はち

 家の前に止まった黒塗りの外車を目にして、一緒に応対に出たお母さんときぃさんの表情がピキッと固まってしまったのがわたしにも見て取れた。

 確か、ジャガーとかいう車のはずだけど。……くもり一つなく、傾きかけた夏の太陽の光を反射させている遮光ガラスはとっても威圧的で。まるで車というよりも気位の高いネコ科の猛獣のようだと思った。あ、だからジャガーなのか。

 そんな馬鹿な事を考えていると、運転席から白い手袋をした白髪混じりの男性が降りてきて、後部座席のドアを恭しく開けた。

 中から出てきたのはドレス姿のお姉さまだった。

 って。

 ど、ドレスっ?

 深いミッドナイトブルーのワンピースは、その光沢感からいっても本物のシルクのはずで。胸元には金色の細い鎖が光っている。吊るされているのは小さな十字架と聖カタリナのメダイユだった。

 でも、なによりも。そんな衣装にも負けないくらいお姉さま自身が美しかった。ほんのりと薄く唇に紅をさし、いつもの長い髪を頭の上でシニョンにしている。その後れ毛の美しい事といったら。もうなにに例えたらいいのか解らないくらいだった。なんだか鼻血が出るんじゃないかって心配になっちゃうほどで。

 見慣れているはずのわたしですらそんななんだもん。お母さんも、きぃさんも、呆気にとられてただただお姉さまの姿を見つめるばかりだった。

「ごきげんよう。初めまして、ですわね。不躾な物言いで申し訳ございませんが、一花さんのお父様とお母様でいらっしゃいますでしょうか」

 夜零様がそう挨拶をしてくださった。お母さんもきぃさんも思考停止したままだったので、わたしは代わりにこくんと小さく頷いて見せた。

「そう。申し遅れました。わたしは御心女学館高等部二年、雪乃宮夜零といいます。今は三人の聖徒のひとり、カタリナと呼ばれておりますが、聞きなれない言葉かと思いますのでどうか構わず、呼びやすいようにお呼びくださいませ。今日は一花さんとの旅行をお許しいただきました事、とても感謝しております。本当にありがとうございました」

 お姉さまはそう言って頭を下げると、花のように微笑んで見せた。

 完璧な笑顔というのはその人の意に反して、ときに相手を際限なく萎縮させてしまうものなのだ。それは目に見えない、それでいて物質的で圧倒的な力そのものなのだ。わたしが肘でつつくまで、お母さんもきぃさんも石みたいに固まったままだった事からそう結論づけた。

「荷物は当家の運転手の佐々木にお渡しください。……一花、その鞄をこっちに」

 お姉さまにそんなふうに言われて、わたしは当惑した。

 え?

 ……当家の運転手?

 漫画とか映画以外でそんな存在、初めて見たんですけど。わたしは白手袋のその初老の……佐々木さん? にそっと旅行鞄を差し出した。お父様にしては少し様子が変だなって思ってはいたんだけど……まさか御付きの運転手さんだったなんて。

 差し出した鞄を佐々木さんは車のドアを開けたのと同じように、とても丁重に恭しく受け取ってくださった。そうする事に慣れた手つきだった。

「それでは行ってまいります。お母様、お父様」

「こっ、こちらこそ。いつも娘の一花がお世話になっております。色々と障がいの事もあって、夜零さんにはご配慮いただいていると娘からも聞いております。今日はそんな不詳の娘ではございますが、どうか宜しくお願いします」

 そう言ってお母さんも深々と頭を下げ、きぃさんも慌ててそれに習った。なんだかその様子が娘を嫁にやるときの親みたいだな、なんて思って。わたしは思わず苦笑してしまったのだった。お母さんが学生時代に憧れた、それもとびっきり美しい聖徒様を目の前にしているんだもの。緊張するなっていうほうが無理なのかもしれないけどね。

(一花。用意はできていて? 出発できるかしら。荷物はそれで全部?)

(あ、はい。お姉さま)

 時刻は午後二時ちょうど。旅行に出かけるにはやや遅い時間帯だけれど、お姉さまにはなにやら色々と思惑があるようで。それに、降りしきる夏の日差しはまだまだ元気なままだった。見上げると気持ちのいい青空。とろけるように傾きかけた日の光と沸き立つ入道雲。アスファルトの逃げ水さえ、とても素敵な旅の象徴のように思えた。

 お姉さまが先に車に乗り込み、わたしがそのあとに続くと、佐々木さんが丁寧にドアを閉めてくださる。エンジンがかかったのが解り、そして、遮光のサイドウインドウがすうっと下がっていく。

(一花、くれぐれも粗相のないようにね)

 あー。

 気をつけて、とかじゃないんだ。

 わたしは苦笑しながらお母さんに手を振った。

 黒い革張りのシートはひんやりとしていて気持ちがいい。滑るように走り出した車はみるみる速度を上げていく。しなやかな獣が疾走するように。ただ、その運転はとても丁寧なものだった。後部座席に座っている人間が心地よく過ごせるよう、細心の注意を払って運転してくださっているのがよく解る。

(……ところでお姉さま、訊いてもよろしいでしょうか)

 わたしは大振りのストールを胸元にかけて、リラックスモードに突入しているお姉さまをちょんちょんと突ついて。改めて訊ねた。

(あら、なあに?)

(なんでドレスなんですか?)

