きゅう

 九月に入ると御心祭の準備でなにかと忙しくなった。わたしは相変わらず生徒会との連絡係として右往左往しながら、聖歌隊の面々とも連絡を取り合う事が多くなった。

 なんといってもわたしのお姉さまは『歌』の聖徒なのだから。わたしは進んで彼女たちとの連絡係を買って出たのだった。

 それから、我が百合組の〝古今東西比較宗教論〟なんていうちょっとお堅いんだかそうじゃないんだかよく解らない展示の準備のためにも、少しでも協力がしたくて。資料集めやらなにやら……わたわたと奔走ほんそうする毎日だった。

 そうそう、忙しいといえば千夏さんも弓道部の出し物があるそうで、掛け持ち組は大変だよね、って笑いあったりして。

 朝、イエズス様の像の前で待ち合わせをして、一緒に教室まで登校するのがここ暫くのあいだ、忙しいわたしたちの定番になっていた。

(ごきげんよう。一花さん)

「ごぃげんよぅ、ちなつ、しゃん」

 口話で挨拶をすると、千夏さんはくすぐったそうな笑みを浮かべてくれた。

(一花さんの声って不思議。なんだか聞いていると心がふっと軽くなる。魔法みたい)

「あいあとお、ちあつしゃん」

 最近は少しずつ口話を使うようにしていた。そのほうが便利な場合もときにはあるから。まだ慣れなくて、うまく喋れているか解らないし、なによりちょっと恥ずかしいけれど。千夏さんやクラスメイトは決して笑ったりなんかしなかった。それだけでわたしは嬉しかった。

 だから。

 もっと早く喋りかけていたらよかったかな、なんて思ったりもした。

 でも、きっとお姉さまとあんな事にならなければ……自分から喋ろうなんて思っただろうか。

 今日の朝の会話も、御心祭の準備についての事柄からだった。夏休み明けの実力テストは全て返却され、わたしたちの気分はもう、御心祭一色なのだから。

 弓道部は御心祭の日、初等部、中等部の子たちを対象に弓道教室を開くのだという。それが次年度の部員獲得にも繋がるのだそうで、気が抜けない行事なんだって、千夏さんが教えてくれた。

(いらしたお客様に弓の持たせ方を教える係に任命されてしまって)

(すごい、おめでとう。大役だね?)

(そんな。まだまだわたしなんて、人に教えられるような射じゃないんだけど)

(そう? 弓道部に入ってから、なんだか立ち居振る舞いが凛としたような気がするよ。ねえ、わたしも御心祭の日、弓道体験させてもらってもいい?)

 千夏さんはにっこり笑って、もちろんよ、と言った。

 ……千夏さんは、あの日の告白の事……どう思っているんだろう。

 一生懸命手話で話してくれる友人の横顔を見ながら、わたしは思った。

 きっと、あのときの想いはそのままずっと千夏さんの胸の中で、埋め火のように息衝いているはずで。自惚れでもなんでもなく、向けられる視線からわたしはそれを感じる事がある。でも……そのあとすぐに、なにかに怯えるように千夏さんは視線を逸らしてしまうのだった。

 千夏さんとは親友でいたい。けれども、今の、このままの状態が続くのが本当に正しい事なのか……わたしには解らない。

 そのとき。不意にビクッと肩を震わせて千夏さんが立ち止まった。不審に思って首をかしげて見せると、千夏さんの視線の先にお姉さまが歩いているのが見えた。

「おねぇしゃまっ」

 嬉しくてつい、そう声をかけると、お姉さまは驚いて振り返って、わたしを見つけて……とろけるような笑顔を浮かべた。ああ、もう、朝から幸せな気分っ。あの笑顔がわたしに向けられているなんてっ。

 お姉さまはゆっくりと近づいてくると、ご自分の足元にそっと鞄を置いたのだった。

(ごきげんよう、一花)

「ごぃげんよぅ、おねぇさま」

(上手よ。今日も可愛い声ね)

「あぃがとう、ごさいぁす」

 お姉さまがあの日、一花の声って可愛い、もっと聴かせてって……仰るから。だからわたしは勇気を出してもっといっぱい喋ろうって、自信を持つ事ができたわけで。……もっとも、最初はそんなふうに言われてめちゃくちゃ恥ずかしかったのだけれど。その、あの……シチュエーションもシチュエーションだったわけだし。

 わたしは頬を撫でてくれるお姉さまの渇いた指先をくすぐったく感じながら、そんな事を思っていた。あ、やばっ、顔赤くなっちゃってないかなぁ……。

 うー、胸がドキドキする。

 お姉さまは満足そうに笑って、わたしの頬から手をお離しになると、制服のスカーフの結びを直してくれた。それから名残惜しそうに、手話を使うために足元に置いていた鞄をゆっくりと拾い上げた。

 わたしの鞄は背中に背負うタイプだし、千夏さんのものは倶楽部で使用しているショルダー掛けのスポーツバックだから。手話をするのにも差し支えがないのだけれど、手提げ鞄のお姉さまはいちいち地面に置かなくちゃならない。

