第22話 失恋――柳

 ツバキが「W大を受ける」と言った時は本当に驚いた。あの頑固なツバキが、オレなんかのために進路を大幅に変えるなんて考えたこともなかった。しかも親の前で「離れたくない」なんて言われたらオレも引くに引けない。

 第一、恐ろしいことにツバキが名前を出した大学は日本でも有数の難関大だった。オレが指定校推薦で受かったとして、ツバキの大学は比べようもないような有名大だった。「離れたくない」どころか、そんなとこに行ったら格差が大きすぎてオレが捨てられるのがオチだろう。

 食えない女だ。

 そしてオレはそんな女にどうしようもなく惹かれている。ツバキよりいい女はいない。断言できる。


 ある日ツバキの顔の傷を日課として観察しようとすると、傷がすっかり消えていた。いや、消されていた。

「何よ、あんな傷、毎日ちまちま観察しなくても簡単に消せるのよ。問題がある?」

「いや、化粧してるの?」

「してるの。……化粧とか、嫌いだったりする?」

 いや。

 いや、傷がキレイに消えてよかった。あんなとばっちりを受けた傷が永遠にツバキに残るなんて、納得が行かなかった。

 罰を受けるのはツバキじゃない。ツバキが庇ったあの弟だ。……そう思っていた。でもそれは言えなかった。ツバキは弟を大切に思っていることがわかっていたからだ。

「そっか。あんたが毎日気にするからがんばって早起きしてきた甲斐があったわ。あんたが気に入ったなら、わたしも満足。できるだけ毎日する」

「いや、いいよ。人前に出る時だけでいいよ。オレは構わない。全部ツバキだから」

「相変わらず変にロマンティック! だから図書委員長なんかになるんだわ」


 予備校は盆休みになった。

 オレの部屋で二人でだらだらしている。オレの隣にはノースリーブのワンピースを着たツバキが、自分の腕を枕がわりにして寝転がっていた。さっき二人でオレの作ったナポリタンを食べたから、腹も膨れていた。

「ねえ」

「ん?」

「眠い。膝枕して」

「イヤだよ、痺れるし。大体、普通は立場が逆だろう?」

 何よ保守的なことを言って……、とめちゃくちゃな理由でツバキは拗ねてみせた。拗ねると子供みたいで尚更かわいい。

「腕枕は? 腕枕ならいいでしょう?」

「仕方ないな。痺れるのは変わらないけどな」

 床で寝てしまいそうになるツバキをベッドまで引きずる。一緒に固い床の上で寝たら体がひどく痛くなるに違いない。

「……暑くないか?」

「ううん、気持ちいい。柳くんのそばが気持ちいい」

 変なことを言うから、感動しながらも変な気持ちになってくる。いっそこのかわいいセリフを録音しておきたかった。

 おでこに頬を寄せる。

「……化粧、つくわよ?」

「触らせないつもり?」

「うーん。それはどうかなぁ? わたしは柳くんのものだからなぁ」

 耳を疑う。

 甘い言葉がするすると出てくるような甘い恋人ではなかった。

「もう1回」

「しつこいの嫌い」

「もう1回だけ」

 うーん、と言って、ツバキは腕の中で方向転換して、背中を向けた。

「もう1回だけだかんね? ……わたしは柳くんオンリーだから……」

 ツバキの細い背中を後ろからそっと抱き締める。恥ずかしがりのツバキの背中が軽く緊張している。

「大事にする。これからも今よりずっと、大事にするよ」

「大事にしすぎ。つか、受験勉強やれ。わたしは範囲終わったから寝るから」

「オレのベッドで?」

「そう、あんたのベッドで」

 勉強のことを言われると、今は何も言い返せない。よっとベッドから下りる。開きっぱなしのテキストには、まだ書き込みがない。

 ありがたくツバキのノートを拝借する。わかりにくいところ程、丁寧に書き込んである。まるでオレのためのノートみたいだ。

「あのさ」

「うん?」

「怒らないで聞いてほしいんだけどね」

「うん」

 ちょうどsinθ、cosθ、tanθに翻弄されていた。つまり話半分に聞いていた。

「柳くんと喧嘩してた間、失恋したの」

 ……テーブルに、バタンと叩きつけるようにシャーペンを置く。今なんて?

 あの短い間に。恋なんてしたの?

「誰に?」

「言えない」

「だったら言わなきゃいいじゃん」

「ケジメ。誰かに話たかったの」

「……何もオレに言わなくたって」

「だって! 好きだって気がついたんだけど手が届かなかったの! それだけ!」

 言うと、ツバキは布団の中に隠れた。細い髪の先だけが見える。

 ツバキが好きになった男って、どんなヤツなんだろう? オレに似てるのか? 似てないのか?

 大体、ツバキを袖にするなんて一体……? ツバキが蹴飛ばしたんならわかるけど。テキストからもう一回離れて、ベッドサイドでツバキの髪を撫でる……。さらりとした手触りのいい髪はオレだけのものだ。

「ねえ」

「ん?」

「……キスして?」

 いいよ、と言うとごそごそと布団から顔を出してくる。まるでモグラだ。

 チュ、と唇と唇が触れると、ツバキはにまーっと笑って顔を赤らめて布団に潜って行った。

「柳くん、おやすみ」




(了)


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