シャムロックの乙女たち・〜歌うクオリア〜

月庭一花

いち

 ……ねぇ。こんな話を聞いた事があるでしょうか。

 お姉さまは『マリーの部屋』って、ご存知ですか?

 これはクオリア……感覚質の思考実験なのだけれど、うーん。まずはクオリアの説明からしたほうがいいのかな。

 ええと、クオリアというのは『感じ』の事。空を見て青いなぁって思ったり、トマトを見て赤いなぁって思うのは、このクオリアがあるからなのです。

 青い『感じ』や赤い『感じ』みたいな色に関するものや、お姉さまもお好きなレンブラントやフェルメールの絵画を見て美しいと思う『感じ』。お気に入りの漫画を読んで楽しいと思う『感じ』の事を総じてクオリアと呼ぶのです。主観的で、自分自身以外には本当に同じものが伝わっているかどうか解らないもの。それがクオリア。

 さて、ここで最初の質問に戻るのですけれど、このクオリアにはいくつか思考実験が存在します。

 例えば色は光の波長であるのは知っていらっしゃると思うけれど、もしかしたら同じ波長の光を見ても人によって見え方が違っているかもしれない、わたしの感じる『赤』はお姉さまの感じていらっしゃる『赤』とは違うかもしれない……という逆転クオリア。

 すべてが普通の人間と同じなのに、クオリアだけを持たない、という架空の存在を論じる哲学ゾンビ。等々。

 もっともわたしだってこのあいだ偶々インターネットで調べただけの知識なのだから……あまり偉そうな事は言えませんが。

 では……想像してみてください。

 彼女の名前はマリー。彼女は生まれたときからずっと、白と黒の色しかない部屋に閉じ込められています。白と黒とその中間の灰色だけで構成された部屋の中で、白黒の本だけを読みふけりながら、モノクロのテレビを見つめながら……色彩についてのありとあらゆる学問を修めている、と想像してみてください。知識としての色をマリーは熟知しているのです。だって、彼女はずっと……それだけを考えて生きてきたんだもの。

 苺の色は『赤』という。

 空の色は『青』という。

 ひまわりの色は『黄色』で、

 森の木々は『緑色』をしている。

 マリーはそれらを全部、知っている。

 ……知っているはずなんです。

 けれども、ある日突然……閉じられていた部屋の扉が開くのです。

 開け放たれた扉から差し込む金色の陽光。

 そして外は……一面の花畑。

 色彩。

 今まで感じた事のなかった色の洪水が彼女を襲います。

 それを見たとき、……彼女はなにを知るのでしょうか。

 色のクオリアを体験して、それが自分の知識にはなかった事をマリーは知ります。そしてクオリアは自分自身で体感しなければ理解し得ないものなのだろうか……とわたしたちは思い描くのです。

 これが『マリーの部屋』の思考実験。

 なんでこんな話をしたのかというと……そうです、もうお気づきだとは思いますが、わたしがそのマリーだから……こんな話をしたんです。

 二歳で失聴したわたしは、耳が聞こえません。お姉さまと違ってわたしは音のない世界で生きています。だからお姉さまが感じている世界を、わたしは知らない。知る事ができないのです。

 ただ……わたしがマリーと違うのは、わたしの部屋の扉は永遠に開かないという事。たった一度だけ訪れた奇跡は、もう二度とやってこないという事。わたしとお姉さまの世界が交わる事はないのです。この先も……ずっと。

 あ、そんな顔をしないでください。

 わたしにとってはそれが普通なのですから。

 だから、お願いします。

 いつものままでいいの。そうしてくれていたほうがいいの。

 ……どうせお姉さま、不器用なんだもん。人に親切にするの、いつまで経っても慣れたりしないんですから。

 そうですよね?

 わたしの大好きな……嘘つきなお姉さま。


 その日の朝、わたしは一大決心をして、洗面所で歯を磨いているきぃさんの背中をちょんちょんと突ついた。お母さんは日曜日なのにお仕事だから、もう既に家にはいない。

 きぃさんは鏡越しにわたしを見て、ちょっと待って、というふうに片手を上げた。それから急いでうがいを済ませてくれた。

(おはよう、どうしたの?)

 きぃさんの手が動く。唇も動いているから、きっと声も出してくれているんだろう。ただもちろん……わたしにはなにも聞こえない。

(相談があるんだけど、いい?)

 わたしも手話でそう話しかける。

美花みかさんにじゃなくて……俺でいいの?)

(うん)

 わたしはリビングまでてとてと歩いて行くと、ソファーをポンポンと叩いてきぃさんを招いた。

 きぃさんは苦笑しながらのっそりと歩いてくる。体の大きなきぃさんが座ると、まるでソファーが少し傾いたように思えてしまう。

(それで、相談って?)