 そして、お姉さまは今更ながらにわたしの隣で呆然としている千夏さんに気づいたようで、ちらりとその冷たく見られがちな怜悧な視線を向けて。

「あら、確か……一花のクラスの子ね? 名前はなんて仰ったかしら」

 とお訊ねになった。

「……久里山千夏、です。ごきげんよう、カタリナ様」

「ごきげんよう。……そう。わたしの一花と仲良くしてあげてね」

 お姉さまは「また放課後執務室で」と唇を動かすと、にっこりと花のように笑って去っていった。お姉さまのお姿は見慣れているはずなのに、朝一でお見かけするとドキドキしてしまう。まったくもう、本当に心臓に悪いお人なのだ。

 わたしも千夏さんと一緒にぽーっとしながらその後ろ姿を見送っていた。ああ、その匂い立つようなお背中といったら。まるで夜の帳がほどけていくように、歩みを進める度に美しい黒髪がさらさらと背中で揺蕩たゆたうのだ。その背に天使の翼がないのが不思議なくらい。……っていうか今気づいたんですけど、人前でわたしの一花、とか言うのやめてください。恥ずいんで。

(……千夏さん?)

 石のように固まったままの千夏さんに話しかけたのだが、彼女はわたしの手話にはまったく反応しなかった。……ははん、お姉さまの美しさに痺れちゃったんだね?

「ちぃなつしゃん?」

「えっ……あ、ごめんなさい。あの」

(どうかしたの? わたしのお姉さまに見惚れちゃった?)

 冗談めかしてそう訊ねると、千夏さんの表情が一瞬強張った。そして。

「…………っ」

 え?

 あ、……わたしの勘違いかな。読み間違いかな。

 そうだよね。そうに違いないよね。

 だって。

 千夏さんの唇が、

「誰があんな人をっ」

 って……動いたように見えたんだもの。


 御心祭、というのは要するに、世間一般では文化祭と呼ばれるものに相当する。まあ、読んで字の如く御心女学館のお祭りなので、御心祭というお名前がついているわけだ。

 毎年九月下旬に初等部、中等部、高等部一貫で行われるためかなり大掛かりなものになるのだが、基本的には部外者は立ち入り禁止。チケット制になっている。それでも同年代の男性の入場は不可、チケットの裏側に『男性のご来館は血縁のある父親、または祖父に限る』と但し書きまで付いているのだから恐れ入る。悪い虫が入ってこないように入り口でブロックしているわけだ。お嬢様学校という事もあり、時々勘違いした不埒な変出者が周囲に出没するこの学校では、教職員やシスターのお歴々はなにかと頭が痛かろうとご推察するばかりである。

 御心祭は一日目が初等部メイン、二日目が中等部メインとなり、最終日が高等部メインで行われる。文化祭に三日もかけるなんて悠長というかのんびりしているというか……流石お嬢様学校だけあるなぁなんて感心してしまうのだった。

 ま、そこがいいところなのかもしれないけれど。わたしみたいな庶民はちょっと唖然としてしまう。

 ところでわたしたちのお姉さま方であられる三人の聖徒は御心祭当日なにをしておいでなのかというと、御心祭そのものに祝福を授けるという、重要なお仕事がある。

 簡単に説明すると、御心祭の始まりに際して祝福の言葉を生徒に述べ伝え、一件ずつ出し物をしている教室をめぐり、祭の終わりに聖歌を歌ってフィナーレを飾る。まるで王族の公務みたいに。一日目の初等部をメインでお祝いするのが『祈り』の聖徒のクララ様、二日目の中等部を『花』の聖徒であるモニカ様が、三日目の高等部の御心祭ではわたしのお姉さまであるところの『歌』の聖徒、カタリナ様が祝祭のセレモニーを執り行う事に決まった。もちろんどの祝福に際しても三人の聖徒として祈り、育てた花を飾り、聖歌を歌い、揃ってご出席なされるのだが。実は誰がどの御心祭でメインを張るか、というのは以外と重要だったりするわけで。

「お姉さまたちの代もそうだったし、壇上に立って皆の前で挨拶をする回数は一人一回がいいな。それから中等部の子は変にキャーキャー言うから初等部の担当を回してくれないか」

 とまず始めに仰ったのはクララ様。そりゃ、それだけ凛々しくて男前だったら中等部の子は騒ぐでしょう。

「じゃあ、わたしは中等部がいいかな。高等部の御心祭にはアレがあるし。カタリナ、あなたにお願いできる?」

 ……アレ? アレって……なんだろう。

 めまぐるしく進んでいく会話を必死に目で追いながら、わたしはキョトンとしていた。

 もっともわたしのお姉さまは常に手話を交えて会話をなさるし、決定事項はすぐに晶帆さんがホワイトボードに書き出してくれるから、議事に関しては本当のところ、それほど困る事はない。でも、やっぱり情報は生で知りたいわけで。

「いいわよ。その代わり、わたしの好きにさせてもらうわ」

「……変な事はしないでよね。まあ、カタリナに限ってそれはないか」

 モニカ様が苦笑して、それで初等部、中等部、高等部の三つの御心祭を祝福する役割分担は決まってしまった。そのあとも園芸部との会合の経過報告や御心祭で歌う聖歌の選定など、執務は続いたのだけれど……わたしの心にはまるで棘のように、アレという言葉が引っかかっていた。