 お姉さまはわたしの指の動きを見て、不思議そうに首を傾げている。

(わたし、一花になるべくフォーマルな格好でいらっしゃいって、そう伝えたはずだけれど)

(ええ。それはそうなんですけど……)

 確かにそう聞いたから……わたしだってシックに見える黒のワンピースを着てきたのだ。でも、だからってドレスなんて選択肢、わたしの想像の範疇はんちゅうにはなかったんだもん。だいたいそんなのを着てお出かけする場所って、いったいどこなんだろう? なんだか不安になってきちゃったんですけど。

(大丈夫よ。一花のお洋服もとても可愛らしいわ。すごく良く似合ってる)

 ……皮肉、ってわけじゃないんだろうけど。お姉さまくらい完璧な容姿の方から褒められると逆に、……なんだか惨めになっちゃうものなのだ。

(お姉さまこそよくお似合いです)

(あら。お世辞でも嬉しいわ)

 そう言ってお姉さまは、口元を手で隠しながらくすくすと笑った。やれやれ。お姉さまはもうこういう人なんだから、仕方ないと思って諦めるしかない。

 わたしは誰にも気づかれないくらい小さく、そっと嘆息して、ちらりと窓の外の景色を見た。車はまだ都心部を走行しており、時折ビルの窓が強い夏の光を反射させている。

 今日の目的地は軽井沢の北の外れのほうというお話だったから、車では二時間半から三時間、多く見積もっても四時間はかからないだろうという事だった。順調にいけば夜になる前には軽井沢に着く計算になる。向こうに着いたらまずはお夕飯で、そのあとお出かけをするのだとお姉さまは言っていらした。もっとも、どこに行くのかは秘密のまま教えてもらえていなかったのだけれど。

(そういえば一花は読書感想文に遠藤周作の『沈黙』を選んだのだったわね)

 お姉さまが何気なくわたしにそう訊ねた。

(はい。それがどうかしました?)

(作品の感想は別にどうでもいいのだけれど。ただ、一つだけ訊いてもいいかしら)

 えっと、なんだろう。

 一度首を傾げて見せてから、わたしは恐る恐る首肯した。

(この世界に戦争は無くならないし、大きな災害があればその度に人が大勢死ぬわ。悲しみも怨嗟えんさも止まらない。ねえ、一花……神様はなぜ黙っているのかしら。あなたもそう思った事はない?)

 わたしはお姉さまの指を追いながら暫し考えをまとめた。お姉さまの表情は別段変わりなく、いつものように穏やかなままだった。だからお姉さまの真意はよく解らない。けれどもお姉さまからのその質問は……わたし自身の障がいの事もあって、時々思い出したように考えていたものだった。

 わたしだって思わないではない。

 なぜ自分のように障がいを持って生まれてくる人間がいるんだろうって。ううん、それだけじゃない。そんなハンデがあるのに、優しくされてもいいはずなのに、なぜ……恵美子はいじめられなきゃならなかったんだろう。それは本当に神様のなさるべき善き事なのだろうか、と。

(自分の花嫁に声をかけない、手を差し伸べない花婿がこの世にいるでしょうか)

 それでもわたしはそう答えた。そして、その答えを聞くとお姉さまは一瞬きょとんとした顔をなされたのだった。

(雅歌は元よりイザヤ書、エレミヤ書、マタイによる福音書にも花婿の喩えは出てきますよね。主なる神が差し出される手はいつだってそこにあるのではないかと思うのです。ただ、わたしたちが気づかず、認識できないだけで。たぶんわたしたちはまだ人として未成熟なのです。花婿にふさわしい花嫁ではないのです。今はまだ、神様は歯がゆい思いをしながらわたしたちの隣にいて、同じ苦しみを共感してくださっているのだとわたしは思っています。姿も見えず、声も聞こえず、ただ寄り添うだけの神様は沈黙しているように見えるでしょう。遠藤周作の小説の主題もまさしくそこにあるのではないかと思います。けれども人としての進化のその先に、きっと神様との本当の邂逅かいこうは訪れると……わたしは信じています。今感じている全ての苦しみは、ゆりかごから這い出る赤子が感じる苦しみと同じなのですから)

 わたしはそこで一度指を止めた。そして小さく手を合わせて、そっと息を吹きかけた。

(……イエズス様が新しい契約を結ばれてから、千年。その祈りでは届かなかった。次の千年でも届かなかった。けれどもその出逢いはわたしの子どもたちの時代に起こるかもしれない。その次の世代では果たせるかもしれない。あるいはもう千年かかるかもしれない。解らない。解らないけれど、それでも信じて祈るしかないんです。いつか必ずわたしたちは主の声を聞き、主の手に触れる事ができるでしょう。もっとも)

 わたしは苦笑して、ちょっとためらってからまた指を動かした。

(たとえそうなったとしても……耳の聞こえないわたしに、神様の声が聞こえるかどうかは解りませんけど。もしかして手話で話しかけてくれるんでしょうかね)

 お姉さまは茫漠ぼうばくとした、それでいて深い愁いを湛えた目でわたしを見つめていた。ちょっと自嘲が過ぎただろうか。わたしは少しだけ反省して、そっとお姉さまのドレスの裾に触れた。

(……お姉さま。ごめんなさい、そんな顔をなさらないで)

 するとそのときだった。ぎゅっと強く抱きしめられて、シートベルトが肩と胸に食い込んだ。苦しかった。でも、わたしは身じろぎ一つしなかった。触れ合う頬に振動を感じたから。お姉さまがなにか耳元で囁いているのが解ったから。その言葉はわたしには伝わらない。聞こえない。でも……喋っているのは解るのだ。

 わたしは小さく頷いた。

 ちらりとバックミラーを見ると、一瞬だけ佐々木さんと目が合った。彼は職業的無関心さでそっと視線を外した。

 窓の外にはどこまでも青い、真夏の空が広がっていた。まるでそれはマリア様の心、そのもののように。


 一度ドライブインでトイレ休憩を挟み、碓氷峠を抜けた頃には五時を過ぎていた。さすがにお盆休みでは高速道路とはいえ、車もゆっくりとしか進まない。それでも途中で下道に降りたわたしたちの車は、今こうして曲がりくねった雑木林の中を、静かに軽やかに走り抜けていく。山の中ではこの時間になると途端に薄暗くなってきて、時々気圧の変化からなのか、耳の奥が疼くように痛んだ。わたしは少しだけ樹々の気配に圧倒されながら、そういえば、とお姉さまに訊ねてみた。

(ねえ、お姉さま)

(……ん? どうかしたの?)

