第3話 ノーをイエスに変えろ――カエデ

 姉ちゃんを好きになった時がいつだったのかなんて、そんな昔のことを聞かれても困る。誰だって覚えてられる過去には限界があるからだ。

 でも、はっきりそれを自覚したのは柳先輩のお陰だ。

 柳先輩は1学期の期末が終わった翌日、姉ちゃんをはっきりふった。それは先述した通りだ。

 その日の壁越しの泣き声が小さいのが気になって、そーっと僕は姉ちゃんの部屋を訪れた。

「入ってこないでよ……」

 ドアを開けたところで僕は立ち竦んだ。ジャスミンが冷房の冷気を察して、その日も部屋に侵入しようとする。僕は屈んでそれを抱き上げた。

「泣いてることくらい、わかるでしょ?そっとしといて」

 考えた。

 もし君が、涙に震える少女を見たらどうする?物語の中ならきっと、近づいて背中をさすってあげるだろう。

「どうしたの?」

 と聞きながら。ジャスミンを廊下に下ろすとドアを閉めて僕はそれを実践した。

 姉ちゃんはしばらく理由を話そうとはしなかった。どうしたものか、と考えた。でもきっと、これは柳先輩のせいだと直感的に思った。

「ツバキ」

 びくっ、と肩が震える気配がした。部屋はカーテンが引かれ、薄暗かった。

「先輩のこと?」

 今思うと本当に鈍感だったと思う。うすのろバカ間抜けとはまさに僕のことで、どうしてもっと気の利いたアプローチができなかったのか後悔した。

「カエデ……」

 それまで嗚咽を繰り返すだけだったツバキは、僕の肩に掴まったかと思うと、しゃがんでいた僕に抱きついてきた。重心が崩れて、尻もちをつく。そんな僕におかまいなしに、ツバキはぎゅっと僕にしがみついた。

 ツバキのしゃくり上げる音しか聞こえなかった。

 セミの声も、クーラーの送風口の音も、何もかも消失した。そう、世界は真っ暗で僕たち二人だけだった。

 まだ制服のままだったツバキの白い膝が、薄暗い部屋にスカートから浮かび上がる。どうして姉に対してこんな気持ちになるのかその時はまったくわからなかった。

 思っていたことを行動に移さなくてはならない。僕は彼女のすすり泣く声を聞きながら背中を軽くさすった。ツバキはちっとも嫌がらなかった。その背中はしっとりと汗ばんでいた。

 しばらくそうしていると、ツバキの呼吸も大分落ち着いてきて、聞いているこっちが苦しくなることはなくなってきた。

 窓とカーテンの隙間からは光が細く漏れていた。

 こぼれた涙を拭ってあげようとティッシュを探したけれど、それは手の届かないところにあって、仕方がないのでそのまま僕の指で濡れた頬を拭った。

 人差し指がそーっとせり上がっていくと、内側にあった親指が、そのまま吸い込まれるように彼女の唇に触れた。

 胸がドキドキした。どんな時よりその鼓動は速かった。

 アオイが初めて誘ってきた時とは比べ物にならないくらい、体が緊張に強ばった。

「キスしてもいい?」

 その時初めてツバキは顔を上げ、瞬発的に僕の目を見て、それから俯いた。ノーだ。でもイエスにしてしまえばいい。女の子がキスの時に俯いたら、それは大概ノーだ。でも、時と場合によっては軽く顎を持ち上げるだけでイエスになる時が来る。

 ツバキの顎に親指を引っかけて、試しに持ち上げてみる。驚くくらい抵抗なくその顎は持ち上がって、かえって僕を緊張させる。緊張と、高揚。

 いつもは僕に対して強気なツバキも所詮、分類すれば女の子なんだ。そのアウトラインがブレて、揺れる。

 僕たちはキスしていた。

 少しずつ、というわけにはいかなかった。

 逃すまい、という勢いで唇を捕まえる。えいやっと、ひと思いに触れた唇は同じDNAからできているとは思えなかった。

 弾力と、潤い。

 驚いて一度離れる。「どうしたの?」という瞳で彼女は僕を見つめる。答えを上手く見つけられない。姉に導かれるように、このまま続けていいものか迷う。

 ツバキの目は透き通った純粋な眼差しで僕を見ていた。

 どうにでもなれ、だ。自分から飛び込んだんだから。

 味わうように、二度目はツバキの唇を唇で挟んだ。ツバキも僕の唇を咥えた。湿ったやわらかさが二人を薄暗い部屋の中で包み込んだ。

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