。わたしも詳しくは解らないのですが……聖歌だと思います』

 試験官の先生の口が、へぇーっという驚きの形になる。耳が聞こえなくてどうやって歌を歌うんだろう、って。たぶん、そう考えているはず。

「では、お聴かせ願えるかしら」

 わたしは立ち上がって、すうっと息を吸い込んだ。

 そして、

 ゆっくりと歌い出す。

 それがどんな曲なのか、わたしにもよく解らない。実のところ……曲名も知らない。

 そもそも自分の声も聞こえないし、音程が合っているのか、声の大きさがどうなのか、それすらわたしには知りようもないのだ。

 ただ、この曲だけは……。

 たった一度だけだったけど。夢の中で……あの人が歌ってくれた歌だから。だからわたしは彼女の声をなぞるように、無音の中で旋律を紡いでいく。

 シスターが、先生が、驚きの表情でわたしを見ている。下手だからそうされているのか、それとも別のなにかがあるのか……わたしには解らないけれど。今はとにかく精一杯歌うしかない。途中でやめたら余計に惨めだもん。

 ……以前、お母さんにわたしの歌をしっかりと、最初から最後まで聴いてもらった事がある。そのときにどうやらラテン語の歌詞らしい、という事までは解ったのだけれど……歌詞の内容までは結局解らなかった。ただ、所々にマリアって言葉が出てくるから。きっと聖歌だろうって、お母さんは教えてくれたのだ。

 この歌を初めて歌ったとき、わたしはまだそれを歌だと認識していなかった。夢の旋律をなぞっただけだった。お母さんはボタンも押さずにわたしの部屋に飛び込んできて、わたしが歌を歌っているのを見てびっくりして……そのまま動けなくなってしまった。そのあとでお母さんが急に泣き出したときには自分がなにかいけない事をしてしまったように思えて、わたしまで泣いちゃったんだっけ。

 わんわん泣き続けるわたしたちを見て、きぃさんが呆然と立ち尽くしていたのを今でもよく覚えている。

 その曲を歌い切ると、校長先生が拍手をしてくださった。周りの先生はぽかんとした表情でわたしを見つめていた。そして遅れて、慌てて拍手をしてくださる。

「……ありがとう。素敵な歌声だったわ」

 校長先生は胸の前で十字をかいて、手を合わせた。もう一人のシスターもそれに倣っている。

「その歌をどこで知ったの? どうして歌えるの?」

 暫くしてから校長が訊ねた。

『一度だけ、夢に見たんです。首の後ろに傷のある綺麗な女の人が……わたしに歌ってくれた歌でした。その女性が誰かも解りませんし、歌の意味も解らないのですけど……聖歌でしたでしょうか』

 わたしが『歌』というものを知った最初で最後の出来事。奇跡のような本当の話。お母さんときぃさん以外の人の前で披露したのは……これが初めてだ。

「ええ。古い曲ですが間違いなく聖歌でしたよ。確かあなたの洗礼名は……セシリアというのでしたよね?」

 手元の紙をペラペラとめくりながら校長先生がわたしに訊ねた。たぶん、あの用紙は調査書かなにかなのだろう。

『はい。そうです。けれどもそれがどうかしましたでしょうか?』

「ううん、あるいは聖セシリアがあなたに音楽を伝えたかったのかもしれない……と思ったの。今日はありがとう。とてもいい経験をさせてもらったわ。……では、お疲れ様でした。お気をつけてお帰りになってね」

 それが面接終了の合図だという事くらいわたしにだって解った。でも、どうしても訊いておきたくて。わたしは慌ててホワイトボードに走り書きした。

『最後に一つだけお訊きしてもよろしいでしょうか。わたしが歌った歌は……なんという曲名なのでしょう』

 校長先生は一瞬キョトンとした顔をしたあと、にっこりと微笑んで。その曲の名前を教えてくれた。わたしはその名を忘れないように、何度も何度も頭の中でつぶやき続けた。

 そしてわたしは立ち上がって、ぺこりと頭をさげると、これでもう面接はおしまいなのだから、最後まで気を抜かないように……と心の中で念じて、ゆっくりと面接室から出たのだった。


 帰りのバスにゆられながら。わたしはぼんやりと窓の外を見ていた。振動が伝わってきて、ふるふると視界がゆれる。……ちょっと気持ち悪い。

 ちょんちょんと肩を突つかれて振り返ると、お母さんが心配そうな顔をしていた。

(大丈夫? 顔色が悪いけど。……気持ち悪いの? 酔ったのかしら?)

 わたしは小さく首を振って答えた。

(ううん。ただ、少し疲れただけ)

(そう。……試験大変だったの?)

 わたしはそれには答えなかった。もちろん大変だったと言えば大変だったんだけど、でもそれは自分自身で選んだんだもの。お母さんに泣き言言っても仕方ないもんね。

(……受かってるといいなぁ。あのね、普通の子とお友達になれたよ。受験生の女の子でね、千夏さんっていうの。メアドも交換したんだよ)

 お母さんは少しだけ目を大きくして、わたしの髪を撫でてくれた。この子にそんな社交性があったのかって。そんな顔をしている。まったくもう、失礼なんだから。でも、

(よかったわね)

 って、微笑んでくれたから。

 うん。

 わたしも頷きながら……お母さんに向かって笑ってみせた。

(駅に着いたら教えてあげるから。少しのあいだ目を閉じていなさい)

 わたしはもう一度頷いて、ゆっくりと目を閉じた。そうするとまぶたの裏に疲労の雫のようなものが広がる。そしてついさっきあとにしたばかりの学校の様子が……ありありと浮かんでくるのだった。

 わたしの受験した御心女学館、通称ミシンは大正時代に華族のお嬢様方の学び舎として創立されたのが始まりだそうだ。だから今でもミシンと言えば……お嬢様学校というイメージが強い。生徒の挨拶もいまだに「ごきげんよう」なんだもの。初めて学校見学に行ったときには驚いてしまった。本当にお母さんの母校なんだろうか、って。白いひらひらのセーラー服といい、広大な敷地といい……わたしはちょっとなめていたのかもしれない。と改めて思わされてしまった。

 このミシンという学校は長崎にある女子修道院と、アイルランド系の会派がその母体となっているカトリックのミッションスクールで、アーチ状の門をくぐるとすぐに自分の御心を指し示すイエズス様の像が迎えてくれる。それからマリア様や……聖パトリック、聖ブリギッドといったアイルランドの聖人の像。広い校内は雑木の森に隔てられるようにして初等部、中等部、高等部に分かれている。

 古い木造の旧校舎と煉瓦造りの本校舎、全生徒が入れるほど大きな礼拝堂や講堂。そのどれもが立派で、旧校舎は国の指定文化財にも認定されているそうだ。庭にはこの学校の象徴とも言える白詰草が生い茂り、春にもなると一面真っ白な花に覆われ、それはそれは見事なのだという。

 ……もしかしたらわたしがミシンに通うのなんて、場違いもいいとこなのかもしれない。単なるわがままなのかもしれない。それでも……学校見学に行って、わたしの憧れはより一層強くなってしまった。帰ってきてから恵美子に報告したときも……興奮しすぎてなにを喋っているのか解んない、って言われてしまうくらいだったんだもの。

 ただ、この学校にはわたしの知らない秘密……というか、影の部分があって。わたしはそれに巻き込まれていく事になる。綺麗な花には棘があるって事を……わたしはまだ知らなかったのだ。

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