 うとうととしていたお姉さまは、わたしが肩をつつくとうっすらと目を開けて、手話で返事をしてくださった。

(そういえばお姉さまのご家族は先にお着きなのですか? それともあとからいらっしゃるのですか?)

(わたしの家族? どういう事?)

 え? あの……どういう事って言われましても。言葉のままなんですけど。

(わたしの家族っていうとあれよね。お父様やお母様の事よね? 別に誰も来ないわよ?)

 誰も……来ない?

 よほど阿呆面をしていたのだろう、お姉さまはわたしの頬を軽く抓ってから、ちょっとだけ苦笑してみせた。

(一花はなにを惚けているの? わたし、最初からふたりきりで旅行がしたいって、そう言ったはずだわ。もしかして……覚えていないの?)

 いや、確かにそう聞いてはいたよ?

 いたけども……え?

 つまり、お姉さまの別荘にわたしたち、ふたりきりになっちゃうの?

 え?

 ええっ?

 それってどうなのっ?

(わたしと、お姉さまだけ? どうして?)

(どうしてって言われても。わたしの別荘だもの。あ、佐々木の事なら心配しないでいいわ。別に宿泊施設を取ってあるから)

 ……わたし、の?

 つまり……、

 お姉さま個人所有の……別荘って事?

 マジで?

 そんな、自分の部屋、みたいな言い方だけど……え? お金持ちの人って、みんな個人個人の別荘とか持っているものなの?

(わたしが所有する別荘は小さいから、恥ずかしいのだけれど……。一花は別に構わないわよね?)

 わたしは唾を飲み込んだ。少しだけ口の中が苦くなった。

 うわー。マジなんだ。

(えっと、その……わたしみたいな庶民には即答しかねます)

 でも、そっかぁ……。

 今夜、お姉さまとふたりきり、なんだ。

(どういう事? わたし、なにか変な事を言ったかしら?)

 きょとんと可愛らしく首をかしげるお姉さまの手を握って。わたしは剥き出しの肩にそっと頬を寄せた。

 お姉さまのいい匂いがする。

 目を瞑ると、車の微かな振動とお姉さまの体温だけを肌に感じた。

 それから小一時間、といったところだろうか。気づくとわたしたちは山あいの少し開けた場所に来ていた。まだ青い実をつけた稲穂の水田が広がり、その横を綺麗な水を湛えた小川が流れている。夕闇の中に落葉松からまつや白樺の林がシルエットとして浮かび、豪奢ごうしゃな洋館が林の暗がりを背にして、ちろちろと燃える松明の明かりがまるで星のように光っている。

(あそこがお姉さまの別荘……ですか?)

 小さいなんてとんでもない。ものすごく立派な建物だ。

(いいえ。あそこはお夕食の場所よ。フランセーズのお店なの。その服装ならドレスコードも問題ないわ。あ、でも……そういえばあなたの希望を訊いていなかったわね。わたしの好みでコースを組み立ててしまったのだけれどそれでよかった?)

 ……よかったもなにも。

 ドレスコードがあるような、そんな場所、生まれてこのかた来た事ないんですが。

 いったいどんなお料理がテーブルに並ぶというのだろう。緊張しながらこっくりと頷いて見せると、お姉さまはそっとわたしの肩を抱いた。わたしは慌ててお姉さまのお顔を見つめた。お姉さまはいつものように、静かに微笑んでいるだけだった。

「大丈夫。貸切にしてもらっているから。心配しないでいいわ」

 な、なにが大丈夫でなにが心配いらないんですかっ?

 わたしはお姉さまの唇を読みながら。

 なんかとんでもない事になってきちゃったなって……今更ながらに思ったのだった。

 車を降りて、背伸びをしながら見回してみたけれど、お店の名前を示すような看板やプレートは見当たらなかった。ただ、穏やかに高原特有の涼しい風がそよいでいるだけで。

 改めて建物を見上げると、重厚な木造の建物は年を得て黒々としていて、歴史の重みを感じさせる。あとで聞いた話によれば、このプロヴァンス風の建物はどこかの洋館をそっくりそのまま移築したものなのだそうだ。真っ白になった髪をオールバックに撫で付けた黒服の給仕メートル・ドテルに案内され、テーブルに着くと、目の前に置かれている磨き抜かれたフォークやナイフが無数に並んでいるのを見ただけで……圧倒されてしまう。

 場違いだ。

 そう思った。

 先ほど案内をしてくれた給仕がグラスにガス入りのお水を注ぎ、そしてもう一人、別の若い男性の給仕がお皿に盛り付けられたピンチョスをそっとテーブルに置いた。

「アミューズ・ブーシュでございます」

 白髪の給仕の男性がそう告げて頭を下げた。

 あ、あみゅ?

(小前菜の事よ。一花、そんなに緊張しないで)

 向かいの席から手を伸ばして、お姉さまはそっとわたしの頬を撫でてくださった。さらりと乾いたその優しい指先は、触れるだけでわたしの心を鎮めてくれる。

 ……そんなに引きつっていたかなぁ。

 お姉さまがわたしに手話で話しかけても、周りで見ている給仕のスタッフたちは眉一つ動かさない。流石というかなんというか、すごく教育が行き届いているのを感じた。

 お姉さまがそっと手を合わせ、食事前のお祈りをしている。わたしも手を合わせて、一緒に十字を切った。どうかこの食事がわたしたちの体と、魂を養う糧となりますように。そう心から願いながら。

 前菜アントレは縦長のグラスに入れられた見目麗しい〝季節の野菜のゼリー寄せ〟で。お姉さまは小さく指を動かしながら、

(フランス語ではレギューム・ド・セゾン・アン・ジュレと言うのよ)