 なので早速その日の帰りに晶帆さんと彌生さんを捕まえて、気になっていたアレについて訊いてみたのだった。

 わたしがメモ帳に書いた文字をじっと見ていた晶帆さんは、

「そっか、一花さんって高等部からの編入組だから知らないのね」

 腕組みしていた手を小さく上げて、逆にわたしに訊ねてきた。

「というか、カタリナ様にお訊きになればよかったのに。先程も一緒に帰ろうって誘われていたのじゃなくて?」

「馬鹿ね、晶帆さん。お姉さまにだからこそ、訊きにくい事がこの世の中にはあるの。あの完璧なカタリナ様からなんにも知らないのねって冷たい視線で叱られてしまうのかと思うと……わたくしなら耐えられないわ。カタリナ様の前で、ううん、自分のお姉さまの前で恥をかきたくないという一花さんのいじらしい乙女心がどうしてあなたには解らないのかしら」

 すっと手を上げて、呆れたように呟いたのは彌生さん。二人ともこうやって交互に手を上げて喋ってくれるから助かる。だって、そうしてもらえないとわたしは会話についていけないのだ。

 いや、でも別にお姉さまに訊くのが恥だとは思ってないんだけど。……本当にただちょっとお二人に訊いてみようと思っただけなんだよ?

 人形劇サークルにも所属している彌生さんは、なんというか芝居っ気たっぷりで。演技力豊かというか発想力豊かというか……それが愛らしくもあるんだけど。

『今日は図書館に本を返す用事もあったから。だからお姉さまには先に帰っていただいたの。お姉さまは今日、ピアノのレッスンがあるって仰っていたから。それよりも、なぜ高等部の御心祭だけ面倒そうにされるのか、その続きを教えてくれないかしら?』

 わたしがそう書き記すと、二人同時に手を上げて、

「生徒会長の就任式があるからよ」

「生徒会長の就任式があるからですわ」

 とまったく同じタイミングで唇が動いた。

『生徒会長の就任式?』

 そういえば以前、お姉さまも九月の御心祭で現在庶務職の美滝様が生徒会長になるとかどうとか話していたような気がする。確か……美滝さまが生徒会長に就任する事で、昔のように花の君の名前が復活するのでは、と懸念を抱いていらしたはずだ。

「ええ。随分古くからの伝統ですわ。初等部、中等部の生徒会選挙は十二月に行われるのですけれど、高等部の生徒会長だけは九月の御心祭で前生徒会長から生徒会メンバーの推挙だけで引き継ぐのです。大体いつも二年生の庶務の方が継ぐようですけれど。なんでも昔、生徒会長職が世襲だった頃の名残だとか」

『それって花の君の時代の?』

「……花の君? それはなにかしら。晶帆さんご存知?」

 晶帆さんはそう訊ねられて、小さく首を傾げている。

「いいえ。わたしも知らないわ。あでも、古くは生徒会長の呼び名が違っていたって話は聞いた事があったかもしれない。もしかしてそれじゃないかな」

「ふうん。あら、話が逸れてしまいましたわね。つまりです、ただでさえ御心祭で忙しいところに、新しい生徒会長を承認し、祝福の口づけをするというお役目を、高等部の御心祭を担当する聖徒は引き受けなければならないのです。面倒なのはもとより、もともと高等部の生徒会と聖徒はあまり仲がよろしくないですし。だからその習わしをわたしのお姉さまもクララ様も厭うておいでなのですよ」

 へぇ……って。

 ちょっと待って。今、聞き捨てならない事を言ってなかった?

 祝福の……口づけ?

 え? キス……するの?

 やだっ。そんなの絶対イヤっ。

「どうかしたの、一花さん? ふるふると震えてるみたいだけれど。具合わるいの?」

 顔を覗き込む晶帆さんを無視して、わたしはメモ帳にガシガシと殴り書きした。

『お姉さまが美滝様にキスするの? わたしのお姉さまが? 冗談でしょ?』

 肩で荒い息を吐きながら二人にメモ帳を突き出すと、思わず晶帆さんも彌生さんも一歩後ろに下がった。ちょっと、なんでそんな引きつった顔をしてるのよっ。

「お、落ち着いて、一花さん。口づけといっても手の甲に唇が軽く触れる程度ですわ。そもそもが儀礼的なものですし、ねえ、晶帆さん?」

「えっ、ちょっとわたしに振らないでよ。違うの。一花さんが思っているようなキスじゃないから。ね? だからそんなに怖い顔をしないで」

 晶帆さんが無理やり笑顔を作りながら、もう半歩後ろに下がる。

『わたし、怖い顔なんてしてない』

 ムッとしながらそう書いて見せると、二人はこくこくと赤べこみたいに頷いたのだった。

 ……まったくもう。

 さっきの晶帆さんと彌生さんの態度はなんだったのかしら。なんて、なんともやるせない気持ちのまま別棟になっている図書館に行くと、古びた本と本とが積み上げられているそのあいだのソファーに、小さな女の子が座って窓の外を眺めているのが見えた。

 いや、小さな女の子だなんて言ったら罰が当たってしまうかもしれない。どう見ても中等部生にしか見えないその少女は、前三人の聖徒のひとり、うてな様だった。

 そっと寄っていって、わたしはうてな様の肩を軽く叩いた。

「……あら。ごきげんよう。一花ちゃん」

『ごきげんよう。うてな様。ぼんやりとされていたみたいですが、もしかして考え事のお邪魔をしてしまいましたか?』

 いつものメモ帳にそう書いてお見せすると、うてな様は一瞬きょとんとしたあと、くすくすと小さく笑った。

「違うの。お腹空いたなぁって思っていただけよ。それよりも今日はどうしたのかな? あの綺麗な金魚の糞は一緒じゃないみたいね」

 き、綺麗な金魚の糞……?