(わたし、高校は普通校に行きたい)

 そう告げると、きぃさんはちょっとだけ驚いた顔をした。前々から考えてはいたのだけれど……その想いを誰かに伝えたのは今日が初めてだった。

「それ、やっぱり美花さんも一緒に聞いたほうがいいんじゃないかな」

 驚きからか……きぃさんの手が止まってしまっている。わたしは唇の動きを見て、きぃさんの言った言葉の意味を理解した。

(あ、ごめん。喋ったの……通じた?)

(うん。大丈夫)

 きぃさんはさてどうしたものかな、という顔をして天井を見上げた。

(美花さんには……内緒?)

(内緒ってわけじゃないの。ただ)

(ただ?)

(わたしの行きたい学校、お母さんの……母校なの)

 お母さんの母校は、御心女学館みこころじょがっかんという古くからのカトリック校だった。お嬢様校との噂も聞くけれど……お母さんがあんななんだもん、そこまでって事もないとは思うんだけどな。だってどう見たってお母さん、お嬢様って感じじゃないし。

 ただ……もしかしたら反対されるかなって思ったら、なんとなく言い出せなかった。

(ミシンか。それはまた)

(無理、かな?)

 あ、ミシンっていうのは世間一般での御心女学館の俗称……らしい。確かに指で綴るにはそっちのほうが楽。きっと、喋るのも楽なんだろうなって思う。

一花いちかの学力ならたぶん、どこの学校だって問題ないだろ? 家からだってそんなに遠くはないし……なにが心配なんだい?)

 わたしは手の動きを止めて、じっときぃさんの目を見つめた。ただの普通校なら……確かにここまで悩まなかったかもしれない。

(……お金、とか)

 曲がりなりにもお嬢様校ともなれば、それ相応の入学金やらなにやらが必要なわけで。それを……。

 なんて思っていると、

 ぺちん、ってでこぴんされた。

(痛い)

 わたしは両手でひたいを押さえたあと、そう言って抗議した。

(痛くしたんだよ。一花は馬鹿だな。そんな事気にしないでいいよ)

(でも)

(でも、じゃないよ)

 そう言ってきぃさんは苦笑した。

(子どもはそんな心配しないでいいの)

「あ、い……あとぉ」

 ありがとう。

 わたしは口話でそう伝えた。そのほうが……感謝の気持ちが伝わるかな、って思って。

 きぃさんがわたしの声を聴いてにっこり笑ってくれる。

(どういたしまして)

 きぃさんの手と口が同時に動いた。


 と、ここまではよかったのだけれど。

 お母さんにはなかなか伝えるきっかけが見つけられなかった。お母さんはきっと、わたしが支援校に行くと思っているはずだし。一ヶ月前、先生と面談したときもそんな話の流れだったし……。

 うー、なんて話しかけたらいいんだろう。

 悶々としながらお母さんの顔色を窺っていると、夕ご飯が終わったすぐあとで。

(一花)

 って……お母さんのほうから呼ばれた。

(ちょっとお話ししましょ?)

(う、うん)

 朝、わたしがきぃさんをお迎えしたように。

 お母さんはポンポンとソファーを軽く叩いた。

 きぃさんを見ると、洗い物をしながらそっとウインクをしてくれた。あ、もしかして……。

喜三郎きさぶろうから聞いたわ。一花は……高校から普通校に通いたいのね。ちょっと心配だけど、わたしも賛成よ)

(ほんと?)

 わたしは驚いて、お母さんの手を握りしめた。

「本当よ。だから、手を放して。喋れないわ」

 ゆっくりとそう言ってお母さんは笑った。実のところわたしはあまり……読唇が得意じゃない。自分で止めておいてなんだけれど、手話で喋ってくれたほうが楽なのだ。

(それで……どこの高校に行きたいの?)

 え?

 あ、それは聞いていないんだ。

(あの、ミシンに、お母さんの母校に通ってみたいの)

 わたしがそう告げると、お母さんは驚いて口を開きかけた。駄目って言われるのかと思って、わたしは慌てて続けた。

(わたし、ずっと考えていたの。前にお母さんがとても素敵な高校だったって教えてくれたから。だから……行ってみたいの。せめて受験だけでも挑戦してみたい。駄目?)

 お母さんはちらりときぃさんを振り返った。たぶん、なにか話しかけている。肩の動きでそれが解る。きぃさんは小さく頷いてなにかを言った。ここからだと遠くて唇がよく読めなかったけど。

(一花)

 お母さんがわたしを見て、真剣な目をした。

(ミシンがどうこうはこの際どうでもいいわ。でも、大変だとは思うわよ。楽しいことだってある。けれどきっとあなたが思っている以上に、辛い事もあると思う。それでも……いいのね?)