 と教えてくださった。プチトマトやグリーンアスパラ等、季節の野菜がジュレの中でキラキラと光っているのを見ているだけで、なんだか幸せになれる気がした。

 そのあともスープにはガラスの器に入った冷たい〝ガスパチョ〟が供され、魚料理ポアソンには〝真鯛のポワレ〟が香ばしい匂いと共に運ばれてきた。そのどれもが美味しくて、美味しくて……もう、とにかく美味しいという表現しかできない自分の語彙のなさが情けなくなってしまうくらいだった。

 わたしはグラニテ——魚料理と肉料理ヴィアンドのあいだに出されるお口直しのシャーベットのようなもの、ってお姉さまは仰っていた——をスプーンですくいながら、改めて正面のお姉さまのお顔を見つめていた。

 これがお姉さまの普通、なのだろうか……って。

 わたしは今までこんな世界が存在する事すら知らずに生きてきた。たぶん、お姉さまと出会わなければ、一生縁がなかった世界をわたしは今……垣間見ているはずで。

 それが不思議でたまらなかった。

(……どうかしたの? そんなにわたしの顔を見つめて)

 お姉さまがナプキンで唇を拭いて、わたしに訊ねた。

 ナプキンにほんのりと残った赤い色は……口紅だろうか。

(いえ、なんでもありません)

(そう? 今度は冬に来ましょうね。ジビエのお味も素晴らしいのだけれど、なにより一面雪で真っ白になるの。……あなたにも見せてあげたいわ)

(……ねえ、お姉さま)

 少し間をおいて、わたしは訊ねた。

(お姉さまには、今、わたしがどんなふうに見えていらっしゃいますか。わたしは……)

 カトラリーを動かすお姉さまの指が止まった。お口の中に入れたペシェのグラニテが溶けて。お姉さまの喉を滑り落ちていったのが解った。

(……一花はわたしの大切な妹よ。大好きな妹よ。……わたしはあなたが好きよ)

 きっとグラニテにはリキュールが入っていたのに違いない。お姉さまの目尻がほんのりと赤い。そう、アルコールが入ってなければ、きっと……わたしだってこんなに不安になったり、涙もろくなったりしなかったはず。

 わたしの瞳から零れそうになった雫をそっと拭ってくれたあとで。肉料理が運ばれてきた。魚料理とはまた別の香ばしい匂いと飴のような焼き色にうっとりとなってしまう。〝骨付き仔羊のクレピネット包み焼き〟だった。


 肉料理のあとは部屋を移り、フロマージュが済むと、次はアントルメ。この小さなカヌレがプティフール、つまりは小菓子と呼ばれるものだろう。それが厳かにエスプレッソと共に運ばれてきたのだ。給仕の男性が「アントルメはプティフールとしてカヌレをご用意しました」って言っていたから間違いないし、これで最後のはず。だってアントルメってデザートの事だもんね。

 小さいとはいえ、さすがにカヌレを食べ終えたらもうお腹がいっぱいで、これ以上は無理、と思っていたら……そんなわたしを見つめていたお姉さまが不思議な事を仰った。

(次でおしまい、ね)

 と。

 次?

 次ってどういう事?

 ……お菓子があって、コーヒーがあって……え? まだ続くの?

(どうしたの? 次がデセールよ)

 プティフールって、アントルメって……デセールじゃないんだ?

 だって、デセールってデザートの事でしょ?

 なんなのそれ。……わけ解んないよ。

 お姉さまはわたしの勘違いが可笑しいのか、クスクス笑っている。あの細い体のどこに今までお召し上がりになったお料理が入っているというのだろう。

(……お姉さまは健啖家でいらっしゃるんですね)

(あら、昔から甘いものは別腹って格言があるでしょう?)

 ……それ、格言じゃないです。

 わたしは苦笑しながら苦いエスプレッソを一口すすった。

 気がつくと時計の針はすでに九時を大きく回っていた。お姉さまは夕食のあとでお出かけをする、と仰っていたけれど……こんな時間からどこに行こうというのだろう。観光地のお店はどこも、早々と店仕舞いしてしまうのが相場だと思っていたのだが……。

 なんて、そんな事を考えていると。うやうやしく〝桃のコンポートのヌガーアイス添え〟が運ばれてきた。とろとろのやわらかな桃と、アイスに混ぜ込まれたヌガーのカリッとした食感の対比が絶妙だった。アイスには砕いたピスタチオも入っていて、口の中に含むと爽やかな香りのアクセントになってくれる。やっぱり……甘いものって別腹なんだなぁ。無理だ無理だと思っていたのに、気づいたら全部平らげてしまっていた。

(……お姉さま、ありがとうございました)

 食事が終わり、フランス人のシェフと、ずっとわたしたちのテーブルの世話をしてくれていた白髪の給仕長メートル・ドテルの挨拶が済んだあと、わたしはお礼を申し上げて、お姉さまの手をそっと握った。色々と思うところはあったけれど……今はただ、お姉さまの好意に甘えていたかった。

 お姉さまは静かに微笑んで、わたしの手を優しく握り返してくれた。

(もうだいぶ夜も遅いですけれど……このままどちらかへお出かけになるのですか?)

 車の程よい振動を感じながら、わたしは訊ねた。窓の外には真っ暗な闇が広がっている。

 車の後部座席には小さな明かりが灯されていた。手話で会話ができるようにという配慮だった。

(いいえ。もうすぐ別荘に着くわ。着替えもしたいから)

 確かに、ドレス姿ではなにかと窮屈だろう。それともお姉さまはドレスなんて着慣れていらっしゃるのかな。

(一花は眠くない?)