 それって、……もしかしてお姉さまの事だろうか。いや、もしかしなくてもそうだと思う。それにしてもお姉さまを金魚の糞呼ばわりだなんて。仮にも現三人の聖徒のおひとりなのに。やっぱり引退されてもそこは夜零様のお姉さま、うてな様はうてな様だという事なのだろう。

 わたしはその辛辣なお言葉に、頬のあたりに引きつった笑みを浮かべた。言葉の衝撃もそうだけれど、うてな様の真意がよく解らなかったのだ。うてな様は大きく伸びをして、それから肩を軽く回した。ぼーっと外を眺めていて肩が凝っちゃったのかもしれない。

「あら、ラテン語の辞書? 珍しいものを借りるのね」

 うてな様はわたしの手元を見てそう呟いた。まあ、こんな本を借りる人間は少ないとは思うけど。わたしは曖昧に微笑みながら、

『いえ、返却に来たんです』

 と書いてお見せした。

「ふーん、まあいいわ。あ、そうそう、そういえばさっきの続き、ね。最近は特に夜零が甲斐甲斐しく一花ちゃんの世話をしてあげている姿を見かけるって、三年生のあいだでも時々噂されているんだけど……一花ちゃんはその様子だと全く知らなかったみたいね。甲斐甲斐しいかどうかは別として、姉妹なのだからわたしは一緒にいても当たり前だと思うけれど、気にする人は気にするから。ま、半分はやっかみだし、あなたたちに自重しろとは言わないけれど。あの子はそうじゃなくても人目をひくからね。それから、あなたも、ね?」

 わ、わたし?

 わたしはお姉さまみたいに綺麗でも、美人でも、なんでもないのに?

 狼狽えるわたしの表情を見て。うてな様は少し呆れた顔をして、腕組みをなされた。小さくため息をついたのがその様子で見て取れた。

「今更なにを驚いた顔をしているの? あなたはあの夜零を姉に持つ聖徒の妹ソロルなのだし、それに手話で話す子なんて、目立つに決まっているでしょ?」

 あ、そういう事か、と思って、わたしは苦笑した。わたしが聖徒の妹なのはそこそこ周囲に知られているとは思うけれど、この学校の全員がわたしの事情を、耳が聞こえないのを知っているわけじゃないのだ。聖徒であるお姉さまと秘密めかして手話で会話をしていれば、いい思いをしない人だって中にはいるのかもしれない。周りに解らないように手話なんか使っちゃって、とか。

 ……ううんそうじゃないかもしれない。耳の聞こえない障害者のくせに夜零様を独占しているなんて、とか、障害者だから夜零様に優しくされているんだ、とか……。

 嫌な考えが次から次へと浮かんでくる。そんなふうに思ってしまう自分自身に、わたしは少なからずショックを受けていた。自分自身の心の闇を、どす黒いなにかを突きつけられた気分だった。

「……そんな顔をしないで。咎めているわけではないのだから。……ごめんなさいね。どうも言葉足らずになっちゃう。やっぱりお腹が空いてイライラしちゃっているのかな……。ねえ、一花ちゃん。このあと用事ある?」

『いえ、特に。わたしも今日はこの本を返しにきただけですから』

「なら早く済ませてわたしに付き合って。少し寄り道をしましょうよ」

『あの、でも。制服のまま飲食店に入るのは校則で禁止されているのでは』

「なにを言っているの。購買部で買って、外で食べるの。ほら、早く早く」

 あ、ちょっと?

 あの。背中押すのやめてくださいっ。

 わたしはうてな様に急かされるままに借りていた本を返し、そのままわたわたと購買部に急いだのだった。

 そして、連れてこられたのはあのいつかの藤棚の下。塗装のはげかけたベンチに二人で座り、ほっと一息ついて、濃い緑色の葉が生い茂る天蓋を見つめた。九月になってもまだまだ残暑は厳しく、ここまで歩いてくるだけでひたいに汗が滲んでしまった。

 ちらりと時計を見ると五時を大きく過ぎている。アンジェラスの鐘がなるまでもう一時間もなかった。

「一花ちゃんもはい、これ」

 そう言いながら、うてな様が差し出したのはビニールの袋に入ったチョココロネ。わたしがそれを受け取ってちらりと隣に座ったうてな様の様子を伺うと、うてな様は早くも自分用に買った大きなメロンパンの包みを破いていた。

 小さなうてな様が大きなパンを頬張る姿はなんというか……リスやハムスターが一生懸命餌を食べているようで、微笑ましい。

 わたしって流されやすいなぁ、なんて思いながら。チョココロネの包みを開け、いちご牛乳のパックにストローを刺した。

「……? ……っ、……?」

 うてな様がなにか喋っているけれど、物を食べながらだとなにを仰っているかわたしには解らない。

『お食事しながらだと、わたしは唇が読めないんです』

 メモ帳にそう書いて渡すと、

「そっか、ごめんね。聖徒の妹ソロルの仕事はどうって訊いたの。あの夜零の妹だから、苦労も多いんじゃない? まあ、今だけよ。来年はあなたも立派な三人の聖徒トリス・サンクトゥスの一人になっているわ」