 わたしはこくんと頷いた。

(解ったわ。喜三郎とあなたがペアになったらわたしじゃ敵わないもの。それで学校の先生にはもう相談したの? クラスメイトにはなんて言ってあるの? それにそう、学校見学とか、入試要綱とか。ああ、そうだわたしの実家に確か……)

 お母さんの指がわしゃわしゃと沢蟹のように動く。考え事をしながら手話をすると、お母さんっていつも決まってこんな感じになっちゃうのだ。よくそんなに早く指が動くものだと感心してしまうけれど、読むほうだって一苦労だ。

(ま、待ってっ。喋るの早い、早いよ)

(あ、ごめんなさい。つい)

 お母さんはそう言って手を止めて、笑ってくれた。

(でも、嬉しいな。そう……あなたがミシンに。入学できるといいわね)

(うん)

 わたしはキッチンに行って、きぃさんにありがとうって伝えた。そして並んで食器を洗い始めた。

 両手がふさがってしまっているから、お皿を洗い終えるまではふたりともきちんと喋れない。でも、きっと……無言だって伝わるものはあるはずで。だってわたしたちは家族なんだもの。そうだよね、きぃさん?


 お母さんの再婚相手である喜三郎さんは……なんて言ったらいいんだろう。一言で言えば熊みたいな人だった。大きくて、いつも無精髭を生やしていて。甘いものが大好きで。仕事は輸入に関する外資系の会社に勤めているって事だけど、どんな仕事なのかは説明されてもよく解らなかった。あ、熊と違うのは冬になると元気になるところ、かな。趣味はウインタースポーツ全般で、特にスキーには目がないんだから。そうそう、お母さんとの馴れ初めもスキーがらみだったっけ。

 と、言っても。ゲレンデで出会って恋に落ちて……なんていうロマンチックなものじゃなくて、転んで骨折をして、スキー場から搬送されて入院した先の病院に勤めていたのがわたしのお母さんだったのだから、ちょっと情けない。そんなわけで、お母さんにその当時の事を訊くと決まって、

(あれは白衣に惚れたんだわ。白衣症候群ホワイトシンドロームよ)

 なんて言うけれど、ふたりが今でもラブラブなのは見ていれば解るから。わたしは苦笑を返すだけだった。っていうかホワイトシンドロームって珊瑚の白化現象じゃなかったっけ?

 きぃさんはわたしのために一生懸命手話を覚えてくれた。初めて会ったのはわたしが小学四年生の頃だったのだが、レストランでたどたどしく手話で話しかけてくれて……挙げ句の果てにワインの入ったグラスを盛大に倒してしまうというハプニングまで起こしてくれた。そのときはあーあって思ったけれど、そんなきぃさんがわたしは大好きになった。

 だからお母さんから(喜三郎と再婚したい)と告げられたときも、わたしは一も二もなく賛成した。今でもお母さんが選んだ相手がきぃさんで本当に良かったと思っている。

 わたしの本当のお父さんは……お母さんと性格の不一致で別れたって事になっているけれど……本当はわたしの障がいが解って逃げちゃったみたい。

 わたしのお母さんは再婚して渡辺わたなべ美花みかから月庭つきにわ美花みかに苗字が変わった。だからわたしも渡辺わたなべ一花いちかから月庭つきにわ一花いちかになったわけで。でも……月庭ってなんだか不思議。あまり聞かない姓だから判子が少ないのが玉に瑕だけど、月の庭ってなんか素敵でいいな、なんて思うのだ。

 さて。もう一人の家族であるお母さんは……というと、市立病院で看護師をしている。夜勤もしているから夜お母さんがいない日も時々ある。そんなときはきぃさんがいつもよりも張り切ってご飯を作ってくれる。たぶん、わたしにちょっとだけ気を使ってくれているんだろうなって思う。きぃさんはいつもそう。お母さんのいない夜はわたしの好みのメニューをいっぱい用意してくれて。そして食後のデザートに、

(美花さんには内緒だよ)

 と言いながらハーゲンダッツのアイスクリームを出してくれる。それがまた楽しみで楽しみで。

 あ、……そうそう、お母さんの話だった。

 お母さんは高校の頃、学校の教会で洗礼を受けてカトリックの信徒になった。わたしも小さい頃に洗礼を受けていて、セシリアという立派な洗礼名をいただいている。十一月二十二日生まれだったからその日の聖人の名を頂いたのだけれど……まさか音楽の守護聖人だとは思わなくて。ちょっと皮肉っぽいなぁって今更ながらに思うのだ。

 これがわたしの家族。

 他のお家と違うのは……わたしの耳が聞こえないくらい、かな。それでも笑いは絶えないし、仲良く暮らしている。


 わたしは耳が聞こえない。

 ただ、それだけの事。

 ……それだけの事なんだから。

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