(大丈夫です。ばっちり朝寝坊してきましたから)

 お姉さまから出発は午後になるから、たっぷり睡眠をとっておくように、と言われていたのだもの。それを守らないわたしじゃないのだ。

(そう。……夜は長いから)

 あ、うん。そうですけど……。

 なんでそんな意味深な事、ドヤ顔で言うんですか。もう、顔が赤くなっちゃうじゃないですか……。

 わたしはその言葉とお姉さまの表情に恥ずかしくなって、そっと視線を外した。車は林の中の小道を進んでいく。街灯もなく、民家の明かりも見えない。まるでわたしたちだけが世界から隔絶されてしまったかのような、そんな不安で心細い気持ちが湧いてくる。

 途中で一度、堅牢なフェンスが左右に続く大きな門をくぐり抜けた。佐々木さんが門を開閉させて鍵を閉めるしばしのあいだ、停車していた車の中からわたしはその光景を眺めていた。もう別荘に着いたのかと思ったのだけれど、建物はどこにも見えず、車はそのあとも暫く走り続けた。はて、あの門は……いったいなんのためにあったのだろう。なにを隔てる境界だったのだろうか。

(着いたわ)

 ぼんやり考えていると不意にお姉さまに肩を叩かれて、わたしは慌てて居住まいを正した。そこはやはり思い描いていたような別荘地の中の一区画ではなくて、どこか知らないところにそっと建てられた、例えるなら秘密の園といった雰囲気の場所だった。

 ここは……軽井沢のどのあたりになるのだろうか。遠くに黒く沈んだ山の稜線が見える。空を見上げると、林の木々の隙間から零れ落ちそうな満天の星が光り輝いていた。

 お姉さまの別荘は平屋のコテージ風の建物で、確かに旧家の別荘としてはそれほど大きなものではない。けれども車のライトに照らされた苔むした庭や蔦の絡まった外観はとても美しく、夜の闇の中でも確固とした存在感を示していた。

 涼しい乾いた風が落葉松の枝をゆらしている。お姉さまはほつれた襟足にそっと手を添えて、足早に別荘の中に入っていく。わたしも遅ればせながらそれに続いた。

 運転手の佐々木さんはわたしたちの荷物を運び入れたあと、

「明日迎えに参ります。お嬢様がた、どうかお気をつけて。なにかありましたらすぐにご連絡をください」

 と頭を下げた。車のヘッドライトが遠ざかり、わたしはなぜだかよく解らないけれど、ますます心細くなってしまったのだった。まるで橋桁はしげたを離れたばかりの乗船客みたいに。知らない場所に、真っ暗な林の中に、わたしとお姉さましかいない。それはとても不思議で奇妙な感覚だった。

(ここの管理を任せている夫妻がいるの。日中のあいだに掃除をしてくれているはずだし、冷蔵庫には冷たい飲み物も用意してあると思うわ。大丈夫よ、明日まであなたに不自由はさせないから)

 そう言いながら、お姉さまは次々と部屋の明かりをつけて回る。リビングには瀟洒しょうしゃなシャンデリアと、グランドピアノ。本物の暖炉とマホガニーのリビングボードにサイドチェスト。革張りのしっとりとした質感の大きなソファー。そして、額に飾られた脚が八本ある不思議な蝶の絵……。どれもこれもが見ただけで高価なものだと解る。もっとも絵の価値なんて、わたしなんかには計り知れないのだけれど。

 部屋は十八畳程のリビングと寝室が一つ、トイレと浴室、そしてキッチンという作りになっている。部屋の様子や間取りから、多分この別荘が建てられてから長い年月が経っているのだろうと推測した。それはけっして今ふうの様式ではなかったから。けれども建物自体は古びていたり見窄みすぼらしかったりはしていなかった。うーん。どう表現したらいいのだろう、綺麗な女優さんが綺麗なまま歳をとったような……とでも言ったらいいのだろうか。とにかく、要はこの別荘がとても素敵だという事を言いたかったのだが、うまく表現できているだろうか。

 わたしはふと思いついて、そっとピアノに触れた。黒く、艶やかな表面に、わたしの複雑な表情が浮かんでいる。どんなに素敵な場所であっても、楽器に触れると……なんだか切ない。

(……一花)

 お姉さまに肩を叩かれて、わたしは慌ててピアノから手を離した。

(お風呂にお湯をためるわ。今、冷たいものを用意するから。ソファーに座っていて)

(そういった些事でしたらわたしがやります。お姉さまこそ座ってらして)

 わたしがそう言って慌てて動こうとすると、お姉さまは苦笑しながらわたしの手をきゅっと握りしめた。

「今日のあなたはお客様だもの。いつも聖徒の妹の仕事を頑張ってくれているご褒美なのよ? ……ねえ、わたしにも姉らしい事をさせて。ね?」

 わたしはちょっと照れながら、こくんと頷いてみせた。

 ソファーに座るとそのままおしりが沈み込んでしまって、わたしは慌ててスカートの裾を掴んだ。まるで雲に腰掛けているような、そんな夢みたいな座り心地のソファーなのだった。

 お姉さまの運んで来てくださった冷たいミントティーに口をつけると、緊張して強張っていた肩の力がすうっと抜けていくのが解った。それほど眠くはないのだが、一度力を抜いてしまうと疲労が鉛のように足にまとわりついて、動く気力をなくしてしまう。

 お風呂の用意をしていたお姉さまが自分用のミントティーを淹れて、わたしの隣に腰を下ろした。流石に慣れたもので、パンツを見せてしまうようなはしたない座り方はなさらない。

(一花、今日はありがとう。こんなに遠くまで来てくれて。ここはね、以前はお祖父様が使ってらっしゃったのだけれど、今はわたしだけの秘密の隠れ家なの。ひとりになりたいときやピアノに集中したいとき、時々ここへ来るのよ)

 お姉さまが天使のような笑顔を浮かべている。わたしも慌ててお礼を述べた。

(とんでもございません。わたしの方こそです。今日はお招きくださいまして、本当にありがとうございました。ところでお姉さま……ピアノをお弾きになるんですか?)