 ごくんと口の中のものを飲み下したあとで、うてな様は笑いながらそう言ったのだった。

 ……来年。

 わたしは少し考えるふりをして、チョココロネをゆっくりと食べた。その様子を見ていたうてな様はどう思ったのだろう。今は深く追求するのを諦めたのか、自分のメロンパンに集中する事にしたようだった。なによりもまず、お腹が空いておいでのようだったし。

 わたしもパンを頬張る。ストローで紙パックを吸う。口の中で甘いチョコレートと、いちご牛乳の味が混ざり合う。なんの変哲も無い菓子パンなのに。いちご牛乳なのに。とても美味しい。もしかしてわたしも糖分が足りてなかったのかな、なんて思う。

『ありがとうございました。おごっていただいて。美味しかったです』

 うてな様はちらりとメモ帳を見て、にっこり笑った。そしてまたメロンパンにかじり付くのだった。

 ……夜零さまの、お姉さまの妹になって、苦労した事なんてなにもない。

 さっきの質問にすぐにそう答えればよかった。でもなぜか咄嗟に返事ができなかった。……なんでだろう。

 お姉さまはいつでもわたしを気にかけてくれる。さりげなくフォローしてくれる。優しく触れてくれる。……なのに。

 これは今だけの事なんだ。

 そう思うと、すごく悲しい。

 来年の春にはお姉さまは三人の聖徒を引退してしまう。

 そしてまた次の春になれば、お姉さまはわたしを残して卒業していくのだ。別荘で仰っていたように、お姉さまは音楽の道に進まれるだろう。そうしたら、そうしたらわたしは……。

 ぽたっとなにかがメモ帳に落ちた。

 それは小さな水滴だった。

 考えないように、ずっと考えないようにしてきたのに。

 書いた文字が滲んでいく。

 油性のペンじゃないから。

 ううん、違う。そうじゃない。

 涙で……メモ帳が見えないだけで。

 ねえ、お姉さま。

 わたしは心の中だけで呼びかける。

 わたしはお姉さまを知らなければよかったのかなぁ。お姉さまを知らなければ、失ったときの悲しみも知らずに……生きていけたのかなぁ。

 好きな人と別れるのがこんなに怖いなんて。知らなかった。学校の中で知り合った、学校の組織の人間として交わった関係は……いつまでも続いたり、するのだろうか。

 解らない。解らないから余計に不安でたまらなくなる。

 そのときだった。わたしが涙をゴシゴシと拭ったのを見て取って。

「…………」

 うてな様がなにか呟きながら。

 わたしをぎゅっと抱きしめてくれた。わたしはそっとかぶりを振って、うてな様の小さな背中に両手を回した。

 ……どのくらいそうしていたんだろう。少しずつ夕闇が濃くなっていく。

『怖いんです』

 少し落ち着いたわたしは、メモ帳にそう書いた。

『お姉さまがいなくなってしまうと思うと、怖いんです』

 うてな様はじっと文字を見つめたまま、黙っていた。

『来年にはお姉さまは執務室からいなくなってしまう。再来年にはこの学校からいなくなってしまう。それが、怖いんです』

「一花ちゃんは、夜零が好きなのね」

 顔をあげてうてな様を見つめていると、小さく唇がそう動いたのが解った。

 わたしはこくんと首肯した。

「でも、依存してはダメよ。お互いがお互いに依存してしまったら、それはもう恋でも愛でもない。あなたたちの好きは……そういう好きなのでしょう?」

 わたしは驚いて、唇からうてな様の瞳に視線を移した。色素の関係なのか夕闇に紫色に光るうてな様の瞳は、真剣そのものだった。

「もう一花ちゃんも気づいていると思うけれど、夜零は女の子しか好きになれないの」

 うてな様がそっと呟いた。

「あの子が女性を恋愛対象にするのは……というよりも、恋愛対象として男性を避けるのは、と言ったほうが正しいかしらね。周りの男たちが行く行くは自分を道具として扱う事を知っているから。彼女の家が旧家なのは一花ちゃんも知っているでしょ? 女である夜零はいつか、どこか名のある家と血縁を結ぶために結婚を強いられるでしょう。彼女が望むと望まざるとに関わらず。それは自分のあずかり知らぬところで勝手に決められてしまうわ。だから、夜零は無意識に男を嫌う。避けるの。女の子を好きになっちゃうのはその反動なのかな。夜零が音楽の道に進もうとするのだってそう。自分で切り開ける道を探しているの。自分の運命を変えたいから。けれどもそれがどこまで通じるのか……わたしにも解らない。でも、応援はしたいと思うわ」

