第10話 わたしの勝ち――ツバキ
「おはよ、う……」
顔も見たくないはずの男が視界に入って、朝から間の抜けた挨拶をする。目が、ピッと合ってしまったけど知らんぷりして席につく。
ああ、また右斜め後ろから視線を感じる……。なんなんだよ、一体。それだけわたしが好きってことなの? どういうことなのかもっとよく説明してくれないと、落ち着いて勉強もできない。
とにかく1時間、集中する。この先生の数学の解き方の説明が好きだ。わかり易くて、媚びていない。とにかくノートに書き込みを入れながら板書を写す。
数学が終わるとあの男が予想通りやって来て、話があるんだ、と言った。わたしにはない。黙っていた。
とにかく聞くだけ聞いてくれ、と彼はわたしに懇願して周りのみんなの目を引いてしまった。それもあって渋々了承する。ただし、昼休みに、と。
英語の時間は気が気でなかった。
受験科目の中でも英語を落とすわけにはいかない。そんなことをしたらすべておじゃんだ。わたしは何より英語に重きを置いていたけれど、それ以上にこれから起こることに気を取られていた。
わたしはまた怒るのだろうか?
彼はまたわたしを怒らせるのだろうか?
それとも。
そんな直近の未来を希望的観測で捉えるのは間違っていると思っていた。
「ツバキ」
呼ばれて一緒に部屋を出る。
「昼、どうしてる?」
「適当に買ってきて食べてる」
「どっか行く?」
久しぶりに見上げる角度が定まってきて、こくんと頷く。いけないなぁと思いつつ、懐かしさがこみ上げる。懐かしいといっても、まだ1ヶ月程前のことだけど。
「……何してた?」
弟とキスしてたとはとても言えないので、勉強してたよ、と無難に答える。
「そうだよな、何だかんだでツバキはコツコツやれるタイプだもんな」
階段を下りるごとに、サンダルの踵がカツン、カツンと鳴る。その音は響いては消えていく。
「あんたは違うの?」
「オレ? オレはムラが激しいからやる時とやらない時の差が激しいよ」
ふぅん、そうなんだ。長い間付き合ってても、そんなことも知らなかったんだ、わたし。することも確かにしたけど、勉強だって一緒にしたし。それとも彼はわたしと一緒にいると本当にムラムラしちゃって、勉強どころではなかったんだろうか?
気になって、胸元の当たりをじっと見る。そこにはいつも通り、豊かとは言えない程度の胸の谷間がうっすらと見えていた。夏は薄着で困る。
「成績落ちたの、わたしのせい?」
彼は少し黙って、難しい顔をした。わたしも確かに含まれてるんだなと思うと、いまだに胸がキリリと痛む。別れた時にもそういう理由はあるのかもしれないと思っていた。
「マックでいい?」
「いいよ」
さり気なくそっと手を繋いだりしてこないところが、この人の品の良さを表していた。そういう背筋の伸びたところが好きだったけれど、時にはぐいっと無理にでも引きずられてみたいのが女だ。惚れ直して、同時にがっかりする。
だからと言ってわたしから手を繋ぐわけにはいかないし、結果、手持ち無沙汰になる。
食べ物の乗ったトレイを持って、席に着く。座りながら、彼がため息をついたのを見逃さなかった。少しだけ傷つく。……面倒な女だと思われている。
「本当のことを言うと、すごく迷ってるんだ。ツバキと一緒に、落ちるの覚悟して国立、受けようかと思うんだけど受かる可能性は低い」
「それで?」
そればっかり。可能性とか確率とか、あんたは数字の世界だけで生きてんのって感じ。
わたしは、わたしが逆の立場なら、死に物狂いで追いかけてダメでも追いかけて、ダメだったら……。
「もし浪人することになっても許してくれるか?」
「落ちるの前提?」
「いや、やるからには全力でやるよ。ツバキだけ入学したら、どんな悪い虫がつくかわかんないし」
「わたしそんなに魅力的じゃないし」
「ツバキが魅力的じゃなかったら、こんなに惨めなこと言わないだろう?」
背けていた目を、ゆっくり彼の顔に向けた。
「それ、本気で言ってんの?」
バカじゃないの、と思う。これから先、例えば別の大学に通ったって、そこにはそれなりに魅力的な子がいるはずだ。そんなに盲目になってるなんて……笑えない。
「本気だよ。じゃなきゃこんなに迷わない」
ポテトを摘んでいた塩と油だらけのわたしの手をいつも通りスマートに、なんかじゃなく、不躾に取る。塩がついちゃう。久しぶりに繋いだ手の感触。そこから楽しかった思い出が、ぶわっと流れ込んできそうで怖い。
「ごめん。無理やり手、繋いだり。でもツバキは特別なんだ。どう思われたっていいよ」
いや、良くない。このまま手を繋いでたら何も食べられないし、そしたら午後の授業に間に合うわけない。だから手を……。
ヤバい、指先が震える。
「そんなにやだ?」
凍ったように頷くことも、否定することもできない。ただ、繋がれた手を見ている。緊張に震える指先と、彼の日に焼けた手の甲。
あの大きな手がわたしを包んだ日のことを思い出す。魔法にかかったような素敵な手。わたしに魔法を分けてくれる。
「ツバキ?」
車と人の往来が激しい通りを、見るでもなく見つめた。今日は上げるに上げられず下ろしてきた髪が、じっとりうなじに汗をかかせていた。あせもができそうだ。
涙はいつだって不意にやって来る。
わたしだって悔しくなくても泣くこともある。否、それともわたしのために将来の選択を曲げると言う彼の潔さが悔しくさせてるんだろうか?
「好きなんだ。よくわかった。ツバキがいない人生に意味は無いんだ」
「バカじゃないの? プロポーズじゃあるまいし」
「プロポーズだって何だって構わないよ。ツバキの心がそれで動いてくれるなら」
わたしは握られてない方の手をそろそろと出して、彼が握っている手に添えた。一瞬、彼の体に緊張が走った。その瞬間を見逃さず、利き手に力を込めて腕相撲の要領で一気に倒した。
「わたしの勝ち」
「なんだよ、いきなり」
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