 なんでも上手にこなせる方なのだから、ピアノの演奏だってお手の物かもしれない。もっとも……お姉さまの別荘にあるピアノなんだもの、お姉さまがお弾きにならないはずがないのに。

 わたし、なに馬鹿な質問をしているんだろう。

(ええ。……一花にはまだ話していなかったわね。わたし、ミシンを卒業したら音大に行こうと思っているの)

 ……音大?

 それって音楽の大学……だよね?

 そっか、お姉さまにはお似合いかもしれない。

 けれど……。

 なんでこんなに、胸の真ん中が痛いんだろう。なんでこんなに……口の中が苦いんだろう。わたしはお姉さまに気づかれないように。そっと、ミントティーを口に含んだ。

 お姉さまはわたしのそんな仕草を見て、少しだけ悲しそうに眉を寄せ、それでも静かに微笑んでいる。

 どのくらいそうしていたのかよく解らない。不意にお姉さまは立ち上がって、部屋を出て行った。

 戻ってきたとき、お姉さまの手は少しだけ濡れていた。

(お風呂が沸いたわ。……どうする? 一緒に入る?)

 わたしは小さくかぶりを振った。

(残念。じゃあ、先にいただいちゃってもいいかしら。少し用意しなきゃいけないものもあるし。あ、寝室は一緒だけれど、一花用にクローゼットを開けてあるから。今のうちに荷物の整理をしておきなさいね)

 お姉さまは嫋やかに指を動かして、部屋をあとにされた。わたしは氷の入ったグラスを軽く振った。ぽたり、と表面の水滴が膝の上に落ちる。……氷がグラスにぶつかる音は、涼しいんだって。昔お母さんが言っていた。

 涼しい音。涼しい音って……なんだろう。どんな音なんだろう。

 わたしは黒々としたピアノを見つめた。目をつむったら消えてなくなっていたらいいのに、なんて……思いながら。


 お風呂上がりのお姉さまは、ジーンズ生地のロングスカートに白い半袖のブラウスというとてもラフな格好をされていた。髪をバスタオルで拭きながら、軽く目を閉じている。

 わたしもお姉さまのあとにお湯をいただいて、買ったばかりの新しい下着をつけ、パステルカラーのブラウスとキュロットスカートに着替えた。お姉さまが入ったあとのお風呂だと思うとそれだけでなんだかいい匂いがする気がして、少しのぼせてしまった。そして、そんな事を考えてしまう自分が我ながら馬鹿みたいだな、なんて呆れてしまうのだった。目を閉じるとさっき寝室で見た、大量の楽譜が収められた書架の事が思い出されて……切なくなった。

 わたしが湯上がりにバスタオルで髪を乾かしていると、その姿になにかをお感じになったのだろうか。お姉さまが代わりに髪を拭いてくださった。鏡もないし、お姉さまの両手がふさがってしまうから。一方通行のお喋りしかできない。だからわたしは黙っていた。それでも心が繋がっている気がして、その指のやわらかな感触に全てを委ねていた。

 髪を乾かし終わると時計の針は午前零時を回ったところだった。

(ねえ、お姉さま。本当にこれから出かけるのですか? 佐々木さんもいらっしゃらないですし。こんな林の中の一軒家で……どこに行こうというのですか?)

 わたしは不安に駆られてお姉さまに訊ねた。

 お姉さまはちらりと壁に掛けられた振り子の時計を見つめて。

(なにを言っているの。これからだもの。さあ、出かけるわよ)

 そう言うと指を組んで大きく背伸びをした。ブラウスの裾からちらりと白いおへそが見えた。

 お姉さまはLEDのランタンと懐中電灯、温かな紅茶を詰めた水筒を手にすると、養生シートを入れた鞄を肩に掛けた。まるでピクニックにでも出かけるように。そして、最後に小さなカウベルのようなものを腰の辺りに吊るした。

 ……あれはなんだろうと不思議に思っているわたしに、お姉さまは虫除けスプレーを吹きかけて小さく微笑みながら。この鈴はお守りよ、と言ったのだった。

 わたしはお姉さまに手を引かれて歩きつつ、たしかあれに似たものをいつかテレビで見た事があったような……なんて思っていた。でも、それがなにかは解らなかった。

 一歩玄関から足を踏み出すと、別荘の外には深い闇が広がっていた。

 涼しい軽井沢の夜なのに。わたしはじっとりと手に汗をかいていた。きっとそれは手を握り合わせているお姉さまも気づいたはずだ。

 怖い。

 ……めちゃくちゃ怖い。

 耳が聞こえないのに、その上なにも見えないなんて。手を握っているから話もできないし、お姉さまの表情も、唇も……よく解らないし。

 ねえ、

 ねえ、お姉さま。

 この先になにがあるの?

 ここまできて、まだ……秘密なの?

 わたしは泣きそうになりながら、いつのまにかお姉さまの手を両手で強く握りしめていた。

 お姉さまはわたしが恐怖で震えているのに気付いて、歩みを止めた。

 そしてランタンを軽く持ち上げて、

 ご自分の表情がよく解るようにしてくださった。

 あの……お姉さま?

 情けない表情のまま、首を傾げて見せると。

「大丈夫よ。わたしがついているわ。なにも心配しないでいいの。怖がらなくていいの。ただ、わたしの手をしっかりと握っていなさいね」

 ……はい。お姉さま。

 お姉さまの唇が読める。それだけで安心できた。夜の闇は相変わらず怖かったけれど、わたしはお姉さまを全面的に信じるって、そう決めているんだもん。

 なんとかぎこちなく笑って見せたわたしをお姉さまは優しく抱きしめてくれた。やわらかな胸の向こう側に、お姉さまの心臓の鼓動を感じる。わたしとは違うリズム。これは、音……? それとも、……なに?

 暗闇の中を小さなランタンと懐中電灯の明かりだけを頼りに歩いていく。どれくらい歩いたんだろう。不意に、林が途切れた。

 う、

 うわっ……。

 なに、……これっ?