 わたしはその言葉を読んで、大きな衝撃を受けた。

 わたしは……わたしはお姉さまにとって、どんな存在なんだろう、って。

 美滝様があのノートに書かれていたのは……。

「でも、最近はちょっとあなたに構い過ぎている気がしなくもないわ。それがいい事なのか悪い事なのか、彼女に近すぎたわたしには判断できない。だからなにも言うつもりはなかったの。あなたにちょっと注意を促せば、釘を刺しておけばそれでいいと思っていた。けれども、あなたを見ていたらそれだけじゃダメだって気づいたの。だから、はっきり言うわ。……好きになったのなら、最初に感じたときのその感情を大切になさい。それは、依存しあうためじゃなかったはずでしょう?」

 わたしは小さく頷いた。心の中は空虚で、本当はあんまり深く熟考できるような状況じゃなかったのだけれど。うてな様のわんとする事は正しく認識できた……と思うから。

『うてな様は、もしかして本当は』

 ペンの動きが止まった。……訊いてしまっていいのか、ものすごく不安だった。

『お姉さまと美滝様の事。ご存知だったのではないですか? お姉さまが去年の春、泣いていらした理由を。だから、そのてつをわたしが踏まないように』

 それでも訊いてしまった。訊かないでいるほうがもっと……不安だったから。

「……アンジェラスの鐘が鳴ったわ。帰りましょうか」

 けれどもうてな様はわたしの質問に答えるつもりはないご様子で。それはつまり……肯定しているのと同じ事で。わたしはぎりっと奥歯を噛み締めながら、後悔しつつもその涼しげな横顔をじっと見つめていた。

「さいごぃ、ひとつたえ……いいぇすか?」

 わたしの声を聞いて、立ち上がりかけたうてな様は驚いた表情で動きを止めた。

「うてなしゃまは、やおさまかぁ……しゅき、えすか?」

「……好きよ。わたしは夜零が好き。そして、あなたの事も」

 そう言うとうてな様はそっとわたしの手を取って、頬に軽く……口づけをしたのだった。


「誰があんな人をっ」

 千夏さんが呟いたかもしれないその言葉は、一日中頭から離れなかった。わたしの読み間違いだったらいい。そう思って済ませてしまえたらいい。だって、千夏さんにもう一度訊き返すわけにはいかないもの。本当だったとしたらって思うと、……怖くて。訊き返す事なんてできない。

 そもそも、千夏さんがお姉さまを嫌悪する理由なんてないのだから。わたしの取り越し苦労に違いない。

 執務室にひとり残って生徒会に提出する書類をまとめながら、けれどもなかなか筆が進まなくて、わたしは悶々とした思いを抱えていた。だから自分自身を慰めるように、楽観的な想像を巡らせようとしていたのだ。まったくもう、このあとパソコンで清書しなきゃならないのに。

 ……でも。

 それでも考えてしまうのは千夏さんの事ばかりで。

 もし千夏さんがわたしとお姉さまとの関係を知ったとしたらどうだろう。ううん、たとえそうじゃなくても、千夏さんは以前お姉さまに嫉妬したって言っていたじゃない。その感情が嫌悪にまでなってしまったのだとしたら……わたしはどうしたらいいんだろう。

 うー。こんなの嫌だな。なんか……どんどん千夏さんとのあいだに溝ができてしまうようで。

 何度目かの書き間違いをして、イライラしながら消しゴムをかけようとしたそのときだった。指先からツルッと滑って、消しゴムが床に落ちてしまった。けれどもあまりに突然の事で、どこに落ちたのか解らなくて、わたしは床に這いつくばった。

 あーん、もうっ。最悪……。

 そのままの姿勢でキョロキョロと見回していると、不意に目の前に白い上履きが見えて。わたしはぎょっとした。

 え?

 えっ?

