第18話  救急車が来る前に――ツバキ

 最悪だ。女の子の日が来てしまった。

 こんなに暑い日に、最悪だ。

 貧血がひどくて部屋のベッドに横たわる。下半身を冷やせないので布団を被って、でも上は暑いので今日ばかりは設定温度は24度。具合の悪い日は仕方ない。

『体調が優れないから予備校休む』

と朝、柳くんに連絡した。彼は何故かひどく狼狽していたが、そんなことで女の子の日がどうにかなるわけでもない。今月も妊娠しなかったという証の日だ。そんな心配は今月、いらなかったけど。

 そんなわけで、わたしはうだうだと生理痛の波に漂っていた。

 こんな日はカエデも察してか、わたしに近寄らない。お昼にこの暑い中、お粥を作って持ってきてくれた。

 わたしの部屋は冷房のお陰でキンキンに冷えていたので、カエデも一緒に食べようと誘った。腰にタオルケットを巻くという無様な格好でお粥を食べた。梅干しがのったお粥だった。

 食べ終わってごちそうさまをして、「ありがとう」を言いかけたところで、チュウっとされてしまう。まあいいか、チュウくらいなら。大した問題じゃない。

 お腹がいい感じに温まって眠くなってきてしまった。下半身に毛布と布団をかけて、ぐーっとわたしは寝てしまった。

 夢も見ないくらい、深く眠っていた。


 どれくらい眠っていたんだろう?

 まだ暗くはなかったし、明るくもなかった。

 そうして、わたしは自分の目が覚めた理由を知る。

 カエデの部屋でボソボソと話す声がする。子供部屋同士の壁は薄いけど、あの子は一人が好きだから電話で長く誰かと話したりすることはなかった。

 どうやら女の子の声だと気がつく。……ああ、アオイちゃん。天パで瞳が大きい子。カエデが、残酷にも「彼女じゃない」と言い放った子だ。

 でも今日、うちに来てるということは仲直りしたのかもしれない。それはいいことだ。姉ちゃんとヤルことばかり考えているより、ナンボか健全だ。……とは言え、隣で始めたりしなきゃいいけど。

 ベッドの上で丸まっていた。聞き耳を立てなくても嫌でも聞こえてきてしまう。

「違う」

と彼女は言った。

「違う!!!」

とトーンが上がってきた。なんだか嫌な予感がする。そろそろと立ち上がって、様子を見に行こうとする。

 ……もしかしたら何でもなくて、わたしだけみっともないルームウェアだったらどうしよう? 恥ずかしい想像をしている時、何か、大きく動いた音がした。

 間髪入れず、ドアを開けた。

「アオイ!」

 その子の手には見覚えのあるカッターが持たれていた。紙を切ったりするくらいのあまり太さのないものだとは言え、両手で刃を出して握られてたりすると、さすがに躊躇する。

「アオイ! いい加減にしろよ」

 アオイ! と、三度カエデが彼女の名前を叫んだところで、わたしはカエデの前にスライディングを華麗に決めた。

 シャッとも、ザッともつかない感触がして、薄く顔の皮膚が抉れていく。さすがに怖くて目を瞑った。

 アオイ! とこれまで以上に大きな声を出して、カエデがカッターごとアオイちゃんを跳ね飛ばした。アオイちゃんは崩れるように泣き始め、わたしは傷を押えた右手を見ると、ドラマのように真っ赤だった。

「アオイ、救急車!」

と言うとあわてた様子でカエデは階下に向かった。アオイちゃんはダイヤルはしたものの、上手く話せないらしくて、

「わたし、カッターで人を……」

というのを繰り返していた。問題は自分のことだったので申し訳ないと思いつつ、べっとりと血のついた手でスマホを引ったくって、自分が話をした。頬がピリピリ痛かった。

「はい、はい、カッターで顔を切りました。たぶん傷は浅いんですけど出血がひどくて……」

 電話を切った後、カエデがマキロンとガーゼを申し訳なさそうに持ってきた。泣いている。

「ツバキのキレイな顔が……僕……」

「バカなカエデ。こういう時は清潔なタオルで傷口を圧迫した方がいいんだよ。タオル持ってきて」

 その対処法が正しいかどうかは謎だった。あーあ、受験には関係ないからとか言ってないでもっときちんと保体、受けとけばよかった。

 ついでに自分の部屋までよろよろ歩くと自分のスマホを手に取った。

 数回のコールで相手は出た。

武尊たける。今すぐ来て。好きなら来て。救急車より絶対早く来てよね』

『おい、ツバキ、どうかしたのか……』

 洗面所に下りる。まずこのおどろおどろしい右手の血を洗い流す。階段の手すりに捕まらないよう。注意を払う。丁寧に流しても、爪の間の血はなかなか流れてくれない。

 それから顔をそっと洗う。

 目の下の部分から斜めにザッとやってしまった感じだ。10センチ前後。洗った後から血が濡れた肌に滲む。

 ああ、ダメ。貧血……。

 元々、貧血気味なんだった、今日は。わたしの心が弱いせいじゃない。

「ツバキ、タオル持ってきたよ。こっち向いて」

「カエデ、拭いてくれる?」

 ポン、ポン、と丁寧に拭いてくれるけれど、手が震えていた。あいつ、許さない、と小さく言った。

 バンバン、と派手な音がしてドアを開けるようにカエデに頼む。

「武尊、こっち!」

 あわてて武尊――つまり、柳くんは洗面所の鏡の前にいるわたしを見るなり嫌な顔をした。

「顔、どうした?」

「カッターで切った」

「どれくらい?」

「10センチくらいだと思う。見てくれる? ……自分じゃ怖くて真正面から見られないの」

 武尊は覚悟を決めた目をして、少しずつタオルを外していった。傷口が見えてくると顔を歪めた。

「……大した深さじゃないよ」

「だと思った」

「ちゃんと治るよ」

「うん、良かった」

 血がついてしまうかもしれないのに、そんなことはお構い無しと言った風に武尊はわたしを抱きしめた。体育会系ではない彼はそれほど筋肉質ではなかったけれど、それでもわたしを安心させるのに十分だった。

 一緒に救急車に乗ってくれるかと尋ねると、そうしてほしいなら、と彼は答えた。


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