第4話 弟は間違っている――ツバキ

 熱中症で倒れるとは……やれやれ。

 カエデのお陰でヤバいことにはならずに済み、ひとたび部屋に戻る。甲斐甲斐しくエアコンもつけておいてくれたので、床がひんやりしている。設定温度が22度だ。姉バカにも程がすぎる。リモコンを取って、28度に戻す。

 こんなんじゃ彼女できないぞ、と言いたいところだけどそのお決まりの台詞は用無しだ。あの、黒目がちな天パの女の子。あの狡そうな子がカエデの彼女だ。アオイ? カエデは彼女をアオイと呼ぶ。

 二人がそういう関係なのは火を見るより明らかだった。何しろわたしは姉で、仕事で忙しい母に代わって弟の身の回りの世話をありがたくさせていただいている。

 つまり、有り体に言うとゴミ箱に「証拠の品」が入っていたり、汚れたシーツが無造作に洗濯物に出されていたり……。まあ、わかるよね?

 逆に母親がそれを見つけたら卒倒するかもしれない。外面は美少年で、賢く物静かな息子が、家に女の子を上げて頻繁にそんなことをヤッてるなんて。

 わたし?

 わたしはと言えば、最初は驚いたものの、一つ違いの年齢から考えればあいつも盛んなんだな、と理解できた。そういう年頃なんだ、つまり。

 わたしにキスするのも……わたしがされたがるのもつまりはそういう年頃で、身近な相手だからだろう。もしそうでないなら、フロイト的な口唇期かもしれない。唇が母親の乳首を欲しがるような。口寂しい、ということにしておきたい。

 ところでわたしにはひとつ、秘密がある。カエデに話してはいないことだ。

 カエデは大きな誤解をしている。

 実は、わたしと柳くんは昨秋からずっと付き合っていた。過去形だ。付き合っていることは誰にも言わない約束だった。

 カエデはわたしが柳くんにまるで相手にされずに袖にされたと思っているらしいけれど、そういうわけじゃない。柳くんはわたしの彼氏だった。わたしたちはアオイとカエデのように柳くんの部屋で会ったし、模試に行きつつ真昼間のホテルに行ったこともあった。恥ずかしい限りだ。

 そんな風に熱烈だった二人の仲は世の道理に沿って次第に冷めていき、具体的にはどうして同じ大学に進学しないのかという話になった。

 わたしたちの成績は同じくらいだった。

 しかし、わたしたちの希望する進路はバラバラだった。進路が違えば絶対的に二人は別れることになるだろう、とお互いそう思っていた。

 そうならないための妥協案として、国立の総合大を受けようという話になった。悪くない話だった。偏差値もちょっとがんばって、ちょうどいいみたいな。低すぎず高すぎず。

 なのに。


 あああああ。


 どうして親の勧めに従って半ばヤケクソで通い始めた2駅先の有名予備校で、少人数クラスのくせに同じ部屋にいることになるのかなぁ?


 あいつはわたしを裏切って「指定校推薦」で有名私立大を受けようとしている。おい、だ。

 あんなに意見をすり合わせておいて、わたしも志望大を変えたのに。国立向けの勉強に変えたのに。


 それがわたしたちの別れた理由だ。

 あの日泣いていたのは悔し泣きだ。

 ふざけんな、コノヤローってやつだ。


 そうそう、予備校の夏期講習。

 何を間違えたのか国立Aコースにアイツはいる。毎日、同じ教室。見たくないのに見える顔。忘れたいのに、夏休みくらいどっかに消えてよ。頼むから……。

 で、弟で間に合わせてるのかと聞かれると、よくわからない。

 わたしの中は悔しさで満ちていて、持て余す性欲なんかないはずだ。ないはずなんだけど。

 あの日からカエデがかわいい。

 うなじなんか色っぽくてつい目が行ってしまう。もちろんわたしも姉なんだから、ポニーテールにしたときのうなじはあんなんなのかもしれない。でも。

「ツバキ」

と呼ばれるとドキリとする。それが柳くんなら逆に呼ばれ慣れているところなんだけど、カエデはダメだ。さっきみたいに耳元で囁かれると体のどこかにあるボタンが自然に綻ぶ。すべてを受け入れてもいい気分になる。そんなのはさすがにダメだ。フロイトも真っ青だ。

 腰掛けていたベッドに背中からダイブする。クッションが飛び跳ねる。

 ジャスミンが暑さを嫌って部屋に入れてくれと扉を引っかく。うるさいくらい、何度も。

『カエデ、ちょっと』

 カバンからスマホを取り出してLINEする。家の中でもLINEは便利だ。大きな声を出さなくて済む。

「姉ちゃん? 何かいる?」

「入って」

「何か買ってこようか?」

「ジャスミンがうるさいの」

 ああ……、と弟は足元を見る。ちゃっかり部屋に入ってしまったジャスミンは弟の足元を離れない。困ったカエデはジャスミンの両脇に手を入れてぶら下げると、開けたドアの隙間からネコを追い出した。

 パタン、とドアは閉じられた。

「少し寝た方が良くない?」

 距離が近くなる。シトラスの香りがプンと鼻につく。カエデの大きな手のひらが近づいてくるのを待っているのか、拒否したいのかわからなくなる。そのうちに、額に手が届く。

「おでこ、冷えたね。冷えピタの匂いがする」

「……その前に汗臭いでしょ?」

「嫌いじゃないよ、ツバキの体臭」

 耳の脇にカエデの鼻が埋まって、すん、と音がする。人の匂いを嗅ぐなんて失礼じゃないかと思う。

「汗臭くないよ。いい香りしかしない」

 うちの弟は間違っている。

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