 この部屋にはわたししかいなかったはずなのにっ、だ、誰っ。

 悲鳴を飲み込んで慌てて見上げると、そこに立っていたのは……美滝様だった。

「……なにをしてるの、あなたは」

 咄嗟に手話で答えそうになって、美滝様には通じないんだって思って、あわあわと口を動かしていると。

「落とし物かなにか? あ、この消しゴムかしら?」

 そう言って、美滝様の上履きの陰になっていた消しゴムを拾い上げてくださった。

「はい。……早く受け取りなさい」

 わたしは立ち上がって、スカートの埃を払ってから。おずおずと手を差し出した。

「あぃがとぉこざぁいます」

「へえ、あなた、普通に喋るとそんな声をしているのね。悲鳴じゃない声は初めて聞いたわ」

 わたしはちょっとムッとしながら、ホワイトボードに改めて書き記した。

『落とし物を拾ってくださってありがとうございました。けれども聖徒の執務室にどのようなご用件ですか。急に入ってこられるからびっくりしたじゃないですか』

「なによ。ノックならしたわ。今日中に御心祭についての書類が届くって話だったのに、一向に届かないんですもの。わたしが直々に受け取りに来たの。悪い?」

 ……ノックなんかされたって、わたしには解るはずないのに。

『いえ。でも、すみません。まだ書類が出来上がってないんです。もう少し待ってもらってもよろしいですか』

「いつまで?」

『アンジェラスの鐘が鳴るまでには草案の修正はまとまるかと。ただ正式な文章は申し訳ないのですが、明日になってしまってもよろしいでしょうか』

「なら草案だけでもいいわ。待ちましょう」

 なんだか作家と編集者みたいなやり取りだな、なんて思いつつ、わたしはまた机に向かおうとした。するとそのとき。

「ねえ、まだあのノートは持っていて?」

 美滝様がわたしに、不意にそう訊ねた。

 ノート? ノートというと……六月の展覧会で美滝様がお買いになった、あのノートの事だろうか。

『持っていますが、それがなにか』

 なんだろう、何度か返却しようとしたのに、受け取らなかったのは美滝様なのに。

「他のメンバーはもう帰ったのかしら?」

『帰りました。けど』

 そこでわたしは書くのをやめた。ペンのキャップを閉めて、美滝様の出方を伺った。美滝様にどのような意図があるのか全く読めなかったのだ。

「ノート、いいかしら」

 そう言われて、わたしは鞄からあの展覧会の来場記念のノートを取り出した。本当はいつでも返せるようにずっと鞄にしまっていたのだった。これは……わたしが持っていていいものではない気がしたから。

「少しそれで話をしない? あの日みたいに」

『でも、報告書が』

「気が変わったの。どうせ正式な書類は明日になるのでしょう。それともわたしとそのノートで話すのは、もう嫌になったのかしら?」

 わたしは首を横に振った。けれど、警戒するのも怠らなかった。あのノートの一件は、未だにわたしの心の中に、鈍いしこりとして……消えない傷として残っているんだもの。

 わたしはボールペンと一緒に、曰く付きのノートを美滝様に渡した。

「ありがとう」

 わたしがテーブルに着くと、あの日の喫茶店でそうしたように、美滝様はわたしのすぐ隣に座った。美滝様の体からはお姉さまとはまた違った種類のいい匂いがした。夏休みに嗅いだ灼けたアスファルトのような、溶けたバターと蜂蜜のような。それは赤い花と太陽の匂いだった。

『こうやって筆談で話すのはあの日以来ね』

 わたしと美滝様、ふたりの真ん中に一冊のノートがある。それはやっぱりどこかしら不思議な感覚だった。

『最近随分夜零と仲がいいみたいね。その様子だと、どうやらわたしは振られたって事でいいのかしら?』

 え?

 ちょ、いきなりなんて事を言うの?

『振られたもなにも、わたし、別に』

 顔を真っ赤にしてしどろもどろに反論するわたしに。

『生徒会に入らないかって、誘っていたでしょう? その事を訊いただけだけれど?』

 美滝様はしれっとそう返した。

 ……うー。むかつく。どうしてこの人にはいいように遊ばれちゃうんだろう。

『わたしはお姉さまに選んでいただいた妹ですから。申し訳ありませんが生徒会には入りません』

 美滝様と肘同士が当たる。相変わらず美滝様の文字はいびつで掠れていて、読み辛かった。

『気が強いのね。そういうの、嫌いじゃないわ。でも、あなた。夜零がどういう人間なのか、本当はもう知っているんでしょう?』

 わたしは隣に座る美滝様を軽く睨んだ。

 美滝様はわたしの視線なんて全く気にせずに、じっと紙面を見つめていた。美滝様がいったいなにを考えているのか、この会話をどこに導きたいのか、どうにも計りかねるのだった。

 それでもわたしは事の成り行きを知りたくて。渋々と……美滝様の文章の下に、自分の質問を書き連ねた。

『それはどういう意味でしょうか』

『さあ。言葉通りの意味だけれど。あの子は、夜零は天使なんかじゃないわ。あなたは夜零の表面しか見ていない。ううん、違う。見ていないふりをしているのね。本当の夜零を知るのが怖いから。幻滅したくないから。どう? 違っていたら反論してみせて?』

 ……ここで怒ったりしたら、きっとわたしの負けだ。直感的にそう思った。

『逆に質問させてもらってもよろしいでしょうか』

『どうぞ』

『美滝様は今でも花の君の名前が欲しいと、思っていらっしゃるのですか?』

 美滝様がその文章を見て、ゆっくりと顔を上げた。目と鼻の先に美滝様の顔があった。その顔に浮かぶ表情に、……わたしはどんな名前を付けたらよかったんだろう。憐憫れんびん空虚くうきょ諦念ていねん……ううん、もっと生々しいなにか。そんな感情が入り混じっている顔だった。

 そんな美滝様の表情を見ていたら、胸の奥がズキンとした。それは……自分でもよく解らない、不思議な胸の痛みだった。

『もう、興味はないわ。でも、そうね。あなたなら。一花なら、わたしにふさわしい花はなんだと思う?』

 わたしは質問には敢えてなにも答えず、そっと席を立った。その様子を美滝様は不思議そうに見つめていた。

 わたしが美滝様に抱いていたイメージは、最初から最後までまったく変わる事はなかった。

 美滝様は……夏に咲く赤い花だ。雄弁で、夏の季節のあいだいつまでも咲き続ける花。他を寄せつけないくらい熱情的な赤。たとえ怪我をされても、障がいが残っても、その気高さを永遠に失う事がない。そんな花こそが……美滝様にはふさわしいと思う。

