第19話 離れないで――柳
あの日、ツバキに呼ばれた時、心底焦った。救急車なんて言い出した時には、何か致命傷を負ったのかもしれないと思った。
あながち間違いではなかった。
ツバキの真っ白な頬の半分はガーゼで覆われている。傷はほとんど残らないと医者は言っていたが、よく見ると見える程度の傷は残るかもしれないと言った。どちらにしても心の傷は残るだろう。
オレは聞いた。
「なんですぐ呼んだ? まだ帰ってなかったかもしれないじゃないか」
「柳くんは上手くやってくれると思ってたから。きっとピュンてわたしのピンチに駆けつけてくれると思ってたのよ」
「そっか」
「さすがわたしの彼氏だよね。あんなに早く現れるとはさすがに思わなかったし、実のところ、会えないまま病院に行くことになるんじゃないかってそう思ってた」
予備校近くのサーティワンで彼女は笑った。
甘いものが苦手な彼女は「ジャモカコーヒー」を、オレは「ラムレーズン」を食べていた。
特にそれ以上何かを話さなくても間が気になることはなかった。学校の図書室を閉める前、二人っきりになる時間がよくあった。その時間を有効活用しようと、オレたちは書架に隠れて必死にキスをしたけれども、その時と同じだった。何も喋らなくても心は通じていた。
「……本当は怖かったんだ」
「だろうな」
「だから、そばにいてほしかったの」
ツバキの心が、肩にそっともたれかかるような気がした。顔に傷があったって、例えそれが一生残ったとしたってツバキはツバキだ。けど、カッターの刃が違うところに届かなくてよかった。命まで切り裂かなくてよかった。ツバキをもう一度失うことにならなくて、仲直りをした後で、本当によかった。
一番に呼んでくれてよかった。
日傘を止めないかと提案したのは自分だったけど、痛々しい傷口を覆うガーゼを隠すには日傘が必要だと思った。
けどこの頑固者は約束したものは
「ガーゼの下以外は、ちゃんと日焼け止め塗ってる。ベトベトして嫌いだったけど今はスプレータイプのもあってね、プシューってやるだけでいいのよ、便利でしょう? 虫除けスプレーみたいにシューってやればいいのよ」
と言い放った。そうして可愛らしい麦わら帽子を被っている。飴色をした麦わら帽子だ。
ポニーテールにはできないのよ、とご立腹だった。
彼女の右手をそっと握る。身長の割には少し小さな手をしていて、子供のように手のひらがぽってりしている。細く均整の取れた指とはちぐはぐで、そこが愛らしい。その小さい手で、ツバキはオレの手をぎゅっと握る。手を繋ぐことで安心するのはいつもオレの方だ。彼女がいてくれることが重要だ。
さて、受験だ。
今回のことがあってますます受験に落ちるわけにいかなくなった。
あのツバキのことだ。今回はとばっちりだったとは言っても、口の悪さで敵を作らないとは言い切れない。大学に行けば目の届かない時間が多い。同じ学科を志望しているわけではないからだ。同じ大学に入ってもそれだ。違う大学だったら毎日会うこともできなくなる。
目が離せない。
彼女にはオレがついててやらないといけないと思う。他でもないオレが。
好きだ、好きだと言っていたって緊急の場合に駆けつけられなければ何にもならない。オレは医者じゃない。ツバキの延命をしてやることはできない。それでもそばにいることで、幾分安心は与えてやれる。たぶんそれが一番重要で、ツバキが望むことなんだろう。
「なぁに難しい顔して考えてるのよ? つまんなーい」
「つまんないってお前、予備校の復習しておこうって言い出したのお前だろう?」
「だって、柳くんはちっとも進んでないじゃない。ペンを持ってボーッとしててさ。つまんないわよ、わたしのことはどうでもいいわけ?」
「ちっとも良くないからあの時もチャリ漕いで行っただろ?」
「はいはい、その話はもういいから。……嘘。一生かけても払えない借り、作っちゃったね」
「いいよ、返さなくて。その前に泣かせたバツなんだよ」
ツバキの、傷がない右頬を左手で撫でる。滑らかな質感。積極的にキスを求めてきて、舐め合うように唇を重ねていく。そのうちにねっとりとした舌先がお互いの舌先に触れ合って、急激に欲しくなる。ツバキを欲しくなる。
「痛くない?」
「痛かったら毎日、ご飯食べられない。慣れたよ、ある程度は」
勉強をするためにひとつに結わえた髪が涼しげだ。耳を攻めてから、一つ一つ何も変わってないか丁寧に確かめながら事を進める。
ツバキはどの時にも体を小さく震えさせながら、声も出さない。息を止めているように、体が強ばっている。
「ダメだった?」
「バカ。ダメだったらとっくに跳ね除けてる」
それを言うとはーっと大きなため息をついて、乱れた呼吸を整えようとはしなくなった。いつも強気なツバキが「女の子」になる瞬間、それに立ち会えることがいつもうれしい。
「柳くん……離れないで」
覆いかぶさったオレの下で、切れ切れになった呼吸をかいくぐってやっと声にして、ツバキはそう言った。小さな頭を抱きかかえた。
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