 そこは……林の中にぽっかりと空いた、不思議な空間だった。一面に咲き誇る花は……なんという花だろう。見上げると、……あ、星が。

 星が流れた。

 満天の、夏の星座のその先に、ひとつ……ふたつと。

 次々と……星が流れて落ちてくる。

 すごい、すごいっ。

 なんて綺麗なのっ!

 わたしが興奮しながら夜空を指差すと、お姉さまがあれは流星雨よ、と教えてくれた。

(……流星雨?)

 お姉さまはランタンを地面に置いて、そっと髪を掻き揚げた。

(ええ。三大流星群のひとつ。ペルセウス座流星群。今、ちょうど……一番多く星の雨が降る時間帯なの。見ていてごらんなさい、一花。夜が零れてくるわ)

 わたしはもう一度夜空を見上げた。

 視界の隅をまた、星が流れていった。

(お姉さまは、これを……わたしに見せたくてここに?)

(……見る、だけじゃないのだけど、ね)

 え?

 不思議に思って首を傾げると、

(一花はエレクトロフォニック・サウンドって言葉を……聞いたことがある?)

 え、えれ……く?

(電磁波音とも言うのだけれど。星が流れるときに音が聞こえる事があるらしいの。誰もが聞こえるわけじゃないわ。いつでも聞こえるわけじゃないわ。でも、それは耳で聞く音ではないという事らしいの。脳に直接響く音なのですって。わたしも詳しくは知らないのだけれど。でもね、もしかしたら、もしかしたら……一花にも聞こえるかもしれないって、そう思ったら居ても立ってもいられなくて……)

「……あっ、一花っ?」

 わたしは、お話の途中のお姉さまの両手を、ぎゅっと強く握りしめた。びっくりされたお姉さまが、声で、わたしの名前を呼んだのが解った。

「おねぇさま」

 わたしは言った。……口話で。

 初めて、お姉さまって。声に出した。

 お姉さまは驚きと戸惑いの表情を隠さず、目を丸くして、わたしを凝視している。

「ちゅきぃ、です」

「……月? 今日は月なんて」

 わたしは強くかぶりを振った。

「すぅき、です。おねえしゃまが、すき、ぇす」

「……うん。わたしも、わたしも一花が好き。大好きよ」

 わたしはじっとお姉さまの唇を見つめていた。

 わたしにこの景色を見せてくれたお姉さまが好き。音を聞かせてあげようって思ってくださったお姉さまが、好き。大好き。

「おねあいぇす。……きす、して。おねぇさま」

 暗くてよかった。

 夜でよかった。

 だって、わたしの顔……きっと真っ赤だもん。

 わたしは生まれて初めて言葉を読み取るためじゃなく、相手の唇を見つめた。お姉さまの真剣な目が、まるで頭上の星々のようにキラキラと光っている。

 お姉さまの唇がそっとわたしの唇に触れた。

 だから。

 ……わたしもそっと目を閉じた。


 結局、流星の音なんてわたしにはもちろんの事、お姉さまにも聞こえなかった。元々伝説みたいなものだというから、聞こえたらそれこそ奇跡だったろう。奇跡はめったに起きないからこそ奇跡なのだ。でも、そんな事、わたしにはもうどうでもよかった。

 養生シートを広げて腰を下ろし、ふたりで夜空を見上げながら温かい紅茶を飲んだ。盛夏とはいえこの時間になると少し肌寒い。わたしはお姉さまにぴったりとくっついて、飽きる事なく星空を見つめていた。

 聞いたところによるとこの辺り一帯は全て雪乃宮家の敷地になるのだそうだ。あのフェンスはそういう意味だったのかと改めて思った。この辺り、と言われても実感はなにも湧かない。けれどもお姉さまと一緒にこの夜空を独り占めできるなんて、それだけで嬉しい。誰もこない、誰も立ち入れない場所に、今、ふたりきりで居られるこの幸せを、わたしは深く噛み締めていた。

(……そろそろ戻りましょうか)

 でも、楽しい時間は永遠じゃない。必ず終わりが来る。暫くするとそう言ってお姉さまが立ち上がり、おしりを両手で払った。座っていた場所の草が少し折れ、青い匂いが漂っていた。

 来た道をまたランタンと懐中電灯の明かりを頼りに別荘まで戻る。行きよりは気分的に幾分楽だったけれど、それでもやっぱり林の中に踏み入ると恐怖で心臓が縮こまってしまう。遠くのほうに別荘の玄関の明かりが灯されたままなのが微かに見える。まるで船乗りを導く北極星ポラリスのように。

 わたしはお姉さまに手を引かれながら、そっと自分の唇に触れた。お姉さまと二回もキスをしてしまった場所を。指先で唇を撫でると、まだそこにお姉さまの感触が微かに残っているみたいな気がする。

 ……あんな事言って、軽蔑されちゃったかなぁ。

 自分から、キスして、なんて。わたし……なんて事をお願いしちゃったんだろう。思い出すだけで顔が茹蛸になっちゃう。後悔はしていないけれど、気分に流されてしまった感はどうしても否めない。

 ……お姉さまはどう思ったのかな。

 いつも、冗談みたいにちょっとセクシャルな事は仰られるけど……どこまで本気なのかな。

 確かめたい。でも……ちょっと怖い。

 だって。

 全部わたしの勘違いだったら、どうしようって……思うんだもん。笑われたらどうしようって思うと……切なくなるんだもん。

 そんな事を考えているうちにあっという間に別荘についてしまった。行きよりもずっと早い。もちろんそれは気のせいで、そう感じただけなのだろうが。

(熊が出なくてよかったわね)

 お姉さまが玄関の鍵をかけたあと、くすりと小さく笑いながらそう言った。

 ……え?

 く、熊っ? ここ、熊がいるのっ?

 そんな、笑ってる場合じゃっ。

(……冗談よ。本気にした?)