 わたしは窓際に寄って、夕日に照らされる森を指差した。まるでトマトジュースを流し込んだように真っ赤に照らされた光の中で、一際輝いていたのは百日紅の樹だった。

「あれがわたし?」

 同じように窓辺に立った美滝様の唇が、小さくそう動いたのが見えた。わたしはこくりと頷いた。そう、あれこそが美滝様そのもの。美しい夏の、赤い花の……君。

「そう。〝百日紅の君ラジェルストレミア〟ね。悪くないわ」

 唇に指先を当てて、くすりと笑ったのがわたしにも解った。

「わたしが百日紅の君なら……一花はそうね、〝薫紫草の君ラヴァンデュラ〟かしら」

 ……ラベンダー。わたしに付けられた花の名前。それがなにを意味するのか解らなかったから。わたしは曖昧に笑みを浮かべたまま、黙っていた。

「さっきの質問の答えを聞かせて」

 窓ガラスに手を当てた姿勢で、首だけを緩慢にわたしに向けて。美滝様がそう呟いたのが見えた。

「夜零と一緒にいたら……あなたはきっと駄目になる。わたしには、わたしだから、それが解るのよ」

 美滝様の指がわたしの頬に触れた。

「やえてくりゃさぃっ」

「……どうして? なぜ解らないふりをするの? あなただって、」

 わたしは逃げるようにその手を振り払い、ホワイトボードの前まで駆けた。

『あなたは嫉妬してるだけです。今のわたしと夜零様に。かつての自分自身に。いもしない誰かに。あなたは自分の幻想に怯えているだけです。それにお姉さまは相手が障がい者だからって態度を変える人じゃありません。健常でも、障がいがあっても。ううん、お姉さまだけじゃないわ。人が人を好きになるのにそんなの関係ないじゃないですか。同情? 憐れみ? 違う、違う、違う。なんであなたこそ解らないの? 恋人なのに。お姉さまの恋人だったのに』

 わたしはバン、っとホワイトボードを力いっぱい叩いた。そして。

「もう、こえいじょおわあしを、おねぇしゃまを、……ばぁにすうなっ!」

 心の底から叫んだ。

 ハァハァと荒く息を吐きながら、わたしは際限なく溢れ続ける涙を拭う事もせず、美滝様を睨みつけていた。

 なんなのっ?

 わたしがお姉さまと一緒にいたら駄目になる?

 それってなに?

 いったいなにが言いたいのっ?

 悔しくて悔しくて堪らなかった。みんなして、みんなしてわたしを、お姉さまを……なんだと思ってるのよっ!

 そもそも人が人を好きになるのに理由なんているわけないじゃないのっ!

 男だとか、女だとか、……それがなんなのよっ!

 唇をぎゅっと噛みしめると血の味がした。頭が煮え立ちそうだった。今は、痛いくらいが丁度よかった。

 すると、そのときだった。悲しそうにそんなわたしを見つめていた美滝様の目が、驚愕に見開かれた。視線はわたしを通り越して背後にあるなにかを見つめている。

 え?

 ……なに?

 恐る恐る振り返ると、そこに立っていたのは、わたしの大好きな。

 うそ……お姉さま?

 帰ったはずなのに。……なんで?

 どうしてここにお姉さまがいるの?

 お姉さまは近くのテーブルに鞄を置くと、

(一人居残りさせるのが心配で。つい戻ってきちゃった)

 そう言って、まるで花がほころぶように笑ったのだった。

「おねぇしゃま……」

 お姉さまはちらり、とホワイトボードを見て、今度は小さな苦い笑みを浮かべた。

(これ、消してもいいかしら。他の聖徒や妹たちが見たらびっくりしちゃう)

 そして、わたしの書いた文字を全てイレイザーで消した。ホワイトボードの文字はなに一つ残らなかった。

 それからふと気付いたようにお姉さまはテーブルに置かれたままのノートを取り上げると、ついさっき新しく書かれた文章を確認して、ノートごとビリビリに破いてゴミ箱に捨てた。

 わたしはその様子に驚き、戸惑いながら、けれど止める事もできずに黙って見つめていた。

 それは美滝様にしても同じだったようで。わたしたちは身動きひとつできなかった。

(今日はもう帰りましょう。一花、支度はすぐに終わるかしら)

(あ、はい。すぐに)

「美滝さん。執務室の鍵を閉めるから。あなたも出てくれる?」

 なにか言いかけた美滝様の腕を引っ張っていくと、お姉さまはまるで追い出すように外に連れ出し、二言三言言葉を交わして扉を閉めた。そして、内側から鍵をかけたのが解った。

(ごめんね、わたしのせいで。一花に辛い思いをさせたわね)

 戻ってきたお姉さまは指先でそっとわたしの頬を撫で、涙の雫を払ってくれた。そのまま指先が少しずつ下がって、血のついた唇で止まった。

 触れた指先が少し冷たい。

 そのさらりと乾いたお姉さまの指先は、いつものように……わたしに安らかな気持ちを与えてくれる。

(お姉さま。わたし、わたし……)

(なにも言わないで)

 お姉さまの手で、指先が絡め取られる。そしてそのまま引き寄せられるように。わたしはお姉さまの胸にすっぽりと包まれていた。

 お姉さまがなにか呟いたのが……胸の振動でわたしにも伝わってきた。そっと顔を上げると、すぐ近くにお顔があって、慈愛に満ちた瞳がじっとわたしを見つめていた。

 わたしは目を閉じて。きゅっと……お姉さまの胸にしがみついた。

 このまま時が止まって仕舞えばいい。

 そう、思いながら。

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