 もうっ。

 わたしはお姉さまの肩を数回引っ叩いて、むくれて見せたのだった。

 でも、本当に冗談だよね?

 わたし、思い出したんだけど……お姉さまが腰につけてらしたあれって、やっぱり……熊除けの鈴だったのかなぁ……。

 ランタンや養生シートを片付けて、ふたりでまたソファーに座り、何気なく時計を見上げると、驚いた事にもうすぐ二時になるところで。……さすがにこれはもう寝なきゃダメだろう。

 なのに。そう思うのに。明日にはもう帰らなきゃならないって思ったら……このまま寝てしまうのがもったいなくて。いたたまれなくて。

(ねえ、お姉さま。さっきの罰に一曲、ピアノを弾いてくださいませんか)

 わたしはそうお願いしていた。

「……ピアノ? でも」

 お姉さまは驚いて、指を動かすのも忘れてしまったようだった。

(お願いします。お姉さま)

 自分でもなんでそんな馬鹿な事を言ってしまったのか、解らない。全然理解できない。お姉さまを困らそうなんて、そんなだいそれた事を思ったわけじゃない。そうじゃない。そうじゃなくて……。

(解ったわ。寝室の書架に楽譜を置いてあるのだけれど、……どうしましょうか。取ってくる?)

(そんな、簡単なのでいいですよ)

 わたしは慌てて首を横に振った。

(なら、暗譜で弾けるものを演奏するわね)

 お姉さまは両手の指を揉み合わせながらそう言った。ぽきぽき、と指を鳴らしているのかもしれない。

(ではバダジェフスカ作曲、『乙女の祈り』を)

 ピアノの前に座り、鍵盤に指を添える。ペダルの位置を確認する。わずかに持ち上がった指が、鍵盤を沈ませる。それが演奏の始まりだった。お姉さまの上半身がゆれる。指が鍵盤の上を滑っていく。優雅に、ワルツを踊るように。わたしはその大きなグランドピアノに近づいて、そっと触れてみた。ペダルを踏む振動、ハンマーが弦を叩く振動、鍵盤に触れるお姉さまの気配。流れるような、嫋やかな指先。グッと息を詰まらせる真剣な表情……。

 それは時間にしてどのくらいだったのか……気がつくと演奏は終わっていた。お姉さまはそっと立ち上がって、わたしの髪を優しく撫でた。

(少し音が狂っていたわね。あとで調律を頼まないと)

(……そうですか? わたしは気づきませんでした)

(まあ、一花ったら)

 お姉さまが口元に手を添えて、小さく笑う。どんな意図があったのだろうって、緊張していたお姉さまの頬が緩む。

 その美しい顔が……涙で滲んでいく。

 ぼろぼろと、たぶん滂沱ぼうだと表現してもいいくらいの涙を流しながら、わたしは何度も何度もしゃくりあげた。

 異変に気づいたお姉さまは、でも……どうしていいのか解らない、といった表情で立ち尽くしていた。

「一花……?」

 心配そうにわたしの肩に手を置いたまま、お姉さまが訊ねる。涙でよく見えなかったけれど、たぶんわたしの名前を呼んでいる。

「……ごえんなさぃ。ごめ、んなさぃ……おねぇさま。みぃがきこぉえなくて、ぃあのがきおえなくて、ごえんなさぃ。……ごめんなさいっ」

 お姉さまの世界と、わたしの世界は、この先どこまでいっても交わらない。お姉さまのピアノの演奏は、永遠に、わたしの耳には届かない。もしもお姉さまが将来名高い演奏家になったとしても、その華やかな世界を、お姉さまの音を、わたしは知覚する事すらできない。ピアノがなぜ音を出すのか、その原理は知っている。『乙女の祈り』がお母さんの病院のナースコールのメロディに使われている事も知っている。

 でも、それがなんなの? なんだっていうの? 悲しくて、悔しくて。涙だけがいつまでも溢れ続ける。自分でもこの感情をどうしていいか解らない。ただ、ただ……一回でいい、音を、……知りたいだけだったのに。

 ねえ、お姉さま。

 わたしの言った言葉は、お姉さまに伝わっていますか? きちんと……喋れていましたか? 言葉を喋る事すら、わたしにはとても困難です。

 ねえ、神様。

 どうして……どうしてわたしの耳は聞こえないのですか? どうしてお姉さまのピアノを聴く事ができないのですか? ねえ、……どうして?

 どうしてわたしはこんな仕打ちを受けなきゃいけないの?

 お姉さまにきつく抱きしめられながら。

 涙の通り道に何度もキスをされながら。

 わたしは泣き続けた。

 お姉さまに手を引かれて寝室に入っても。優しく、お姉さまの手でベッドに横たえられても。涙は止まらなかった。

 ……不意にお姉さまの震える指先が、おずおずとためらうように、わたしのブラウスのボタンに触れた。わたしは気づかぬふりをして、両手で顔を覆い続けていた。

 でも、そこまでだった。それ以上の事はなさらなかった。わたしは……離れそうになるお姉さまの指先を、逃がさないようにそっと握り締めた。その瞬間驚いて、肩を震わせたお姉さまと目と目があった。わたしは小さく頷いてみせた。それでもお姉さまは暫しのあいだ、心の中で葛藤して、逡巡しゅんじゅんしていたようだった。

 わたしは行為が再開されるのを、じっと待っていた。

 そして。……一番上のボタンが外された。

 わたしの体がひくん、と震えた。お姉さまの指も一瞬震えた。けれど、今度はもう……その行為をやめたりしなかった。

 ゆっくりと、ゆっくりと。服を脱がしてもらいながら。わたしは思った。

 ああ、お母さんの言っていた事は正しかったんだ、って。

 女の子の〝勝負〟は一瞬だけ。

 服を脱がされて、下着を剥ぎ取られるまでの、その刹那のあいだだけ……。

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